Capture Oneソフトウェア 作例

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ニコンのD300やD800とかは、ニコンのデジイチの絶頂期にリリースされたモデルだと 思ってます。優れた操作性と速写性を持っていますね。大きさも丁度良く、グリップを つければ最高なカメラです。D300に広角オールドニッコールをつければ追加グリップは さほど必要はありません。 とにかくフイルムカメラのニコン時代よりも品質的にも圧倒的に優れているでしょう。 ニコンに限らず一眼レフの技術的品質向上は、決してフイルム時代で終わったのではなく、 続いてデジタル時代に至るまで連綿と続けられていたのです。それで最高級の一眼レフとは、 すなわちデジタル一眼となってくるわけです。このことを知らない人は多いです。 例えばペンッタス歴代の最高の一眼レフは、最近生産終了したペンタK3M3となるように。 ニコンD300にマニュアル広角レンズだと撮影は最初置きピンから始まり、ファインダーを 見ながらさらなるピント追いをすると同時に、連写をするという撮影スタイルになりそうです。 そうすると、どこかのコマで良いショットが得られますからね。 メカニカルニコンならばオートローディング自動巻上げがないので、フィルム送りレバーを 巻き上げながらの撮影となり、かなり高度な撮影となるのですが、自動チャージのD300ならば 瞬時に連続撮影ができます。フイルムカメラのオートローディングなんかよりデジタルの 自動巻上げチャージは鋭いです。 ともすればユーザーはデジタルとフイルム。という区分けをステレオタイプにしてしまう のですが、それは完全に間違っていますね。 それよりも光学式カメラか、電子式ビューファインダーかの区分の方が正しいです。 ですから、時代が本当にアナログ式からデジタル式に変わったなあって実感するするのは 光学式ファインダーから、電子式のEVFファインダーのカメラが出てからですね。 ミラーレスカメラとなってとても残念なのは、D300やペンタK3M3などで最高峰に達したはずの カメラスタイルが崩れたことです。やたら薄くなってしまった。もちろんフイルム時代の カメラは薄かった、と言えばそうだったんですが、とにかく持ちにくかったですね。当初は グリップすらないカメラが多かったです。 その代表例がライカM型です。日本人はやたらこれを有難がるんですが、後付でグリップを 付加しなければ、まともに持てないカメラです。 カメラに立派なグリップが突き出したのはフイルム時代のオートローディング式カメラが 出てからです。電池を入れる都合上から握りやすいグリップが付きだしたのです。 そしてそれはデジタルとなり光学式一眼が終了するまで続きました。 もちろんミラーレスボディとなってからでもグリップは薄くはなりましたが続いています。 そう考えると電池、様々だといえます。 縦位置グリップ。これもバッテリーが1~2個入るようになっています。それがあるために 深くくびれて持ちやすくなっているんです。 そう考えてみると、もしバッテリーがボタン電池ほどの大きさで済んでいれば、カメラの グリップは今もって、爪先が引っかかるほどの小さいままだったかも知れません。 実際、コンデジは小さなバッテリーで済んでいるのでグリップらしいものはありません。 本当に良いカメラとはなんだろうか。と考えると、具体的にはD300やK3M3になるのですが、 その圧倒的な持ちやすさにあるんだと断言できますね。 その良さを忠実に継承しているのがキヤノンやニコンのミラーレスカメラです。グリップ は深く作られていて持ちやすいです。もっとも私はそれらを使ったことがありませんが。 そして最後の問い。 スタイル的には光学デジイチもミラーレスも同じようなものになりましたが、どうしても 違う部分が存在します。デジイチは電源オフでもファインダーを見れますが、ミラーレスは 電源オンにしないとEVFも背面スクリーンもブラックなままです。 それはミラーレスには本質的にはファインダーが存在しないのです。 私がミラーレスでよく使ったモデルというか、使いやすいカメラとして、パナG1とかペンタ K-01が挙げられます。これには完全にコンデジと同じく背面スクリーンで見て撮影してます。 EVFで見て撮影することなどはありません。それを見てしまうと眼が穢れるという感じに なっちゃうんですね。(笑) あんなの見ちゃあいけない。 そんなんだったらノーファインダー撮影で行くわけです。それはつまり背面スクリーン撮影 のことです。 これはどういうことかというと、言い換えれば光学デジイチはカメラを裸眼の視線上に持って くるが、ミラーレスは視線上でなくても構わないということです。 ついでに言うと、私がデジイチでよくやるノーファインダー撮影はミラーレス的であり、 視線上から外れた撮影手法なんですね。 つまり光学デジイチは、視線上でも視線外でも撮影できるカメラだけど、ミラーレスは視線上 の撮影が事実上拒まれているという意味になります。 視線上のカメラとして最も理解しやすいカメラは、ライカなどのレンジファインダーカメラです。 まず、撮影する自分の視線というものがあり、そのライン上にカメラを持ってくれるカメラが ライカであり、もちろん光学一眼レフであるわけです。 この意味はとても大きいんです。人間の記憶に残るのは視線上にある光景の撮影です。 ライカの撮影がなぜあんなにビビッドな感じになるのかというとファインダー視線と裸眼視線 が同一だからです。デジイチは実は少しズレてます。レンズはファインダーより少し下にある からです。そして背面スクリーンで見るミラーレスカメラは大きくずれています。 この違いがあるのですが、これを認識できる人は少ないのではないかと思います。 それで私がやっていてるデジイチでのミラーレス撮影とは、事実上ミラーレスカメラの撮影と 同じなのです。カメラは最初は位置測定でみているけど、撮影時は被写体しか見ないという ことです。ミラーレスの場合は、やはり背面スクリーンを見ながらレリーズを押してます。 この微妙な差が理解できるでしょうか。 デジイチでのノーファインダー撮影は、裸眼での視線で撮っているということです。ただし 結果として出てくる画像はそうではありません。 しかし撮影として、裸眼の視線で撮影するということは、とてつもなく大切なことではないかと 私は考えているんですね。 ミラーレスでの背面スクリーン撮影、コンデジやスマホでの撮影。こういうのは淡々と撮影を こなしていくという義務感でやっているという感じです。常に裸眼の視線は阻害されています。 一番大事なはずであり、価値あるべき裸眼がスポイルされている。そういう気がしています。 光学ファインダーの存在は、そういうところにあるんですね。 私がデジイチ、そしてミラーレスカメラと使ってきたけれど、やはりカメラとして良いなと思う のは光学式ファインダーを備えたデジイチなんです。撮影していて実感が湧き、撮影として リアルさを保てるのはやはり光学デジイチです。 キヤノンとニコンのミラーレスカメラは使っていませんが、古いパナ、オリ、フジ、シグマ、 ソニーとミラーレスカメラを使って来てみて、何とか我慢ができるのは小さなミラーレス機のみ です。つまりコンデジやスマホと同じ使い方しかできていないわけですね。がまんカメラでしか ないわけです。 パナソニックやソニーは比較的早くミラーレス機に移行しましたが、カメラの老舗であるニコン やソニーやペンタックスは一眼レフに拘っていました。そういうところはメーカーの開発者は 物事を深く理解できていたと思っています。 しかし時代の流れはいやおうなく光学ファインダーを失ってミラーレス機に行かざるを得ません でした。 そうなってくると、時代はノーファインダー撮影を求めてくるように思います。 ミラーレス機によるノーファインダー撮影。つまり最後のショットの瞬間はスクリーンから 眼を逸らせ、裸眼で直接に被写体を見ていこう、というやりかたです。 スマホのような大きなスクリーンだと、どうしても最後までスクリーンに眼が引かれてしまい ますが、さほどスクリーンが大きくないタイプのミラーレス機だと、スクリーンから眼を断ち切る ことができそうです。 これはちょっとした慣れで習慣づけていくことができます。 要するに写真の撮影とは、スクリーンの視線ではなくて、あくまでも自分の眼の延長線上で撮影 をするのだということ。 このことさえ忘れなければ光学ファインダーを失ったカメラでも写真を撮影し続けていくことが できそうですね。

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カメラで。光学デジイチなのか、ミラーレスなのか。と言えば、使いやすいのはデジイチの ほうが私としては断然勝ります。それはカメラの持ちやすさがデジイチの方が圧倒的に勝る からです。 具体的に言えばそれはグリップです。デジイチがグリップとして大きくて深くて手に掛かる 具合が大きいからです。 ミラーレスでよいなと思えるところはあまりないです。まあ電子シャッターが使えるところ くらい。ミラーレスカメラでも、デジイチのバッテリーグリップを装着すれば、かなり持ち やすくなります。 多くのメーカーのカメラデザイナーは、カメラを手に持って運ぶときのことを考えていない のではないかと思います。カメラはバックから取り出して初めて使うもの。として考えている のではないでしょうか。非常にお上品な使い方を想定していると思われますね。 縦位置バッテリーグリップは、AFオートローディングのフイルムカメラが発売された時期に 市場にでました。通常、縦位置でのレリーズボタンが付いていてカメラを縦構えで使える ようにしてあるのですが、本当の使い良さはカメラを左手で持てるようになることです。 普通、右手でカメラのグリップを掴むわけですが、常に右手でカメラを持つことはできません。 左手で持つ場合はレンズをつかむようになるわけですけど、レンズが小さければ、もしくは 太すぎれば左手でレンズを掴むにはやや辛いです。 そういうときにこそ、追加したバッテリーグリップの真骨頂が発揮されるのです。 こういう使い方をしているユーザーがいるということをメーカーの開発者はどれほど知って いるのかは不明です。おそらく開発者達はカメラは使わないときには肩がけとか首掛けに するものだと信じて疑っていないように感じられます。 しかし縦位置グリップを装着し、常にカメラを左右の手に持つことができれば、何時間にも およぶ撮影の間中、ずっとカメラを手に持つことができるわけです。 それはどういうことかというと、数時間に及ぶであるう撮影時間中は常にシャッターに対して 臨戦態勢であるということを意味します。 あっ、これは撮りたいなあって思ったとき、やおらバックからカメラを取り出してそれから 構えていたのではシャッターチャンスなんてあるものではないですね。大体めんどうです。 常にカメラを手に持っていれば、何時でも何処でもすぐさま撮影ができます。 その手軽さは、ポケットからスマホを取り出して撮影できるという、それ以上の速写性を 持ちます。スマホがカメラを駆逐してしまったのは、撮影と言うことに対して、もったいぶら なかったことにあるのだと私は密かに思ってます。 そう、この、もったいぶるということ。 カメラメーカーの設計者はこの勿体ぶる。類似語としては、気取る、澄ます、仰々しいと いうのがありますが、いかにも偉そうにしたり、大げさに振る舞ったりする様子を示します。 話は変わります。 フジフイルムがニコンよりも売れているという話は、このカメラの持つ勿体ぶる精神を再び 若者に問うたことでもあるようです。スマホでスパッと撮れるのをわざわざ専用カメラで 勿体ぶって撮るという、いうなれば忘れられていた感覚を再び世間に問いただしたということ。 でもそれって何か勘違いをしているんじゃないのかなっていう気はしています。 ペンタックスが光学式カメラをもう作れなくなった。部品がもう手に入らなくなったよう です。しかしリコーはペンタ用のレンズを生かして再びカメラを出したいと願っていてるよう ですね。それに対する答えは一つしかありません。 ペンタK-01の方式でやるしかないですね。ミラーレスカメラなのですが、デジイチ用のレンズを 使えます。このやり方はシグマではSDクワトロ、ソニーではアルファ77などがそうです。 一番使いやすいのはアルファ77です。形はもう光学デジイチそっくり。グリップは大きく深い です。私はそれに他社製の縦位置グリップを着けて使っていますが、光学デジイチと同じ感覚 で使えるわけで大いに気に入っています。 リコーさん。 いちばん簡単な方法。現行のペンタK3やKIのホデイそのままにミラーとペンタプリズムを 取り去るのです。ただしEVFは必要となります。とにかく新しいボディを開発する必要はなく、 開発コストを大幅に低減できます。グリップなどはそのまま使えます。外見は一切、変更する 必要はありません。 そして薄いボディの専用ミラーレスカメラのようにグリップを小さく浅くする必要すらありま せんね。いや、それをしてはいけないのです。 このくらいの発想の転換くらいは欲しいものです。 カメラの持ちやすさとしては、ミラーレスよりも圧倒的にデジイチスタイルが持ち易いのです から。つまりペンタの次期ミラーレスカメラは、デジイチのレンズが使え、かつ圧倒的な持ち 易さを謳うカメラとするのです。バッテリーグリップ+追加バッテリーとしてのモデルも発売 すれば、なおいいです。プリズムとミラーがない分、軽くなります。 広角レンズに関しては、可能ならばマウント内部に食い込む設計で新しくレンズをつくれれば 面白いのじゃないですか。 まあ、与太話はともかく、私としてはカメラというのは持ち易さが一番だということです。 そしてカメラをもって自分の脚で歩くということ。それが写真行為であると思っています。 カメラをもって歩くことの素晴らしさを知ることが大事かなっていうことです。

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何十年ぶりかで、本の(蔵書というほどではないけど数千冊はあると思います)を整理できました。 量が増えて長らく本棚に置くことが出来ず、ダンボールに入れたまま倉庫に積み上げていたもの です。最初は本棚の作成から始まり手間がかかりましたが、やっと終わったという感じです。 古い本など捨ててしまってもよいわけですが、自分が何十年も掛けて読み上げてきたという、 そういう自分の読書史なるものを俯瞰して見たかっただけかもしれません。 陳列には大まかにジャンルを分けて収納しています。その中に写真・カメラ部門があり、特に 興味深かったのは、捨てそびれてしまったカメラ雑誌があることです。現在はカメラ雑誌なる ものは発行されていません。多少は存続しているようですが、写真文化はすっかりとネットに なってしまい、出版としては死に絶えてしまったというところですね。今更捨てるのは忍びなく て保存することにしました。 やはり印刷として出版された写真は良いですね。ほんとにそう思います。 とくに黒白写真のものは、これは絶対に紙の印刷に限る、という気がします。 カメラ・写真雑誌だけでなく、写真集もそこそこあります。これもやはり黒白写真がいいです。 黒白写真印刷は時代を超越して訴えかけてくるものがありますね。 私は正直言って、写真はフイルムであろうがデジタルであろうが、さほどの相違はないと考えて います。しかし鑑賞法としては、モニター・スクリーンで見る写真と、紙に印刷された写真とは ぜんぜん違うと思っています。これは本質的な違いだときっぱり断言できると思ってます。 それから印刷は、銀塩写真プリントであろうが、それから起こした商業印刷であろうが、そんなに 違いはないとも考えています。 とにかく古い蔵書が出てきたということで、折を見てページをめくってみようと思います。 先日、田舎街で写真を撮っていると、近くの中学の4人組女子生徒に出くわし、「撮ってえ」と、 せがまれたので数ショット撮影しました。「写真が欲しいなあ」っていうので、後日、写真屋で プリントして学校に持って行きました。見知らぬ生徒たちですが、学校ではすぐに誰かと分かる でしょうから、その場に居合せた先生に手渡してそれで終わり。 それで写真プリント、金額はけっこうしますね。長い間、写真屋で現像もプリントもしたことが なかったので、改めて写真を紙プリントすることの意義と金銭的負担を知りました。 青春真っ只中の中学生にとって、仲良し仲間と写った写真は貴重なのではないかと思いました。 多少は写真を通じて地域に貢献できたかなって思ってます。(笑) それから中学生とのやり取りで、彼女らはストリートスナップなる言葉を知ってましたね。 今は女性が写真人として活躍する時代になっているようで、もしかするとその中学生がもう少し 大人になると、自らカメラを持って写真を撮り始めるかもしれませんね。 新聞で見ると、カメラの売れ筋ですが、全世界レベルでその販売台数では、1位キヤノン、2位 ソニー、そして3位はフジフイルムであり4位のニコンを抜いたとのことです。 田舎ではまだまだニコンが強いわけですが、都会の若い人たち、特に女性ではフジらしいです。 フジは戦略的に写真を撮る楽しさと意義を若い人達にアプローチしているみたいですね。 デジカメでは、スマホのカメラ機能がデジカメを駆逐してしまって長く経つのですが、改めて 写真を専用のカメラでもって接してみたいという、新たな雰囲気が芽生えてきているようです。 それからデジカメでは既にミラーレスばかりになり光学式デジイチはもう売られていないよう です。光学式に拘ったペンタックスはもう製造中止となったようです。 それから、コンデジという小型カメラはスマホに駆逐されたのかと思いきや、コダックブランド で安価なコンデジが出ているようで(中国メーカー)、それが台数としてキヤノンを抜いたとか。 スマホのようにAIを使って綺麗に撮れ過ぎるのに、逆に違和感を持った若い人達が買っている ようです。 写真を撮るという文化はけっして無くならないというか、しぶとく生き残るみたいで、それが フジのカメラとかコダックのコンデジで新たに証明されたということになるのでしょうか。 今現在、私は主にソニーのデジイチを使っています。10台くらいはあるのですが、けっこう気に 入ってます。 ソニーの前はペンタックスを使ってました。ソニーもペンタも、キヤノンやニコンというメジャー ではないというのが意識下にあるのかも知れませんが、高齢者のアマチュアがキヤノンやニコン を決まって有難がるのに少し違和感があるのかもしれません。しかしソニーはもはやメジャーに なりました。 しかし何故か、ソニーの光学式カメラは、独特の雰囲気があって、それは多分に、ミノルタから 受け継いだ遺伝子かも知れませんが、満艦飾なごちゃごちゃ感があって、オタク的なところが 気にいっているからかも知れません。それが今現在私が凝っているストラップのおしゃれとマッチ するんです。これが同じソニーでもミラーレスになると、ソニー的な合理性が出てスマートに なります。 でもまあ、カメラは何でも良いんですね。古いカメラでも動ければそれでオーケーです。(笑)

