ペンタックス 645D 作例

2010年6月11日発売

645Dの仕様

投稿写真 61枚

無題

無題

もう偶にしか閲覧しないフォトXPですが、皆さん元気で写真を撮られていて頼もしい限りです。 写真撮影は確実に歩き運動になるので、私も是非とも続けたいと願ってはいるものの、個人的に 家のリフォームが切羽詰っていて、なかなか撮影の時間がとれません。 ちょっとシックハウスと言いますか、化学物質(過敏)症になっているみたいです。眼が疲れ、頭痛 が出て、皮膚も荒れて歯周病も少し、という具合。暑さのせいもあるのかな?って思いもしたん ですが、やはり問題の部屋に入ると(締め切っていれば)、臭いがツンときますから。 これまでは窓と戸を開けていたので気づかなかったわけですが、エアコンを入れるようになり、 締め切ると部屋の異臭を感じるようになったんですね。 ファンを設置して常時、機械換気をする手もあるんですが(通常はこれです)、私は、先のことを 考えて、思い切って、異臭の発生源と思われる壁紙(塩化ビニールと紙の合紙)を剥がすことに しました。 この壁紙は10年位前に張り替えたと思われます。それ以前は建築当時の布製の壁紙でした。 これはエアコンの設置跡の壁面で分かりました。ついでにエアコンのダクト穴から、家の壁の 構造も判明でき、こういうのは結構役に立ちますね。 部屋の大きさは11畳くらい。洋間で床のフローリングと吐き出し窓以外は、全て塩ビの壁紙を 貼っています。壁と天井と引き戸とドア。面積的にはかなりのものですが、これを全部はがす わけですから、DIY作業としては大変で1ヶ月を見込んでいます。ほぼ半分はやれたかなっていう ところで、正直、疲れました。(笑) でも作業はまだ半分。 塩ビのシートを剥がすだけでなく、糊の接着層まで綺麗に取り除かないといけないので、手作業 の雑巾掛けが重労働なんです。そして下地のベニヤ合板をむき出しにしています。 その後はどうするか。新しい自然素材の紙の壁紙を貼るか、問題のないニス製品を探して塗るか、 それとも下地のままにするのか。思案中ですがとりあえず大部分は、そのままにしようと思って います。一部の戸やドアだけは試してみてもいいですね。 普通の人はこういうことはしないでしょう。せっかく綺麗に貼られている壁紙をひっぱがすなんて。 化学物質の異臭が気になれば空気清浄機を入れるか、ちょっと気の利いた人は換気装置を 入れるくらいです。(私も換気ファンは入れるつもり) しかし私はリフォームの向学の為と、それから家自体にも塩ビのシートの内壁は良くないと思い、 それで異臭を感じた時点で壁紙の剥がしを決定しました。というか、実は最初から直感で、 壁紙の部屋は問題を抱えていることが分かってしましたので。(その他の部屋は問題があり ません) この直観力で自分の意思決定と行動を起こすのは、私のように4次元思考をする人間の特徴 でして、合理的科学的説明は後で行います。(笑) 4次元思考法は気が向けばそのうち書く かもしれませんが。 そんな具合で家のリフォームで大変というか、写真の撮影をする時間がとれません。 家は、実際に自分で住んでみながら、ここはこう直したほうが良いとかが分かるのであって、 住む前から机上でリフォームをするのは不具合か多いです。リフォームも業者任せでは気が 通わずで、やはり自分でDIYでするのが一番です。 この夏のエアコン設置も1台は自分で設置し、あと2台は業者に依頼しましたが、下準備と 後処理は自分で行いました。完全に人任せにすると、ろくなことがありませんから。 この夏の暑さは異様なほどで、周囲の皆がそう言います。ここ香川は、日本一暑い県です。 夏場は湿気が高く、気温以上に暑く感じられる地域です。(周囲が内海なので) 断熱リフォームが中断していますが、来年の夏までにはやりたいですね。ひと夏過ごすと、 問題の箇所が炙り出されます。 少し落ち着いたら写真の撮影に出かけたいのですが、とにかく仕事と、私事に追われる 毎日でして余裕というものがないのです。写真撮影の願いが叶うのは晩秋になるのかも。 家のリフォームで分かったことてすが、日本人の美意識、つまり、 『見かけが綺麗でよければ、機能や健康を犠牲にしてもよい』 という美学は、衣食住という人間の基本にとって、かなりの悪影響を及ぼしていますね。 まかり間違えば日本民族を滅ぼしてしまいかねない事態にまで行くかもしれないと感じ ました。 写真に於いても、徹底的に、この日本人の美学、本来の機能と健康をすら犠牲にする という間違った美意識を排除しないと、本当の写真はできないと強く感じました。 日本の見かけ美は自滅の美学であり、もしかするとこの美意識のせいで日本は本当に 自滅するのではないかと思うほどです。 黒白写真はその点、最初から見かけ美のない写真です。機能だけは確りとありますが、 人目を引く見かけの美というものが排除された写真です。 そこにこそ、これからの新デジタル写真の時代をリードする決め手があるように思います。 ただただ綺麗で美しく、浦島太郎の龍宮城のような写真は、日本人特有の自滅絶滅美 の写真です。まあ、道楽趣味の日本写真が自滅しても構わないんですが、問題は 日本人の美意識が衣食住という基本にまで及んでしまっているという危機感が大切だと いうことですね。 ※撮影をしていないので、上げる写真がなく、仕方なく過去の撮影記録から。 アホみたいに大きなデータ量の写真ですが、とある街角です。1960年代70年代に建てられた 住居の街並みですが、その中に地蔵尊があり、その石の門が、古代の古墳の石室と同じなの が気を引きました。1700年前の古墳時代と、少し前の現代が仲良く並んで街の光景となっている。 いかにも何でもありの日本らしいです。 地蔵さんの覆いはブロックで作られていて屋根はコンクリートスレート葺きです。おそらく周囲の 住居群と同時代に作られたようで、街並みに自然に溶け込んでいます。 道路地面は最近に、この地区が美観地区となりカラー舗装されたようです。舗装の色がまちまち なのが楽しいですね。 あっ、そういえば、以前から街並みを撮影したいと願っていたのですが、このところの自宅の リフォームで私も大分、住宅や建築の知識が増えてきました。やはり対象物に深い知識がないと 撮影しても面白くありません。もっと知識と技術を身に着けて街並みの撮影に出かければいいか なって感じますね。 そういうのは野鳥撮影や自然の草花などの撮影でも同様です。ただキレイだから撮るのではなく、 皆さんは相当の知識と経験をお持ちで、そういう撮影に臨んでおられます。

