Microsoft Windows Photo Viewerソフトウェア 作例

予言書の読み方

予言書の読み方

7月初日の、太平洋側に大津波が押し寄せるという予言ですが、結構新聞でも取り上げ られていたようです。お騒がせなフェイクニュースという扱いですが、私の考えでは この予言は当たったと考えています。 つまり、津波はトランプ関税のことだったわけですね。7月の初めから相互関税が複数 国に対して合意をしてきました。日本も22日に合意しましたね。予言との時期的な一致 もみられます。インドネシア、ベトナム、フィリッピン、英国、日本ですか。 そして日本人ファーストを謳った参院選の参政党の躍進もその予言のひとつだったろう といえるでしょうか。 一般の人は予言というものの本質を知らないので、予言書の言葉通りに意味を捉える わけですけど、予言というのは象徴的な意味合いでの連想ゲームのようなものでして、 言葉通りに読むのは予言の本質を知らない人のいうことなのです。陰謀論とか都市伝説 なども実はそうなんですね。言葉どおりに考えるのは要するに本当の世の中の物事を 知らないわけですね。 日鉄がUSSを買収できたのは予想通りでしたが、相互関税もこのパターンで解決するの ではないかと思ってましたが、ほぼそのようになったようです。80兆円の対米投資補助 なんて書いていますが、役人さんは孫さんと同じで大きく話を盛るのが上手いので実際 は1/10か1/100でしょうか。 そもそも、もう米国は第2次産業の工業が壊滅してるので日本や韓国の企業の投資と経営 や技術がなければ何も出来ない国になってます。中国を除く東アジアの協力国の助けを 借りなければ、米国は軍艦ひとつ、スマホのひとつも作れない国になってますね。 東アジアはかつての大東亜共栄圏です。韓国台湾などは大日本帝国の一部でした。中国 だって半場は日本の植民地だったわけで、近代日本の力が時間を置いて花咲いている わけですね。明治昭和の遺産というのは大変なものだったと感じます。 ラピダスが思いのほか頑張っているようです。絶対に失敗するわ、っていう下評判ばかり でしたが、この会社、占星術では中国のファーウェイに良く似ています。そう簡単には こけないのではないですか。 最先端半導体の工場はTSMCの熊本があるわけですか、やはり外国企業です。日本の 国益と安全保障のことを考えれば、やはり日本企業の工場が日本に必要なわけです。 これからはAI半導体が膨大に必要になってくるわけで、そのための電力も原発が必要 とかで、これからは世の中ががらりと変わってくる気配があります。ラピダスは どうしても日本に必要だと感じます。大化けしてくれると面白いですね。 古いパソコンで、フリーズしまくりのものを貰ったのてすが、いろいろとやって みると、その原因はノートンのウイルスバスターでした。これをアンインストール するとフリーズはなくなりました。しかしネットワークシステムが既に壊れてます。 OSを入れなおすしか根本解決はできないのですが、貴重なソフトがインストールされ ているのでこのままにして、このPCはネット接続なしでいくことにしました。 今回は原因が分からずでだいぶ苦労しましが、こうなった背景には、ネットワーク の基本を守らなかった前ユーザーにあるようです。こういう共有の仕方をしては いけないというのが数件見つかりましたし、ローカルネットワーク規模なのに不要な WANも使ってました。 壊れたPCのネットワークシステムは、正常な他のPCにも悪影響がでて、危うく他の PCも壊すところでした。ウイルス対策ソフトが結果的に裏目にでて、まるでウイルス のように振舞ってネットワーク全体に悪影響を及ぼす。それを実際に体験すると、 ネットワークというのはなんとも脆弱なんだなって分かりましたね。 今回は大分勉強になりました。まあこういう勉強がしたいがために、わざと壊れた PCを貰ってこつこつとやっているわけでしてね。(笑)