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里山歩きをサボっていたので、もう一度、小さな山から、登り直しです。 この山、わずか百数十メートル。観光客が多くてインバウンドも多数見かけます。 少し離れた神社では台湾から来た遍路姿の若い一人旅の女性と、ノラ猫撮影を撮りっこしました。(笑) まだまだ暑いです。 日本列島は、ユーラシアプレートにあった東端の陸地を、巨大な太平洋プレート(及びフィリッピン 海プレート)が想像を絶する力で引き剥がしたことで生まれました。それで列島の陸地の成り立ちと して、半分はユーラシア大陸から剥がれ落ちたもの、残り半分は太平洋プレートにあった火山島など の付加体が集積されたものです。 この地球レベルの地質学的な成り立ちを知れば、日本と中国はまるで違うっていうのが良く理解でき ます。北は樺太・千島列島、北海道・本州・九州そして沖縄・南西諸島、それから台湾、フィリッピン とかけて、まるで大陸東部の海を塞ぐようにして弧状の列島群として配置されていますけど、それは あくまで太平洋プレートの存在がこの地球に刻んだものなんですね。 巨大なプレートの運動。よく知られているのはユーラシアにぶつかったインド亜大陸です。その巨大な 力はチベットやヒマラヤを形成し、今もなお押し上げ続けています。 中国と日本は違う。また中国とインドも違う。それらはプレートテクトニクスの力によるものです。 この巨大なエネルギーの本質が分かるようになると、それが日本人の持つ深さの本質になっていること に気がつくようになるわけです。人間が住めるのは確かに狭い弧状列島でしかありませんが、深奥には 巨大な太平洋が控えていることになります。

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沖縄県知事選で玉城デニー氏に変わって、やっとまともな保守の古謝玄太氏が当選しました。 沖縄と言えば、つい最近の辺野古の事故を思い出さないわけにはいきません。 あの事故を見て、私は本当にあきれたと言うか、沖縄は全然だめじゃないかと心底思ったものです。 平和学習の一環だったといいますが、一体なんの学習だったのか。なんで高校生が犠牲にならんと いけなかったのか。親御さんの気持ちを思うと残念でならなかったわけですけど、とにかく一番の 犠牲者は亡くなられた当人の高校生自身です。 ああいうめちゃくちゃなことをやっている沖縄。当然にあの事故の責任は県知事も負うべきだと 思うのですが、これでやっと手始めとして少しは審判が下ったかなって思います。 基地反対を生業とする業者(違法な操業のようです)、同志社国際大学の関係者(既に犠牲がでました)、 そして全てを野放しにしていた県当局と知事。これからきっちりと責任を取ってほしいですね。 あいまいにしてはいけません。 最近。写真を撮れていません。護衛艦が来たのでちょっとばかし撮影したくらい。 写真が撮れていないということは、当然には山にも登れていなくて、大分身体が鈍ってます。(笑) もういちど体力を取り返さないといけないんですが、これがまあ、大変なんですね。コツコツと やっていこうと思ってます。 投稿写真は、35-350ズームレンズを使ってます。重さはカメラ込みで3キロちょっとなんですけど、 とにかく持ち難いカメラとレンズでした。これならば、イオス5D系にバッテリーグリップを付け、 シグマ50-500を着けた方(4キロオーバーになる)が断然に持ちやすいです。

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裏街道さんが船の写真を上げられておりますので私もちょっと。 護衛艦「あきづき」です。艦種はDDですので駆逐艦、英語のデストロイヤーのDをひとつでは寂しいのか、DDと 二つ重ねとしてます。現政権の、高市さなえ的に申しますと戦艦ですね。戦闘する艦船の意味で発言されたよう ですが、戦艦も巡洋艦も駆逐艦も、まさに戦う艦船、つまりバトルシップです。 日本は軍艦とか駆逐艦とは言わず、やさしく護衛艦といいます。兵器のことを防衛装備品というのと同じで感覚 です。また戦力とは言わず抑止力と言うのも同じでしょう。日本人は他国や自国民に気を使う優しい国なんですね。 そういえば艦名のあきづき、という名もやさしい感じ。 このあきづき、汎用護衛艦の部類で、かたや弾道ミサイル防衛のDDGイージス艦、ヘリコプターを多数搭載するDDH とは異なり、まさに海で直接ドンパチ戦闘するために生まれたもので、敵ミサイルや航空機、敵艦船や潜水艦と、 全ての敵戦力を打ち落とし沈め去ること、無論そのパイロットや水兵も含めて消し去ること。つまり戦闘番長であり、 その為にのみ飼っているドーベルマンのような戦闘艦です。 その存在感は圧倒的で、5千トンクラスなのですが、それよりも大きなDDG、DDHよりもかなりな迫力があります。 改めて思うに、日本もこういう戦闘艦を多数持たなければならないほどに(実際は持てていない)、東アジアの 軍事的緊張は高まっているということですね。

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これはカメラの左側のみにストラップを付けた様相。 ストラップというのは、厄介なもので、写真右側のような細身で柔らかい材質のストラップならば、 カメラ上部の左右に着けても(これが通常)問題がないのです。 しかしストラップの中には写真左側のカメラのように、接着部の材質が硬い、そしてストラップ自体が 幅広のものであれば、カメラを手に持っても素直に垂れ下がってくれません。 これを解決するひとつの手立てが、ストラップ自体を、右側のレリーズ部があるところから解放する ことです。この写真では、ストラップの接合部をカメラ右上部から左下部に移動しています。 これでレリーズを構える右手の指がストラップに邪魔されることもなく、また右手でカメラを運ぶ時にも ストラップは綺麗に垂れ下がるのです。 今回はバッテリーグリップにストラップを付けていますが、カメラ下部の三脚穴にフックを付けて接合 することも可能です。 こんなややこしいことをしなくても、幅の狭い柔らかいストラップを使えばよいわけですが、(笑)  とりあえず今は、幅広の純正品ストラップを使ってみたい、というだけの話ですね。 正装をしてみたい。作業着ではなくスーツで決め手みたいというだけなんですが、幅広ストラップにも 長所はあって、やはり少しは目立つこと。それで車道などの道路などを歩くときに安全かな、という こと、またイノシシにも目立ってくれればよいわけですし。 はっきり言うと、幅広の純正ストラップ(品質の良いものは少ない)などは、見掛けだけのものなんですね。 それで私は長い間、ニコンの初期型のプロ用ストラップとか、ペンタックスの初期の木綿製ストラップ、 キヤノンのプロ機用のストラップ、またノーブランドの無地の細身のストラップなどを使ってきました。 それらのストラップは優れています。 しかしそれだと、カメラ本体とストラップのブランドが合わないことがしばしばで、素人さんが見れば 違和感を持つだろうということで、それじゃ、メーカー名を合わせてみようか、としているわけです。 なんというか、これは対人対策用という気がしてます。(笑) 最近は讃岐の里山だと暑いので、讃岐山脈(奥山)に登っています。標高が千メートルなので頂上部は 涼しいということで。ただやはり下のほうは暑いんです。汗がだくだく。それでも山頂部の涼しさは ご褒美となります。四国の2千メートル級は、現地までの距離が遠く、まだ自信がないので先の話です。 写真やカメラは、自分の好きなようにすれば良いだけのことで、これだという正解はありません。 ただ自分の好きなものが分かっていない人も多いですね。それで皆がやっているものをそのまま踏襲して いるだけの人も多いです。それは残念だなという気はしてますけど、人はそれぞれなので他人がとやかく いうことはないです。 自分の好みがなくて、皆に合わせるというのは、人間的に良いタイプの人ではありますね。しかし 学ぶべきことは少ないです。 少し変わった人のほうが、私としては面白いという気がしています。 知り合いにパソコン趣味の人がいるんですが、私も同趣味なのでよく話すのですけど、彼はパソコンの 購入代は、パチンコで稼ぐんですね。(笑) ほんとかな?と思いましたけど嘘というかハッタリを言う 人間ではないので本当のことなんだと最近は信じるようになりました。 そういう能力がある人間もいるんだなっていうことです。そして彼は一般の眼ではかなり変人だという ことのようです。 人間、少し変なくらいなほうが、付き合う側としては有益かなっていうことですかね。

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酷暑から少し暑さが和らいだかなっていう感じになりました。 今回はちょっと変なカメラを作ってみました。 ペンタックスの、なんでもない普通のデジイチですが、ペイントは蛍光色の赤です。 こういう変なカメラを作るのがペンタですけど、このカメラ、実用としての、唯一の 使い道があるのに気が付きました。 それは歩道がない自動車が走る道を歩かなければならない場合、この赤が利くのです。 普通、登山道の山道は人が歩くだけの山道ですけど、中には自動車道しかない山道も あるんです。そういう場合に自分を車から守るカメラとなります。 なにせ、赤は目立ちます。そしてストラップも赤でいこうと。さらにストラップを 2本つけて(1本はダミー)、それで手に持ったカメラが歩くたびに、そのストラップが ひらひらとなる。 このひらひらが大事で、ドライバーの目を引きます。 通常の黒のカメラに黒のストラップと違い、目立つこと間違いなしですね。 なお、このカメラはイノシシに対しては無効かと思います。ふつう動物は赤色を認識 できないと言われていますので。 イノシシには普通の黒の大きめのカメラで十分です。ストラップも黒でよく、しかし 幅広のストラップがよいですね。イノシシって目ざとくて、人間が手に何かを持って いるのを確りと見ています。 彼らは人間が手に持っている機器が恐いんですね。その機器は大きいほど良いです。 ダミーのストラップはカメラ下部(グリップ下部)の三脚穴に付けてます。直ぐに 取り外し可能なリングで付けてます。グリップは勿論、純正ではなくて古いニコンの グリッフを改造しています。カメラよりも大きいのですが、そのほうが問題がなく 持ち良いのです。