無題

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大平山は340メートルと、香川にある平均的な山のクラスなので親しみが持てますね。 この大平山に登れば眼下に北関東平野が一望できるというのか良いです。 世の中には、街の人と田舎の人とか言う具合に大きく二分できると思うのですが、例えば、東京など の都会の人と地方の人。また同じ地方でも街部の人と田舎の人とか言う具合に。 この、街に育つか、田舎で育つかで、人は大きく違ってくると思ってます。 街部に育った人はどういう人かというと、自然が少ないので人為的環境下の人治的な考え方をします。 法治的でもいいですよ。つまり、世間的な世界、社会という人間によってのみ作られた世界が全て である、それが最上位の法則であると思ってそれを信じて育つわけですね。 他方、田舎で育った人は、その社会環境よりも、より上の自然環境化での大自然の法則というものが 身に付くように思います。大自然とは神の法則(人間社会よりも上位にある)と言ってもよいのですが、 とにかく、街の人は人智の法則下で暮らし、田舎の人はより上位の人智を超えた自然の普遍世界を 知っているということかも知れません。 押なべて町の人は頭が良いといわれますが、それは記憶力がよいわけです。つまり物覚えがよい。 そして田舎の人は、深い考えをするので町の人のように眼から鼻へ抜けるようなスマートさはありま せんが、実は田舎で自然に親しんでいる人は、記憶力ではなくロジック思考に優れていて、知能指数 が高いわけです。 別の言い方をすると町の人は記憶力と言葉の発信力優先の文科系の人。田舎の人は複雑で高度な 思考が出来るが発信力が弱い理科系の人に例えられるでしょう。知能指数はロジック思考を計るもの ですから、それが高いのは田舎の人であり地方の人です。さらには国際的には低開発国の人達です。 パソコンで言えばロジック思考はCPUであり、記憶力とはメインメモリとかハードディスクのような記憶 装置ですか。ちなみに生成AIは並列処理ができるGPUを使いますが、かなり記憶方向に振った思考法 になるのでしょう。私はこの生成AIを人口知能としてはあまり評価はしていません。ですが実用的で 役に立つものではあるわけです。 世の中が平和で順調な時代は街の人の思考法や遣り方が優位に立ちますが、時代が大きく変る 時代には、街の人のやり方では変革すべき時代を超えられません。歴史を見ていると世界と時代が 大きく変るとき、必ず地方から新しい勢力が出てきて中央政権を倒していきます。 日本の歴史でも貴族の朝廷から関東武士団の幕府へと。幕末明治では徳川を滅ぼしたのは西国の 地方の勢力です。世界が大きく変るとき(それはあくまで自然の力です)、過去の記憶と口先だけでは 対処できず、物事を根本から考え直す能力が求められるのですが、それには高いロジック思考力が 求められ、それで地方や田舎の人達が求められるというわけですね。 ところでインターネットやSNSが全盛ですが、これはあくまでも人智の社会の都会的な世界です。 あくまでも約束事の世界であって、けっして自然な法則下にあるものではありません。今これに日本人 の若い人達全員が染まっていて、地方の人も田舎の若者も、すっかり都会化してしまっているかの ようです。 ですから田舎で住んでいる人も最早自然を知らず、人為的な環境下で育ってしまうことになります。 はっきりいって、これは今の日本人が滅ぶという前兆であり、もちろん日本の国と国土はなくなりませ んが、遠からず我々古い日本人はいなくなります。 歴史的には縄文時代から弥生時代にかけて人口は数分の一になったようです。気候変動などの 大きな災害があったのでしょうが、その時代の変動に当時の日本人(縄文人)は対処できず、結果、 大きく人口を減らし、そこに大陸からの弥生時代の文明を持った新しい人達が渡来したというわけです。 彼らは水田稲作の技術を携えていました。これは2000年前の話です。 おそらく現在の日本の都会化された若者では、これからの大自然の変動に対処できず、滅びに 向かうでしょう。そしてこれからの世界が温暖化に向かうのか、それとも逆に寒冷化に向かうのかは 現時点では不明ですが、おそらく寒冷化に行くのではないでしょうか。小氷河期の再来が来るよう に思われます。温暖化で人々は死にませんが、寒冷化では食糧不足となり危機的状況となるから です。温暖化でも寒冷化でも、とにかくその移行期の極端な気候変動が問題なんですね。 それを察してか、日本の若い人達は子どもを産まなくなりました。日本や韓国、ロシアなど高緯度地域 の国では少子化が止まりません。また世界的に人口が増えているのは、グローバルサウスと言われる 南側の暖かい国の人達です。