無題
Exif情報
| メーカー名 | SONY |
|---|---|
| 機種名 | α77 |
| ソフトウェア | Capture One 7 Windows |
| 焦点距離 | 50mm |
| 露出制御モード | ノーマルプログラム |
| シャッタースピード | 1/80sec. |
| 絞り値 | F2.8 |
| 露出補正値 | -0.3 |
| 測光モード | 分割測光 |
| ISO感度 | 1600 |
| フラッシュ | なし |
| サイズ | 2048x1365 (1.78MB) |
| 撮影日時 | 2015年02月12日(木) 10時18分 |
まず、イメージありき。 多くの人々が写真機材の何かを新しく購入するとき、脳内でイメージを膨らませている はずです。たとえば自分は夕日の太陽が大きく映り、水平線に沈んでいく有り様を撮り たい。とイメージしていたとします。 そうすれば超望遠レンズが欲しい、さらに大型の三脚が欲しい。となるわけで、その ふたつの機材を購入するために、大きく夕陽のイメージを働かせているわけなのです。 このイメージングは機材を購入する時だけでなく、何処そこに撮影に行きたいと決意 するときにも働くはずです。その場所が遠ければ旅費は嵩むので機材購入時と同じく、 決定にはイメージを膨らませ続ける必要があります。 そのイメージの源流とは、大体は他の人が撮った写真や映像である場合が多いのでは ないでしょうか。言ってみればこれは模倣ですね。自分が考えたイメージというもの ではありまん。 これが多くの人達が陥りやすい罠とでもいうものです。 なかには映像ではなく、旅行記などの文章を読んでとか、知人に話を聞いてとか、 それでイメージを膨らませていく人もいるでしょう。これはちょっと模倣とは違います。 自分の思考力というものが働いています。 私が今、里山で記録的に撮っている写真は、そういうイメージというものが最初から ありません。体力づくりでもって何処そこの山に登りたいと決めて、カメラは歩く 為の道具として持っていくわけですから、最初からイメージは湧いてこず、ぶっつけ 本番での撮影であるわけです。 つまりイメージなき撮影であるわけです。 写真撮影をするとき、大きく分けて二つのタイプに分類できるとすると、最初から よく調べてイメージを持って撮影に望む人と、そうではなく、ちょっとした思い付き で出かけて、現地でぶっつけ本番で撮影する人のふたつです。 もちろん一人の人にその両タイプが存在しているわけで、どちらかの比重になるかの 違いだけでしょう。 それで撮影として面白いのは、予めのイメージを持たずに出かけたケースではないで しょうか。思いがけず良い光景に出会ったとか、こんな美しいところだったのかと 感激をするのは、予断イメージを持っていなかった場合が多いです。 そして最初にいくら詳細に調べてイメージを膨らませていても、現地へいけばあっさりと そのイメージが覆される場合が多いのも面白いところです。良い意味で裏切られると いうのは痛快ですね。 なんだ、こんなものだったのかという場合もあるでしょう。私はそういうガッカリと いった場合には、それは自分が未だ探せていないだけだとして、現地で探し込みます。 そうすると良い場面に遭遇するのが常です。 写真とは常に自分の脚で眼で探すことである。いつまでも脳内のイメージで思い続けて いてはいけないと考えています。 そういう場合、その威力を発揮するのは自分の手足のごとく自由に動けるカメラです。 カメラというのは、外部の機材であるという違和感覚を少しも感じさせないものが良いと 思っています。 そして何よりも、そのカメラを常時手にもっていて速写性を保っていることが肝心です。 バックに入れたままとか肩に掛けたままでは反射的に撮影することができません。 歩いている間中は、常にカメラは手に持っていること。これが絶対条件だと思ってます。 ところで私の大昔からのカメラ感覚は、戦場カメラマンのカメラです。 戦場カメラマンの写真こそが写真の中の写真であると、若い当時の私は思っていました。 当時はベトナム戦争たけなわのころです。 その頃は今と違い、カメラにはケースが付いていました。そのケースを着けて写真を撮る というのが普通の感覚でしたね。皆がそうしていたように記憶します。 それで私は、戦場カメラマンと同じように、カメラケースを捨てて、むき出してカメラ を手に持って撮影することにしました。 現在ではカメラケースというものはありませんね。部品の密着性が良くなったので ケースは必要がなくなり、さらには防塵防水性まで獲得しています。 現在のカメラでは、私が付加して改造をするのは、手に持ちやすくするためにラバー などで滑り止めをしたりテーピングをしたりすることです。言ってみればこれが私に とってのカメラケースかもしれません。(笑) とにかく、メカニカルカメラの時代にカメラケースを捨てたことは、私の心の中では 革新的なことであって、それ以降、私のカメラは、いかにカメラを操作しやすく、 持ちやすくするかの追求であったような気がしています。 そして戦場カメラマンの精神として、予断のイメージでもって撮影をしてはいけない、 というのもあります。