24-35mmレンズ 作例

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⑦ 写真のキラキラ色イロ、これを取り除いた、もしくは濁りを除去し、その本質のみを蒸留したものが 黒白写真だ、という考え方を私はしているんですが、無論これはあくまでも私個人の考え方、捉え方 です。 とにかく黒白写真をしていくと、気は楽になりますね。よけいなことを考えずに済みます。無駄をしなくて 済むといいますか、シンプルな写真行為となります。色気がなくなるのだから当然ですけど、考えてみ れば、これまで本当に無駄なことばかりをしていたという裏返しです。 5W1Hという言葉があります。これは新聞記事とかビジネス書などの文章を書く場合には必要なことで、 これを欠いた個人的主観の文では通用しないということです。 写真に於いてもそういうものがあるとすれば、カラー写真も黒白写真も5W1Hに関してはそんなに 違わないということです。黒白写真もきちんと最低限の5W1Hがあるということですね。 写真として5W1Hを考えると、それは画像として見せるということではなく、写真として読ませるという ことになるのんも知れません。見せるのではなく読む、のです。写真を観る側も、読む、考える、という ことに繋がるんではないでしょうか。 一方、見せる、というのは魅せるでもあり、理性ではなく感受性に訴えるものです。浸るということでも ありますか。黒白写真は色という情報量が少ない分、より5W1Hに拘らないと、ほんとうに何を撮ってい るのかわからないような写真になります。 尤もあまり理屈に囚われ過ぎると変な写真になりますしね。とにかくシンプルでストレートにいければ それで良いんではないでしょうか。 そして、これは絶対的かなって思うのは、黒白写真は撮った自分は満足ができるということです。 写真を見ている他人は関係ないなっていうことで。自己充足感が高い写真だろうということです。 ここが特に大事なところで、黒白写真は個人的に満足感の高い写真手法だということです。ですから 誰かに頼まれて写真をする場合には、カラー写真でないとダメなんですね。自分が満足できるからと いって、他人に黒白写真を押し付けることはできません。これは当然ですよね。 もちろんこれはカラー写真、デジタル写真が全盛の現代に於いてでの話です。そういう時代に黒白 写真をするということは、極めて個人的でマイナーで、典型的な少数派のエゴということでもあります。 私だけは黒白写真で多いに結構、満足だぜ、ということです。 今の時代における黒白写真というものの、その本質はきっとそういうところにあるんではないですかね。 黒白写真になってからは、機材に関心がなくなってしまった。これではメーカーも写真屋さんも困って しまいます。消費者としてGDPに貢献もできなくなってしまう。そうみれば黒白写真はエゴなんです。 写真はキラキラ色イロ。それに堪能して満足感を更新し続けていくことが現代の写真です。それに 背を向けてしまってはこの世の中は成り立たなくなってしまう。まあ大げさですけどね。しかし何事も 例外があるもので百人の内、一人くらいはそうでない人間がいてもいいもんです。

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⑧ 黒白になれば、レンズは何を使っても一緒。ということを書きましたが、実はそれはいい加減なことを 書いたのであって、実際は違います。優れたレンズを使えば、当然ながら黒白写真でも優れた画質 を提供してくれます。 しかし今や、私はそういうことを、優れた画質の黒白写真をするという気持ちにはなれません。私として は黒白写真は、もうJPEGの低画素サイズで十分とすら思っているのですから。 私が写真を始めた当初に、それが黒白フイルム写真だったということは極めて幸いだったかなって 思うところがあります。もしカラー写真から写真趣味を始めていけば、おそらく写真の意欲が衰えた時、 写真もそして撮影も自然に消滅していくだけだろうと思われるからです。 とにかく黒白写真に親しみがあったという記憶があることで、いまはこうして黒白写真で過ごすことが できています。そして黒白写真は撮影に於いては何も影響を及ぼすことがありません。 ここが黒白写真の見事なところで、画像は大きくダウンするけど、撮影には変らないという事実です。 私が黒白写真に行ってしまった本当のところは、やはり過去への回帰だろうと感じてます。 ながらくデジタルで写真をやってみて、昔の自分の写真(黒白写真だった)とは違うんではないかという 違和感がどうしても拭えなかったんです。20年間余もデジカメをやってきたんですが、その間ずっと その疑問はぬぐえませんでした。今になって判明したのは、それはパソコンの趣味の延長線でしかない のではなかったのかということでした。実際、そうだったと思ってます。 ところがひょんなことから黒白カメラを手に入れて、そこでやっと昔やったスタイルの写真に戻ることが できたというわけです。ですから今までのデジタル写真とは隔絶していくのは当然のことだったという ことですね。 パソコン趣味の延長にあるのは当然に写真ではなく画像でした。そういうのはネット写真の評論化的な 鑑賞趣味というのが最近はあるらしいのですが、それも写真ではなくて画像趣味だというのと同一です。