この日本でもやがては東南アジアからの移民で成り立っていくように なるのでしょうか。 そういうわけで現在の日本は、2000年に一度の大きな変革期に向かっているという気がしてます。 「衝撃の真実!縄文時代から弥生時代に急激に人口が減少した理由と現代の人口問題との関係」 https://www.youtube.com/watch?v=svasdBysgW4 縄文時代の最後、弥生時代にかけて、2300年前に、人口が減少。26万人が7万人に。 ちなみに縄文時代の遺跡は殆ど関東以北の東北などに多く、関西以南では少ないのです。縄文時代は 縄文海進といわれるように温暖でした。気候的にも植栽的にも北日本が豊かだったんですね。 しかし弥生時代への移行期には気候変動が激しく食料が欠乏したと思われます。そして寒冷化へと 気候が安定しだした頃に、大陸から弥生人が渡来し、海退して出現した沖積平野で水田の稲作が営わ れるようになったと思われます。そして古墳時代へといきます。巨大建築の時代です。それを支えた のは稲作の文明です。 縄文時代の神社の名残として有名なのが茨城県の鹿島神宮と香取神宮です。伊勢神宮とならんで 神宮の名がつく別格の名刹です。縄文時代では関東平野のかなりの部分が海でした。ただ茨城県の 太平洋側は標高が高いので縄文の昔は栄えていたと思われます。 私も大昔、鹿島工業地帯で1~2ヶ月ほど住んだことがあるのですが、当時は鹿島神宮を知りません でした。今なら是非に行ってみたいところです。 話は戻りますが、SNSなどのネットでは、書かれていることは9割方は嘘です。フェイクですね。ネットでは 嘘になるようなバイアスが掛かるんですね。この掲示板でも馬鹿げたことを書く投稿者が偶にいますが、 それはあくまでネットという場だけのことで、それは投後者が本心のことを書いているというのとは違い ます。 つまり雑音がネットでは多く発生するということです。9割は雑音で意味がないと捉えるのが本当ですね。 車に乗れば日頃は大人しい人が暴走するというのと同じであって、ネットと言うのは安易であるが故に 信用が置けないものなのです。 そんなネットに若い人が一喜一憂するのは時間と労力の無駄というものです。 そういうのは自然の恵みに触れて育ち、今もそういう自然な環境で暮らしていれば、自然に分かること なのですが、都会化した街部ではなかなか分からなくなっているようです。 ネットでモニターの向こうにいるのは人間ではなく、あくまでもサーバーコンピューターです。本当の 人間は雑音にまぎれて、居るのか居ないのか分からないほどです。そういう具合に考えていかない とネット社会では上手く処すことができません。ネットとはリアルではなくてバーチャルなんです。 私はこのインターネットととかデジタル環境というのは、普通の人の知能では正しく向き合えないの ではないかと考えています。またこれから人工知能の時代に突入するわけですが、さらに普通の人 では使いこなせないだろうと考えています。 簡単に言うと、AI時代はIQが120以上でなければ難しいのではないかと思っています。普通の人の 平均は100ですが、100と120では20もの差があり、それは80の人が100の人を理解できないのと 同じくらいの落差があるんでしょう。IQ80の人はこの世の中では生き辛いわけですが、それと同様な ことが普通の人でも起きるということです。 ですからこれからの時代、普通レベルの人でも物事を考えなくなるでしょう。考えることはAIに任せれ ばいいわけですから。しかしそもそも人間は考えることで、脳が発達しその思考力で他の動物達より 勝り、動物としての頂点に到達してきたわけですが、その大前提が崩れ去ることになります。 人類の8割の人が考えることを放棄すれば確実に人類は滅びます。 人工知能が人類を滅ぼすという考え方を私はしませんが、人間が怠けて自ら滅ぶということは ありえると思ってます。 AI人工知能とは、冒頭で書いたような、人為的な街人の考え方しかできない機械です。決して 人間本来の思考力というものではありません。ですから、シンギラリティとか言って、AIが人類を 知能として超える時代が来るというのは全くの大嘘でフェイクですね。コンピューターという機械は 記憶と計算は得意ですか思考力はありません。それはAI時代でも変わらないものです。 AIが凄いなんて言っている人は都会や街の人の考え方をする人間であり、基本的に考えることが 苦手な人でしょう。 しかしまあ、AIは道具として実用的に役に立つというのは間違いありません。しかしAIが知能として 人類を超えることも、ましてや人間に取って代わることなどは永遠にありません。 ※投稿写真は古い撮影。 家をリフォームしたので、写真の部屋はもうありません。雑然とした物置のような部屋でしたが気に 入っていました。

