雑文
Exif情報
メーカー名 NIKON CORPORATION
機種名 D800
ソフトウェア Microsoft Windows Photo Viewer 6.1.7600.16385
レンズ 35mm F1.4
焦点距離 35mm
露出制御モード ノーマルプログラム
シャッタースピード 1/160sec.
絞り値 F10
露出補正値 -0.3
測光モード 分割測光
ISO感度 100
ホワイトバランス オート
フラッシュ なし
サイズ 2456x3680 (6.67MB)
撮影日時 2015-11-23 22:34:03 +0900

1   kusanagi   2023/11/24 21:25


黒白でのみ写真をしていると、カラー写真が本当に羨ましく感じます。(笑)
皆さんがカラー写真で満喫堪能されているのを見ると、なんてセレブな人達だろうって感じますね。
方や私の方は赤貧の生活を送っているようなものです。とにかく、カラーと黒白の間にも物凄い格差が
あるんですね。
カラー写真はほんとうに素晴らしいです。それはカラー写真を捨てると身に滲みて分かります。
しかしながら、カラー写真が羨ましいと感じているのでは、またまだ私は黒白写真を知らないのだろう
と思ってます。

【海外の反応】「日本人は恐ろしい民族です」と中国のTV放送で語るハーバード大学の教授の真意とは!?【総集編】
https://www.youtube.com/watch?v=_IvR-ivvwR4
ここではマイケル・サンデル、P・F・ドラッカー、ラムザイヤーの3氏が紹介されているのですが、私が
関心を持ったのは、ドラッカー氏が室町時代の水墨画や禅画などに関心を持ち、コレクターであったと
いうことでした。雪舟に代表される水墨画はほぼ黒白の絵です。これは、なるほどと感じました。
ドラッカーは経営学者であるわけなんですが、それは占星術では土星となります。

とにかく、カラー写真は黒白写真の次に来た写真であって、あらゆる面で黒白写真よりも優れているの
ですが、それは情報理論、とくに情報量の大きさに関してです。黒白写真は絶対的にこの情報量に
関してはカラー写真に太刀打ちできません。
しかしユーザーが、人が感じるその情報の質的なものに関しては話は変わってくると思っています。
つまり多すぎる情報量は返って質的感覚として妨げになる場合もあるのではないでしょうか。
黒白写真はカラー写真からすれば、削ぎ落としの理論とも言えなくはないですね。情報の削ぎ落とし
として黒白写真を見るということ。つまりは贅肉を落とすということですか。

非常に根本的な話をしたいのですが、我々が写真の趣味をすることは、その目的というものは、それは
一体何なんでしょうかね。
写真のコレクションでしょうか。色んなものを沢山撮ってそれを集めることでしょうか。写真も物のひとつ
だとすると物集めの楽しみでしょうか。
現実的にはそのようになってしまっているかも知れませんが、それを写真行為の目的だとはっきり言え
る人はあまりいないだろうと思います。結果として写真がコレクション的に集ったということはあるでしょ
うがそれが本当の目的ではないですよね。
また写真をすることの楽しみやその集積とか思い出とか言うのも簡単すぎます。

写真行為を重ねることで何らかの人生的な獲得物があるのではないかと考えるのが普通だろうと
思われます。写真はモノかも知れませんが、写真行為はモノではなくもっと何かの得がたいもの、それ
を捜し求める、いや結果として獲得することか目的と言えばそうなのかもしれませんね。
簡単に言えば人の頭の中にあるもの、それが本来の目的かもしれません。

ディアスポラという言葉があります。これは民族離散の憂き目にあった彼らの歴史を言うのだそうです。
その迫害の歴史を持つユダヤ人が、度重なる迫害によって、どうしても失うことがないものは一体何か
というと、それは奪われることのない頭の中の知識とか智恵とか思考能力とか、そういう物質でなく
形のないものであって、これだと迫害を受けても無一文になって放り出されても生きていけるということ
だそうです。
それでユダヤ人は子弟に教育を受けさせて、その頭の中のもので生き抜いていきなさい、ということ
らしいです。よく知りませんけどね。
人生において築きあげた家庭や家とか土地とか仕事や会社とかいうものは、これは迫害を受ければ
簡単に喪失してしまいます。家族は離散し、物は何一つない無一文で放り出されてしまいます。命が
あるだけまし、という具合です。

そういう究極の状態で我が身を保つものは何かと言えば、それはやはり個人の頭の中の蓄えた何かと
いうことになります。その財産のようなものです。とにかく生きている間はそれが頼りになるという具合
です。ユダヤ人が優秀だといういうのはそういう考え方の歴史があるからのような気がしますね。
これは究極の個人主義的な生き方とも言えなくはないのですが、我々日本人には想像もつかない厳しい
歴史的現実があったればこそかもしれません。

こういう話をしたのは、もしかすれば写真の行為のその原理というのも、そういうものと無関係ではない
のだろうかということです。もちろん知識全般がそうであるわけですが、その中のひとつに黒白写真と
いうものがあるのかもしれないということです。
写真は知識体系の学問と絵画芸術の間に位置するという感じですけど、物質というものがなくても成り
立つということでは、芸術というよりも知識に属するのかもしれません。

予め自分の結論を出してしまいましたが、カラー写真はともかく、黒白写真というものは画像というモノ、
物質がなくても成立する写真ではないかということです。現実が物質としてのカラー写真だとすれば
黒白写真はそのゴーストのような気がするのです。
これは飽くまで現在のデジタル時代における私の印象です。デジタル黒白写真は、写真でありそうで
いて、写真ではないのかも知れないと。物ではなく頭の中のゴーストのようなものかもしれないと。
しかしそのゴーストのようなものが、いざとなれば生きることに大変な威力を発揮してくれるのではないか
ということなんです。そういう生きる知恵のエッセンスが詰まっているような感じだと。

ところでピータードラッカー氏がその経歴からみてユダヤ人ではないのかと思う人は多いでしょう。
調べるとやはりそうだったようです。正確にはユダヤ系というようです。20世紀の知力の代表的な存在
であるドラッカー氏ですが、そういう人物が水墨画などの黒白芸術を好んでくれたのが嬉しいような気持ちになります。

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