それは現地でその場で判断すべきものであり、思い込みで写したり 語ったりしてはいけないというものです。 おそらく私の中では、あの当時の時代の雰囲気、ベトナム戦争などの社会的な空気が 刷り込まれて、それがこの今も続いているというような気がしてなりません。 平和な現代では時代錯誤も甚だしいということかもしれませんね。 私の写真感覚を形作ったのは、当時主流の黒白フイルム写真だったというだけでなく、 当時の世相というものも、根底に深くあり続けているように思えます。三つ子の魂、 百までと言いますが、そんな気がしています。 ですので、写真は芸術だ、表現だというのは凄く違和感があって(これは80年代以降の カラーフイルム時代からです)、どうしてもそういう平和な写真感覚には馴染めないで いるのです。 ベトナム戦争の前は、終戦直後から始まったリアリズム写真でした。これも第二次 世界大戦という戦争のシリアルな結果で生まれたものです。 今の日本の時代は戦争というより自然災害というのがピッタリとするのかも知れま せんね。もちろん世界的には既に第三次戦争が始まっているという人もいて、戦争は すぐ迫っているのかもしれませんれど、今の日本の人々の感覚としては東日本大震災 からの自然災害のイメージが強いでしょう。これはやがて南海トラフ大震災に続く わけです。 それはともかくとして、多くの人々の実態はまだ平和な国というイメージに浸った ままです。 それが悪いというのではありませんが、写真世界に於いてもこの平和な花鳥風月が 続いています。 そういう私も他人事ではなかったわけで、平和すぎる写真を続けてきたなって 思います。それが少し変わったかなって思うのは、しっかりと体力をつけようとと 考えて、手段として里山にカメラを持ち出してからです。 里山には昔から登っていましたが今回は本格的に行こうや、ということで、カメラ1台 でレンズ1本のみのスタイルでした。記録撮影ということで余計なことは考えずに 交換レンズもなくそれだげて押し通すことにしたのです。 このシンプルさが結果的に、若い時期の黒白フイルム時代の写真感覚を思い起こした という気がしています。 撮影はノーファインダーが基本。もうこれ以上は省きようがないほどのやり方で しょう。完全に無駄欲を排したスタイルですから。 とにかく、このカメラが一台というやり方をここ数ヶ月ずっと押し通しています。 持って行くカメラ自体は適当に変わったりするんですけど、カメラ1台と着けたレンズ ひとつだけというのは変わっていません。それを不自由だとは思わなくなりました。 むしろ自分は自由になったような気がしています。 もちろんカメラは徹底的に持ちやすく使いやすくしています。 まだズームレンズを使用しているのですけど、実際はその最広角で撮るのが殆ど なので単焦点レンズで撮るのとさほど違いません。とにかくレンズを交換すると いう手間がカメラのシンプルさを最初に損なうという感じです。 徹底的にシンプルであること。わずらわしさを排するということ。これが有意義で あったのだという気がしています。そうすることで何かに近づくということらしい ですね。その何かというと、きっと写真の本質だろうと思ってます。 現在ではそれがスマホで写真を撮るということかもしれません。 いまでは殆どの一般の方々はカメラを捨てて、スマホで写真をとります。 以前、この掲示板で山岳写真を撮られて投稿されていた人が、最後に、もうスマホ で良いじゃないかと言って掲示板から去って行ったことがあります。なんとなく 分かるような気がしてますね。 それは人に見せる為の写真なんてしなくていいんじゃね、ということでしょうか。 写真は芸術だとか表現だとかいうから、写真を他人に見せて評価して貰わないと 完結しなくなるんだけど、それを吹っ切ると、写真はシンプルなスマホで十分なん ですね。自分の記録の写真だけの意味になるからです。 というより、現代ではスマホこそが写真の本質を見抜いているという気がしてます。 しかし残念ながら最近のスマホはAIで作っていますのでリアリティが欠けてしまう のが惜しいです。それから以前のコンパクトコンデジと同じでスマホは軽すぎます。 それでも良い線を行っているのがスマホであって、多くの人達が利用しているのは 納得がいきますね。 スマホの視点から見てみると、私がいま使っているデジイチは重さと大きさ以外は スマホに近づけていることに気づきます。機能として使い勝手としてスマホに接近 させているというわけです。これは結果としてであって今気づいたことです。 いま世界中でスマホによるショート動画が撮られていて、それがネット上にアップ ロードされています。ウクライナやロシアで撮られた爆撃シーンなどです。それは 戦場写真であるわけで、いうなれば時代を写し撮る戦場カメラでもあるのです。 ベトナム戦争ではプロのカメラマンがメカニカルカメラで報道していたけれど、 今では無名のスマホユーザーがインターネットで報道をしているというわけです。 そしてさらに最近ではAIによる偽動画や偽写真がネットで流される始末です。 しかしプロパガンダということで戦前も偽写真は横行していたので新しい現象と いうことではありませんね。 