遠望

遠望

「氷点下」のお写真、良い雰囲気を出されてますね。撮影地は相当に寒いところと推察しました。 私のほうは温暖な瀬戸内の香川ですので、よほど山間部に行かないとこのようなシーンは見られ ません。 一度、四国石鎚山に10㌔ほどの機材を抱えて登ったことがあります。これは堪えました。(笑) それ以降は出来る限り軽くして登りますが、数百メートル程度の里山ではデジイチを持っていきます。 バッテリーグリップはいつも装備しています。これは登山中、常に手にカメラを持つ為で(肩には掛け ずで)、右手でも左手でも交互にカメラを持ちやすくする理由からです。 手に常時カメラを手にもって歩くというのは、その方が楽だからです。体のバランスが取れるんです。 まあ、カメラが杖の役割をするんではないかと思ってます。 最近はイノシシが多くて、抑止力?のためにと自作の杖を持つ場合もあります。その場合はカメラは 肩掛けです。自作杖は樫の木を削り先端に金属を付けたもの。無いよりはあったほうがまし、という 程度のものですが、杖でもカメラでも、手に何かを持つということは、そもそも人も昔は四足動物であっ たわけで、前足と後ろ足の両方を使うのが正常な姿だと思うんですね。後脚だけで歩くというのは 無理があると思ってます。 そういうことで歩きには、必ずカメラか何かを常時手に持って撮影しています。 https://www.minamitohoku.or.jp/kenkokanri/201109/panic.html こういうやつですか… つぶあんさん、どうでしょうか。その病気を克服しようとする気持ちはおありですか。 若い頃のように再び元気で生きたいと心の底から願いますか。 もしそうだったら、私にも少しは手助けというかアドバイスができるかもしれません。 しかし本質的には自助努力、天は自ら助くる者を助く、なのであって、他人がとやかくすることは できません。つぶあんさんの人生はあくまでつぶあんさん自身のものであって、また、つぶあんさん のような人は世間には数多くおられるでしょうから、あえて巷に埋没するというのもひとつの選択肢 かもしれませんね。 私には何とも言いかねますが、人の運勢というものを長く研究するにつれ、他人が何かを言うもの ではないということもよく分かっているつもりです。その点はネットで交流する場合は気持ち的に 重くなくてすみます。 私は長い間、西洋占星術というものに親しんできました。これをつぶあんさんが考えているような 普通の占い、と捉えてくれると大きな間違いがあります。アストロジーと言われますが、これを本格的 に出来る人間はそんなにいません。ネットで見かける占星術のレベル詰まらないです。 私は基本的に理科系の人間です。役に立たないこと、まどろっこしいことはしない人間です。 それで小説などは読めないんですね。(笑) 若い頃は皆が読んでいるからと文豪の小説などを 読んではみましたが、正直、わからんな、という感想しか出ませんでした。 小説家を志しているつぶあんさんには聞きづらいでしょうけど、そういう人間もいるということで 了承してください。だからと言って私は小説を否定しているというのではなく、私とはやり方が違うと いうだけで、小説を必要としている人も多くおられるわけだから小説の存在意義は勿論あるのです。 もし、つぶあんさんが子供のころからずっと虚弱であったならば、私はこの文章を書きませんでした。 遺伝子欠陥レベルだと手に負えませんから。 でもそうではなかったですね。富士山にも登り(私は登っていない)、高校生のころはアウトドア部に おられた。当時は人前以上に元気で体力がお有りだったということです。 つまりは基本的な体力は充分にある。それは潜在していて、しかし現在はそうではない、ということ てす。だったら元気な頃のように回復する可能性は充分にあるのだということですね。というか 回復すべきだと思っています。 これが高齢者だと充分な回復は時間が足りず難しいですが、40歳代だとまだまだいけます。まだ 人生は半分しか消化していないですから。 つぶあんさんは文章が書けますし、人の文も正しく読めます。これがダメだとネットでコミニケーション ができませんから。この利点で、充分にネットでも遣り取りができるというのもミソです。人並み以上に 知力がないとどうしようもありませんから。 この知力というもの。これは生まれつきです。しかし体力や健康度は人生において上がり下がりが あるのです。虚弱児が健康優良児になれるように。しかし知力知能に関してはそれができません。 人間はこの知能のお陰で身体を制御できているのです。万物の霊長といわれる所以ですね。 ところで、人の人生の運勢において、どんな人でも上がり下がりがあるというのは感じませんか。 私は偉人の伝記物を読むのが好きです。そこには一本調子の人生なんて存在しません。ちょうど 山道を歩くように人生には上がり下がりがあるのです。実際に山登りをしても登りはきついですね。 延々と上り坂が続くと苦しく嫌になります。でも水平に道になると途端に楽になります。下りも楽ですし。 山々を縦走していますとそれらの上がり下りの連続です。 ですから今の情況が全てではなく、何時かは良い時も悪い時も終わりがあるのです。始まりがあれば 終わりもあるというのが人生です。私は理系の人間ですから、物事の全てには原因があり、そして 結果があるという考え方をします。原因のない結果などはないのです。小説でも粗筋はそうではあり ませんか。 つぶあんさんの現在の虚弱は、その人生において何時かどこかの時点で、そうなるべき原因を作り、 その結果が今の自分であるという風に考えられませんか。 起承転結という言葉もあります。これは原因と結果の間に転記を入れたものでしょうか。少し複雑化 したものでしょう。 私には原因がないのに結果が出るということは絶対に考えられないことであって、そういう非合理な 精神主義をとりません。昔は元気だったつぶあんさんが現在はそうではない、というのには、これまで の人生において、いつかどこかの時点でマイナスに転機をしたということです。 その転機の時点を、記憶をたどって見つけださなければなりません。それには知能が必要です。 どんな些細なことでも見つけ出さなければなりませんね。えっ?こんなことが転機の原因だったの? というくらいの気持ちでないと。 神は細部に宿ると申します。小さな細部が全体を制することがあるというのが技術屋の心構えです。 たった1本の小さなビスの欠陥で高価なロケットが失敗するのです。それよりも、もっともっと複雑な 人間の身体では、そんなのは常のことです。 私は人間の身体を医学よりももっと基本的な、フィジックス、物理学で捉えることにしています。 人は基本的に物質物理現象に過ぎないという立場です。物質と生命は基本的には同じ現象です。 しかし生命には、物質以上の何かがあり、遺伝子という情報理論が付与されていますね。それで より一層複雑になっています。たとえば知能などはほぼ受け継ぐ遺伝子で決まります。そして遺伝子は 数学的な確率論で受け継がれます。発生的に百人に数人は秀才であり、何人かは知能が劣ります。 パニック障害になる人は、そういう傾向になりやすい生まれつきの生命情報を持っているということ でしょうか。何の病気に限らず大本のところでは遺伝子的です。しかしそれはどんな人でも、どこかに 欠点があるということであって、それは重篤でない限り、ごく当たり前のことでもあるのです。 そういうマイナス点を抱えながらも、人はそれを補うプラス点でもって人は正常に生きているのですね。 例えば、国家においては国民経済が向上すれば種々の問題は大体は解決するということで、政府は 何よりも経済発展を願いますね。政経と言って政治とは経済で成り立つという具合です。 どうでしょか。私の言っていることが多少はご理解いただけたでしょうか。つぶあんさんがこれまで 親しんできた思考法や知識体系とはまるで違うだろうと思います。 しかしこういう発想ができないと、この世界の仕組みというものは、なかなか見えてこないところがあり ますね。 私が本気で言うことを理解できる方は稀です。百人のうちの一人くらいのものです。大部分の人は理解 ができないようですね。ですから私の書いていることが分からなくても何も問題はありません。それが 普通なのですから。 それでもし、心の琴線に触れるようなところがあれば、この掲示板に書いてください。