瀬戸内の光景

瀬戸内の光景

今回の歩き、瀬戸内の島での10キロ余のあるきなんですが、久しぶりだったので得た収穫は大きかっ たです。まず歩きは10キロくらいを超えないと、歩き運動にはならないということ。撮影をしながらです から4時間くらいの歩きですね。その1週間くらい前に数キロ歩いたのですが、効果は感じられません でした。 私の場合だけかもしれませんが、日々すこしづつ歩いてその効果が累積するとか、そういうのはない んじゃないかって感じます。やはり連続して長い距離を歩かないとだめだと。今回の島歩きは昔歩いて いた距離の半分です。ということは以前は1日の撮影で20キロ以上歩いていたということです。 それからこれは建築家の方と話して得られただろうという直感ですが、なぜ瀬戸内海だったのか、とい うことに密接に繋がるのですが、瀬戸内の光景を歩くことは他の場所と違って格段に思考力を高める のではないかということ。 ある本で見たのですが、県外の方が瀬戸内の海を見て他の海とは違うって感激するようなのですね。 それは多分、内海の穏やかさがそうさせるのではないかと思ってます。ほぼ湖のようなイメージで 波風は立たず、風はなく、天候は晴れで良くて雨も降らない。ただよく見ると潮の流れはあります。 そこが湖とは違うところ。塩の満ち引きも当然に。 とにかくこの穏やかな湖畔ではなく海辺に立つと自然の脅威というものは感じられず、ただ海と空だけ となって、思考が透明になるというか雑念の余地がなくなるのです。雑念というか、見るべき注意すべ きものがなく心が空白になる感じなんですね。島の道は大体は海辺を回っていますから、半分は山側 で半分は海と空なんです。過疎なので家並みも滅多にありません。 そうすると人はどうなるか。私が島歩きをして感じるのは、自分が日頃考えていることが再咀嚼する ように自分の思考が脳の中にもたげて来て、それこそが日頃の雑念というものかもしれませんが、 その思考が頭の中でぐるぐると回りだすのです。 それを思考性向といってもいいのかもしれませんが、とにかく思考力が高められるような気がするん です。つまり過疎の島という、海と空だけの単純に環境に置かれると、人間というのは自動的に脳が 回りだすのではないかということです。 これが都会の中の喧騒に身を置いていれば絶対に感じられないことであって、つまり例えて言えば 歩く禅のようなものではないかと思うんですね。純粋な思考だけの回転です。 もしかすれば建築家の方は、それにうすうす気が付いていたのではないかという気がしました。 瀬戸内を選んで古民家を買い、そして瀬戸内の海こそは純粋思考の場に相応しいと。 島で生活をしている人は日々の生活がありますから、空念で生きているわけではなくて純粋思考には いかないかもしれませんが、たまに島を訪れる私のようなものには、島の光景とその歩きは格別な ものがあるということです。建築家の方も別荘感覚で島の海辺の家を求めたわけで。 しかし私としては瀬戸内の海も、高知や徳島の太平洋の海も好きでよく足を伸ばします。しかしやはり 海の感覚は違うって思います。太平洋はパワフルです。それに無意識的に身構えないといけないよう なところがあります。そして瀬戸内にはそういうものがあまりなく終始穏やかであるわけです。 そして思うのですが、この小さな島周りの感覚を四国という島に置き換えると、それが四国遍路、四国 巡礼の旅となるわけです。宗教的な感覚で捉えるのが相応しいかなって思うところがあります。