自分にとって写真とは何か。ということを追求していくことは大切なことだと 考えています。ともすれば時代に流されて自分を見失っていくのが世の常です。 自分の写真を取り戻すということでしょうか。これにはゴールというものはない わけで永遠に問い続けていくことになります。 デジタル写真になって、以来ずっと、私が過去にやっていた黒白フイルム写真と、 そして今のデジタルとの間には大きな乖離というものがあって、それにずっと 悩んでいたというところがありました。 少し氷解したのは制限の多い特殊なカメラ、モノクロ専用機を使い出してからです。 これで嘘のように新しい機材が欲しいという欲が消滅しました。 それでもまだ納得をしていずで、モノクロカメラでの撮影は楽しいというわけでは なかったからです。奇妙に作為的に無理をしているという感覚がありました。 それがさらに吹っ切れることになったのはカラーデジタルに戻して、撮った画像は 完全に見ないことにしようか、と決めてからです。 そうなってくると撮影に持ち出すカメラは何でもよくて、1台で十分じゃねってなり、 それが今に至っているわけです。 これで手軽に撮影に出かけることができるようにはなりました。この手軽さは重要 ですね。 そうこうしてくるうちに、制限だらけのカメラや写真であるはずなのに、写真撮影が 楽しく感じられるようになって、つまり現実の制限とは真逆に写真として自由な感覚が 芽生えてきているように感じられ始めたのです。 なるほど、それは若い頃に写真を始めた時は、カメラ1つにレンズひとつだったじゃ ないか。その当時は撮影も写真も自由で楽しかったんですよね。 きっとそういう昔の感覚に立ち返っただけのことだったんのかもしれません。 今は馬鹿みたいに古いカメラばかりですけど所持してます。しかし撮影に出かけるとき には一台しか持って行きません。ばかなカメラコレクションとは別に、撮影行では大きな 制限をかけて昔の初心に戻る。これで中々有効であって、たったそれだけで自由と楽しさ を得ることができるようです。 こんな簡単なことに気が付きませんでした。 ああしようか、こうする場合もあるかも、と雑念を野放しにしていたからこそ、写真が 詰まらなくなっていったのではないかと思い始めています。 しかしここまで書いてきて、カメラ一台レンズひとつのスタイルはかなり前からやってます。 1~2年前から。ペンタックスばかりで撮ってましたが、さほどに楽しいとは思えてなかった です。里山だけに突出した撮影ではありませんでしたが。 しかしそれが、楽しいな、自由だと感じ始めたのはここ最近の1~2ヶ月ほどです。 ペンタックス以外のカメラも取り出して使ったからでしょうか。 それは多少はありそうです。やはり一種では飽きますからね。 しかし、そういう理由よりもこれは里山歩きによる身体の向上が利いて来ているのでは ないか、という気もしているんです。自分の身体と心が以前とは変わってきているから、 写真への感じ方も変わりつつあるのだと。 もしそうだとしたら、嬉しいです。でもそう簡単なものではないでしょうね。 しかしシンプルに言えば、筋肉を動かせば人間、自然とやる気が出でくると言われます。 そういうのはあるんじゃないかって思います。 平地でダラダラと歩いて撮影をするのと、傾斜地の山地で筋肉を強く刺激しながら撮影を するのとは違うのじゃないかと思います。 それからペンタックスは軽かったです。1キロくらいしかないですから。それを鍛錬という 目的で2~3キロのカメラに変えました。これもあるんじゃないかって思います。 さらにいうと平地と山では、人々のカメラや写真に対する見方が違うというのもあると 言えます。山では評価した見方をしてくれます。これもあるのじゃないかって感じてます。 しかしこれは余禄ですね。 いろいろと考えながらこのコメントを書いているのですが、一番に可能性があると思うのは、 それは、シンプルに設えたカメラではありません。筋肉が鍛えられて積極的な考え方ができる ようになった、というのでもありません。 考えてみますと、山道で撮る被写体なんてあるもんじゃないです。それに私は写真を撮る ために山歩きをしているのじゃないですね。ただ手ぶらだと寂しいからカメラを持って 歩いているだけです。撮った写真を後で見ることもない。 それでも淡々と写真を、いやシャッターを押しながら山道を歩いてます。 ということは、・・・・・・ 私のカメラのシャッター音は、私の脚の歩みそのもののカウントであるのだろうということです。 なので、最近、写真が楽しくなり自由に感じせれるようになったという印象は、写真やカメラ のことではなくて、里山歩きそのものが楽しくなり自由感を得られるようになったということ じゃないですかね。 やっと山歩きに慣れてきた、やっと山歩きの楽しさがわかるようになっていたということかも 知れませんね。それを写真として擬似的に自分が捉えているだけなんだということです。 本格的に里山歩きをやりだしてから4ヶ月余。たしかに山歩きに慣れてきて良い時期です。 そしてカメラは山歩き以外には全く使っていません。
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