⑦-1

⑦-1

⑦-1 黒白写真になってからというものの、以前のように機種を違えて撮影することがなくなってきました。 もう何で撮っても良く似たものだから、カメラはなんでもいいや、っていう感じです。 しかしそれだとあまり勉強にならないんで、無理やりにも機種替えで撮影しなくちゃと考えてます。 今回使ったものは古いCCDのカメラで、撮影感度は低いです。よって、ノイズが出やすいですね。 いつものようにJPEGのSサイズ(1/4サイズ)+RAW(DNGファイル)でやってますが、 ⑦-1はJPEGのSサイズ(1/4サイズ)から。 ⑦-2はRAW(DNG)から起こしたカラー版。彩度を落としてのモノトーン風にしてます。 この2つを比べると、⑦-1のJPEGモノクロの方が画質も良さそうに見えて、しかも印象力の強いと いう感じになったようです。あくまでも印象というレベルの話なんですが、(実際には元は同じデータ です)、下手なカラー写真よりも、案外にモノクロの方がスキッとしてスマートだという気がしてきま したね。 まあこういうのは一概には言えなくて、カメラの機種ごとに違ってくるんだとは思います。今回の カメラはCCDですので、感度こそは低いんですが、陽が当たっているところの輝度は高くなるんで すね。日陰りところはノイズだらけですが、光が強いところはキレイにでるんです。そういうのが 印象力としてCCDの持つ良い点ですかね。 CCDカメラは解像感が低く、シャープさなどもCMOSのカメラには敵わないですね。しかしそれでも このペンタ645Dは5000万画素あるので、ピクセル数を1/4にしても1200万画素はあります。 けっこう、黒白写真で撮ってもいけそうだなっていう気がしてます。 いろいろとカメラを変えて黒白写真をしても、やはりデジタルカメラとしての黒白写真の原点は、 なんといってもペンタ・モノクロームであるという気はしていて、それが私のデジタルモノクロームの 基準のようなものになっていますね。 リコー製モノクローム機の、あの鮮烈ともいえる解像力とシャープさ、ヌケの良さなどは、カラー機 がどんなに頑張ってみても敵わないということです。 『フォトヨドバシ PENTAX K-3 Mark III Monochrome』 http://photo.yodobashi.com/pentax/camera/k3iii_monochrome/ http://photo.yodobashi.com/pentax/camera/k3iii_monochrome-2/ http://photo.yodobashi.com/pentax/camera/k3iii_monochrome-3/ http://photo.yodobashi.com/pentax/camera/k3iii_monochrome-4/ これは写真を見るのではなく(ネットで写真を見ても分かりませんから)、カメラマンの文章をみていた だきたいですね。 例えば、 ・・・・すでに暑苦しさドバドバのテキストからもお分かりの通り、これは撮る者の冷静さを奪い去るカメラ です。ある種の狂気すら呼び起こすカメラです。もちろん良い意味で。そして、魅力的なプロダクトとは そういうものですよね。実際、取り憑かれたようにこのカメラで撮り歩きましたし、これほど仕事を忘れて (=結果を考えず)撮影という行為に没頭したのも久しぶりかもしれません。以下、正直にお話しします。 ライカM MonochromやシグマのFoveonセンサー機で経験済みということもあってか、今回撮影を始めた 当初は、思ったよりも驚きはありませんでした。まあ、なにせあの時は初体験でしたからね。ただ、K-3 Mark III Monochromeでしばらく撮り進めるうちに、「このカメラ、すごいわ」と思うに至りました。つまり ある程度の予想ができてもなお、心を鷲掴みにするカメラであり、モノクロで写真表現を極めてゆくための 完璧な素材なのです。・・・・ こんな感じでして、プロのカメラマンをも唸らせるものが、このリコーペンタ・モノクロームにはあるようで す。そりゃあ、リコーの中では最高に良く出来た一眼レフですから、シグマとかライカとかとかは、カメラ としてのモノが違いますからね。使いやすさや性能は比べるべきものではありません。 私としても、こうして他の方の印象文を見るに付け、やはりこのリコーモノクロームが圧倒的に優れて いたからこそ、新しいデジタルモノクロームの世界に行けたんじゃないかって思うようになりました。 もうフイルム時代の黒白写真なんかは関係なくて、あくまでも現在のデジタルモノクロームですかね。 そういうものの扉を開いたのが、このカメラだったというわけです。 そしてリコーモノクロームを原点の基準として、一般的なカラー機によるデジタルモノクロを試していると いうのが今の私なんでしょう。 ところで・・ https://photoxp.jp/pictures/226146 これはKazさんのキヤノン最新機種によるデジタルモノクロです。見事に決まってますね。筋肉質の モデルさんの持つ、秘めた躍動感が静止状態でも溢れんばかりです。 R7は3000万画素のカメラですが、1/4にすれば大体この投稿写真のサイズになります。 カラー機のモノクロは、カメラの持ってるカラーフィルターでモノクロの色調節ができるのが最大のメリット なんですが、この写真はそれを大いに使っていると思います。そうでなければもの肌の感じはでない でしょうから。そしてバックの真っ黒感が凄いなって思います。 「カメラマン・リターンズ♯10」によると、リコーモノクロームのモノクロセンサーは偶々既製品があったの で作れたカメラだといいます。ですからそう簡単にモノクロ専用機は作れないということです。 ということは、ユーザーはカラーカメラを使って黒白写真をこれからやっていく、というしか手立てはない ということですね。 そしてKazさんの黒白写真をみると、頑張ればこれくらいは出来るだろうということでもあって、それは 良い指針になったということです。 モノクロ写真の強さというのは、その持っている圧倒的な印象力というものでしょうね。その印象力は 長期にわたって続く記憶に残ります。長期記憶というやつです。それは黒白が一番なんですね。 もっとも私としてはもっと気軽に黒白写真をやって行きたいのでして、これからも気軽なモノクロ写真を 追い続けるだけです。 とにかく、機材としてカラー機によるモノクロ写真では、やはり3000万画素オーバーのフルサイズ以上 が有利であるということ。やはりこれが最低限の基本かなっていう感じ。 そしてレンズは標準レベル以上が欲しいということ。 もちろん敢えてそれをパスするという手もあります。低画素のカメラで廉価レンズを使っても黒白写真も おおいにあるわけです。しかしそれらはあくまでも応用編ですね。 黒白写真を永続的にやっていくということを考えるならば、基本のスペックを満たしたモノクロ写真を まずやっていかないと長続きしませんから。 一番簡単な方法は、リコーなりライカの専用機を使ってみること。しかしリコーはともかく、ライカは 高過ぎです。どこかのメーカー、例えばキヤノンがモノクロ専用のフルサイズセンサーを作ってくれれば 最高なんですけどね。70万円以下でね。(笑)

