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Exif情報

メーカー名 SIGMA
機種名 sd Quattro H
ソフトウェア SIGMA Photo Pro 6.9.0
レンズ 50mm F1.4
焦点距離 50mm
露出制御モード ノーマルプログラム
シャッタースピード 1/400sec.
絞り値 F3.5
露出補正値 -0.3
測光モード 分割測光
ISO感度 100
ホワイトバランス オート
フラッシュ なし
サイズ 6192x4128 (12.7MB)
撮影日時 2021年04月18日(日) 16時24分
1.
kusanagi
2026/10/23 21:55

①『本格的な黒白写真をやることの意味』 シグマsdクワトロを使った黒白写真ですが、画質的にはペンタックス・モノクローム 並みの画質を出してくれます。とは言えシグマとペンタモノクロームとの決定的な 相違は、シグマはカラー写真が出来、ペンタはモノクロしか撮れないということです。 私ごとを言いますと、20歳代に10年ほど黒白写真ばかりやりました。カラーでは ほとんど撮影していません。当時はフイルム写真です。そしてその黒白写真をやめて以降、 写真がデジタル化するまで写真趣味からは長く遠ざかっていたのです。 それでデジカメ、とりわけデジイチが出現してからは本格的に写真をやり始めたのです けど、それは自分の過去の黒白写真時代とは大きく違いすぎたということです。 フイルム黒白写真時代は本当に満足して自分の写真をやれていたと記憶するのですけど、 デジタルになってからは心底から満足できていなかったと思ってます。 それはなぜなのか。なぜ満足できないのか。不満足だったのか。そういう疑問が長く続い ていたわけですが、その疑問を解く切っ掛けとなったのが、最初は軽い気持ちで買った モノクロ専用機機でした。 思いつきにせよ買ったのだからと、じゃあ当分はモノクロ写真だけでやってみようか。 という気持ちになり、これがすぐに飽きてしまうのかと思いきや、2年近くモノクロ写真 でばかり撮影したのです。 長く黒白写真が続けられたのは、そこにはやはり、若い時に黒白写真でばかり撮影して いたという経験というか、遺産のようなものがあったのかもしれません。本当にカラー では撮影せず、モノクロでのみ撮影をしました。 主力はペンタモノクローム機でしたが、普通のカラー機でも黒白で撮影をしました。 そこで自分がガラッと変わったと意識できたのは、現象的には新規のカメラやレンズという 機材への欲望というものが完全になくなってしまったということです。 それは思い出すと、黒白フイルム時代でもそうでして、機材の物欲というものがなくても 少ない機材で十分写真をやれていたことと同じだったんだと、明確に自覚できるように なったことです。 若い時期の黒白写真時代は少ない機材で十分満足していましたから。 それで結局は、カラー写真というものが自分の写真に対して不純物を生んでしまう元凶 なのではないかと、そういう理解ができたということでしょうかね。 しかしそれでも、ちょっと違うわけです。 今、私はカラー写真に戻して撮影していますけど、それで以前の機材物欲に戻ったかと いうと、ぜんぜんそんなことはなくて、今も機材に対して無欲的な状態が続いています。 実は黒白写真になってから、それを切っ掛けにして、そこからの本当の内面的な変化と いうのがあって、それで自分の気持ちが、写真という物ものではなく、撮影すること自体 の方向に向きだした、というのがあるのじゃないかって考えてます。 要するに黒白写真って、画質的には何にも面白くないから、必然的に絵的な、画像的な 関心がなくなってきて、じゃあその分は、ということで、撮影行為そのものや被写体の 対象物に関心の方向が変わってきたのだと、今ではそのような思うようになってます。 その撮影への関心というものでいうと、やはり現在の里山歩きですかね。写真とか 撮影とかと言う前に、里山に行くこと自体に意味を見出せられているということですか。 無論ついでに撮影はするんですけど、自分の本当の関心はもはや写真ではなくて山そのもの になっている。それから最近は古い街道の街並みなんかも撮影しているんですが、それも 写真ではなくて、古い町並みへの関心が先に立ってます。 結局、里山歩きも、古い町並み自分も歩かなくちゃならない。その自分の足で歩くため に撮影というものがあって、そこで昔に夢中になった写真趣味というものが生きていて、 今でも持続できているという気がしています。 多分、今の私にとっては、カメラも写真も、歩くための単なるアクセサリーというか、 そうじゃなくてツールのようなものになっているのかも知れません。 昔を思い出してみると、黒白フイルム時代も、写真そのものではなく、つまり写真という 物ではなくて、写真を通じてなし得られることに自分の関心があったということです。 ここは重要でして、言うなればモノではなくコトであるということ。 モノ(物)とコト(事)はインバウンド観光で言われていますが、重要な概念だといえます。 目移りのするカラー写真は、どうしてもモノに関心が行ってしまって、大切なコトが 疎かになってしまう。 こういうことを私はデジタルモノクロ写真で再発見をしていたということです。 黒白写真は切っ掛けの入り口に過ぎなかったと言えそうですけど、カラー写真という色欲 の壁はものすごく高くて、私はモノクロ機を手にするまでそれを打破できなかったのです。 今風の言葉で言えば、カラー写真を断捨離したということでしょうか。 断捨離といえば、モノそのものを捨て去る、脱却するという風に捉えられるかも知れませ んが、私はカラー時代に手に入れた数多くの機材はそのままになっていて捨てていません。 しかし私にとってはそれらのものは有用なガラクタという意識になっていて、写真にそのもの には、もう結びついていない気がしてます。 でもガラクタは良くできていて、過去のカメラ技術の歴史を垣間見ることができ、そういう 視点で見ているのだと思ってます。 カメラにとって最も大切な要素は、まず手に持つことが容易でなければならない。そういう 観点でカメラ機材を自分なりに改造をしているのですが、これは本当は写真とは関係がなく、 モノ自体の持つ意味合いの方が強いです。 カメラは里山歩きの為のツールのひとつであるという意味合いです。 写真には何かがある。特別なものがあるという観点は、私の中では消失しています。画質 なんてそんなに意味はないのだ。構図も技法もそうですし、とにかく写真をよく見せよう というあらゆる技術は、カラー写真を捨てた時点で霧散してしまいました。 やはり、カラー写真を脱却するというのは、相当な意味があるんだなと思っています。 でもカラー写真から自由になるというのは、たぶん普通にはできないことだと思います。 何よりも私自身がそうでしたから。 デジタルカラー写真の束縛から抜け出るには20年以上もかかりました。それもモノクロ機 という切っ掛けがあったからで、それがなければ今でもカラー写真の罠に捕らわれたまま だったろうと思います。

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