リコー GXR A12 作例

2011年9月9日発売

GXR A12の仕様

シグマ新型sdシリーズ

シグマ新型sdシリーズ

シグマから新型sdシリーズがでました。 http://www.sigma-global.com/jp/cameras/sd-series/ 予想通り、シグマsdシリーズは光学ファインダーは捨てて、ミラーレスカメラになりましたね。 少し驚いたのは、APS-Hセンサーを出してきたこと。最初はどうせAPS-Cセンサーだけ だろうって思っていたのですが、これは意外でした。もちろんフルサイズは次のモデルに とっておくようです。(これは予想どおり) 残念だったのが、フランジバックが旧モデルのSD1Mと同じだったこと。これだと特別に 自社製マウントアダプターを介助せずに現行シグマSAレンズが付きますが、残念ながら ソニーアルファ7のようなマウントアダプター遊びが殆ど出来ません。 ここが大きく残念だったこと。 しかしいずれ新マウントが出る可能性は残していますね。できれば、ソニーと話をつけて ソニーEマウントでやって欲しいです。既にシグマはEマウント用のレンズを出しています。 もちろんレンズとボディとは違うわけですが、しかしソニーしてもシグマというマウント仲間 が増えるのは悪くない話でしょう。ユーザーとしてもシグマdpクワトロにソニーやコシナの ツァイスレンズが着くのは魅力です。 デザインは良くなりました。よくなったと言うのは、勿論dpクワトロのデサインに比してです。 あのバカみたいなデザインで、シグマのユーザーはげんなりしていましたからね。 (お陰でシグマ関連のどのネットサイトも開店休業状態に追い込まれましたから(^^;) とにかくあのデザインを採用を決定した人間は大きく反省したようで、今回は実用本意の シンプルでかつ小ぶりな好デザインで登場してきました。 グリップが小さいので実際にはバッテリーグリップを着けて使う人が殆んどでしょうけど、 外せばうんと小型になるのは良いです。 面白いのは、これ! シグマ・マウントコンバーター MC-11 http://www.sigma-global.com/jp/lenses/cas/product/accessories/mount-converter/ 対応マウントは2種あって、CANON EFレンズと、IGMA SAレンズ。これをソニーアルフア7に 着けられるようにするのです。 シグマはついにマウントアダプターメーカーにもなったようです。(^^; この手のアイテムは海外製ばかりでしたが、いつ迄も海外メーカー(特にチャイニーズ)ばかりに 儲けさせるのはしゃくじゃないですか。(^^; よくぞシグマ、やってくれたなって喝采です。 これからは各種の電子デバイス搭載のマウントアダプターを出して、チャイニーズメーカーを 駆逐しないといけませんね。 とにかく、アルファ7を持っている方は、このアダプターでもって、キヤノンレンズがアルファに 着くのだから是非に手に入れたいものです。 ついでにニコンマウントのシグマレンズをアルファ7に着くアダプターも出して欲しいのだけど、 シグマはニコンと仲が悪いから、難しいかな。(^^; 時代は、ミラーレスカメラになりました。 私もソニーアルファ7Rを遅ればせながら手に入れてみて、その大きな可能性に驚いています。 もちろんミラーレスカメラもやはりフルサイズでなければ面白くないです。特に私のように 広角レンズが好きな人間としてはフォーサーズやAPS-Cセンサーでは全く物足りません。 ですからシグマも次のsdクワトロはフルサイズでなければなりませんね。今回、APS-Hサイズ が出たのは、もちろん次のモデルはフルサイズだよっていうシグマの暗黙の信号です。 とにかく、APS-Cサイズの枠を突破したミラーレス機としては、アルファ7についで2番めの カメラになったわけです。これは画期的なことですね。

ちょっとおもしろい記事がありましたので転記します。その①

ちょっとおもしろい記事がありましたので転記します。その①

塩飽本島歴史探訪67 塩飽水夫の海難事件(一) 既に述べたように、塩飽は古来廻船業で栄えた島ですが、その栄光の陰には、難風にあって沈没したり、異国に漂流するなどの大きな犠牲があったことを忘れてはなりません。 島の墓石を調査していくと、海難でなくなった人の墓を見ることがままあります。 昔の和船は一枚帆に限られて、他に動力を持たず、天候の予測も長年の経験や勘を頼るのみで、大海で暴風に遭い帆を失うと、ただ漂流に任すより手段がありませんでした。 塩飽勤番所に残る古文書の中にも、海難の記録がいくつもあります。 たとえば、元禄五年(一六九二)牛島の廻船に乗り組んだ沖船頭源左衛門ら一四人が越後国(新潟県)の城米(幕府の年貢米)を江戸へ運び、空船で帰る途中一一月二六日に遠州灘で大風に吹き流され、翌年二月二九日中国福州のふとうざんという所に漂着しました。 そこで介抱を受け逗留しているうちに、幸い長崎に行く商船があり、これに便乗して同年八月八日に帰国しました、長崎奉行からの連絡により、塩飽の年寄宮本伝右衛門が長崎に出向いて、塩飽の水夫六人を請け取り、大坂川口奉行に届けたところ、「六人の者共は他国へ出してはならぬ、亡くなった節は早々に注進せよ」と命じられたということです。 次に、生ノ浜の水夫幸助が伊豆沖で遭難し、無人島に漂着して五年後に奇跡的に生還した記録を紹介します。 川口御支配松平孫太夫様へ指出候書付ひかへ 塩飽勤番所所蔵

ちょっとおもしろい記事がありましたので転記します。その②

ちょっとおもしろい記事がありましたので転記します。その②

塩飽本島歴史探訪68 塩飽水夫の海難事件(二) いまから二五〇年程昔の話ですが、生ノ浜の幸助という人が、水夫として紀州の蜜柑船に乗り組み、尾張国へ行きましたが、伊豆沖から大風に吹き流され難破して帆を失いようやく南方の無人島に流れ着きました。やっと上陸した五人の乗組員は、火がないので島を回ってたこなどを拾ったり、かもめのような鳥が、日暮れになると集まってくるのを捕らえて食し、命をながらえておりましたが、やがて三人は次々と亡くなり、幸助と泉州(大阪府)の藤助の二人が生き残っておりました。 この島は、周囲が三里(一二㌔)ばかりで、全島かやでおおわれ、かやをかき分けて探したところ、三・四畳ほどの洞穴が見つかりました。内に入ってみると、亨保年中(一七一六~)遠州(静岡県)筒山の五兵衛船が流れ着き、乗組員がこの穴でしばらく生活していたことが岩に書きつけてありました。穴の中を調べてみると、なべが一つあり、鳥などを炊いていたようで、その脇に火打ち(昔の発火道具)が落ちていたので、ようやく火をこしらへ、それから後は水煮して鳥やたこを食べて暮らしておりました。 五年後のある日のこと、大風のあとに泉州河手村の船頭左市の船が、これも紀州で蜜柑を積み、熊野の沖より吹き流され、無人島沖で風がなぎ、いかりを入れたので、島にいた二人が泳ぎ着き乗船してみると、同じ国のかねて懇意な仲間でしたので無事の再開を喜び、その夜は全員が島で夜を明かしました。 翌朝は順風になったので島を離れ、江戸に行き役所の尋問を受けてそれぞれ帰国し、幸助は更に大坂川口奉行の取り調べを受け、宝暦九年(一七五九)二月塩飽の年寄宮本伝太夫に連れられて島に帰りました。その後島であんまなどの仕事をしていましたが寛政元年(一七八九)相果てました。 塩飽勤番所蔵 「指上げ申書付ひかえ」より

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