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まず、イメージありき。 多くの人々が写真機材の何かを新しく購入するとき、脳内でイメージを膨らませている はずです。たとえば自分は夕日の太陽が大きく映り、水平線に沈んでいく有り様を撮り たい。とイメージしていたとします。 そうすれば超望遠レンズが欲しい、さらに大型の三脚が欲しい。となるわけで、その ふたつの機材を購入するために、大きく夕陽のイメージを働かせているわけなのです。 このイメージングは機材を購入する時だけでなく、何処そこに撮影に行きたいと決意 するときにも働くはずです。その場所が遠ければ旅費は嵩むので機材購入時と同じく、 決定にはイメージを膨らませ続ける必要があります。 そのイメージの源流とは、大体は他の人が撮った写真や映像である場合が多いのでは ないでしょうか。言ってみればこれは模倣ですね。自分が考えたイメージというもの ではありまん。 これが多くの人達が陥りやすい罠とでもいうものです。 なかには映像ではなく、旅行記などの文章を読んでとか、知人に話を聞いてとか、 それでイメージを膨らませていく人もいるでしょう。これはちょっと模倣とは違います。 自分の思考力というものが働いています。 私が今、里山で記録的に撮っている写真は、そういうイメージというものが最初から ありません。体力づくりでもって何処そこの山に登りたいと決めて、カメラは歩く 為の道具として持っていくわけですから、最初からイメージは湧いてこず、ぶっつけ 本番での撮影であるわけです。 つまりイメージなき撮影であるわけです。 写真撮影をするとき、大きく分けて二つのタイプに分類できるとすると、最初から よく調べてイメージを持って撮影に望む人と、そうではなく、ちょっとした思い付き で出かけて、現地でぶっつけ本番で撮影する人のふたつです。 もちろん一人の人にその両タイプが存在しているわけで、どちらかの比重になるかの 違いだけでしょう。 それで撮影として面白いのは、予めのイメージを持たずに出かけたケースではないで しょうか。思いがけず良い光景に出会ったとか、こんな美しいところだったのかと 感激をするのは、予断イメージを持っていなかった場合が多いです。 そして最初にいくら詳細に調べてイメージを膨らませていても、現地へいけばあっさりと そのイメージが覆される場合が多いのも面白いところです。良い意味で裏切られると いうのは痛快ですね。 なんだ、こんなものだったのかという場合もあるでしょう。私はそういうガッカリと いった場合には、それは自分が未だ探せていないだけだとして、現地で探し込みます。 そうすると良い場面に遭遇するのが常です。 写真とは常に自分の脚で眼で探すことである。いつまでも脳内のイメージで思い続けて いてはいけないと考えています。 そういう場合、その威力を発揮するのは自分の手足のごとく自由に動けるカメラです。 カメラというのは、外部の機材であるという違和感覚を少しも感じさせないものが良いと 思っています。 そして何よりも、そのカメラを常時手にもっていて速写性を保っていることが肝心です。 バックに入れたままとか肩に掛けたままでは反射的に撮影することができません。 歩いている間中は、常にカメラは手に持っていること。これが絶対条件だと思ってます。 ところで私の大昔からのカメラ感覚は、戦場カメラマンのカメラです。 戦場カメラマンの写真こそが写真の中の写真であると、若い当時の私は思っていました。 当時はベトナム戦争たけなわのころです。 その頃は今と違い、カメラにはケースが付いていました。そのケースを着けて写真を撮る というのが普通の感覚でしたね。皆がそうしていたように記憶します。 それで私は、戦場カメラマンと同じように、カメラケースを捨てて、むき出してカメラ を手に持って撮影することにしました。 現在ではカメラケースというものはありませんね。部品の密着性が良くなったので ケースは必要がなくなり、さらには防塵防水性まで獲得しています。 現在のカメラでは、私が付加して改造をするのは、手に持ちやすくするためにラバー などで滑り止めをしたりテーピングをしたりすることです。言ってみればこれが私に とってのカメラケースかもしれません。(笑) とにかく、メカニカルカメラの時代にカメラケースを捨てたことは、私の心の中では 革新的なことであって、それ以降、私のカメラは、いかにカメラを操作しやすく、 持ちやすくするかの追求であったような気がしています。 そして戦場カメラマンの精神として、予断のイメージでもって撮影をしてはいけない、 というのもあります。それは現地でその場で判断すべきものであり、思い込みで写したり 語ったりしてはいけないというものです。 おそらく私の中では、あの当時の時代の雰囲気、ベトナム戦争などの社会的な空気が 刷り込まれて、それがこの今も続いているというような気がしてなりません。 平和な現代では時代錯誤も甚だしいということかもしれませんね。 私の写真感覚を形作ったのは、当時主流の黒白フイルム写真だったというだけでなく、 当時の世相というものも、根底に深くあり続けているように思えます。三つ子の魂、 百までと言いますが、そんな気がしています。 ですので、写真は芸術だ、表現だというのは凄く違和感があって(これは80年代以降の カラーフイルム時代からです)、どうしてもそういう平和な写真感覚には馴染めないで いるのです。 ベトナム戦争の前は、終戦直後から始まったリアリズム写真でした。これも第二次 世界大戦という戦争のシリアルな結果で生まれたものです。 今の日本の時代は戦争というより自然災害というのがピッタリとするのかも知れま せんね。もちろん世界的には既に第三次戦争が始まっているという人もいて、戦争は すぐ迫っているのかもしれませんれど、今の日本の人々の感覚としては東日本大震災 からの自然災害のイメージが強いでしょう。これはやがて南海トラフ大震災に続く わけです。 それはともかくとして、多くの人々の実態はまだ平和な国というイメージに浸った ままです。 それが悪いというのではありませんが、写真世界に於いてもこの平和な花鳥風月が 続いています。 そういう私も他人事ではなかったわけで、平和すぎる写真を続けてきたなって 思います。それが少し変わったかなって思うのは、しっかりと体力をつけようとと 考えて、手段として里山にカメラを持ち出してからです。 里山には昔から登っていましたが今回は本格的に行こうや、ということで、カメラ1台 でレンズ1本のみのスタイルでした。記録撮影ということで余計なことは考えずに 交換レンズもなくそれだげて押し通すことにしたのです。 このシンプルさが結果的に、若い時期の黒白フイルム時代の写真感覚を思い起こした という気がしています。 撮影はノーファインダーが基本。もうこれ以上は省きようがないほどのやり方で しょう。完全に無駄欲を排したスタイルですから。 とにかく、このカメラが一台というやり方をここ数ヶ月ずっと押し通しています。 持って行くカメラ自体は適当に変わったりするんですけど、カメラ1台と着けたレンズ ひとつだけというのは変わっていません。それを不自由だとは思わなくなりました。 むしろ自分は自由になったような気がしています。 もちろんカメラは徹底的に持ちやすく使いやすくしています。 まだズームレンズを使用しているのですけど、実際はその最広角で撮るのが殆ど なので単焦点レンズで撮るのとさほど違いません。とにかくレンズを交換すると いう手間がカメラのシンプルさを最初に損なうという感じです。 徹底的にシンプルであること。わずらわしさを排するということ。これが有意義で あったのだという気がしています。そうすることで何かに近づくということらしい ですね。その何かというと、きっと写真の本質だろうと思ってます。 現在ではそれがスマホで写真を撮るということかもしれません。 いまでは殆どの一般の方々はカメラを捨てて、スマホで写真をとります。 以前、この掲示板で山岳写真を撮られて投稿されていた人が、最後に、もうスマホ で良いじゃないかと言って掲示板から去って行ったことがあります。なんとなく 分かるような気がしてますね。 それは人に見せる為の写真なんてしなくていいんじゃね、ということでしょうか。 写真は芸術だとか表現だとかいうから、写真を他人に見せて評価して貰わないと 完結しなくなるんだけど、それを吹っ切ると、写真はシンプルなスマホで十分なん ですね。自分の記録の写真だけの意味になるからです。 というより、現代ではスマホこそが写真の本質を見抜いているという気がしてます。 しかし残念ながら最近のスマホはAIで作っていますのでリアリティが欠けてしまう のが惜しいです。それから以前のコンパクトコンデジと同じでスマホは軽すぎます。 それでも良い線を行っているのがスマホであって、多くの人達が利用しているのは 納得がいきますね。 スマホの視点から見てみると、私がいま使っているデジイチは重さと大きさ以外は スマホに近づけていることに気づきます。機能として使い勝手としてスマホに接近 させているというわけです。これは結果としてであって今気づいたことです。 いま世界中でスマホによるショート動画が撮られていて、それがネット上にアップ ロードされています。ウクライナやロシアで撮られた爆撃シーンなどです。それは 戦場写真であるわけで、いうなれば時代を写し撮る戦場カメラでもあるのです。 ベトナム戦争ではプロのカメラマンがメカニカルカメラで報道していたけれど、 今では無名のスマホユーザーがインターネットで報道をしているというわけです。 そしてさらに最近ではAIによる偽動画や偽写真がネットで流される始末です。 しかしプロパガンダということで戦前も偽写真は横行していたので新しい現象と いうことではありませんね。 自分にとって写真とは何か。ということを追求していくことは大切なことだと 考えています。ともすれば時代に流されて自分を見失っていくのが世の常です。 自分の写真を取り戻すということでしょうか。これにはゴールというものはない わけで永遠に問い続けていくことになります。 デジタル写真になって、以来ずっと、私が過去にやっていた黒白フイルム写真と、 そして今のデジタルとの間には大きな乖離というものがあって、それにずっと 悩んでいたというところがありました。 少し氷解したのは制限の多い特殊なカメラ、モノクロ専用機を使い出してからです。 これで嘘のように新しい機材が欲しいという欲が消滅しました。 それでもまだ納得をしていずで、モノクロカメラでの撮影は楽しいというわけでは なかったからです。奇妙に作為的に無理をしているという感覚がありました。 それがさらに吹っ切れることになったのはカラーデジタルに戻して、撮った画像は 完全に見ないことにしようか、と決めてからです。 そうなってくると撮影に持ち出すカメラは何でもよくて、1台で十分じゃねってなり、 それが今に至っているわけです。 これで手軽に撮影に出かけることができるようにはなりました。この手軽さは重要 ですね。 そうこうしてくるうちに、制限だらけのカメラや写真であるはずなのに、写真撮影が 楽しく感じられるようになって、つまり現実の制限とは真逆に写真として自由な感覚が 芽生えてきているように感じられ始めたのです。 なるほど、それは若い頃に写真を始めた時は、カメラ1つにレンズひとつだったじゃ ないか。その当時は撮影も写真も自由で楽しかったんですよね。 きっとそういう昔の感覚に立ち返っただけのことだったんのかもしれません。 今は馬鹿みたいに古いカメラばかりですけど所持してます。しかし撮影に出かけるとき には一台しか持って行きません。ばかなカメラコレクションとは別に、撮影行では大きな 制限をかけて昔の初心に戻る。これで中々有効であって、たったそれだけで自由と楽しさ を得ることができるようです。 こんな簡単なことに気が付きませんでした。 ああしようか、こうする場合もあるかも、と雑念を野放しにしていたからこそ、写真が 詰まらなくなっていったのではないかと思い始めています。 しかしここまで書いてきて、カメラ一台レンズひとつのスタイルはかなり前からやってます。 1~2年前から。ペンタックスばかりで撮ってましたが、さほどに楽しいとは思えてなかった です。里山だけに突出した撮影ではありませんでしたが。 しかしそれが、楽しいな、自由だと感じ始めたのはここ最近の1~2ヶ月ほどです。 ペンタックス以外のカメラも取り出して使ったからでしょうか。 それは多少はありそうです。やはり一種では飽きますからね。 しかし、そういう理由よりもこれは里山歩きによる身体の向上が利いて来ているのでは ないか、という気もしているんです。自分の身体と心が以前とは変わってきているから、 写真への感じ方も変わりつつあるのだと。 もしそうだとしたら、嬉しいです。でもそう簡単なものではないでしょうね。 しかしシンプルに言えば、筋肉を動かせば人間、自然とやる気が出でくると言われます。 そういうのはあるんじゃないかって思います。 平地でダラダラと歩いて撮影をするのと、傾斜地の山地で筋肉を強く刺激しながら撮影を するのとは違うのじゃないかと思います。 それからペンタックスは軽かったです。1キロくらいしかないですから。それを鍛錬という 目的で2~3キロのカメラに変えました。これもあるんじゃないかって思います。 さらにいうと平地と山では、人々のカメラや写真に対する見方が違うというのもあると 言えます。山では評価した見方をしてくれます。これもあるのじゃないかって感じてます。 しかしこれは余禄ですね。 いろいろと考えながらこのコメントを書いているのですが、一番に可能性があると思うのは、 それは、シンプルに設えたカメラではありません。筋肉が鍛えられて積極的な考え方ができる ようになった、というのでもありません。 考えてみますと、山道で撮る被写体なんてあるもんじゃないです。それに私は写真を撮る ために山歩きをしているのじゃないですね。ただ手ぶらだと寂しいからカメラを持って 歩いているだけです。撮った写真を後で見ることもない。 それでも淡々と写真を、いやシャッターを押しながら山道を歩いてます。 ということは、・・・・・・ 私のカメラのシャッター音は、私の脚の歩みそのもののカウントであるのだろうということです。 なので、最近、写真が楽しくなり自由に感じせれるようになったという印象は、写真やカメラ のことではなくて、里山歩きそのものが楽しくなり自由感を得られるようになったということ じゃないですかね。 やっと山歩きに慣れてきた、やっと山歩きの楽しさがわかるようになっていたということかも 知れませんね。それを写真として擬似的に自分が捉えているだけなんだということです。 本格的に里山歩きをやりだしてから4ヶ月余。たしかに山歩きに慣れてきて良い時期です。 そしてカメラは山歩き以外には全く使っていません。

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前回登ったさぬき山脈奥山の別ルートを登山しました。今度は実質高低差900メートル、距離は 往復10キロと前回と同じ。道が悪くて、しかも大雨上がり直後で猛暑だったので難儀しまし たけど、下りの脚の痛みもさほど出ず、登りの登坂時間は前回より1時間短縮できて、よい 登山でした。 香川の多くの里山とは、山の成り立ちが違うので奥山には急坂はなく、だらだらと上りが続く のですが、しかしこれが普通ですね。ただし長時間の歩きとなり、足の故障は致命的となる ので鍛えておかないといけません。 なお、足の筋肉を増強するということでは香川の里山の急坂には意義があります。それと 急な坂でも滑落しないという経験値も積むことができますね。 私はカメラを持って登りますが、撮影には時間を消費しません。淡々と撮影をノーファインダー 撮影していきますのでカメラを持っていない普通の登山者と同じです。カメラをザックから 取り出しておもむろにっていうのではなく、常に手に持っているカメラを向けるだけなので 手間はかからないのです。 ポケットから取り出したスマホで撮影する人よりも素早く撮影できますね。(笑) この何時でも何処でも瞬時に撮影ができるというのが、私が黒白フイルム時代から続けている 習慣です。おそらくそういうことをしているカメラマンは、イベント撮影時以外では居ない だろうと思います。 ※写真は古いフイルムカメラ用(ミノルタ製)のバッテリーグリップを、不要なものを外して デジイチに着けた状態です。これは写真では分かりにくいですが高さが薄くロープロフィール のスタイルとなっています。やや左手でグリップを掴みにくいかも知れませんが、左手では 半分時はレンズを掴むのでさほどに問題ではないです。薄くてスマートに収まったかなと 思います。細いストラップは仮付けです。実際には幅広のやつを装着します。 カメラの重さが足りないかな、と感じれば、このグリップないに鉛チップを入れることができ ます。 縦位置グリップは左手でカメラを持つときに重宝しますが、それだけでなく右手でカメラを ホールドしたり、長時間持っていたりするときにも、カメラの持ちやすさを維持します。 縦位置グリップがなければ、カメラボディに備わるグリップだけではカメラは持ち難いんです。 このグリップをつければ右手の小指側の手の付け根の盛り上がった肉と親指付け根の肉で、 確りとカメラをホールドできるんです。つまり右手全部を使ってカメラをホールドできる。 そして何よりも右手の中指・薬指・そて小指と全部がグリップに掛かります。このグリップが なければ小指がはみ出していましたから。 これが私が縦位置グリップを使う主な理由ですね、左手でもグリップできるようになるという のは残り半分の効用です。 正直言って、クリップを付けないでカメラを使う人は、カメラを本当にはしっかり構えて持て ていなと私は断言したいです。カメラは手で撮るのですからきちんと構えないと構図もブレも 維持できていないと思ってます。 キヤノンやニコンのプロ用カメラは縦位置グリップが最初から着いています。それを見ても 分かるように、カメラのグリップ部こそがホールド性の要であるということです。 このグリップまでは私も昔から重要視してきたのですが、最近はストラップにも凝ってます。 カメラは常に手に持っているわけですが(ストラップは垂れ下がっている)、いざという時には カメラを肩掛けします。カメラが2台体制だとひとつは肩がけのままです。 ですからストラップは幅広の、肩からずれないような確りとしたものが必要です。 写真のカメラでは直付けでストラップを付けるタイプですが、もうひとつはトライアングル タイプの三角リングが付くやつと、カメラには二つのタイプがあります。 トライリングのものはそのまま利用しますが、直付けのものは、ストラップの材質が硬ければ 素直に折れ曲がってくれず(そういう材質のストラップが多い)、撮影時に邪魔になったり するんです。 (ちなみにイオスの1D系は直付けタイプですが、専用ストラップは柔らかく邪魔をしません。) そこで直付けタイプのカメラでストラップが自由に動き、撮影の邪魔にならないようにする 工夫が、この写真のような後付リングです。これでカメラの根元からストラップは自由に折れ 曲がり、撮影中でも、また手に持ったままの移動中でも、ストラップが邪魔になることが少なく なるのです。 この後付リングの耐久性は未知数です。(笑) 保障はしませんので真似をしても自己責任で。 しかし私はこの脱着可能なリングは重宝していますが、脱着しない大小のリングスプリングの 組み合わせでも同じ効果が得られます。 カメラのストラップ接合部を良く見ると、上側に小さなリングスプリングを2個入れています。 (1個では耐荷重にやや不安があることと、1個だけでは外れた場合に2個だと防止できるかなと) その下に脱着可能リングなのですが、その部分に、つまり脱着可能リングの代わりに、大きな リングスプリングを入れてストラップを通せば良いだけのことです。脱着性はなくなりますが 不用意に外れたり折れたりすることがなくなります。 なお、リングスプリングは耐荷重表を見て、足りないなと思えば2重にすること。そして材質は ニッケルかステンレス製にすることです。スチール製では錆びます。 このスプリング式ストラップと、先ほどの縦位置グリップの装着で、カメラはものすごく持ち やすくなるんですね。カメラが邪魔だな、持ちにくいな、と感じていれば、このふたつの方式で カメラを常に持っていても苦痛ではなくなります。 私が何時間でも、左右の手に交互に持ち替えながらカメラを常に手に持っていられるのは、 まさに、このふたつの装着によるものです。 ついでにもうひとつ加えると、ストラップは肩に掛けた時にズレやすいのが多いです。 滑り止めが弱いのですね。また古くなるとラバーが取れてしまうのも多いです。 それでストラップの肩にかかる部分に、接着性のあるゴムシートやスポンジなどを縫いこん でやるのです。柔らかいのがよいです。なかなか良い材質のものがないのですけど、ジグザグ ハサミで10センチほど切ってストラップ内側に接着してやれば、肩外れが防げます。 私も完全にカメラをいつも手に持っているわけではなく、肩がけはちょくちょくしてます。 用手を使わないと登れない箇所は多いですから。 話が長くなりましたが、カメラを如何に持ちやすくするか。それが撮影の楽しさに直結すると 思っていますので。私は持ちやすいカメラこそが、本当に性能の高いカメラだと認識しています。 カメラは実際に手に持ってナンボ。持ち歩いてこそのカメラだと思っています。 私がノーファインダーで撮影しているというと、そんないい加減な、と思われるでしょうけど、 グリップを装着するとノーファインダでも狙ったところに構図を決められるんです。水平だって 決っています。なんなら腰打め位置でもノーファインダーで撮影できます。 これに最初に気づいたのはプロ用の縦位置グリップがあるカメラで撮ったときです。右手で 確りとグリップできていたからノーファインダーでもいけるんだと初めて気がついたんですね。 つまりそれほどに普通の、グリップのないカメラというのは不安定であって、きちんと持てて いないということなのです。 だいたいの人は手でカメラ保持ができていないので、撮影時にオデコでカメラを当てて保持して いるはずです。左手でレンズ保持、右手でホティ保持、さらに顔のオデコでも保持です。 しかしこれだと電磁波が顔面を直撃します。(ミラーレスの電子シャッターだと大丈夫ですが) それで私はシャッター作動時にはカメラを顔面から離すという技法を使います。その場合に、 カメラボディを保持するのは右手だけになるのでカメラのグリップ性能がものをいうのです。 そのグリップ性能は、縦位置グリップを装着していないと真価を発揮されません。 縦位置後付グリップというと、それは縦構図を使う場合に使うものとしか思っていない人が 多いです。たとえば写真のような自作グリップでは物理的にボディに取り付けられたとしても バッテリーも入っていず、無論レリーズボタンも連動していません。 これはただカメラの保持を良くする為だけのグリップなんですね。そしてそれだけでグリップ の役割は果たせているということなんです。 私の場合、正規の縦位置グリップを付けた場合でも電気的に連動させていません。不用意に 設定が動くことを良しとしないからです。縦位置撮影の場合でもカメラ上部のレリーズボタンで 押します。 縦位置グリップの本当の効用を実はメーカーの設計者すらも知っていないケースがあります。 流石にキヤノンやニコンのグリップはまともですが、ソニーのデジイチの後付グリップなどは 単なる縦位置時のレリーズボタンとしてしか理解していず、ホールド性が完全ではありません。 これはミノルタ時代からの悪習ですが、右手の付け根部分がグリップに当てて保持できず、 意味のないグリップとなっています。それでラバーやスポンジを貼って嵩増しをしてホールド を保てるように工夫をしなければなりませんでした。 メーカーの人間でも本当にカメラのことを分かっているとは限らないという、そういうケース はけっこうあるんですね。ただそういうメーカーはやがて傾きますね。やはり長い目でみれば ユーザーは次第に分かってくるんでして、使いにくい製品は淘汰がされるということです。 私はもう最近のカメラは知らないんですけど、デジイチではやはりキヤノンが最高です。 ニコンもいいんですがAFが弱いです。ノーファインダーで一発で決らない時があります。 シグマはクワトロになってからデザイン優先で駄目になりました。ペンタックスはデジイチ で頑張っているんですけど、メニュー操作が素人してます。知らぬうちに設定が動いているの がよくありますから。 最近のミラーレスカメラは知らないのでこれは過去の評価です。 長々と後付グリップの効用を書きましたが、私の撮影ではこれに尽きるかなということですね。 逆説を言えばデジイチになってからのカメラは、昔のメカニカルカメラ時代とは異次元的に よくなっているということなんでしょう。