無題

無題

久しぶりに歩き撮影をしました。12キロくらい歩きました。長らく歩いていないので足元もやや覚束 ない感じも。しかし歩きは絶対に欠かすことの出来ない健康(免疫力)への必須の条件ですから、 無理をしても時間を作り、歩かないといけませんね。それを今は痛切に感じています。 今日はちょっと建築家の方と話す機会に恵まれました。なんか私の方が一方的にしゃべってばかり だったので申し訳なかったような。物静かで大変優秀な方でしたね。 しかし私としては「食」と並んで「住」の環境も危機感を感じているので、プロの方に伝いたいことは伝え たかったわけです。衣食住という基本ラインが駄目になっている昨今の日本。このままにしておくと 日本人は滅びますから。 カメラマンはコックさん、料理人ですか。なるほど、写真は理詰めでいかないといけませんね。 多くの人は写真を芸風というか美学の感覚で捉えているんでしょう。しかもそれを日本的な美意識、 つまり見かけさえよければその機能や効能、はては健康や命すら見失ってもいい。という具合なので、 毒を盛ってるコックさん、ともなりかねないです。 オフロードバイクの良いところは、いつでもどこでもスッと降りて歩いて撮影できる点です。撮影には 最高の相棒というわけです。自動車だと軽自動車が一番有利です。やはり軽いこと、小さいこと。 というのは歩きの延長線上に位置するので、この利便性を見逃すことはできません。 シッポ座さんやスラムさんの写真の影響で、関東平野に関心が涌いてきています。 広大な関東平野ですが、地質学的な肝は、千葉(神奈川南部)・茨城にあると踏んでいます。ここが 標高が高くて、言わば関東平野の蓋をしていて、そのお陰で広大な平野が生まれたというわけです。 千葉茨城がなければ、今の関東平野は存在せず、局地的に前橋や宇都宮の小さな平野があるだけ だったでしょう。(仙台平野や静岡の平野のような) そして利根川の存在は大きいですね。実際に関東平野を造ったのは利根川です。西と北の山地から 膨大な土石を運んで内海を埋めたてて平野を造りました。その自然の堤防が千葉と茨城の山地だった わけで、もしその堤防がなかったならば土石は日本海溝に流れ沈むだけでした。

雑

写真というのは、見る力が必要ですが、これは何も写真に限らず、物事を見る能力というのは重要 です。そしてそれに劣らず、聞く力というのも大切だと私は思っています。見ると、聞く。この2つは同じ くらいの深い意味合いがあるんではないですかね。 例えば人の顔を見て話すというのと、むしろ相手の声を聞いてこちらも話すというのがあるわけです。 もしかすると見るよりも聞くほうが間違いがないのではと思う時があります。見ることだけでは案外に 相手を知ることができないかも知れなくて、それよりも相手の声を聞くほうの方がより正確なんでは、 と感じることがあります。 写真というのはともすれば見ることだけで完結してしまいそうになるわけですが、これは大いに片手落ち のところがありそうです。投稿写真にはコメントがつきます。これは言わば聞くことに通じるわけですが、 それは読むというになるとしても、基本は相手の思いや考えを聞いている、ということになるのだろうと 思ってます。 そして写真という画像自身も、ただ見る・見せるということだけでなく、相手の語りかけという声を、画像 から読み取る、もしくは聞き出すということをしなければならないだろうと考えるわけです。 仕事柄、相手と会話する時、この場合は見ることではなく圧倒的に聞く能力がものを言います。正確に 聞き取れなければこちらも話すことができないからです。相手の話すことを最後まで正確に聞き取る。 これが営業職の第一歩ですかね。(笑) そういう社会生活のいろはがあるとしても、やっぱり、この聞き取る能力を写真に生かすことは難しい かもしれません。写真はやはり見ることと見せることに軸足を置いているものなのですから。 それでも、この、聞くこと、聞かせることを写真なるものに生かせれば、面白いのじゃないのかなって 思うことがあります。 見ること、見せることは一瞬で完結するのですが、聞くこと、聞かせることは、一瞬ではなくて、時間の 経過や流れが必要です。ですから、静止画よりも動画のほうが、聞く・聞かせることに長けているよう な気がしますね。しかし我々は静止画という写真マニアですから。 とにかく、自分でも分けがわからんことを書いてますが(^^ゞ、これからの撮影では、ただ見る、観察する だけでなく、被写体の声を聞くことを考えながら、写真を撮って行きたいなって考えてます。 結局は、人は見たいものだけ見て、見せたいものだけを見せるという我意識があり、その点は、聞くと というのは比較的我意識が少ないと感じるからです。