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⑨ シッポ座さんの・・ https://photoxp.jp/pictures/225467 https://photoxp.jp/pictures/225471 これは、tamron200-500 f 5.6ですね。こういう望遠レンズを使うっていうのは面白いんです。なぜかって いうと、ひたすら身体的能力、腕力を鍛えられるからですね。AFではなくMF望遠だとさらにそうです。 こういうレンズは普通のレンズ遊びとはちょっと趣が違うかなって、私は思ってます。 レンズ愛好家だげてなく野鳥の撮影をされる方もこういう類の望遠レンズを使います。想像するに、彼ら は野鳥を撮りたいっていうことが半分と、もう半分は自分は重量級レンズを使いたいっていう心意気で あって、その2つが融合しているのだと考えてます。 ですからこういうレンズは、使いたいから使う。それが正解だろうと思ってます。 もしスマホのようなもので野鳥が難なく撮れる時代がくれば、野鳥撮影の熱は一気に覚めて野鳥オタク は消滅するでしょう。 私は広角好きの人間であって望遠レンズは趣味ではないんですが、ただし望遠端が300以上のレンズは 多少持っていて、このタムロンも所持しています。こういのを持ち出すと、手持ち撮影であっても鍛えられ ますし、三脚使用であっても三脚の重さが加わるので同じく鍛えられます。 こういう超望遠撮影。これは肉体と密接に結びついていますので、単なる機材道楽とは違うと思って います。ですから超望遠レンズでなくとも、重量級レンズでさえあれば広角や標準レンズでもOKなんで すね。しかしまあ普通は超望遠レンズとなります。 これは机上論の理屈ではなくて、骨身に滲みる男の現場世界での話です。 私の場合はレンズが2キロまでは手に持って歩いて撮影することができます。ボディが1キロなので合計 3キロです。それでもあまり長く歩くことはできませんね。それで、今でも欲しいなって考えているシグマ 60-600ミリは、レンズだけで3キロ弱なので計4キロとなり諦めています。 https://www.rentio.jp/matome/2019/04/sigma-60600-sports-review/ もし、4キロの機材を不自由なく持ち歩いて使えたら、それは素晴らしい事ですね。それで現実的には シグマの旧製品の50-500までしか使えません。これはレンズ2キロクラスなのでオーケーなんです。 このシグマ60-600ミリ。最近、ミラーレス用も発売されていて、そちらのほうは少し軽くなっています。 https://www.rentio.jp/matome/2023/01/sigma-60600mm-dg-dn-os-review/ AFと手振れ補正能力は凄いようです。しかし画質はデジイチ用と変わらないようです。この新型のミラー レス用レンズは、ソニーとパナソニックのミラーレス向けでイオスR用はないみたいです。 改めて上記のシグマ60-600デジイチ用の記事を見ると、重量は2700グラムです。これにフィルターを 付けると3キロ近くになります。 レンズフードはネジ固定式というのは嬉しいです。フードに手を添えて撮影してもフードが外れるということ がないからです。そして三脚座が立派で、手持ちの場合はこれを上に回して左手で持つことができるから です。 こういう機材は性能とか使いやすさとかが問題ではなく、その重量こそが正義です。この重力との戦い に勝つことに意義があるんですね。 50-500、60-600という重量級高倍率ズームレンズは、重さの正義だけでなく、標準域までカバーして くれていて、その標準レンズの場合にも重さが2キロ3キロというバカバカしさも魅力です。ズームロック を掛ければ文字通り重量級標準レンズとして使えるのです。こういうレンズ、他にはコシナがあるだけです。

