メーカー名 | RICOH |
機種名 | GXR A12 |
ソフトウェア | Capture One 7 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 18mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/800sec. |
絞り値 | F7.0 |
露出補正値 | +0.0 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 200 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 2000x1328 (1,763KB) |
撮影日時 | 2016-01-10 08:42:13 +0900 |
塩飽本島歴史探訪68
塩飽水夫の海難事件(二)
いまから二五〇年程昔の話ですが、生ノ浜の幸助という人が、水夫として紀州の蜜柑船に乗り組み、尾張国へ行きましたが、伊豆沖から大風に吹き流され難破して帆を失いようやく南方の無人島に流れ着きました。やっと上陸した五人の乗組員は、火がないので島を回ってたこなどを拾ったり、かもめのような鳥が、日暮れになると集まってくるのを捕らえて食し、命をながらえておりましたが、やがて三人は次々と亡くなり、幸助と泉州(大阪府)の藤助の二人が生き残っておりました。
この島は、周囲が三里(一二㌔)ばかりで、全島かやでおおわれ、かやをかき分けて探したところ、三・四畳ほどの洞穴が見つかりました。内に入ってみると、亨保年中(一七一六~)遠州(静岡県)筒山の五兵衛船が流れ着き、乗組員がこの穴でしばらく生活していたことが岩に書きつけてありました。穴の中を調べてみると、なべが一つあり、鳥などを炊いていたようで、その脇に火打ち(昔の発火道具)が落ちていたので、ようやく火をこしらへ、それから後は水煮して鳥やたこを食べて暮らしておりました。
五年後のある日のこと、大風のあとに泉州河手村の船頭左市の船が、これも紀州で蜜柑を積み、熊野の沖より吹き流され、無人島沖で風がなぎ、いかりを入れたので、島にいた二人が泳ぎ着き乗船してみると、同じ国のかねて懇意な仲間でしたので無事の再開を喜び、その夜は全員が島で夜を明かしました。
翌朝は順風になったので島を離れ、江戸に行き役所の尋問を受けてそれぞれ帰国し、幸助は更に大坂川口奉行の取り調べを受け、宝暦九年(一七五九)二月塩飽の年寄宮本伝太夫に連れられて島に帰りました。その後島であんまなどの仕事をしていましたが寛政元年(一七八九)相果てました。
塩飽勤番所蔵 「指上げ申書付ひかえ」より