雑文

雑文

⑮ 黒白でのみ写真をしていると、カラー写真が本当に羨ましく感じます。(笑) 皆さんがカラー写真で満喫堪能されているのを見ると、なんてセレブな人達だろうって感じますね。 方や私の方は赤貧の生活を送っているようなものです。とにかく、カラーと黒白の間にも物凄い格差が あるんですね。 カラー写真はほんとうに素晴らしいです。それはカラー写真を捨てると身に滲みて分かります。 しかしながら、カラー写真が羨ましいと感じているのでは、またまだ私は黒白写真を知らないのだろう と思ってます。 【海外の反応】「日本人は恐ろしい民族です」と中国のTV放送で語るハーバード大学の教授の真意とは!?【総集編】 https://www.youtube.com/watch?v=_IvR-ivvwR4 ここではマイケル・サンデル、P・F・ドラッカー、ラムザイヤーの3氏が紹介されているのですが、私が 関心を持ったのは、ドラッカー氏が室町時代の水墨画や禅画などに関心を持ち、コレクターであったと いうことでした。雪舟に代表される水墨画はほぼ黒白の絵です。これは、なるほどと感じました。 ドラッカーは経営学者であるわけなんですが、それは占星術では土星となります。 とにかく、カラー写真は黒白写真の次に来た写真であって、あらゆる面で黒白写真よりも優れているの ですが、それは情報理論、とくに情報量の大きさに関してです。黒白写真は絶対的にこの情報量に 関してはカラー写真に太刀打ちできません。 しかしユーザーが、人が感じるその情報の質的なものに関しては話は変わってくると思っています。 つまり多すぎる情報量は返って質的感覚として妨げになる場合もあるのではないでしょうか。 黒白写真はカラー写真からすれば、削ぎ落としの理論とも言えなくはないですね。情報の削ぎ落とし として黒白写真を見るということ。つまりは贅肉を落とすということですか。 非常に根本的な話をしたいのですが、我々が写真の趣味をすることは、その目的というものは、それは 一体何なんでしょうかね。 写真のコレクションでしょうか。色んなものを沢山撮ってそれを集めることでしょうか。写真も物のひとつ だとすると物集めの楽しみでしょうか。 現実的にはそのようになってしまっているかも知れませんが、それを写真行為の目的だとはっきり言え る人はあまりいないだろうと思います。結果として写真がコレクション的に集ったということはあるでしょ うがそれが本当の目的ではないですよね。 また写真をすることの楽しみやその集積とか思い出とか言うのも簡単すぎます。 写真行為を重ねることで何らかの人生的な獲得物があるのではないかと考えるのが普通だろうと 思われます。写真はモノかも知れませんが、写真行為はモノではなくもっと何かの得がたいもの、それ を捜し求める、いや結果として獲得することか目的と言えばそうなのかもしれませんね。 簡単に言えば人の頭の中にあるもの、それが本来の目的かもしれません。 ディアスポラという言葉があります。これは民族離散の憂き目にあった彼らの歴史を言うのだそうです。 その迫害の歴史を持つユダヤ人が、度重なる迫害によって、どうしても失うことがないものは一体何か というと、それは奪われることのない頭の中の知識とか智恵とか思考能力とか、そういう物質でなく 形のないものであって、これだと迫害を受けても無一文になって放り出されても生きていけるということ だそうです。 それでユダヤ人は子弟に教育を受けさせて、その頭の中のもので生き抜いていきなさい、ということ らしいです。よく知りませんけどね。 人生において築きあげた家庭や家とか土地とか仕事や会社とかいうものは、これは迫害を受ければ 簡単に喪失してしまいます。家族は離散し、物は何一つない無一文で放り出されてしまいます。命が あるだけまし、という具合です。 そういう究極の状態で我が身を保つものは何かと言えば、それはやはり個人の頭の中の蓄えた何かと いうことになります。その財産のようなものです。とにかく生きている間はそれが頼りになるという具合 です。ユダヤ人が優秀だといういうのはそういう考え方の歴史があるからのような気がしますね。 これは究極の個人主義的な生き方とも言えなくはないのですが、我々日本人には想像もつかない厳しい 歴史的現実があったればこそかもしれません。 こういう話をしたのは、もしかすれば写真の行為のその原理というのも、そういうものと無関係ではない のだろうかということです。もちろん知識全般がそうであるわけですが、その中のひとつに黒白写真と いうものがあるのかもしれないということです。 写真は知識体系の学問と絵画芸術の間に位置するという感じですけど、物質というものがなくても成り 立つということでは、芸術というよりも知識に属するのかもしれません。 予め自分の結論を出してしまいましたが、カラー写真はともかく、黒白写真というものは画像というモノ、 物質がなくても成立する写真ではないかということです。現実が物質としてのカラー写真だとすれば 黒白写真はそのゴーストのような気がするのです。 これは飽くまで現在のデジタル時代における私の印象です。デジタル黒白写真は、写真でありそうで いて、写真ではないのかも知れないと。物ではなく頭の中のゴーストのようなものかもしれないと。 しかしそのゴーストのようなものが、いざとなれば生きることに大変な威力を発揮してくれるのではないか ということなんです。そういう生きる知恵のエッセンスが詰まっているような感じだと。 ところでピータードラッカー氏がその経歴からみてユダヤ人ではないのかと思う人は多いでしょう。 調べるとやはりそうだったようです。正確にはユダヤ系というようです。20世紀の知力の代表的な存在 であるドラッカー氏ですが、そういう人物が水墨画などの黒白芸術を好んでくれたのが嬉しいような気持ちになります。