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⑩ デジタル写真はフイルム写真とは違います。その決定的な相違はなんだろうか、と思いますか? 応えは実に明瞭です。写真にパソコンが介入するか否か、です。もっと正確に申せばモニター・スクリーン ですね。 そしてこのモニター&スクリーンこそが、キラキラ色イロの正体であるということでもあるのです。 私は長らくデジタルで写真なるものをやってみて、どうしても違和感が拭えなかったと言いました。過去の フイルム黒白写真とは違うものであったということで、結局、デジタル写真とはパソコン趣味の延長であっ たのだろうと結論づけました。 つまりデジタル写真、いやデジタル文化というそのものがキラキラ色イロを本質的に内蔵しているという ことなんだろと思うのです。そしてこのキラキラ色イロとは無論人工的に作られたものであって、現実の ものではないということです。 パソコンのモニター&スクリーンは当初はブラウン管でしたがそれが液晶になり現在では有機液晶も 取り入れられています。これらはフイルム時代の紙の写真と比べて自己発光しているというのが決定的 に違います。フイルムも印画紙もプリント紙も反射光でもって見える素材ですが、モニター&スクリーンは それ自体が発光しているものです。 現実光景はどうでしょうか。その殆どは反射光で光景が形作られています。自己発光しているものもあり ますが、大部分は陽の光の反射光で間接光として認識できるものであるわけです。 キラキラ色イロとは有り体に言えば自己発光、それ自体が発光するのが最も効力があるのです。また 自己発光と同じくらいに反射率が高いものであるわけです。例えばゴールドとか宝石の類ですね。 昔から宝石とか金とか鏡とかは魔力のあるものとして認識されていました。それで為政者はそのような ものを好み、民衆に向けてその効力を放ったのです。 ここまで書けばもうお分かりだと思うのでずか、パソコンで見るものは全て自己発光であり、キラキラ 色イロの魔力でもって、我々は自己暗示に掛かるだろうということであるんですね。パソコンでもスマホ でもそうです。モニター&スクリーンという人工光はそれを見るものをして暗示にかからせ、現実感覚を 喪失してしまうというものなのです。 デジタル写真というものは、ゆえにその本質として現実感覚を失わせしめ自己暗示に掛からせてしまう ものなんです。と、そのように私は考えています。 こういうような認識ができれば、なぜ黒白写真なのか。ということが理解できてもらえると思ってます。 黒白写真はデジタル時代に於いて可能な限り、キラキラ色イロ感を喪失させようとする試みであるという ことなのです。 このことは単にデジタル写真の文化だけでなく、現在のデジタル世界の文明そのものへの本質的な問い かけにも繋がっているということでもあります。私は、世界がキラキラ色イロである限り、この文明は現実 感覚を維持することは不可能なのではないかと考えるまでに到っています。 そこまで大げさでもなくとも、写真という文化において、やはり自己発光のキラキラ色イロというものは 写真のその本質を見失しなさしめるものであるとの考えなのです。 皆さんが綺麗キレイと感じているデジタル写真とは、あくまでもモニター&スクリーン上でのキレイという 感覚でしかありません。それは現実とは異なります。 有り体に言えば、そもそも現実感覚というものは人間の心の中、脳内に記憶としか存在しえないもの です。我々か写真を撮る際に記憶として裸眼の現実光景を心に写しとめるのですが、それこそが現実 だというものでしょう。そして写真として記録されたものはそれとは異なって改変されています。デジタル 写真ではそれがキラキラ色イロとなるわけです。 デジタル写真に於いて、黒白写真化するということは、意識的にこのキラキラ色イロの効力を減衰させる 意図があるということですね。そうすればより現実感覚に近づくのではないかということです。 ここまで書いてきて、この本意が理解できる人は殆どいないだろうということに気がつくのですが、それは ともかくデジタル写真での黒白写真の立ち居地はそういうところにあるのだろうと考えています。 つまり写真として、デジタルカラー写真よりもデジタル黒白写真のほうがより現実感覚に沿うものであると いうこと。それこそが写真の本来の役割に近いものであるのではないかということなのです。 最もデジタル写真も紙にプリントすればカラー写真でも問題がないと考えています。なぜならば紙出しは 反射光であるからです。しかしカラープリントをする前に関門としてモニター&スクリーンを通さなければ ならないのでどうしてもキラキラ色イロから逃れることは難しそうです。 この現実感覚に寄り近いだろうというデジタル黒白写真。その本質性に気がついたからこそ、もうカラー 写真にはもう戻れないだろうという気分になっているのです。 カラー写真よりも現実的な黒白写真。不思議だと思われるかも知れませんが、現代に於いてはそれは より本質に迫るかもしれないとう、現在という時代の現実感覚だろうと考えています。 