無題

無題

ペンタックス645Dで致し方なく、手馴れたキャプチャーワンからライトルームを使うようになっているの ですが、こと645Dに関してはソフトの動作の重さに不本意を託っています。やはりキャプチャーワンは 4000万画素でも5000万画素でもスピーディですからね。ライトルームでの645Dは、ほぼシグマのSPP でのメリル並みの遅さですから。 とは言っても1000万画素クラスのパナソニックだとスムーズに動作してくれます。ライトルームの画質 は悪くないですね。もっとも645のライトルームでも、読み込み始めてしばらく放置しておきますと読み込み が進んできてスピードは上がります。そこらへんはSPPとは違うところ。 とにかく様々な機種だけでなくソフトも多様性を持たせたほうが面白いかなって思いましたね。 ペンタックス645Dはその圧倒的な光学ファインダーが利点なのですが、これに慣れるとフォーサーズの ファインダーは極めて小さく感じます。その中間がフルサイズやAPSカメラなんでしょうけど、慣れという のはあるもので、使っていると小さなファインダーのパナL10や、ミラーレスの背面液晶での撮影でも苦に ならなくなります。 つまりはファインダーというものは、あってもなくてもさほどに重要なものではないのだということでしょう。 一番に大事なのは裸眼の肉眼で撮影するものを決定することですからね。それを最後に確認するだけの役割なのがファインダーですから。 写真は見て撮る。肉眼で見て探して写真を撮るわけですけど、もっと大事なのは、その光景に至ること ができるのは自らが歩いているからであって、歩いてそこまで到達できるから撮影ができるわけです。む ですから、写というのはファインダーでもなくて、眼でもなくて、本当に大事なのは、歩けることだと最近は ひしひしと感じています。 それからただ歩くだけではなくて、カメラを持てなければなりません。その両足と両手があるから写真が できるのであって、そんなこと当たり前じゃ、と言われるかもしれませんが、写真にとって大事なことは 詰まるところ、健康な身体だということでしょう。 健康な心身さえあれば写真は容易くできます。ということは心身が不健全であれば写真は出来難くなる ということでしょうか。 そして写真をして思うことは、さらに写真を撮りたければもっともっと歩いて出かけなければならないと いうこと。つまりは健康であり続けないと写真は継続できないわけですね。歩いていって、カメラを持ち続 けて、そしてこの世界の様々なものを見続けていくということ。写真とはそういうことなんではないかと 最近は思えてきています。 良い写真を撮るとか、それを見せてどうこうするとかいうのは瑣末なことなんでして、とにかく自分の写真 をやり続けていくと言いますか、この世界に興味をもって歩き続けていくことの大切さが最も大事なん ではないかなということですかね。 コロナ禍を切っ掛けに、最近は身近な場所での撮影に終始していますが、それでも被写体に不足を感じ ることは一切ありません。狭い香川や四国のなかでも十二分な世界が広がっています。 日本全国を走り回ったところで、地球を股にかけて出かけたところで、太陽系や宇宙に比べれば微々たる ものです。私にとってはこの四国の、瀬戸内の世界で満足ですしそれ以上は望むべきものではありませ ん。むしろ、これからは自分の内面に広がる世界を発見していきたいなって願っています。 とにかくこの世界は多重性に満ち溢れていますね。多様というよりも多重性であって、圧縮されている というイメージです。紐解く鍵を見つけ出せばその多重がほどけ多様な世界観を見せてくれるわけです。