雑文

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⑩ デジタル写真はフイルム写真とは違います。その決定的な相違はなんだろうか、と思いますか? 応えは実に明瞭です。写真にパソコンが介入するか否か、です。もっと正確に申せばモニター・スクリーン ですね。 そしてこのモニター&スクリーンこそが、キラキラ色イロの正体であるということでもあるのです。 私は長らくデジタルで写真なるものをやってみて、どうしても違和感が拭えなかったと言いました。過去の フイルム黒白写真とは違うものであったということで、結局、デジタル写真とはパソコン趣味の延長であっ たのだろうと結論づけました。 つまりデジタル写真、いやデジタル文化というそのものがキラキラ色イロを本質的に内蔵しているという ことなんだろと思うのです。そしてこのキラキラ色イロとは無論人工的に作られたものであって、現実の ものではないということです。 パソコンのモニター&スクリーンは当初はブラウン管でしたがそれが液晶になり現在では有機液晶も 取り入れられています。これらはフイルム時代の紙の写真と比べて自己発光しているというのが決定的 に違います。フイルムも印画紙もプリント紙も反射光でもって見える素材ですが、モニター&スクリーンは それ自体が発光しているものです。 現実光景はどうでしょうか。その殆どは反射光で光景が形作られています。自己発光しているものもあり ますが、大部分は陽の光の反射光で間接光として認識できるものであるわけです。 キラキラ色イロとは有り体に言えば自己発光、それ自体が発光するのが最も効力があるのです。また 自己発光と同じくらいに反射率が高いものであるわけです。例えばゴールドとか宝石の類ですね。 昔から宝石とか金とか鏡とかは魔力のあるものとして認識されていました。それで為政者はそのような ものを好み、民衆に向けてその効力を放ったのです。 ここまで書けばもうお分かりだと思うのでずか、パソコンで見るものは全て自己発光であり、キラキラ 色イロの魔力でもって、我々は自己暗示に掛かるだろうということであるんですね。パソコンでもスマホ でもそうです。モニター&スクリーンという人工光はそれを見るものをして暗示にかからせ、現実感覚を 喪失してしまうというものなのです。 デジタル写真というものは、ゆえにその本質として現実感覚を失わせしめ自己暗示に掛からせてしまう ものなんです。と、そのように私は考えています。 こういうような認識ができれば、なぜ黒白写真なのか。ということが理解できてもらえると思ってます。 黒白写真はデジタル時代に於いて可能な限り、キラキラ色イロ感を喪失させようとする試みであるという ことなのです。 このことは単にデジタル写真の文化だけでなく、現在のデジタル世界の文明そのものへの本質的な問い かけにも繋がっているということでもあります。私は、世界がキラキラ色イロである限り、この文明は現実 感覚を維持することは不可能なのではないかと考えるまでに到っています。 そこまで大げさでもなくとも、写真という文化において、やはり自己発光のキラキラ色イロというものは 写真のその本質を見失しなさしめるものであるとの考えなのです。 皆さんが綺麗キレイと感じているデジタル写真とは、あくまでもモニター&スクリーン上でのキレイという 感覚でしかありません。それは現実とは異なります。 有り体に言えば、そもそも現実感覚というものは人間の心の中、脳内に記憶としか存在しえないもの です。我々か写真を撮る際に記憶として裸眼の現実光景を心に写しとめるのですが、それこそが現実 だというものでしょう。そして写真として記録されたものはそれとは異なって改変されています。デジタル 写真ではそれがキラキラ色イロとなるわけです。 デジタル写真に於いて、黒白写真化するということは、意識的にこのキラキラ色イロの効力を減衰させる 意図があるということですね。そうすればより現実感覚に近づくのではないかということです。 ここまで書いてきて、この本意が理解できる人は殆どいないだろうということに気がつくのですが、それは ともかくデジタル写真での黒白写真の立ち居地はそういうところにあるのだろうと考えています。 つまり写真として、デジタルカラー写真よりもデジタル黒白写真のほうがより現実感覚に沿うものであると いうこと。それこそが写真の本来の役割に近いものであるのではないかということなのです。 最もデジタル写真も紙にプリントすればカラー写真でも問題がないと考えています。なぜならば紙出しは 反射光であるからです。しかしカラープリントをする前に関門としてモニター&スクリーンを通さなければ ならないのでどうしてもキラキラ色イロから逃れることは難しそうです。 この現実感覚に寄り近いだろうというデジタル黒白写真。その本質性に気がついたからこそ、もうカラー 写真にはもう戻れないだろうという気分になっているのです。 カラー写真よりも現実的な黒白写真。不思議だと思われるかも知れませんが、現代に於いてはそれは より本質に迫るかもしれないとう、現在という時代の現実感覚だろうと考えています。 当初はやがて飽きてくるだろうとして軽く考えていた私の黒白写真。それが時を追うごとにより強固に なっていくのですが、このような気分になったことは初めてのことですね。その理由を何とかして見つけ 出したいと願っているのですが、その判明し難い理由というのは、大体こんなところにあるのだろうと いうことです。 様々な複合的な理由によって起きているというのは確かです。しかし最大の理由としてこのデジタル時代 として、決して通り過ぎることのできないモニター・スクリーンが鍵を握っているように思われてならないの です。 ペンタックスK3M3モノクロームは、その表示デザインにおいても黒白を徹底しています。メニュー画面で カラー表示になる場合もあるのですが、背面モニターは通常は黒白での表示です。そこまでしなくても いいんではないかと思うのですが、設計者は黒白を一貫して貫いているようです。モニターはカラー液晶 なのでこれは意図的です。 設計者は意識的にユーザーが黒白世界に没入するようにしているわけですね。それでこのカメラは 相当に煮詰められて設計されているという気がします。それもある特定の個人が主導権を握って設計 したという感じです。なんというか、この技術者はカラー写真を否定しているのではないかと思うほど です。 つまりこのカメラはキラキラ色イロを徹底して排除してしまったカメラであるということです。カラーである のは光学ファインダーだけなんですね。その徹底ぶりに今更ながら驚いています。 この設計者の意図した徹底的な設計思想というものがなければ、もしかすれば私はこれほどまでに 黒白写真に没入しなかったかもしれません。無言で語りかけてくるキラキラ色イロの排除。 それでなのか、私は装着するレンズはシグマのレンズです。シグマレンズは一部ロゴに金字が使われて いるだけで地味な外観ですね。私はこのレンズがカメラにピタリと合っていると思っていて、純正レンズ を使わないでいます。バッテリーグリップもペンタ製ではなく自作改造のものを使っています。 このカメラこそが私にとっての玉手箱であったと思ってます。目覚めさせてくれたカメラですね。 もしこのカメラがリリースされなくて、またもしくは自分が手にすることがなければ、私のキラキラ色イロは まだまだ続いただろうということです。