当初はやがて飽きてくるだろうとして軽く考えていた私の黒白写真。それが時を追うごとにより強固に なっていくのですが、このような気分になったことは初めてのことですね。その理由を何とかして見つけ 出したいと願っているのですが、その判明し難い理由というのは、大体こんなところにあるのだろうと いうことです。 様々な複合的な理由によって起きているというのは確かです。しかし最大の理由としてこのデジタル時代 として、決して通り過ぎることのできないモニター・スクリーンが鍵を握っているように思われてならないの です。 ペンタックスK3M3モノクロームは、その表示デザインにおいても黒白を徹底しています。メニュー画面で カラー表示になる場合もあるのですが、背面モニターは通常は黒白での表示です。そこまでしなくても いいんではないかと思うのですが、設計者は黒白を一貫して貫いているようです。モニターはカラー液晶 なのでこれは意図的です。 設計者は意識的にユーザーが黒白世界に没入するようにしているわけですね。それでこのカメラは 相当に煮詰められて設計されているという気がします。それもある特定の個人が主導権を握って設計 したという感じです。なんというか、この技術者はカラー写真を否定しているのではないかと思うほど です。 つまりこのカメラはキラキラ色イロを徹底して排除してしまったカメラであるということです。カラーである のは光学ファインダーだけなんですね。その徹底ぶりに今更ながら驚いています。 この設計者の意図した徹底的な設計思想というものがなければ、もしかすれば私はこれほどまでに 黒白写真に没入しなかったかもしれません。無言で語りかけてくるキラキラ色イロの排除。 それでなのか、私は装着するレンズはシグマのレンズです。シグマレンズは一部ロゴに金字が使われて いるだけで地味な外観ですね。私はこのレンズがカメラにピタリと合っていると思っていて、純正レンズ を使わないでいます。バッテリーグリップもペンタ製ではなく自作改造のものを使っています。 このカメラこそが私にとっての玉手箱であったと思ってます。目覚めさせてくれたカメラですね。 もしこのカメラがリリースされなくて、またもしくは自分が手にすることがなければ、私のキラキラ色イロは まだまだ続いただろうということです。

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⑪ キラキラ色イロ主義が芽生えたのはデジタルからではありません。その発生はネガカラーフイルム からだと思っています。おそらく1980年代から。 私が黒白フイルム写真をやめてから20年余で再び写真趣味に舞い戻ったのですが、その当時は ネガカラーが全盛でした。そして当時の写真人たちのバブルさに驚いたものです。高級機をバンバン と購入して、猫も杓子もキラキラ写真・カラフル写真で舞い上がっていたのですね。 そしてデジタルカメラ、デジイチがぼちぼち出現した時代でもあったのです。 私が70年代に黒白フイルム写真をシコシコとやっていた時代とはまるでちがっていたので面食らった ものです。そして写真の文化には程遠いオジサン達も多く写真趣味人となっていました。 そのような人達を傍目に私は初期時代のデジタル写真をやり始めたのですが、しかしながらこの私 も次第に、彼らと同じく、今度はデジタルでもって、キラキラ色イロ写真に邁進していっというわけです。 カラーフイルム時代でキラキラ色イロ主義だった多くの方は、デジタル時代になってからは、大半は 写真趣味から離れていったのではないでしょうか。引き続き、デジタルでも写真をやられている人も 居るにはいるのでしょうが少ないだろうと思ってます。 それで時代を大きく分けますと、 1.黒白フイルム時代・・・カメラはメカニカルカメラ。当然にMFレンズです。 2.ネガカラーフイルム時代・・・カメラは電子制御カメラ。AFとMFの混在 3.デジタルカラー時代・・・勿論デジタルカメラですね。 私の場合、1から3に飛びました。2も少しはやりましたが。 この1から3まで全て体験された方を知っています。実はその方の影響で私はデジタルカメラに入った んですね。現在は90歳を軽く過ぎている方です。しかしこの人も正確に言えば、2は1の変形でして カラー写真はリバーサルフイルムを使っていたんです。このリバーサルカラーは1の時代に出現して いたもので、私も少なからずのカラーリバーサルを撮影していました。 この90歳余の先達は、黒白フイルム自家現像から始められたわけで、その当時の撮影は、私がやって いた写真スタイルや被写体などと共通するものでした。 そしてこの方が電力会社を退職して嵌ったのがカラー撮影でのヨーロッパ撮影です。10回くらい渡欧 されたんではないですかね。膨大なリバーサル写真を撮られていました。使ったカメラはコンタックス です。