無題

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Exif情報

メーカー名 Canon
機種名 EOS-1D X
ソフトウェア Capture One 8 Windows
焦点距離 27mm
露出制御モード ノーマルプログラム
シャッタースピード 1/664sec.
絞り値 F8.0
露出補正値 -0.3
測光モード 分割測光
ISO感度 200
フラッシュ なし
サイズ 5184x3456 (6.14MB)
撮影日時 2026年05月24日(日) 10時34分
1.
kusanagi
2026/05/31 22:27

今の私の、イイカゲンな、いや、好い加減な撮影手法。 気を使わなくて楽しいなあという感覚は、これ、なんだか既視感覚があって、それはなんだろう かと考えていたのですが、その撮影感覚は、私が写真を始めた当時の初期感覚に似ているという ものでした。 デジタル写真ではなくて、大昔の自分が若かった当時の、黒白フイルム写の時代の話です。 半世紀前の話ですね。 その当時は、撮影するフイルムは1から2本です。ショット数では100ショットに満たないです。 数日かけて撮影旅行に出かけた時ですら8本くらいまでで10本に満たなかったと記憶しています。 たとえ10本だったとしてもショット数では360ショットです。 これはどういうことを意味するかというと、撮影中はほとんどシヤッターを押していなくて、 ただひたすら歩き、自分の眼で光景を見ていたということです。自分の目で視ていたのであって、 カメラの眼(ファインダー)に偏重していなかったということでしょう。 フイルムのショットは貴重であって、まず自分の目で、これは撮るべきか止めるべきかを判断を して、撮ろうかとなるとやっとショット。 つまり撮影中は、ほとんどは具体的には、その撮影行為自体はしていなかったということです。 撮影中は、ただ歩き、ものを見ていた。 そして現在の好い加減撮影では、デジカメのショット数は10倍になっているでしょう。しかし ほとんどはノーファインダー撮影であって、撮影をしているという感覚はあまりありません。 私の視点は裸眼からは移動していないのです。カメラというファインターを凝視する感覚は ありません。 これは事実上、写真を撮っているという感覚ではなくて、普通に裸眼で物を見ているという感覚 のままです。言うなればカメラが自動で勝手に写真を撮っているということかも知れません。 それで私は、ただ歩き続け、光景を裸眼で見ているままだということです。 フイルム時代はショット数が極端に少ない。でも撮影は厳密でした。露出、スピード、ピント、 フレームは、マニュアルカメラでしたから全部手動。失敗はできません。 現在の好い加減撮影は、ショット数は多くても自分で撮っているという感覚は希薄です。撮影は カメラが自動でやってくれる。 このふたつ、濃度は濃いけど少ないショット。濃度は希薄で多量のショット。ですから結果的に 質×量の総量としては同格なんですね。(笑) 得られた画像がどうのこうのという前に、まず撮影中の労力があるんだということに気がつきま した。それはファインダーをどれだけ凝視しているのか。それに尽きるのかもしれません。 いま使っているカメラは光学式カメラです。それをほぼノーファインダーで撮影です。極端に いうと大体の方向を被写体に向けるだけ。カメラは顔面で眼の視点の延長線上に置いていて、 しかしカメラと顔面は離れています。 ハイアイポイントファインダーのカメラならば結構、ファインダーの視野率はあります。 ピントは視野中央に固定しているで、しかもレンズの視野は頭に入っているから、どれだけの 範囲が写るかは体感できています。これでファインダーを凝視しなくても撮影はできるのです。 主にデジイチを使っていて、ミラーレスカメラは一台のみ使用。ペンタK01ですが、背面液晶は 暗くて事実上、ノーファインダー撮影になってます。 結局のところ、撮影中の労力の度合い、疲労感というものは、ファインダーの凝視度が握って いるということでしょう。私はそれを無意識にか、徹底的に低減していたということです。 そもそもデジイチでノーファインダー撮影に行ったのは、カメラの放つ電磁波の悪影響を減失 するためでした。20~30センチ顔面から遠ざけるだけで電磁波は事実上なくなります。これで 顔面被爆は避けられる。 電磁波を避けるにはもうひとつ方法があって、ミラーレスカメラを使うこと。背面モニターでの 撮影ですね。 とりあえず今はデジタル一眼レフという旧タイプのカメラで撮影しています。