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新しく自作グリップを作ってみました。といっても、古いフイルムカメラのグリップを 改造して取り付けただけです。これが意外にもかっこいい。(笑) しかしこれがあるのとないのとでは全然つかい勝手が違います。 私のカメラは車でいえば、野山を走る4輪駆動車のようなもので、とにかく丈夫で使い 安さがよくないといけません。右手でも左手でも持てて長時間保持できるカメラでないと 駄目なんですね。これは街中や室内で使う人とは考え方が違うかもしれません。 とにかく丈夫でないといけないので、当然デジタル一眼かミラーレスのカメラとなります。 昔のメカニカルフイルムカメラのような脆弱さがデジカメになってからはなくなり、 グリップも大きくなって持ちやすいですし、プラスチックボディだと冬場にカメラが 冷たくて辛いということもなくなっています。 撮影途中でフイルム交換とかでお腹を開ける必要もなく、バッテリー2個と容量の大きい メディアを入れておけばメンテナンスフリーで撮影ができます。レンズ交換も基本、私は しないので(一本のレンズを着けっぱなし)、カメラをサバイバル的に使うことができ ます。 こんなに楽にぞんざいに扱っても問題がないカメラなんてのは、昔のメカニカルカメラ では考えられないですね。防塵防滴タイプだと雨に降られても平気です。 もっともデジカメには欠点もあって、漏洩電磁波が問題なのですが、私のように基本的に ノーファインダー撮影をするのならば大丈夫です。それからパソコンのモニター問題も あるわけですが、私の場合は撮りっ放しで後では見ない、現像もしないということだと、 それもクリアできます。 だいたい私は昔から多量にショットで撮影し、丁寧には撮らないタイプだったのです。 それは使っていたのが黒白フイルムで、しかも自家現像だったからですね。フイルムも 長巻フイルムを自分で切ってコストを抑えてやってましたし。 高価なカラーフイルムをしていた人とは考え方がまるで違っていたのだろうと思ってます。 速写が基本で、露出は大体、ピントも目測を多用してました。とにかく素早く連写で シャッターを切るのが私のやりかたでした。写真は数打てば当たるという考え方でしたね。 このやり方にマッチしたのがデジカメだったわけです。ですから黒白フイルム写真が できなくなってからは、カラーフイルム写真はしなかったので、写真趣味は長らく休止。 再び写真を再開したのは、デジカメが登場してからというのが本当のところです。 そういう意味では、私は写真を芸術化も神聖視もしていなくて、写真は記録の為の道具 だと考えています。カメラと同じく単なる道具であると。 神聖視というのは偶像視とも言いますが、大切にしすぎるという習慣のようなものです。 ブランド趣味ともいいますか。そういうのがないのが、黒白フイルムの写真をやった人間 の特徴だろうと思っています。 それでそういう黒白フイルム写真はデジタルカメラと実によく似ていて、違和感がなく デジカメに移行できたと思ってます。もっとも私はデジカメ以前にパソコン趣味をやって いたので、尚更スムーズにデジカメ写真に馴染めたと思います。 高価なカラーフイルム写真を長くやってこられた方は、私のような考え方には強い違和感 を持つのではと思いますけど、写真の歴史というのはとても長いので、その時代、あの 時代と、各時代において価値観というのは幾度も変遷しているんですね。 ぞんざいにカメラも写真も扱ってきた私ですが、最近は手持ちのカメラをキレイに見せる ということをしています。(笑) 特にストラップですね。 この見かけも大事というのは、里山歩きをし始めて、そこで出会う人達が、案外に写真や カメラというものを高く評価をしてくれていることが分かったからです。 これは実に意外でしたね。 以前、イベントや祭りで撮影した頃は、どちらかといえばカメラを持っていると一般の人 からは、迷惑がられる視線を感じてました。一般の方々のカメラマンを視る眼はだいたい そういうものでしたね。 そういうのと随分と違うじゃないか。(笑) と感じているわけですけど、ところ違えば 評価も変わるということでしょうか。考えてみると街中のイベントなどではカメラマンは 履いて捨てるほどに多くいて、邪魔でこそあれ希少価値はありません。 ところが滅多に人に合わない山の中では、しかも歩くだけで大変なのに重いカメラを 持って歩いている人間を見ると、評価がガラリと変わって来るのだろうと思ってます。 私としては、カメラがないと歩きのスイッチが入らないというだけで、カメラを持って 山道も歩いているだけなんです。(逆に、カメラのバッテリーやメディアが切れると、 とたんに歩きのエネルギーはなくなります) さらに重いカメラは体幹を鍛えるにも好都合というのがあります。急傾斜でカメラを 手に持ったまま登るというのは、想像以上に身体は不安定になるので体幹の筋肉を鍛え られるではないかと思ってます。 その程度の考えで大き目のカメラ片手に歩き出した里山歩きですが、そこで出会う人達に 思いがけなくも好評価を受けてしまったというわけなんです。 そういえば今、思い出したのですが、石鎚山を登っていた頃、小さなコンデジひとつでは 何もなかったのですが、一眼レフを複数台持って登った時や、シグマのコンデジを自作で 2連装にして持っていった時は声をかけられました。簡単に言うと、カメラが大きく重い という、たったそれだけのことですけどね。 里山歩きをして数ヶ月、いやそれ以前の頃からしても、山の中で本格カメラを持って 歩いている人間を見たことがありません。まあバックに入れていて必要な時に取り出して いるんでしょうけど。(例外があってユーチューバーの人はずっとカメラ持ってます) しかし私は、街中であろうが、祭りやイベントであろうが、山の中であろうが、撮影の スタイルは変わりません。カメラをむき出しにして手で持ったスタイル。それで何時でも 何処でも撮影です。

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久しぶりに、半月ぶりに山に登ると、脚にきました。(笑)  しかし一日で直ったという感じです。いつもの里山ではなく、千メートルの奥山に登ったのですが、距離が 長かったからかもしれません。とはいえ、実はいつも登っている里山のほうが傾斜としてはキツイわけで、 それに距離だってさほどじゃありません。 まだ完全には脚が作られていないという気がしました。 そうは言ってもこれから奥山に行って長距離を歩かなければならなくなるので、たかだか高度1000メートル、 距離10キロでへばっていてはいけません。(笑) 山はだいたい、2000メートルまでは普通に誰でも登れます。大した装備も不要です。四国には2000メートル オーバーの山はないので問題はないのですが、参考までに書くと3000メートル級の山は全く違います。 空気が薄くなるのもありますが気温が下がるんですね。100メートルで0.6度下がりますから3000メートル では18度も低くなるのです。そして悪天候の影響を強く受けます。強風を受ければ短時間で低体温により 意識を失いかねません。 私は一度観光で行った北海道で、風が吹くと気温の体感温度が極端に下がるという経験をしました。 最初は無風でマイナス15度でちょっと寒いね、という感じでしたが、それでも持参した2台カメラの1台が 低温で作動しなくなりました。 しかし風が吹いてくると、状況は一変。ほっぺたぷるんぷるん、歯はがちがちです。あれはもう恐怖を感じ ましたね。季節は秋だったので冬服ではなかったのです。これではいかんと、太ももを高く上げて駆け足です。 とにかく筋肉を動かして体温を上げること。それで宿舎に一目散でした。 登山はスポーツというところもあり、ある程度は極限の身体能力を要求されるところがあります。 この極限の身体の具合感を人間はある程度は知っておく必要があります。スポーツの効能とは詰まるところ、 まさにそこにあるわけで、これを知っているのと知らないのでは雲泥の差があるわけです。 それは日常の生活においても、自分の身体感覚の物差しとなるわけで、例えば此処まで来ると危ないな、 という身体感覚を持っているのと持っていないのとでは決定的な違いとなるからです。 それを知らない人とか、忘れてしまったという人は、不摂生で病気になったり、また病気になっても脱出 できない場合が多いのです。 多くの人々は病気になると、それは医者が治すのであって自分の努力などは関係がないという感覚の人が 多いですね。医療に頼る、薬で治すとか、これは遺伝だから治せないとか、その程度の考えで甘く見ています。 なぜでしょうか。 それは自分で思考をしていないからだと言えます。残念ながら自分で思考できる人は少ないんですね。 多くの頭のよい人というのは、学習能力があり記憶力が高い人を言います。でもその学習能力とは模倣する 能力のことですね。思考力とは本質的に関係がありません。 でもこの学習能力で持って、人は良い学校に行き良い成績で、良い会社に行って仕事ができると評価される わけです。 時代や自分の人生が順調な内はそれで十分に対処でき問題がなく過ごせます。しかしひとたび時代が変わっ たり、人生の運勢が暗転したりすると、そういう能力だけでは対処できなくなります。つまり運が良いうち は大丈夫だけど、運が悪くなるとお手上げ、というわけです。 そういう人がとても多いですね。 しかし本当に頭のよい人というのは自身の思考力があるわけです。それで原因をさぐり解決策を見出すこと ができるかもしれません。でも思考力を自前で持っている人は少数です。これは学歴とか職歴とか収入とは 無関係なんですね。 そういう思考力と並んで本当の自分の実力というものに体力というものがあります。この体力というのは つまりは筋力のことです。筋肉の力。もうひとつは先ほどの思考力という脳の力。このふたつが大事となり ますね。 それで脳力というのは、生まれでほぼ決っているかなというところがあります。つまり地頭が良いという人。 しかし体力や筋力というのは自分の意識である程度は鍛えることが可能です。 しかも筋力という体力は、鍛えれば必ず期待に応えてくれます。だいたい5ヶ月くらいが目安みたいです。 そして筋肉を鍛えるには年齢制限というものがありません。90になっても期待に答えてくれるそうです。 そして筋力と脳力は互いに高め合っているところがあり、筋力をつければ脳の働き、やる気も出てきます。 筋肉を鍛えるにはコツとして万遍なく全ての筋肉を動かしてやる、負荷をかけてやるのが大事といいます。 とくに大きな筋肉のある下半身の運動は大切です。それから少しずつでもいいから積み重ねていくのが 肝です。そうしていくうちにやる気が出てきますから。(笑) 占星術では筋肉とは牡羊座で火星です。そしてASCと第1室。ここに大きな凶星のある人は運動をしません。 そして病気になって治せなくなるんです。これは悲しいほどに運勢の通りになります。逆に吉星がある人は 好んで運動をし、そして体力に満ち溢れています。 私の場合は其処に吉星はないのですけど凶星もなくて火星もキレイです。それで運動は苦手なタイプなん ですけど、歩くくらいだったら運動センスは関係がなく、それで何とか歩き運動だけは出来ているようです。 そして占星術ではこの牡羊座とは筋肉であるんですけど同時に頭でもあるんです。脳ですよね。個人的レベル の脳なんですけど地頭に通じます。それで自意識的な脳を鍛えることにもなります。 (ちなみに脳には社会的・集団的な脳というのもあります)  私もそうだったんですけど、大抵の人は自分は運動ができている、歩けていると思い込んでいるのですが、 それはまだまだだったということなんですね。運動というか筋肉には体力や脳力を際限なく向上できる、 と言えば嘘になりますけど、本当に、自分が思っている以上に高める効果があると思っています。自分は これで十分だと思ってしまっている。しかしそれではせっかくのチャンスを逃していると思います。 とくに高齢なると筋肉量が低下しますので意識して運動をしていないとだめです。