そしてツァイスレンズ。 そしてデジタル時代となってからは、主に撮り溜めたフイルムをスキャンしてそれを自費出版されると いう趣味にいきました。PCでスキャンして自分でプリントをして展覧会なども開いていました。 と同時に、キヤノンデジイチとかフジミラーレスカメラなどもデジタル写真として撮影されていましたね。 しかし私としては先達のパリのカラー写真なんかより、それ以前にやられていた黒白写真のほうに 理解を示したというか、気に入っていました。 結局、先達のカラーの渡欧写真はバブルといいますか、私が言うところのキラキラ色イロそのもので あったろうということです。先達とはパソコンでもって知り合いになったのですが、PCが不具合になれば 私に電話をしてくれて私は駆けつけたものです。当時の私はPC趣味まっしぐらでしたから私は重宝さ れていたのではないでしょか。(笑) 先達は有名な大学を出て地元大手の企業に勤め上げたわけですから非常に優秀な方でした。カラー 時代でも普通のオッチャン達の写真趣味レベルとは別格であったわけですが、それでもキラキラ色イロ 主義に嵌ってしまったわけです。 先達は機材の趣味ではなく撮影旅行の趣味がバブルでしたが、コダックのリバーサルフイルムを惜しげ もなく使い、旅費も相当なものだったわけですから、これも立派なキラキラ色イロ主義に陥っていたという わけです。 インテリ人でしたから写真と当時に随筆の趣味もあって同人会に参加して随筆作品も多く発表されて います。 年齢的に言えば、先達がヨーロッパ撮影真っ最中であったのと同じ位の年齢で、この私はキラキラ色 イロを捨てました。バブリーな写真から卒業をしたということですかね。 そういう意味で、私は先達を超えたかなって思うことにしています。(笑) 4.デジタルカメラでの白黒写真への一部復帰 これを上記の写真時代遍歴に付け加えてみたいと考えてます。 ライカが最初にモノクロームデジタルをリリースしたのは、2012年8月からでしょうか。初期モデルは CCDのセンサーです。2011年が東日本大震災だったのでその翌年ということになります。 1800万画素フルフレーム、カラーフィルターとローパスフィルターを搭載していません。この後に出現 したモデルはCMOSセンサーですので、CCDセンサーでは唯一のモノクロームカメラということに なります。 このカメラの出現でもって、デジタル黒白写真は出現したということになります。そして2023年の ペンタックスモノクロームが続くわけですね。 しかしだからと言って、写真時代がデジタルモノクロームに変わった、ということではありません。 時代は変わらずカラーデジタルの時代真っ盛りですから。その時代に於いて、極々少数の写真趣味人 がデジタル時代でも黒白写真が出来るということを初めて知った、ということであるのです。 2012年から2023年へは何と11年も過かっています。それほどにデジタルモノクロームの世界は マイナーであるということです。次のメーカーがモノクロームを出すのにはもう10年はかかるのでしょうか。 もちろん、ライカやペンタックスがなければ黒白写真は出来ないのか?というと、理屈的にはできない わけではありません。普通のカラーデジダルでもって、モノクロモードにするだけで黒白写真はできます。 しかしそれを永続してやり続けることはできません。 モノクロ専用機は絶対にカラー写真が撮れないのです。この違いはとてつもなく大きくて、そのカメラが 主張する声は厳格です。 私は現在、イオスでも黒白JPEG写真を撮っています。これもカラー写真にすることはできません。 そういうことではペンタックスモノクロームと同じです。しかしイオスは設定を変えればすぐさまカラー 写真を撮ることがでます。しかしペンタックスは永遠にカラー写真が撮れない。 こういう厳格さがあるからこそ、人はカラーを諦めて黒白に行くことができるんだと思っています。そして キラキラ色イロという世界から抜け出すことができるのです。 黒白世界からキラキラ色イロへ戻ることはできます。私もやがてはカラー写真に復帰するでしょう。 しかし精神的にはもう昔の自分ではないだろうということです。 人間は痛い目をして、始めて性根に入るというか自分を変えることができます。 モノクロカメラを使ったところで私は痛い目はしていないんですが、実はこのところ、体調は良くありま せん。とくにこの夏場は堪えました。どうやら不整脈が出ているようで不調の医術的な理由はこれの ようです。そういう意味では私は痛い目にあっているということでもありますね。(笑) 世界はどんどんと変わっていきますし自分自身も自ずと変化して行きます。いつまでもこれまでの やり方が通用するわけではありません。成功体験に拘ってはいけないんですね。積極的に変えてい かないと返って取り残されてしまいます。