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ペンタックス 645D 作例 https://photoxp.jp/cameras/pentax-645d リコー PENTAX 645Z 作例 https://photoxp.jp/cameras/ricoh-pentax-645z 新旧カメラの相違が分かります。 ところで最近の話題は、これですかね。 【Zの世界】阿部秀之 - ニコンZ 9使った【後編】 https://www.youtube.com/watch?v=vliUpePN6BA 【Zの世界】阿部秀之 - ニコンZ 9使った【前編】 https://www.youtube.com/watch?v=95WJKYFu9Dk 優れたEVFとメカニカルシャッターの廃止(つまり電子シャッターのみ)が目玉です。積層型CMOSセンサー の搭載で向かうところ敵なしのダントツカメラとなっていて、現在注文しても手に入るのは1年先とか。 このニコンZ9の登場で、真性のデジタルカメラがやっと出現したというところでしょう。 ニコンD-1とD100から20年余。時代を画してくれるのはやっばりニコンだったというわけですが、D-1や D100はフィルムカメラとデジタルカメラの折衷様式であって、それが20年間続いていたということだった と思ってます。 ダントツの高画素高画質撮影と高速連写撮影、そして静止画と動画の完全な融合。それらが全てZ-9だ けで満たしてくれます。ユーザーの身体的安全性としては電子シャッターによる漏洩電磁波を払拭できた ことは高く評価できます。しかし光学ファインダーを捨ててEVFになったということ、加えて膨大なデータ量 を生み出すということは、これまた別の問題が出でくるというわけです。 それにしても瞳AF顔認識AFのAI能力はものすごいというわけで、このカメラはそれを編集するPCもAI化 ソフトを搭載しなければならなくなるようです。もはや人間業では追いつかないカメラとなっているみたい ですね。やがて数年後には各社メーカーのカメラは、当然Z9レベルにならざるを得なくなるわけで、カメラ は人間業から次第に機械化の極みにならざるを得なくなりますね。 それが良いことなのかどうのか、私には分かりませんが、少なくとも私はこういうカメラには既に興味を 失っています。 645Dはフォーサーズ機に比べれば重く大きいカメラですが、それはデジイチの重量級カメラとほぼ同じ レベルです。使いやすいカメラですので手持ちでも十分撮影が可能です。使い方のコツとして交換 レンズを持たないことが挙げられます。できればボディに着けたレンズ1本のみでの撮影。もしくはプラス もう1本の軽めのレンズだけ。これ以上欲を出すと撮影は苦痛となります。 綺麗な写真を撮るのが目的ではなく、あくまでもカメラをもって歩くことを追求するのが目的なので、ここを 履き違えると私の写真術は成り立ちません。 645Dの圧倒的な利点は光学ファインダーであり、結果として得られる写真データは自然な感じがします。 重量級のカメラを使うことは下手をすると歩き撮影をスポイルする可能性があるのですが、やはりフォー サーズ機で感じざるを得なかった軽すぎる機材という面で補完をしてくれるものではあると思っています。 画質としては十分に合格しているフォーサーズ機ですが、唯一の欠点がカメラとして軽すぎたということ。 そこで645Dや重量級デジイチの出番があると考えています。 光学ファインダーのカメラが最高だとは実は私も考えていません。ミラーレス機の背面液晶撮影でもOKと 思っています。しかしどんなに高度に高性能になってもEVFを使う気持ちにはならないでしょう。 光学ファインダーの有無には拘らないのですが、EVFは拒絶しています。そこら辺りが私のスタンスなの でして、これからのカメラも背面液晶が無くなることは考えられないので、例えばニコンZ9も使おうと思え ば使えるカメラとなっています。しかしEVFは緊急の場合にしか必要がありません。 こういう機材に対する考え方は私だけしかしないだろうと思ってます。全世界で何億人もいるだろうカメラ ユーザーで頑なにEVFを拒絶する人間は多分、私一人かも知れないです。(笑)