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ポートレート撮影、つまり人物の撮影とは、写真としては最も楽しいもののひとつだと言えますね。 人と人との繋がりが出来るということで、これは単なる写真画像の生成行為を超えています。 シッポ座さんが昔から変わらずに人物撮影を続けてこられたというのは大変に納得のいく話です。 写真には他の人との会話が必要であるというのは私も常々感じているところです。 私は写真撮影としては人物の撮影はいたしませんが、撮影中は可能な限り出会った人とのとの会話を 優先しています。その場で話し込んでしまって撮影が疎かになるほどですが、気にはしていません。 最近は里山歩きオンリーですが、その山道の場でもすれ違った人達と話をしています。 実はその為にこそ、写真というか、カメラというものを道具として使っているところがあるんですね。 スマホではそういう話をする切っ掛けにはならないところがあって、私が手に大きなカメラを持っている という、その昔ながらのスタイルこそが、人と人との繋がりに結びついていく、という気がしています。 フイルムカメラには現代のデジタルカメラにはない伝統、トラディショナルなというものが存在します。 別の言葉では、オーラ、なんていう呼び方をする人もいますが、実用性を超えた文化というものを 具現化しているというのが大事なのでしょう。 それで思うに、デジタルカメラが出た時に、メーカーが気をつけたのはフイルムカメラの持つ伝統性を 壊さないようにしていたということです。 もっともメーカーによっては新しい奇抜なデザインでリリースしたメーカーもありました。コンデジ 時代のソニーなんかはそうでした。しかし最終的には各メーカーも伝統的なカメラのスタイルに収束して いったというところがあります。 それでやはり結局は、往年の一眼レフのデザインやライカのレンジファインダーのデザインなどに収まっ ていますね。 今改めて自分の持つカメラを眺めているのですけど、実に良くデザインされていますね。 ありとあらゆる機能を詰め込んでいて、その為のボタンやダイヤルなどが所狭しと配置されています。 中にはペンタックスやシグマなどのように、やや考えが足りないかなというメーカーもあるんですけど、 大体はどのメーカーも、不具合や不足感のないように、これでもか、という感じて経験値に基づき綿密に デザインされています。 この綿密な考察の結果がカメラのデザインに生かされているのであって、全くの素人さんが見ても敬意を 持って見てくれているというわけです。 私の場合、手に持ったスタイルというのカメラには完全性を保たせてやりたいという気持ちがあり、それで レンズフィルター、レンズフード、ファインダーラバー、ストラップ、そしてグリップ等をは完全に装備を しています。最近はストラップに凝っていて、取り外し可能なリングをカメラ本体とストラップの間に 挟むことが多いです。まあキラキラとしてイヤリングのようなものです。(笑) このストラップというのは、考えてみれば布製でありカメラで唯一の衣装であることに気づきます。特に 女性の場合はこのストラップを見るのかもしれません。 世の中にはレンズフードを逆さにしたままで平気で撮影をするっていう人もいますが、私は絶対にそんな ルーズなことはしません。それどころか、安っぽいカメラでも完全に正しく、装備やパーツを付加すると、 なかなかに立派に見えるものなんですね。 さらに自作でプロテクトラバーやテーピングも施していて、使いやすいように、傷がつかないように綿密に 化粧を施しています。 実用としても飾りとしても大切なのが自作のグリップです。そしてマウントアダプターというものもあり ますね。 ミラーレスカメラには、このマウントアダプターでフイルム時代のマニュアルレンズを装着すると価値が 高まったように感じられます。つまりは伝統性を獲得できるからだろうと考えています。 縦位置グリップは普通は純正を使用していますが、グリップがないモデルもあります。そういう場合は 自作グリップとなります。私は常にカメラを手に持ったままなので左手で持てるグリップは必需品です。 カメラマンという私と他者との間にはカメラという道具が介在します。私は出会った人の写真は撮りません けれど、この二者の間にはカメラというものが介在しているという自覚があります。それで可能な限り、 カメラは綺麗に正しく見えるほうが良いのではないかと感じています。 シッポ座さんがポートレート撮影では新品のフイルムを使う、というのと同じ感覚だといえますか。 ストラップの話の続きですが、昔はメーカーが違っても平気、というところがありましたが、最近はボディ のメーカーとストラップに書かれたメーカー名を統一しています。純正に出来るだけ近づけています。 この感覚は、旧車の車好き人が可能な限り、オリジナルパーツに拘るという感覚に似ていますね。 車好きの人も、最終的には自分の車を人に見せて、それで皆が喜んでもらいたいという気持ちになるそうです。 若い時は自分勝手に改造をして自分だけがスピードを出して喜んでいた人が、歳を重ねると皆に楽しんで もらえる文化財のようなものを、自分が単に管理しているだけなのだろうという境地になるのかもしれません。 これは面白い現象ですね。 ただ写真画像が撮れればそれでいい。というのとは違う、そういうのとは異なる価値観で、カメラという ものを手に持って、人にも喜んでもらい、そして大切に使っていくというのが大事なのじゃないかと思ってます。 今はもう、新しいカメラや機材を買いたいという気持ちは無くなっていて、手持ちの機材を使っていく、 というだけでやっています。 こんな具合で、いうなれば、カメラ・写真機という写真文化というものを大事にしていきたいといことかも しれませんね。私は改めてカメラやレンズというものを再度見直しているのかも知れません。 そして写真とはどういうものなのか、ということにも繋がるわけでして、やはり写真というものも結局は 人と人との繋がりのなかで生まれてくる何かなのだろうと思っています。 写真なんて結局はカメラという道具が撮るのであって、人が介在する部分なんてわずかです。 写真が上手い、なんていうのは車で走って自分は速いぞとかいうのと同じで、車がなければ自分の脚で走って 歩いて、それでお前はどこまでいけるのかという問いかけみたいなものです。車から降りればよぼよぼの 足取りでは様にならんじゃないですか。(笑) 最終的にはカメラなんていう道具がなくても写真ができているというのが大切なわけです。それであっても やはりカメラや写真というのはけっこう面白いもんだよ、ということでカメラを持って歩いている、また カメラを構えてポートレートで人を撮っている、というのが正解なんじゃないですかね。 こんなことを書くと、何だか枯れた考えのように思えるかも知れませんね。 しかし自分の体力を鍛えるために山歩きの道具としてカメラを利用するようになって、随分と考えが変わった ように思えます。 最初はただ歩くのは辛いわ、やはり撮影ということでやりたい。そしてカメラを持つならば体幹も鍛えると いうことで、重さのあるカメラこそが正解だね、という理屈になりました。(笑) そして何よりも山で出会った人達が意外にもカメラに関心を示してくれたこと。写真に関心のある山歩き の人っているんだなということ。そしてそういう人達とお話ができるのは、自分が手に持ったカメラでは なかったか。という気づきがありました。 そこには本当に原初的な写真という道具のもつ精神のようなものがあるのではないかと思ったわけです。 私が若い頃、最初にカメラで写真を撮ってみたいという、そういう原初の精神の芽生えのようなものです。 建前として私は今、自分記録として写真を撮っているのですけど、本当はそんなものどうでもよくて、 写真というものをする心の躍動を、自分は再び手にしているのではないかという、そういう単純な喜びで カメラを持って歩いているような気がしてならないのです。 シッポ座さんが生きいきとポートレート撮影をする気持ちを伝えてくれました。それから私も大いに触発 されたように思えます。写真とはやはり人なんですね。人との出会いであり繋がりなのだと思います。 まあ、AIではやはり無理だとおもいます。(笑) ※前回の投稿で、私が最初に使ったのは友人のペンタックスSPFと書きましたが間違いでした。SPFの前の SPです。ただ友人は後でSPFも買ったので混同してしまったようです。 ※投稿写真はソニーα100とコニカミノルタα7です。もう20年以上も前のカメラですが、まだ使えます。

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ペンタックスSP-F https://one-scene.com/products/221?srsltid=AfmBOorjhXYfhC-_MN9AoevFu8CgkAMW2eQ8Izsl73xLPNR35baUH0Wh このカメラ、実は私にとっても始めてのカメラだったんですよ。 ただし私のカメラではなくて友人が始めて買ったカメラだったんですね。そのカメラをずうずうしく使わせて もらっていました。 友人の家は金持ちとというわけではなかったでしょうけど、ひとり息子で大事にされていたので、こういう 高級機を新品で買えたわけです。(笑) 他人のカメラを使わせてもらったということでは、先輩のカメラのニコンFフォトミックもそうです。先輩は 写真学校に入学したものの結局は退学して、このニコンを持っていたんでしばらく私が使いました。こっちが 本当の高級機だったんでしょう。その先輩は苦労人の人でしたね。なぜか私を可愛がってくれて、私も先輩 から随分と学ぶことが多かったです。九州熊本の出身でした。 話は前後しますが、私が最初に購入したのはキヤノンFTの中古機です。少しフイルム送りが弱かったですけど 長く使いました。 当初はミノルタのSRTなんかを買うつもりだったんですが、店頭に並んでいたキヤノンを見てすぐさま気が変わり キヤノンに。そういういい加減な気移りは歳をとった今も続いています。(笑) そのキヤノンも後輩に譲り、私が新品で購入したのはオリンパスOM1ですか。このカメラではスナップ写真が 撮りやすかったのを記憶しています。私が最高の写真であると思っているショットも、このオリンパスで撮り ました。そのカメラも後に友人に譲りましたけど。 その後は写真よりもカメラ趣味に行って、キヤノンF-1とかニコンF2なんかを使ってましたけど、そう良い写真 は撮れなかったと記憶しています。 結局、フイルム写真は10年ほどやって、最終的には全てのカメラは手放し、写真を撮らない期間が長く続き ました。それで20年ほど写真趣味から遠ざかっていたブランクがありましたね。私がフイルム写真をやって いたのは黒白フイルムであり、自家現像もしていたわけですが、最後のほうは現像所任せになりましたね。 たまにリバーサルフイルムでも撮りました。ネガカラーはほとんどやってないです。とは言えそれなりに 撮ってはいたんだと思いますが。無論すべて現像所出しです。 今となっては随分と大昔の話になりましたね。十代末から20歳代末までの10年間、自分がフイルム写真を やったという記憶はあまりにも遠い出来事のことなので、懐かしさを通り越して、今では異世界のことの ように感じられます。(笑) 写真趣味を再開したのはデジタル化になってからです。当時パソコンに夢中になり、スキャナでフイルムを 自家プリントできるようになってからです。そうするうちにカメラもデジタル化をしてしまいました。 コンデジからデジイチへと。どっぷりとデジタル写真に浸かってしまいましたね。 シッポ座さんが今でもフイルム写真を大切にしておられるのを見るにつれ、それは私にとっては自分が 若かった時期を思い起こすわけで、今も大いに刺激になっているところがあります。 それは半世紀まえの出来事であるわけなんですが、当時も現在も同じ私という人間であるわけです。それは きっと繋がっているはずなんですね。(なかなかそうは感じられないところがありますけど(笑)) 残念ながら今の私にはフイルム写真を復活することは不可能です。それで精神的な心の思い出だけになる わけですけど、当時のフイルム写真の精神だけは決して忘れてはいけないと思っています。 例えば黒白デジタルカメラを使ったこともそれだと思っています。とは申せ黒白フイルム写真と黒白デジタル カメラとは全く別のカメラで写真であって、次元はまるで違うんですけどね。 今の私は単なる高齢者の一人であり、なぜか今も写真趣味を続けているだけの人間ですね。 先日、カメラを持たずに長い浜を、波打ち際を歩きました。香川でもそういう砂浜がまだ残っているわけです けど、20代の若い自分を思い出して仕方がなかったですね。そして自然の彩にも深く入りこみ浸りました。 多分カメラを持っていればそういうノスタルジックな感傷には多少はセーブが掛かったでしょうけど。 私は今、カメラを持って里山歩きをしていますけど、山歩きではこのような感傷に浸ることはありません。 しかし安全な砂浜とか海岸の道路とかを延々と歩くと、色々と思い起こすことが多いのですね。そういう 感情の波というのがやってきます。言い方を変えれば雑念とも言いますか。しかしカメラを持てばある程度 はそれを防ぐことができるようです。 これが里山歩きだと、これは多少は危険が伴いますので雑念はあまりないです。むしろ無我という感じに なるんじゃないでしょうか。静かな海と山では随分と違います。なお海岸でも磯となると危険度が高いので 里山と同じ感覚になります。 過去の感傷に浸ることではなくて、あくまでもフイルムで始めた当時の写真精神というものを思い起こし、 それを繋いで行きたいなと思っています。 例えば写真を撮ってもパソコン画面を出来る限り遠ざけるというのがそうです。そうなって来ますと、 写真は撮りっ放しになるんですが、デジタル時代ではそれは仕方がないことだと考えています。モニター は見ない、というのは、考えて見ればフイルムカメラにはモニターはなかったわけですし、パソコンも ネットもなかったわけですよね。 可能な限りフイルムカメラ、フイルム写真の精神に近づけようと思うと、今私がやっているように、 カメラ一台にレンズ一本を付けて、記録写真的に撮っていくというスタイルになってくると思ってます。 デジタルでフイルム写真的にしようと思えば、たとえばミラーレスカメラにフイルム時代のマニュアル レンズを着けて、じっくりとモニターを見ながら撮影し、そしてパソコンでも綿密に現像する、という のが普通の感覚かも知れませんが、それだとデジタル時代の弊害であるモニターの罠に嵌まってしまい ますね。 しかしそれは行き詰ります。そしてそれはフイルム写真の精神ともまるで違います。私はそういうのを 散々とやって、それは間違いだと気づいたわけですね。 そんなわけで、デジタル時代において、フイルム写真の精神を再現しようと思えば、まるで違うアプローチ をしなければならないと悟りました。 デジタル時代。今は全てがそれです。最近はAIともなっています。無論デジタルですね。 それで本当にいいんですか?という問いが私にはあるわけです。 しかしもうデジタルがない時代には戻れません。ですから否定はできないわけで、それではデジタルの 何が問題なのか、どう工夫をすればデジタルの弊害から逃れられるのか。そういうことを考えなければ ならないだろうと思っています。 そういう問いかけの私なりの結論として、私が今やっている里山歩きの撮影というのがあるというわけ です。里山歩きが好きだからやっているわけではないんですね。写真精神を取り戻そうとしてそうなって いるだけなんです。 --------------------------------------------------------------- いま取り組んでいる五色台ですが、かつてのカルデラ火山が大本になっているのがわかりました。 コールドロンとも言いますが、1400年前の瀬戸内大火山活動の時期に形成されたカルデラ陥没地形に 溶岩が埋まり、それが五色台というメサ地形の源流になっているとのことです。 実は古代カルデラ跡は香川には他にも高松クレーターとか三豊カルデラとかがあるんですが、もう ほとんど形態が分かりません。残っているものがあまりない状態ですが、この五色台は、いかにも という山になってます。小型のカルデラだったみたいでそれで今でも雰囲気的に分かるのだろうと 思ってます。 四国では他に石鎚山山系が古代カルデラの面影を残しています。カルデラの外輪山がいまでも残存 しているわけで、本州で有名なのが群馬と長野の荒船山が知られています。 なるほど、古代のカルデラだったのか。それで私が抱いた疑念が氷解したというわけです。 他の香川の里山とはまるで違いますからね。普通のメサ台地とは違っていてそれらの集合体という 感じですから。そういうのは他にはありません。 五色台新聞 第2版PDF https://www.pref.kagawa.lg.jp/documents/61322/goshikidai2map_1.pdf 火山学者に聞いてみよう -トピック編- https://kazan-g.sakura.ne.jp/J/QA/topic/topic12.html

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講談社ブルーバックスの「山に登る前に読む本」能勢博著、という本を読みました。 山歩きの効能というものが科学的に綴られているんですが、まあ当たり前のことを書いている わけですけど、あらためて今の自分の里山歩きが正しかったのかなと確認できました。 こういう本は多数出ているでしょうけど、この本では一応、5ヶ月ということで試験されて いました。医学的にはそういう数値があるんだということでしょうか。 私はまだ3ヶ月余なのでもう少し経つと体調は安定期に入るんじゃないかと思ってます。 香川ではもう梅雨は明けたので大分暑くなりました。これからが暑さは本番になるんですが、 自分の体力が強まれば暑さをあまり感じなくなるらしいです。筋肉量や血液量が多くなるので 暑さに強くなるとか。 最近は香川の五色台というメサという卓上地形の山を登ってます。標高300から400メートルの かなり広大な台地です。香川の里山はメサ地形かビュート地形かのどちらかなのですけど、この 五色台ほど広域な面積をもつメサ地形は稀です。 香川の山は気候上大体は乾燥していて台地は枯れているはずなんですけど、ここ数日降り続いた 雨で全山が水浸しでした。登山道はすべてびちょびちょでした。そこらじゅうに即席の沢がで きていて大量の水が流れているしまつ。地元の人に聞くと、こんなことは滅多にないとのこと。 頂上部は台地上で平らなので中々水は排出できないみたいですね。香川の他の山ではありえない わけで、五色台が特殊であるのがよくわかりました。 歩きにくかったですけど良い体験になりました。 投稿写真はその台地から流れでる滝です。 ネット上に動画もありましたのでリンクします。 https://www.youtube.com/shorts/L2HS2uVKqpQ 里山を登るにつれ、自分はあまり地元を知らなかったんだなっていつも感じます。この五色台 もそうでして、実際に自分の足で歩いてみると、その大きさに驚いてしまいます。車ですっと 走るのと歩くのとでは大違いです。やはり自分の脚で歩いてみて初めてその大きさが掴めると いう気がします。 そういうのは日本列島を飛行機とか新幹線、高速道で走るのと同じで、あっという間に現地には 着くのですが、その距離感覚は本当は正しくはないですね。 登山での醍醐味はやはり縦走になるのだろうと思います。縦走とは単発登山ではなく連山を 続けて歩きとおすことですが、香川の里山でもそういうコースが多々あります。最低限一日中は 山のなかということなり、日常とは別世界に自分がいるのだと感じることができます。 おそらく多くの登山愛好者はそれを感じたくて深く山に登るんではないでしょうかね。 私の場合はあくまで、体力を増進したいということで里山歩きをしていますから、そういう 異世界を感じるまではしていないのですが、なんとなく分かるようにはなりました。 私はカメラをもって山に入ります。考えて見ればそのカメラというのは、自分が完全に山に没入 するのを防ぐ役割もあるんではないかと思うようになりました。つまりあっちの世界に行って しまうのは恐いという気持ちがあります。山人になりきれない自分がいるわけですけど、それで いいんじゃないかって思ってますね。 そしてカメラはもう一つの役割として、今度は日常の平地の暮らしに完全に溶け込んでしまうのも 防いでくれるのではないかと、そういう考え方もできます。自分と世界の間に、ひとつ挟むという ことで、カメラはそういう装置や道具になっているんじゃないかって感じてます。 常に冷静でいれる自分をカメラというものが作ってくれるのではないかと。 最近、カメラというのは中身の性能とかそういうのではなく、やはり大きさが物をいうのでは ないかと本気で感じてます。カメラもレンズもある程度の大きさや重さという物理量が必要なの だと。スマホがいくら高性能になっても、そういうカメラの役割はできませんね。スマホは小さ すぎて防衛する盾にはならないのです。 カメラの本質は心理的な盾であり矛ではないかということです。対自然、対社会、対人間として 自分とそれらとは一定程度に隔てるためにカメラというものを持つ。 本質的には刀剣とか銃器とかと変わらないのではないかと感じます。そして面白いことにイノシシ にはカメラが立派に通用するのです。スマホやコンデジではイノシシには舐められますが、 大きなカメラを持っていると逃げ出してくれます。(クマには通じませんので注意) カメラは性能やブランドや価格が優位で、大きさなんてのは関係ないと皆さん思っているでしょう。 むしろ小さくて軽くて高性能なのがよいと。しかし実際は違います。三脚と同じで大きくて重い のが良いのです。なによりも精神的に安心ができますから。 そもそもカメラという道具は本質的に精神的なものなのです。だからある程度の大きさと重さが 必要なのですね。