雑文

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⑪ キラキラ色イロ主義が芽生えたのはデジタルからではありません。その発生はネガカラーフイルム からだと思っています。おそらく1980年代から。 私が黒白フイルム写真をやめてから20年余で再び写真趣味に舞い戻ったのですが、その当時は ネガカラーが全盛でした。そして当時の写真人たちのバブルさに驚いたものです。高級機をバンバン と購入して、猫も杓子もキラキラ写真・カラフル写真で舞い上がっていたのですね。 そしてデジタルカメラ、デジイチがぼちぼち出現した時代でもあったのです。 私が70年代に黒白フイルム写真をシコシコとやっていた時代とはまるでちがっていたので面食らった ものです。そして写真の文化には程遠いオジサン達も多く写真趣味人となっていました。 そのような人達を傍目に私は初期時代のデジタル写真をやり始めたのですが、しかしながらこの私 も次第に、彼らと同じく、今度はデジタルでもって、キラキラ色イロ写真に邁進していっというわけです。 カラーフイルム時代でキラキラ色イロ主義だった多くの方は、デジタル時代になってからは、大半は 写真趣味から離れていったのではないでしょうか。引き続き、デジタルでも写真をやられている人も 居るにはいるのでしょうが少ないだろうと思ってます。 それで時代を大きく分けますと、 1.黒白フイルム時代・・・カメラはメカニカルカメラ。当然にMFレンズです。 2.ネガカラーフイルム時代・・・カメラは電子制御カメラ。AFとMFの混在 3.デジタルカラー時代・・・勿論デジタルカメラですね。 私の場合、1から3に飛びました。2も少しはやりましたが。 この1から3まで全て体験された方を知っています。実はその方の影響で私はデジタルカメラに入った んですね。現在は90歳を軽く過ぎている方です。しかしこの人も正確に言えば、2は1の変形でして カラー写真はリバーサルフイルムを使っていたんです。このリバーサルカラーは1の時代に出現して いたもので、私も少なからずのカラーリバーサルを撮影していました。 この90歳余の先達は、黒白フイルム自家現像から始められたわけで、その当時の撮影は、私がやって いた写真スタイルや被写体などと共通するものでした。 そしてこの方が電力会社を退職して嵌ったのがカラー撮影でのヨーロッパ撮影です。10回くらい渡欧 されたんではないですかね。膨大なリバーサル写真を撮られていました。使ったカメラはコンタックス です。そしてツァイスレンズ。 そしてデジタル時代となってからは、主に撮り溜めたフイルムをスキャンしてそれを自費出版されると いう趣味にいきました。PCでスキャンして自分でプリントをして展覧会なども開いていました。 と同時に、キヤノンデジイチとかフジミラーレスカメラなどもデジタル写真として撮影されていましたね。 しかし私としては先達のパリのカラー写真なんかより、それ以前にやられていた黒白写真のほうに 理解を示したというか、気に入っていました。 結局、先達のカラーの渡欧写真はバブルといいますか、私が言うところのキラキラ色イロそのもので あったろうということです。先達とはパソコンでもって知り合いになったのですが、PCが不具合になれば 私に電話をしてくれて私は駆けつけたものです。当時の私はPC趣味まっしぐらでしたから私は重宝さ れていたのではないでしょか。(笑) 先達は有名な大学を出て地元大手の企業に勤め上げたわけですから非常に優秀な方でした。カラー 時代でも普通のオッチャン達の写真趣味レベルとは別格であったわけですが、それでもキラキラ色イロ 主義に嵌ってしまったわけです。 