これが大きく 重くて、つまりは上半身の運動になるという程度の理由からですが、この方式のカメラを使う ことにより、結果的にファインダーを凝視しないノーファインダー撮影が主流となって、 眼の疲労感というかファインダー疲れから逃れられています。 結局のところ、写真の撮影に於いては、ファインダーを見ることによる疲れが、撮影中の感覚 に大きく影響をしてるのではないかということですかね。 フイルム時代はショット数自体が少なかったので疲労感がなく、撮影は楽しかった。 現在の好い加減撮影では、ファインダーを殆ど見ないので疲労感は少なく、撮影は楽しい。 どうでしょうか。 そもそも撮影の楽しさとは何なのか。それはファインダーで眼を疲れさせないことではないの ですか。基本的には撮影が楽しいというのは、自分で歩き自分の目でこの世の光景を見ること だと思うのですが、それを阻害していたのがカメラのファインダーだったということです。 それが光学式であれ電子式であれ、やはりファインダーは小さく見難く、自然な裸眼視とは 違います。 デジタル時代においても、フイルム写真に好感を持っている人がいます。 そしてその理由というのは、今ここで挙げたような理由に因るものではないかと思えてきて います。 フイルム時代は良かったというのは私もそうです。もはやノスタルジックな思い出の中に埋没して しまっているのですが、それを深く考察すると、フイルムとデジタルという手法の技術的な 相違ではなくて、本質はショット数の違い、その質と量の掛け合わせ。そしてファインダーが カギを握っているのではないかと思えてきました。 そして一番肝心なことなのですが、撮影で一番に楽しいと感じられるのは撮影時そのものでは なくて、野外で自分の足で歩き、自分の目で視るのだという、そういう人間としてのもっとも 基本的な行為なのではないかということです。 撮影は方便でしかなく、ましてや得られた画像は単なる副産物でしかないということ。極端に 言えばそういうことになります。 これらを深く理解すれば、写真はもっと楽しくなる。どうも、そういう気がしています。 思い起こせば、1970年代、ほぼ10年間くらい黒白フイルム写真をやりました。基本、自分で フイルム現像、印画紙焼きです。カメラは完全メカニカルカメラでした。 本当にあの時期は写真をやっているという充実感がありました。写真は撮影も現像も楽しかった です。その感覚はデジタルになってからは程遠いという気が、これは最初からしていました。 当時は自分が写真をやっているということが誇らしかったですね。しかしデジタル時代に なってからは、ずっとまがいものをやっているという感覚から抜け出せませんでした。 もちろん今もそうです。ちがうな、こんなんではないという気持ちをぬぐうことはとうとう できまんでした。 高画質と言われるシグマのカメラ、ツァイスのレンズ。こんなことをやってもしようがない ねえ、という燻った気持ちをずっと持ってました。 やや、かつてのフイルム感覚を少し取り戻せたのは、ペンタのモノクロームカメラを使うように なってから。しかしやはりまだ楽しいと言う感覚とは違いました。 そうこうしているうちに、パソコン趣味の度が過ぎて、体調を崩すというか体力が失われて しまいました。これはまずい。ということで単なる撮影歩きではなく、本気で里山歩きに向かい ました。むろん山歩きだけでは楽しみがないのでカメラを持って歩くわけですね。 撮影は目的ではないので徹底的に手を抜こうと。 それでカメラ1台レンズ1本のみで、ノーファインダー撮影となったわけです。自分が歩く道を 記録的に撮影するだけ。撮影には凝らないと決めて、それで淡々と山道を歩き、撮影をして きたわけです。達成感は、自分の足腰の筋肉と心肺機能の増強度具合だけです。 近所の里山を徹底的に登りました。 写真などはどうでもよいとしていたわけですが、次第に撮影が楽しくなっている自分に気づき だしたんですね。常に手に持っている相棒のカメラも何だか誇らしげでね。 カメラは傷だらけです。泥にまみれ、藪こぎはするし、落とすし、雨にも濡れるしで、私の体 と同じようにはいつくばって傷だらけで山に登っていたわけだから。それでなんか愛おしい 仲間と言う気がしてきたわけです。 撮った視野は現像もしていないし、まともには見ていないです。それなのに撮影が楽しく なっている。この不思議感覚。 正直言って、こんなに撮影が楽しいと言う感覚は、デジタルカメラをやりだしてから初めての ことです。

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