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里山歩きをして、3ヶ月余。だいぶ体力が付いてきたような気がしてます。家のリフォームを再開 しています。今までやる気が出なかったんですが、筋肉が強くなると、そういうやる気が出てくる みたいです。 それにしてもこの3ヶ月、皮膚に出来物や蕁麻疹が出て大変でした。特に脚、脚部。ふくろはぎ などと特に。こういうのは元の弱った筋肉が死滅して新しい強い筋肉で生まれ変わるから、そう なるんだとおもってます。今も右のお尻に出来物と右の耳たぶの腫れが出てます。 当初より私自身の考え方も大分変わりました。最初は、とにかく歩こうや、から、いや傾斜のある 山道でなければ。となって、さらには、意識して筋肉を鍛えなければ、に変わりました。 それから、山道で出会った多くの人達から有益な話や知識を得たというのも良かったですね。 中には凄い人もいました。レベルがぜんぜん違うなあという人。そういう方が居るというだけで 励まされます。 ただ里山歩きをするのではなく、カメラを持って歩いたというのも大変に良かったと思います。 そのカメラが、出会った人達との話のきっかけになったわけで、無駄なものではなかったなあって 感じてます。 何度も記しましたが、大体2キロから3キロのカメラをずっと手に持って歩いてます。カメラは 大きな光学式デジイチで、必ずバッテリーグリップを付け、レンズは大型のものをつけてます。 きちんとフードや幅広ストラップを装備です。交換レンズは基本持ちませんが、他の人の眼には カメラマンとしてきちんと正装をしているな、と分かるでしょう。スーツにネクタイという感じ でしょうか。 でも山歩きの服装としてはいい加減なんですね。まともなのはトレッキングシューズだけ。 普通のズボンにワイシャツ、野球帽に肩掛けバック。これ、山歩きの服装じゃありません。(笑) しかしカメラだけは奢っている。 実際とのところ、素人目には立派なカメラに見えますけど、本当は古い機材であり経済的な 価値はゼロみたいなもんです。だいたい皆さん高そうなカメラを持っているように見えている のですが、実際はそうじゃないです。しかしカメラは重く、身体にはこたえます。これを 評価してくれることもあるでしょう。 しかし他人にどう見えようとも、私としてはカメラがなければ山歩きが出来ません。これが 絶対的な前提となっているので、どうしても歩きにはカメラが必要なんですね。

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香川県坂出市五色台の稚児の滝。 五色台は県内随一の広大なメサ地形で、標高300m位の頂上が平坦な山並みが続く台地です。そこから 流れでる滝ですが、けっこう落差があって40メートルくらいの落差があるんでしょうかね。ちょうど 南米ギアナ高地のエンジェルフォールのような成り立ちの滝です。規模は数十分の一ですけど。(笑) 遠くから白糸のような筋が見えて、もしかしてあれは滝かいな?と思い、近くに行くと、オキャーマから の若いお兄さんの登山客がいて、ちょうどスマホで滝の上り口を探しているところに出くわしました。 その兄ちゃん、本格装備がないと登れへんで。と言ってたのですが、さて現地で見るとそんなに大した ことはないようなのでカメラ片手にするすると登ってみました。大昔の登山道が僅かに見られる程度の 道なき道でしたが、ゆっくりと撮影しながら登っても30分くらいで、大滝の真下に出ました。 水しぶきを浴びながらの撮影です。涼しかったですよ。 岡山の兄ちゃん、諦めて帰ってしまったけど、スマホ情報に頼りすぎるのも考えもんやで。実際に現地で 自分の目と足で確かめなくては。(笑) ここ3ヶ月ほど、里山を徹底的に歩き続けている私です。どこまで自分の足腰を鍛えられるか、そういう 気持ちでやっています。装備なんてほとんどなし。普段着姿での、靴だけはトレッキングシューズで。 そしていつものように野球帽で片手に2キロ程度のカメラを持つ。肩掛けの小型バッグにはペット水のみ。 ただこれだけでは上半身や体幹の鍛錬が不足するので帰宅後、自分なりにフイットネスもやってます。 筋力こそが健康と体力を支える最適の道であるとの自覚を新たにし、自己流で肉体作りに励んでいるわけ ですが、最近思うに、2キロのカメラでは軽すぎ、4キロ程度のカメラを持つべきか、と考えています。 しかし4キロオーバーのカメラとなると、望遠ズーム付きとなります。そんなもので山に入っても野鳥に 関心がない限り撮影するものがありません。 普通の風景などを撮る限りにおいては、標準から広角となるので、3キロのカメラまでなんですね。 ともかく、現在の私のカメラに対する価値観の基準は、重量一択である、というわけです。使いやすい とか性能が高いとか、そういうのは私の脳内カメラ基準にはありません。軽薄短小のスマホ時代において、 時代錯誤的な重厚長大カメラを私は求めています。(笑) 2キロから3キロの重さにするには、光学デジイチでもってバッテリーグリップ(場合によってはリチウム 電池の代わりに鉛塊を仕込む)を付け、大型レンズを付けると、だいたいそのくらいになります。軟弱な ペンタ&ミラーの無いカメラでは達し得ません。 それから不思議に、こういう時代錯誤なカメラは、里山歩きをされている方々には大人気なんですね。 そもそもスマホ以外の本格カメラを持って山を歩いている人がいないのです。これ、本当です。 ただ、野鳥撮影をされている方がニコンの高倍率コンデジをもっていました。それからドローン撮影を されていた人も。しかしそういうカメラの人は一箇所に留まり、常時に山を歩くというスタイルでは ないですね。 里山歩きをされている方は、そもそも山歩きが好きで、加えて自分の健康維持の為に山を歩いています。 しかし私は純粋に山歩きが好きな人間ではないのでカメラを持たなければ山歩きはできません。 それでも山歩きが趣味の人達と同様な歩き方をしたいというわけで、カメラ片手に里山を歩いています。 嬉しいことに、出会うたくさんの方々からアドバイスを頂いています。。 そして四国にはクマもいません。安心して山に入れるということではこの上ないことですね。 そして少し気になるのは、写真が趣味の方は、自分の写真趣味がどれくらい自らの健康に役立っている のかの、そういう自覚が果たしてあるのかな?ということです。 山歩き趣味の方は100パーセント、自分の健康への自覚を持って歩いてます。半分は自然に接するという 自らの趣味のため、残り半分は健康維持と体力保持のためだと、皆さん口を揃えて言っています。 では写真趣味の人は? たぶんあまり自覚はないのではないかと思うところがありますね。なんとなく、 という程度ではないですか。 あまり健康への自覚がないままで写真趣味をされているのならば、まだまだ余裕があるのだな、という ところです。 でも私の場合は、体力を失ってしまって、それで写真趣味を里山歩きの為の手段だとして、健康増進へと 全振りをしています。 綺麗に撮ろうとか、じっくり撮影しようとか、そういうものは一切なし。歩きのスピードを落とさずに 撮影をしています。ですから全くの記録撮影と割り切っています。交換レンズも持参していませんから。 そして撮影した画像は基本、ぜんぜん見ません。 そんなわけで、皆さんも、もし最近ちょっと健康具合や体力が落ちてきたかな、とかがあれば、趣味の 写真を使って体調を持ち上げることが可能です。

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里山登りだけが足腰を鍛えられるということではないのです。特に体幹を鍛えるということでは海浜の岩の 磯場が格好のトレーニング場になります。心肺機能や有酸素運動にはなりませんが、足場がとても悪いので 身体のバランスをとらなければなりません。それが体幹の鍛錬になりそうですね。 そういう場合でもカメラを手に持ったままで岩を伝い歩きする。 岩場は標高2000メートル以上山岳でなければなりませんが、標高ゼロメートルでもその醍醐味を味わえると いうのが嬉しいですね。引潮時を見計らって半島や小島を周遊する。大潮だと最高です。しかし潮の加減を 見極めないと海水の中を歩くことになるので注意。(笑) 香川ではそういう磯場も数多くあるので恵まれています。そして潮の落差も大きいのでなおさら。 体幹トレーニングは体操として、ネットなどで容易く学ぶことができます。しかし面白くないんですね。 やはり野外の自然の中で、結果としてトレーニングになることをしたいです。 杖を使って急傾斜地を登ることも考えています。長めの太い杖です。既に自作していて、先には金属を仕込 んでいますので、そういう杖を使ってロープは使わずに登るのです。さすがにカメラ片手とはいかないので カメラはリュックに仕舞い込んで。 木登りはどうかな?とも考えるのですが、さすがに難しそうです。山には大木は無数にあるわけですが 難易度は高いです。滑落すれば怪我をしますしね。 トレイルランニングというのもあるんですが年齢的に流石に無理でしょう。それにカメラは持てなくなります。 まあ色々と考え工夫をしながらやっていきたいですね。 やはり私としては写真を撮ること結び付けていかないと山は歩けません。カメラなしで、となると興味を 失ってしまいますので。 やっぱりカメラ片手に。というスタイルが私には向いています。カメラは基本、2キロということにしていて、 それでそれに満たないカメラ、ペッタックスなどかそうなんですが、それでバッテリーグリップに鉛を仕込み ました。それで2キロになったのでこれからペンタックスも使えるかなって思ってます。 カメラはキヤノンとかニコンとかは、他の登山客には人気がないんですね。ペンタックスとかオリンパスが 人気です。これ、何ででしょうね。多分、キヤノンやニコンを使う人は無粋なところがあるのを普通の人達 は見知っているからかもしれません。無粋というか何というか、プライドが高すぎて、取っ付きにくいと感じ ているのかも。(笑) それで素人然としたペンタやオリンパスが親しみがもてると、彼らは感じているのかもしれません。 キヤノンやニコン・・・取っ付きにくい。ハイアマチュア御用達のカメラだと見られている。 ソニー・・・やや親しみが持てる。 ペンタックスやオリンパス・・・特に親しみが持てる。人気のカメラ。 パナソニック・・・地味。 シグマ・・・意味不明。 まあ、こんなところでしょうか。 そして私の場合は2キロが基準値となるので、ミラーレスカメラはレンズを大きくしても難しいですね。 やはりデジイチの光学式が向いています。とくにフルサイズ・デジイチです。ペンタプリズムがないと 重量が稼げないといいますか。 こういうカメラの役割は、他の登山客とのコミュニケーションツールとなるわけです。メーカーはともかく、 大きなカメラボディに大きなレンズ、フードもきちんと付けてるし、バッテリーグリップも装着している。 ストラップも幅広のカラフルで。 自分としては鉄アレイのつもりで持ってるところがあるんですが、登山客の方々は私が写真趣味の人間だと 思ってるわけですね。実際は違うんですけど、そうは見られない。 写真趣味の人が見れば、古臭い光学一眼レフで時代遅れだなって一発で見破るわけですが、山歩き趣味の 人達には、そういうのは分かりません。と言いますか、写真趣味の人達は里山歩きなんかしませんしね。 高倍率ズームのコンデジで野鳥を、という人は見かけましたが、歩いてはいませんでした。

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67歳で女性初。死後に明かされた歩いた理由。 グランマ・ゲイトウッド アパラチアン・トレイル単独踏破【地図とアニメで解説】 https://www.youtube.com/watch?v=pdc2280wFxw アメリカにはこういう世間に影響を与える有名な高齢者が多いみたいですね。 軽装登山ということで多いに参考になりました。 私も相変わらずカメラ片手に里山を歩いてます。今回意識して里山を歩いて、もう2ヶ月半になります。 3ヶ月で体調は変わってくると思ってますので、もうちょいの間、日程を詰めて歩こうかと思ってます。 里山にも色々とあって、人気の山は必然的に出会う人が多くなり、情報収集になります。あまり知られて いない里山は道も悪くて出会う人も皆無というのもあります。人には出会わなくても自然には出会える わけで、それはそれでよいものです。 ところで自分の筋力がどれくらい付いたのかなと思い、とある急傾斜で知られている里山に登りました。 標高は300mくらいですが急傾斜の部分は200mほど。事前に里山愛好家の方に聞くと、香川では登坂が きつくて有名で、ほぼ直登で全線ロープを張ってるとか。私のようにカメラ片手ではむりでしょう。と 言われました。しかしロープを張ってくれていれば片手でも登れるんでは?と思いましたけどね。 それで実際に登りましたが、問題なく片手ロープで登れました。2キロのカメラは左右の手に交互に持ち 変え、空いた手でローブを。でも可能な限りロープを握らずに登りましたけど。 正直言って拍子抜けするほどだったんですけど、でも私としてはそれは想定内でした。ほとんどの登山者 は手ぶらか、もしくはストックを持って登ります。腕の腕力と体幹が鍛えられていないだろうと思って いたわけですね。しかし私はそうじゃない。つねに2キロの重りを持って歩いているわけですから。 そういうわけで、カメラ片手の里山歩き、効果はありました。 片手カメラの撮影スタイルは、私が写真をやり始めてからずっと続けている習慣です。バックには入れない。 肩には掛けない。ずっとむき出しのカメラを左右の手に交互に持ったまま、そういうスタイルでずっと 通してます。