先達は機材の趣味ではなく撮影旅行の趣味がバブルでしたが、コダックのリバーサルフイルムを惜しげ もなく使い、旅費も相当なものだったわけですから、これも立派なキラキラ色イロ主義に陥っていたという わけです。 インテリ人でしたから写真と当時に随筆の趣味もあって同人会に参加して随筆作品も多く発表されて います。 年齢的に言えば、先達がヨーロッパ撮影真っ最中であったのと同じ位の年齢で、この私はキラキラ色 イロを捨てました。バブリーな写真から卒業をしたということですかね。 そういう意味で、私は先達を超えたかなって思うことにしています。(笑) 4.デジタルカメラでの白黒写真への一部復帰 これを上記の写真時代遍歴に付け加えてみたいと考えてます。 ライカが最初にモノクロームデジタルをリリースしたのは、2012年8月からでしょうか。初期モデルは CCDのセンサーです。2011年が東日本大震災だったのでその翌年ということになります。 1800万画素フルフレーム、カラーフィルターとローパスフィルターを搭載していません。この後に出現 したモデルはCMOSセンサーですので、CCDセンサーでは唯一のモノクロームカメラということに なります。 このカメラの出現でもって、デジタル黒白写真は出現したということになります。そして2023年の ペンタックスモノクロームが続くわけですね。 しかしだからと言って、写真時代がデジタルモノクロームに変わった、ということではありません。 時代は変わらずカラーデジタルの時代真っ盛りですから。その時代に於いて、極々少数の写真趣味人 がデジタル時代でも黒白写真が出来るということを初めて知った、ということであるのです。 2012年から2023年へは何と11年も過かっています。それほどにデジタルモノクロームの世界は マイナーであるということです。次のメーカーがモノクロームを出すのにはもう10年はかかるのでしょうか。 もちろん、ライカやペンタックスがなければ黒白写真は出来ないのか?というと、理屈的にはできない わけではありません。普通のカラーデジダルでもって、モノクロモードにするだけで黒白写真はできます。 しかしそれを永続してやり続けることはできません。 モノクロ専用機は絶対にカラー写真が撮れないのです。この違いはとてつもなく大きくて、そのカメラが 主張する声は厳格です。 私は現在、イオスでも黒白JPEG写真を撮っています。これもカラー写真にすることはできません。 そういうことではペンタックスモノクロームと同じです。しかしイオスは設定を変えればすぐさまカラー 写真を撮ることがでます。しかしペンタックスは永遠にカラー写真が撮れない。 こういう厳格さがあるからこそ、人はカラーを諦めて黒白に行くことができるんだと思っています。そして キラキラ色イロという世界から抜け出すことができるのです。 黒白世界からキラキラ色イロへ戻ることはできます。私もやがてはカラー写真に復帰するでしょう。 しかし精神的にはもう昔の自分ではないだろうということです。 人間は痛い目をして、始めて性根に入るというか自分を変えることができます。 モノクロカメラを使ったところで私は痛い目はしていないんですが、実はこのところ、体調は良くありま せん。とくにこの夏場は堪えました。どうやら不整脈が出ているようで不調の医術的な理由はこれの ようです。そういう意味では私は痛い目にあっているということでもありますね。(笑) 世界はどんどんと変わっていきますし自分自身も自ずと変化して行きます。いつまでもこれまでの やり方が通用するわけではありません。成功体験に拘ってはいけないんですね。積極的に変えてい かないと返って取り残されてしまいます。