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【男も女も筋肉がすべて】「これ以上若返る方法はない!世界最強の無敵の若返り法がコレだ!筋肉が全て——健康・不老・メンタル、人生のすべてが変わる唯一の方法」を世界一わかりやすく要約… https://www.youtube.com/watch?v=vUcZQOfTc_4 少し前に山間部にある大型ショッピングセンターほどの大きさ広さがある建物を、山の上から遠望し気になって、 それで後日その場所に行ってみました。なんとその施設はスポーツジム(温泉施設も併用)だったんです。広い 駐車場とサッカーコート、テニスコートなど野外施設も付随しています。 野外施設には人はいなかったけれど(野球場に中学生がしたくらい)、入館してみた建物施設内は利用者でいっぱい です。平日でしたが卓球場では満員状態。人々の年齢は様々です。そして駐車場には次々と車が入ってきます。 若い主婦から高齢者も、年齢層は多様。 おそらく野外施設の広さ、そして建物の大きさからして、施設全体は自治体が所持し、運営は民間に委託していると みました。利用料金は低めに設定されているはずです。 山の上から見た違和感は、その場に行ってみて驚愕に変わりました。これほどの多くの人々が、ただ運動をする為に 辺鄙な山の中の施設に押し寄せている。ショッピングセンターだったら、こんな不便なところだと買い物客は敬遠し、 店舗はほどなく閉店するでしょう。しかしスポーツジムだったら盛況になってしまう。 そうか、今はそういう時代なのかと、妙に納得してしまいました。 私は最近努めて近隣の里山にカメラを持って遊山しているのですが、昔の記憶と違って登山道は綺麗で、そして すれ違う人々、出会う人達はかなり多い気がします。10年くらい前とは随分と違います。 そして多くの方々が、ご自分の健康維持の為に山を歩いているということです。 健康の維持ならば冒頭のリンクのように、筋肉を鍛えることですから、ご自分で自宅で一人でもできるわけですね。 少し広い部屋を用意できれば、大した器具もなく自分でメニューをこなし身体を鍛えることができます。 とは言え、それはなかなか難しいということです。一人で黙々と筋肉運動をするのは辛いですし、だいたい直ぐに 飽きてきてしまいます。それで大勢が集まるスポーツジムだと交流も出来るし、皆で球技等を楽しむこともできます。 そういう具合に、楽しくやれないと中々身体を鍛えるということは出来ないということでしょう。 里山歩きはスポーツジムと違い、一人でもできます。ご夫婦でも。これは周囲に自然というものがあるからだと 思っています。皆とわいわいがやがやとするのが好きな人はスポーツジムに通い、一人で自然に囲まれたい人は 山に入ればいい、と言うところでしょうか。性格的に集団志向か個人志向か、といったところかも。 私の場合はそのどちらでもなくて、そもそも運動は好きではないタイプです。一人で本を読んだり、何かを作ったり するのが好きなのです。しかしそうは言っていられないわけで、特に年齢が重なると筋肉や運動習慣が死活問題に なるというわけで、努めて身体を動かし筋肉を鍛え続けていかないと持たないということがわかりました。 そこで私の場合はカメラや写真といった道具を利用することになりました。カメラさえ持てば苦しい山道も平気に なる。手ぶらで山登りをすることは私には出来ずで、カメラを持ち写真という道具の駆動力で山に入って歩き続け ることができるのです。 それはちょうど、勝敗というスポーツの醍醐味が好きで、それでスポーツに打ち込み結果的に苦しいトレーニング もできてしまうということとよく似ているのでしょう。つまり人間は何かに楽しんでいかないと、筋肉や心肺機能 という苦しいことはできないのだろうということですかね。 私の場合は山の頂上に登って、その達成感に満足するという、普通の登山愛好家のようなものがありません。 次々と山を制覇してその達成感を得るという気持ちはゼロなので、ただ単に山の自然な光景を巡り合えること だけが楽しみなのです。 スポーツのように互いに競って勝敗の感激を得るというのもありません。私にはそういうのは子供じみたものに しか見えません。そういうような無感動な人間が身体を動かし続けるのは、もっと別なものが必要になってくると 考えています。 それは何かというと、新たなものへの発見や探究心といってようなものかもしれないと思っています。カメラを 持てばカメラの眼になってそれができる。 登山趣味の人と偶然に出会い同行して山に登ることがたまにありますが、彼らは周囲の光景には目をくれません。 すたすたとひたすら登山道を登るんですね。なのでペースは速いんですが、でもこの人は何のために登っている のかと思いたくなることがあります。 考えて見れば私の場合は常にきょろきょろと見回して脇見ばかりの歩きなんですね。最近は登山道に落ちた枯れ枝 を清掃しながら登ることも。単に風雨で落ちた枝葉を脇にどけて道を確保するだけなんですけど、それだけで 気分は良くなります。 登山は計画的にして装備も充実して、と良い言われますが、私は登山をしているつもりはないので、持参するのは カメラだけ。靴は登山靴ではなく簡易なトレッキングシューズで服装は普段着。帽子は野球帽。雨が降れば濡れるし、 ザックは担がなくて、ただ小さなバックのみ肩がけ。入っているのはカメラグッズと水筒のみ。その水筒も夏場 以外は持ちません。登山趣味の人から見れば完全に山をなめている格好ですが、山育ちの自分からすれば、 たかだか数百メートルの山では何のことはないと思っているだけです。 だいたい登山グッズやウェアはびっくりするくらい高価です。確かに3000メートルくらいの山になれば装備は 必要でしょうけど1000メートルまでしかない香川には必要がなく、ましてや数百メートルの里山では普段着で十分 というのがあります。 とにかく手軽に里山を登ることが大切です。 そしてここで大切なことがあって、香川にはクマがでないということ。出てくるのはイノシシ、サルくらい。 そして気をつけるのはマムシとスズメバチ。イノシシとサルは向こうから逃げてくれますし、最近はイノシシも 捕獲体制が整い、随分と減少してます。なお、最近は以前のようにマムシを含むヘビそのものが激減している 感じです。多分イノシシが食っているんでしょう。 それで山は安全というところがあって(くくり罠には注意)、クマが出没する本州とは事情が違いますね。クマが 里山まで出没するとなると事情はまったく異なってきます。私にはどうしてよいか分かりません。 そもそも、もう里山にすら入れなくなるかも知れませんね。山が好きな人間にとっては、コロナ禍以上の非常事態 です。 とにかく香川にはクマはいないし、四国でもクマはわずかな生息数です。人的被害はゼロ。そういう恵まれた 環境にあります。クマなし県は千葉県もそうらしいです。九州は全域大丈夫。四国でも剣山系の一部のみ。 クマの被害はネット上で多く見られ、私もよく視ていますが、とんでもないことになっています。 歩きは、特に傾斜地の歩きは足腰を鍛えます。しかしそれだけでなく、最終的に体幹を鍛えることが健康には 直結します。その体幹訓練のための歩きをするのが理想的で、それで私はカメラをずっと手に持ったままの歩き をしています。 これはかなり効果があるような気がして、例えば香川の里山には急傾斜地ではロープを張ってくれていたりと、 また樹木を掴んでの登山になる場合が多いので、そういう場合は体幹がものをいいます。身体をねじって腕を 引き寄せたり、大またの足運びをしたりですね。 そういう全身運動の場合は、常にカメラを手に持った習慣がものをいうようです。 私はストックは持ちません。もしもの場合は枯れ枝を杖代わりにしてます。用が済めば捨てられるわけです。 そしてカメラを持っているということは、そのカメラの重さを利用した歩きになるので、私は勝手に三足歩行 と称しています。体は常にねじれた状態で歩くことになり、体幹が強くないとつらいわけです。 この体幹訓練としてちょっと重めのカメラを常に両手に交互に持っての歩きとなっています。 この話はもう何度も書いているわけですが、効果は非常に大きいのではないかと思っています。 登山に於いて避けなければならないのは、一つは道迷い。そしてもうひとつは滑落です。そして滑落をする のは体幹ができていないから、と考えています。私もよく登山道で滑って転ぶときがあるのですが、すべって 転ぶのは問題がないです。お尻から落ちるので怪我もしないですしね。服が汚れるだけ。 しかし滑落は道を外れ崖から転落することなので極めて危険です。 滑落の根本原因は身体の重心を下げることがとっさに出来ないことから起きるので、体幹の柔軟性と筋力 が不足しているからだと考えています。足だけで突っ張ってしまって体の重心を下や斜めに移動できないから 滑落するのであって、その本当の原因は、登山者は足腰は鍛えられているけど、体幹が疎かになっていると いうところに求められると考えています。 ストックは軽すぎて体幹を鍛えることができません。そして大きなザックを背負っているのも身体の 柔軟性を阻害してしまいます。背負い方の問題もあると言います。 体幹を鍛えるのは転落防止だけでなく、実はここが鍛えられていると通常の健康度が上がるというのが本当の メリットだといわれます。私の場合も健康と体力が大きく落ちたから今、山に登っているわけで、もっとも 鍛えるべきなのは体幹なんですね。体幹とは主に背筋や腹筋のことです。 そういうわけで手に何かを持って山歩きをするというのは絶対条件だと思っています。 ここ数年、撮影で持ち出すカメラはペンタックスだけだったのですが、これは軽すぎました。バッテリー グリップをつけてもなおも軽い。これは失敗だったなと思ってます。カメラはレンズ込みで2キロ以上ないと 体幹が鍛えられません。そういうカメラはフルサイズで光学式一眼で、そしてグリップを付けてf2.8ズーム レンズ装着ということになります。これで2キロから2.5キロくらい。それよりももっと重くなると、常時に 手に持つのではなく、肩がけ時と半々ということになるでしょう。 そういう風に考えますと、撮影で山に登らなかったから、というのも事実ですけど撮影で使っていたカメラ が軽すぎた、というのが体調を崩し体力が低下したもう一つの理由だったかもしれないですね。 これから自分がどれだけ体幹を鍛えられて、そしてこれまでになかったほどの体力と健康を得られるかどうか。 それを試してみようと考えてます。 私になりに考えた健康と体力の4原則というものは。 ①筋力のアップ。足腰の鍛え。原則、歩いて登って、ということ。今回述べたことです。 ②栄養。食事です。これは大変な知識が求められます。身体によくない食物も多くありますね。 ③東枕法。就寝時に頭を地磁気の東に向けて寝ること。原理は分かりません。多分、電磁誘導の法則。 ④リラックスと休息。衣服の問題も。ゆったりと暖かく。快適性が大切。住居環境も。対人関係も。 この4つを正しくやれば、体力がつき健康になれます。そして運勢も自然と向上しますね。 そして①と②は即効があります。いつでもどこでも、やれば期待に答えてくれる。一番むつかしいのは ④の東枕法。これはその人の運勢と深く関連していますので、そういう時期がこないと実行できないです。 それからマイナス要因として人工の電磁波問題もあります。 お金がかかるのは②と③です。(笑) ①と③はお金がかからずにやれます。 効果の結果がでるのに時間がかかるのは③です。①と②は即効がありますが3ヶ月くらいはかかります。 ③となると数年、3年から4年は必要です。電磁波問題は即効性があります。 なお、カメラの問題としては、漏洩電磁波問題が大きいです。電子シャッターのカメラが優れています。 私がいま使っているデジイチはこの問題があるので電磁波で頭部被爆しない工夫が必要です。 それからパソコンのモニターの人工光の電磁波も問題です。私がパソコンでの画像処理を止めた理由が これです。これはかなり大きな問題ですね。これからはAIを使った自動処理が求められるでしょう。

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今の私の、イイカゲンな、いや、好い加減な撮影手法。 気を使わなくて楽しいなあという感覚は、これ、なんだか既視感覚があって、それはなんだろう かと考えていたのですが、その撮影感覚は、私が写真を始めた当時の初期感覚に似ているという ものでした。 デジタル写真ではなくて、大昔の自分が若かった当時の、黒白フイルム写の時代の話です。 半世紀前の話ですね。 その当時は、撮影するフイルムは1から2本です。ショット数では100ショットに満たないです。 数日かけて撮影旅行に出かけた時ですら8本くらいまでで10本に満たなかったと記憶しています。 たとえ10本だったとしてもショット数では360ショットです。 これはどういうことを意味するかというと、撮影中はほとんどシヤッターを押していなくて、 ただひたすら歩き、自分の眼で光景を見ていたということです。自分の目で視ていたのであって、 カメラの眼(ファインダー)に偏重していなかったということでしょう。 フイルムのショットは貴重であって、まず自分の目で、これは撮るべきか止めるべきかを判断を して、撮ろうかとなるとやっとショット。 つまり撮影中は、ほとんどは具体的には、その撮影行為自体はしていなかったということです。 撮影中は、ただ歩き、ものを見ていた。 そして現在の好い加減撮影では、デジカメのショット数は10倍になっているでしょう。しかし ほとんどはノーファインダー撮影であって、撮影をしているという感覚はあまりありません。 私の視点は裸眼からは移動していないのです。カメラというファインターを凝視する感覚は ありません。 これは事実上、写真を撮っているという感覚ではなくて、普通に裸眼で物を見ているという感覚 のままです。言うなればカメラが自動で勝手に写真を撮っているということかも知れません。 それで私は、ただ歩き続け、光景を裸眼で見ているままだということです。 フイルム時代はショット数が極端に少ない。でも撮影は厳密でした。露出、スピード、ピント、 フレームは、マニュアルカメラでしたから全部手動。失敗はできません。 現在の好い加減撮影は、ショット数は多くても自分で撮っているという感覚は希薄です。撮影は カメラが自動でやってくれる。 このふたつ、濃度は濃いけど少ないショット。濃度は希薄で多量のショット。ですから結果的に 質×量の総量としては同格なんですね。(笑) 得られた画像がどうのこうのという前に、まず撮影中の労力があるんだということに気がつきま した。それはファインダーをどれだけ凝視しているのか。それに尽きるのかもしれません。 いま使っているカメラは光学式カメラです。それをほぼノーファインダーで撮影です。極端に いうと大体の方向を被写体に向けるだけ。カメラは顔面で眼の視点の延長線上に置いていて、 しかしカメラと顔面は離れています。 ハイアイポイントファインダーのカメラならば結構、ファインダーの視野率はあります。 ピントは視野中央に固定しているで、しかもレンズの視野は頭に入っているから、どれだけの 範囲が写るかは体感できています。これでファインダーを凝視しなくても撮影はできるのです。 主にデジイチを使っていて、ミラーレスカメラは一台のみ使用。ペンタK01ですが、背面液晶は 暗くて事実上、ノーファインダー撮影になってます。 結局のところ、撮影中の労力の度合い、疲労感というものは、ファインダーの凝視度が握って いるということでしょう。私はそれを無意識にか、徹底的に低減していたということです。 そもそもデジイチでノーファインダー撮影に行ったのは、カメラの放つ電磁波の悪影響を減失 するためでした。20~30センチ顔面から遠ざけるだけで電磁波は事実上なくなります。これで 顔面被爆は避けられる。 電磁波を避けるにはもうひとつ方法があって、ミラーレスカメラを使うこと。背面モニターでの 撮影ですね。 とりあえず今はデジタル一眼レフという旧タイプのカメラで撮影しています。これが大きく 重くて、つまりは上半身の運動になるという程度の理由からですが、この方式のカメラを使う ことにより、結果的にファインダーを凝視しないノーファインダー撮影が主流となって、 眼の疲労感というかファインダー疲れから逃れられています。 結局のところ、写真の撮影に於いては、ファインダーを見ることによる疲れが、撮影中の感覚 に大きく影響をしてるのではないかということですかね。 フイルム時代はショット数自体が少なかったので疲労感がなく、撮影は楽しかった。 現在の好い加減撮影では、ファインダーを殆ど見ないので疲労感は少なく、撮影は楽しい。 どうでしょうか。 そもそも撮影の楽しさとは何なのか。それはファインダーで眼を疲れさせないことではないの ですか。基本的には撮影が楽しいというのは、自分で歩き自分の目でこの世の光景を見ること だと思うのですが、それを阻害していたのがカメラのファインダーだったということです。 それが光学式であれ電子式であれ、やはりファインダーは小さく見難く、自然な裸眼視とは 違います。 デジタル時代においても、フイルム写真に好感を持っている人がいます。 そしてその理由というのは、今ここで挙げたような理由に因るものではないかと思えてきて います。 フイルム時代は良かったというのは私もそうです。もはやノスタルジックな思い出の中に埋没して しまっているのですが、それを深く考察すると、フイルムとデジタルという手法の技術的な 相違ではなくて、本質はショット数の違い、その質と量の掛け合わせ。そしてファインダーが カギを握っているのではないかと思えてきました。 そして一番肝心なことなのですが、撮影で一番に楽しいと感じられるのは撮影時そのものでは なくて、野外で自分の足で歩き、自分の目で視るのだという、そういう人間としてのもっとも 基本的な行為なのではないかということです。 撮影は方便でしかなく、ましてや得られた画像は単なる副産物でしかないということ。極端に 言えばそういうことになります。 これらを深く理解すれば、写真はもっと楽しくなる。どうも、そういう気がしています。 思い起こせば、1970年代、ほぼ10年間くらい黒白フイルム写真をやりました。基本、自分で フイルム現像、印画紙焼きです。カメラは完全メカニカルカメラでした。 本当にあの時期は写真をやっているという充実感がありました。写真は撮影も現像も楽しかった です。その感覚はデジタルになってからは程遠いという気が、これは最初からしていました。 当時は自分が写真をやっているということが誇らしかったですね。しかしデジタル時代に なってからは、ずっとまがいものをやっているという感覚から抜け出せませんでした。 もちろん今もそうです。ちがうな、こんなんではないという気持ちをぬぐうことはとうとう できまんでした。 高画質と言われるシグマのカメラ、ツァイスのレンズ。こんなことをやってもしようがない ねえ、という燻った気持ちをずっと持ってました。 やや、かつてのフイルム感覚を少し取り戻せたのは、ペンタのモノクロームカメラを使うように なってから。しかしやはりまだ楽しいと言う感覚とは違いました。 そうこうしているうちに、パソコン趣味の度が過ぎて、体調を崩すというか体力が失われて しまいました。これはまずい。ということで単なる撮影歩きではなく、本気で里山歩きに向かい ました。むろん山歩きだけでは楽しみがないのでカメラを持って歩くわけですね。 撮影は目的ではないので徹底的に手を抜こうと。 それでカメラ1台レンズ1本のみで、ノーファインダー撮影となったわけです。自分が歩く道を 記録的に撮影するだけ。撮影には凝らないと決めて、それで淡々と山道を歩き、撮影をして きたわけです。達成感は、自分の足腰の筋肉と心肺機能の増強度具合だけです。 近所の里山を徹底的に登りました。 写真などはどうでもよいとしていたわけですが、次第に撮影が楽しくなっている自分に気づき だしたんですね。常に手に持っている相棒のカメラも何だか誇らしげでね。 カメラは傷だらけです。泥にまみれ、藪こぎはするし、落とすし、雨にも濡れるしで、私の体 と同じようにはいつくばって傷だらけで山に登っていたわけだから。それでなんか愛おしい 仲間と言う気がしてきたわけです。 撮った視野は現像もしていないし、まともには見ていないです。それなのに撮影が楽しく なっている。この不思議感覚。 正直言って、こんなに撮影が楽しいと言う感覚は、デジタルカメラをやりだしてから初めての ことです。