無題

無題

モノクローム、黒白写真って何だろう?って考えているのですが、私の場合は写真を始めた時が 黒白写真だったわけで、当時はそれが普通であったわけですね。現在のようにカラー写真が当然で あり、モノクロというのは普通とは違うというのとはまるで事情が異なります。 歳をとってからは新しいことをしない。というのが私のセオリーでして、むしろ若い時期の過去に還る というのが望ましいかも知れないということで、それで今、黒白写真をやってます。 今回はRAW-PEFデータで撮影しました。リコーのデジタルカメラユーティリティ5での現像。ベースソフト はシルキーピックスです。私としては実に使いづらくて、特に表示フォントがダメです。字を変えたいの だけど変わらないみたいです。 この撮影レンズは50-200ミリのシグマです。一応は超音波モーターですね。メインとして使っている のはシグマ17-50F2.8です。これも超音波。広角がなかったので発注しましたが10-20F3.5シグマです。 私としてはペンタックスブランドに未練はなくて、ただ単にモノクロカメラだから手にしただけなので、 レンズがシグマになったからといって何の違和感はありません。 キタムラの営業員の方に聞くと、ペンタックスユーザーの方は義理堅いそうです。熱烈なファンといい ますか、私は一生ペンタックスで行く、という感じだそうです。中古のペンタックスレンズの出足は早くて 偶に入荷すると直ぐに出る(売れる)そうです。レンズもカメラもめぼしい中古陳列がなかったです。 私はそういう純粋なペンタックスファンではありませんのでシグマのレンズを使っても平気ですし、 バッテリーグリップも純正ではなく(中古なし)、二コンのものを付けてます。これが不思議にピッタリと 合うというか。(^^ゞ