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久しぶりの写真投稿になります。 実は写真を投稿しようにも、撮影した写真データを現像していないので投稿はしませんでした。 しかし撮影そのものはしっかりと継続しています。 ここ2ヶ月余は特に里山ばかりに撮影の重点を置いていて、もはや写真趣味というよりも里山歩き趣味と いった感じになりましたね。 それで撮影時にお話をする人達は、必然的に写真趣味人ではなく山歩き趣味の人達となりました。 そういう人達の影響を受けてか、私の写真観も随分と変わりました。それで撮影はしても現像はしない と言った感じになったわけですね。 普通の多くの人達は野山の写真をスマホで写真を撮り、その画像は自己記録程度に留め、またその 写真をスマホ内に留め置いたままで、あえてプリントをするとか、そういう特別なことはしていません。 それどころか自分の撮り溜めた写真を特別に見ることもあまりない状態だといいます。 そういうのが現在の多くの人達の、今の普通の写真感覚だろうというところですかね。 私の場合は野山撮影をスマホではなく、本格的なデジカメでしかも、体力増強の為にそのカメラは 鉄アレイとして扱っていますので、重く大きく一般の眼には大型カメラと映ります。 それで出会った人から、(あなたは)どういう写真を撮っているのですか?という問いかけも偶にして くれます。 大体は野鳥を撮っているのですか?というのが多いですね。カメラが大きいので、きっと野鳥撮影だ、 と思われるのでしょう。 しかし私は言下に否定。まず野鳥はこの程度の機材では撮れませんと言い、私は皆さん方と同じく、 ごく普通の、つまり自分が出会った光景を撮り、ただ記録しているだけですと答えています。 つまり自分は、写真好きなハイアマチュア人間ではありませんと言下にいっているようなものです。 そんな具合で、私はもう写真趣味人であることを止めたというか、卒業をしてしまったようです。 それにしてもカメラを持たなければ山に入れないというのも何だかな~ぁ、という気もしますが、 これはこれでいいのかも、と思っています。 持って行くカメラは基本、カメラボディ+レンズ1本です。つまりボディに着けたレンズのみ。 標準ズームレンズが多いです。たまに広角ズームをバッグに入れることもあります。 絶対に必要なのはバッテリーグリップです。これがないと左手でカメラを持てない場合もあります ので。カメラの重さは2キロを目安にしています。1キロちょいのカメラでは運動にならずで体力は 付きません。 そしてカメラは歩く全行程で手に持ったままです。右手か左手のどちらかで保持したまま。 体幹を鍛えないといけないのでストックは持ちません。急傾斜が多い香川の里山ですが、三百㍍ くらいの里山ばかりですのでなんとかなります。いざという時は拾った枝を杖代わりに。 あくまでも里山歩きで体力を鍛え維持するのが目的なので、撮影はいい加減です。ノーファインダー 撮影みたいな感じで撮ってます。 こんな感じの撮影がすっかりと板につきました。写真から画像を取り去り、撮影のみに邁進する、 といったところですか。 撮った写真を後で見ることはないのですが、保存はきちんとしています。もう二度と見ることは ないでしょうけど。 気をつけなければならないのは撮影ではなくて、低山ながら登山ですので、道迷い、滑落、そして 蜂や蝮や猪との遭遇ですね。なお、そういう危険動物の写真は絶対に撮りません。対象物に注意力 を集中ですから。 今回、投稿のために1枚だけRAWデータを現像しました。300㍍くらいの山の、中腹での撮影。 火山灰が固まった凝灰岩ですか。香川の山は麓が花崗岩、中腹が礫岩、山頂部が安山岩といった 感じです。しかし山頂部まで花崗岩の山も多いです。そういう山は、山頂に巨石がありますね。 ところで、この板もAI評論がすっかりと定着したみたいです。私のように人間が書いた長い文は、 長文だとして嫌われるのですが、AIだと問題視されないようです。内容が平易だからでしょう。 しかしAIを積極的に利用する人、全く使わない人で2分されたみたいですね。 私としてはAIの恐ろしさを書いた本やサイトを見たり読んだりしていますので、気軽にAIで遊ぶ 気にはなれません。グーグルで利用はしていますが必要に迫られて、だけですね。 余談ですが、占星術でのAI史観を考えると、現在のAIは片手落ちの知能です。人間は全12星座 全てを持っていて、それで人間としてバランスが取れているのですが、AIはそうではありません。 機能を研ぎ澄ます為に敢えて知力と突撃力一本に絞ったところがあり、極めて過激で危険なところ があります。どうにも止まらない欲望を制御できていないようなAIです。 将棋や囲碁ソフトや、最新のアンソロピックのような、特定の部門で完全に人間の能力を凌駕 してしまったAIが出現しているのですが、やがて汎用AIが出現し、それが人間の知能を悉く大きく 上回った場合、人間にできることは電源を切ることだけです。それは人類の全インフラを失う ことでもあって、その瞬間に現在文明は崩壊します。 半世紀前のコンピューターもネットもない時代に後戻りしないと超AIからは逃れられません。

雑感

雑感

投稿欄にあたらしくAIコメントがつけられるようになったようです。(選択可能) 管理人さんも色々とご努力をされていて、このAIコメントに興味を持つ方もおられるでしょうから、 これによって投稿をされる方や鑑賞者の増加が見込まれるかもしれません。 AIを如何にして上手く使っていくか。これからの時代はAIを使いこなしていくことがカギだと言わ れています。 今のところ、AIコメントに好感をいだく人と、そうではない人とに分かれるようです。 画像としての写真をしている人はAIコメントが好きで、そうではなく本来の写真をしておられる方 はAIコメントが嫌いのようです。これはもう予想通りでしたね。 高市さんの勝負勘は見事的中して、衆院選では大勝をしました。これで国会運営はやりやすくなる だろうと思います。民書主義はまず数の力学なので与党の数字を増やすことは基本中の基本です。 それにしても、たつき諒氏の「私が見た未来」の予見は見事に当たりましたね。 一般の人は2025年夏に大津波が来るって言う程の知識しかないでしょうけど、たつき諒氏の本来の 予言は、日本の国がこれから変わるっていうことだったので、今まさにそれが実現されようとして います。とくに若い方が高市さんに期待を寄せているようです。 占星術では土星と木星が2020年に会合し、それは山羊座から水瓶座でした。両惑星は20年に一度会合 するのですが、どの星座で会合するのかが占星術では問題となります。占星地政学上では日本は、 カーディナルサインで会合すると良い影響がでます。10年は好影響が続くでしょう。 昨年からの土星と海王星の会合も牡羊座というこれもカーディナルサインですので、これらは日本復活 の予兆となっています。 さらに昨年から今年は木星が蟹座というカーディナルサインを運行しているので日本にとって最高の 時期となっていました。来年は木星が獅子座なのでこれも日本に有利です。 一時、土星と天王星のスクウェアを挟み、それがウクライナ戦争になったり、また土星と冥王星の合 も起きたりして(コロナ禍)、やや土星と木星の発現が遅れましたが、しばらくはこの日本はこれまでの 遅れを取り戻し発展するだろうと思います。 2030年くらいになると、今度は土星と天王星という時代を決定づける会合が双子座で起きます。これは 日本にとっては不利であり、逆に中国にとっては覚醒の時期となります。 ですから日本が生き生きと活動できるのは4年くらいしかないということなります。 (しばらく占星術から離れていたのでややいい加減) 今後の4年間は高市内閣で大改革をしていくということになります。たった4年しかないというべきで、 やるべきことは山積みしていますから、高市さんには身体に気をつけて邁進していかれることを期待 しますが、ここでひとつアドバイス。 スカートは止めてパンツルックにしましょう。イタリアのメローニさんのスタイルがいいですね。 彼女はゆったりとしたパンツルックで日本を訪れました。スーツスカートはどうしても身体か冷えます。 また胸元も開き気味でこれも身体を冷やします。冷えは体にとっては大敵です。 こういうことを身近にいる人がアドバイスしないのかな?という気もしますが、おそらく高市さんは けっこう頑固で人のいう事を利かないのかもしれません。(笑) しかし高市総理の体はもう日本国の ものでもあるので個人趣向の我侭はいけません。

写真の人格性

写真の人格性

写真には上手いとか下手とか、そういうのを超越した魅力というものがありますね。 とても上手な写真なんだけど、魅力を感じないという写真があり、下手な感じだけど魅力を感じて どうにも見逃せないという写真もあるわけです。 その差はなんだろうかと言うと、それはすなわち撮影者自身の持つ魅力なんだろうと思っています。 たとえばプロ作家というのは圧倒的な人間的な魅力を持っているわけです。それが全ての作品に 醸し出されているだろうからその作家の写真は魅力的に映るんです。 つまり人格が写真を作る。人格性でもって写真となす、と言う具合です。 これからはAIが写真をつくることになるかも知れないですね。そういう場合は、AIに指示を出した 人間の人格がそのAI写真の人格性をつくるということになります。AI自体には道具としてのカメラ と同じような意味しかなさそうですから。 この人格性というのは基本的に生命しか持ち得ないものなのです。つまり人間です。 それで写真というのはモノですから当然に人格性を持っていません。しかし人格性を投影したもの だとはいえるんです。 人格には個人を超えた集団的集合的な法人格なるものもあります。人々が集まった形態での象徴的 人格ですかね。その最大のものは国家や民族なのかもしれません。 とにかく写真とはそういうものなので、写真というモノ自体を撮影者の人格から切り離して論じても、 それは本当の写真の論評とはならないのでしょう。写真というものは生みの親である撮影者を切り 離しては何も語られないものなんですね。語ることができるのは単なる画像です。

モニター

モニター

前回のコメントで、自分には22インチモニターが最適、と言いながら、今回24インチモニターを復活 してみました。使っていた22インチモニターが不具合になり、それではと、長年使っていなかった 24インチモニターを取り出してみようか、となりました。 この古い24インチモニターは、1920×1200ピクセル。つまり1920×1080の22インチよりも縦が長い、 というだけですけど画面は大きく見えます。それで可能な限り、設置位置を下げました。高さを下げる ということ。それで何とか、見れるようになった感じです。 古い10数年前のモニターでエイゾウとNECのやつ。厚さが8センチくらいあって、重量はとても重いです。 発熱も凄くて冬場は良いのですが夏場は困りそうです。(笑) ひとつは画面が少しヤレていてやや角が黄色っぽくなっているけど画質は良いです。もうひとつのものは 輝度の調節が壊れていて、それでソフト側での調節なんですが、ほぼ未使用品で画面の劣化度は無し。 普通だったら捨ててしまうものなんですが、私は大事に物を使うということでしばらくこれでいこうか、 と思っています。両機とも随分以前に中古購入したもの。 例によって、ディスクトップの基調は黒に近いダークな単色で。これが眼を疲れさせない秘訣です。 またデイストップに表示するアイコンは最低限で。 久しぶりに使うモニターなので調節が大変です。ヤレている方のモニターの調節は大変でした。 当初は久しぶりの電源入れだったためか、色がおかしくて、通電したまま1日間放置。おそらく長く通電 していなかったのでアナログ回路が目覚めていないと判断。 そして本格的に調整に入りました。何度もなんども画面の色温度や各色の調節や輝度やコントラスト、 ガンマ値をしつこいくらいに調節を試みます。元々は高級機なので調節機能は多々あります。 それで当初とは様変わりして良い色と画質になりました。さすがに角周辺の黄ばみは無理なんですが、 ほぼ修正でき問題なく使えるようになりました。 その画像調節の為にサンプルとして使うのが、この掲示板に投稿された数多くの写真画像群です。 多くの写真が最大公約数的に良く見えるように調節を試みます。 キャリブレーションとかそういう便利な機器はないですから、皆さんの上げた写真の総合的な最適値で やります。結果的にこれが最も良いという事を経験値で分かっていますので。 この徹底的に調節を試みるというのがミソですが、それが出来たのは元々良いモニターだったから 出来たことなので、実は普通は調整してもどうしようもないモニターがほとんどです。 とは言え、細かく調節しすぎるのも問題で、これは写真の画像処理と同じ原理で返って画質を損ないます。 妥協は必要であり、そのモニターの現状性能以上のものは出せないですから。 とにかく最大限の試しをやってみること。これが大事かなって感じます。 もうひとつの新品並だけど輝度とコントラストが調節できないモニターは、nvidiaからのソフト面からの 調節で行いました。このモニターはヤレがないので微調節は不要。楽なものでした。 このモニターを手放した人は、ソフトウェアからの調節の仕方を知らなかったのかもしれません。 古いモニターはとにかく重くて暑いしで(電気も食う)、新しい中古モニターを買おうかなって考えたり もするんですが、今あるものを捨ててしまうのも自分の主義に反するわけで悩ましいところです。 参考までに記すと、使用したモニターは、エイゾウフレックススキャンSX2462WとNECマルチシニクP241W PCに関しては、もうウイン11は諦めたという感じです。それ1台で使う分にはよいのですが、有線LANで 複数台PCを接続して有機的に使うにはあまりにも不便で無理だと思いました。 それでウイン11から10に戻したPCもあります。ただウイン11もまだこれからアップデートで変わる可能性 があるので見守っては行きたいとおもってます。 今回、ネットワークに無線LANも導入しました。スマホやモバイルなんかだと有線では無理ですからね。 しかし無線LANは電磁波に害があるので設置はしたものの普段は切っています。やはり有線方式が安定 していますし健康のためにも安心ですからね。 とにかく15年くらい、PCに関しては何もしていなかったので知識がなく苦労しましたが基本線はできた かなって思ってます。 ウインドウズ7はまだ現役で使っています。まだまだウインドウズ7は現役でいける、というところです。 ウイン10/11に比べて軽いOSなので安定して性能の低いPCでも使えるからです。またコレクションレベル ですけどウインXP、ウイン2000、ウインサーバーOS、ウイン95/98も動けるようにしています。 ソフトウェアによっては古いOSでなければ動かないというのもあるんです。 知人がやっているのはウイン2000/XPベースで開発された業務用アプリケーションソフトをウイン10/11で 動作させることをしています。これ、需要があるんですね。 またネットでみると、コアi7のPCにウイン95/98を動作させているのがありました。面白いですね。

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「日本では報道されません…実は今中国がトンデモない状態でした【北村晴男/澁谷司】 28万回視聴 4週間前 https://www.youtube.com/watch?v=Iui8qTW7M0I 「南シナ海で中国軍艦と中国巡視船が衝突事故、フィリピン巡視船への妨害活動中」 https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f39f57e00cd1560d8931ad894dec0ed79715bccf フィリッピン巡視艇が中国海警局に追突される瞬間、中国海軍の駆逐艦が急遽止めに 入った(衝突した)という動画が出てます。 こういう動画があると、あながちフェイクニュースとは言いにくいので興味深いです。 行政機関と軍隊が衝突するなど、日本国では考えられない事態ですが、中国では歴史的 に普通のことです。 現在の中国トップの権力も磐石ではなくなったということなんでしょう。 占星術では還暦法というのがあって、現在72歳であればマイナス60で過去の12歳の年代 を繰り返すというわけです。 1963年6月1日午前3時の生まれの人物を仮定すると、10歳代初期&70歳代初期は、火星、 冥王星、金星があります。これを乗り越えるのは大変です。 次の自民党総裁、日本の総理は誰になるのか。ものすごく簡単に言うと、高市さんに なるのかな。 それはトランシットの木星が今現在、蟹座に来ていて、氏の太陽魚座に有利だからです。 同様に石破さんの時は、木星が双子座であったので氏の太陽水瓶座に有利だったのです。 多分、たったそれだけだったでしょう。 あまりにも簡単な占いなのでイイカゲンもいいところですが、高市さんにとっても1年 くらいは有効かもしれません。1年後の来年は小泉さんにとって木星はよいですね。 中国にとって、高市さんがトップになるのは面白くないと思いますが、潮目が変わると いうことでは日本にとって良いことなのかも。