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久しぶりに大型のカメラを持ち出しました。常はフォーサーズ機なので流石に重さが堪えました。(^^ゞ  このカメラは以前に中古で購入していたものですが、現像ソフトで躓いて使わずにいたものです。 最近たまたま店頭にこれ用の格安レンズの衝動買いをして、もういちど再挑戦をしてみようというわけ です。このペンタックス645のフィルム時代のレンズは中古では随分と安くなっています。一応はAFレンズ なので安心感があります。もっとも、さらに古いマニュアルレンズもAFはダメでも自動絞りが利きますし、 ピントも被写界深度が深く、風景撮影ならば無限遠にしていればピントはカバーできます。 6×7のレンズも純正アダプターを介して同じく自動絞りが利きます。 問題はRAW現像ソフトなのですが常用しているキャプチャーワンが使えません。これはガックリしたの ですが、それで純正のRAWソフト(シルキーピックス)か、アドビ(ライトルーム)でやるしか方法がありませ ん。どちらが良いのかはこれから試してみようと思ってます。それぞれに長短がありますので。 このカメラ、古い方式のCCDセンサーを使っているので、とてもではないですが最近のCMOSセンサーの ような解像力はなく画質も大雑把ですね。私が常日頃言っている超高画素高画質のカメラだとは言えま せん。ただCCDセンサーは個人的に好みですので、言うなればクラッシックデジタルのカメラだと言うべ きでしょうね。オリンパスのE-1とかシグマのSD9/10のようなカメラジャンルになるのではないでしょうか。 そうは言っても4000万画素なのでデータ量は大きいです。 なお、このカメラの後継機である645ZだとセンサーはCMOSになり画素数は上がって、AFも進化してい て、さらに高額のデジタル時代のレンズを使えば超高画素高画質カメラとなります。フジなんかのカメラと 同じですね。 フォーマットの縦横比率は4:3ですので、フォーサーズと同じであり、画質もフォーサーズ機とさほど変わり ません。相違はカメラの大きさと重さですね。 このカメラはフィルム時代の中判AFカメラのままでデジタル化したものなので、とにかく大きくて重いので す。センサーサイズはフルサイズより少し大きいだけなので、例えばフジなどはフルサイズ一眼と大きさ が変りませんからね、それでこの645Dの大きさと重さだけはオーバースペックだというわけです。(笑) いまどきこんな古くさいカメラを使う人は居ないのですが、私としてはクラシックデジタルということで愛用 していきたいと思ってます。現行のフルサイズ機やフジの中判デジタルとは次元を異にしますので比較 することには意味がありません。 個人的にフォーサーズ機は随分と気に入っていて、軽快に楽しく撮れるカメラなのですが、その原因は 果たして何なのだろうと考えていて、どうも主因として採用しているセンサーの特徴がそう思わせるになっ ているように感じられるんですね。私が使っているフォーサーズ機はパナソニックとコダックのセンサーで す。つまりソニーやキヤノンのセンサーではないということ。 写真を撮影するときには、やはり画質や後処理のことがどうしても脳裏に浮かんでのことになります。 完全な撮りっぱなしは出来ないので、画像を想像しつつの撮影ということになります。そう考えるとフォー サーズ機の撮影時の楽しさは、やはり画質が自然で良いということなんだと思うのです。 コダックのセンサーもパナソニックのセンサーも画質が自然であって、モニターを見ていて苦にならないと いう気がしています。そういうところはソニーやキヤノンやシグマのセンサーとは違います。 パナソニックがフルサイズカメラを出した時、そのセンサーがソニー製に変ったので、これを評して画質が 良くなったので好感が持てるという感想がネットにあるのを見て、なるほど一般的には、ソニー製のセン サーは高く評価されているのだと思った分けです。パナソニックセンサーはダメだったというわけですね。 確かに情報量の大きさではソニー製やキヤノン製センサーが優れているんでしょう。シグマもそうでしょう ね。シグマではメリルからクワトロになったとき情報量が落ちて叩かれました。それでAPS-Hのクワトロを 出したという経緯がありましたから。 一般の方の感覚ではとにかく膨大な情報量を出して、ノイズが無くて高感度にも耐えて、画面の隅々まで 綺麗で、シャープで解像力があって、そういう高情報量なセンサーこそが良いセンサーだということなので しょう。 しかし私の感覚では、それこそが超高画素高画質の弊害を生み出している大元なのであって、そういう センサーのカメラは趣味で使うには耐えられない、と考えるわけです。 私はデジタル人間ではなくてアナログ人間なのかも知れませんが、過ぎたるデジタル情報量はマイナスを もたらすという考え方です。見解の相違といえばそれまでですが、とにかく私としては超高画素高画質の カメラを選びません。 写真画像は、私としては白飛びしても黒つぶれしてもかまわないという考え方です。何が何でも全て綺麗 に高解像に出てしまうのは、それはHDRではないですか。最近はこのHDR風な写真が一般的にも普及し てきて、スマホがまずそうなんですが、そういう均等な画質で線画風に高情報を持った画像こそが優れて いるというようになってます。写真のことなど何も知らない一般の人々の感覚もそうなっているんですね。 しかしそこには写真を鑑賞する人の想像力を塞ぐところがあって、白飛び黒潰れという余白の美も何も なくて、ただ膨大な画面一律の情報量を鑑賞者に押し付けている気がするのです。一方でボケの美と いうような余白美も言うのですから、画像美学としては混乱の極みという気がします。これは逆に考えま すと、高情報画像が蔓延したからこそれを低減するためにボケ美を求めるのかもしれませんね。 この645Dを三脚に据えてミラーアップして高絞りで作品撮りのような撮影するというようなことは私はしま せん。気軽に手持ちで高ISO感度で使うつもりです。クラシックな雰囲気を楽しめればよいのであって、 オリンパスE-1やシグマSD9と同じようにして使えればと思っています。実際のところ画質もその程度です からね。(^^ゞ 

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このカメラにはバッテリーグリップというようなものがないので、カメラグリップの右手のみてカメラを持ち続 けることは身体によくありません。それで棒状の10数センチのミニ三脚を左横の三脚穴に着けて左手でも 持てるようにしました。これで左右の手で交互にカメラを持てるようになったのでよかったです。 最近はフォーサーズ機ばかり使っていましたので、カメラを持つ手の力が大分衰えていました。撮影の歩 きには同時に手や腕も負荷をかけることが大事だと思っていますので、カメラは両手で交互に持つように しています。通常のカメラはバッテリーグリップがあり、左手はそのグリップ部を持ちます。なお私は撮影 中はカメラを肩には掛けません。肩掛けするのはバックやサブカメラです。 645Dは優れた光学ファインダーを持ち、ハイアイポイント設計なのでファインダーから眼を離しても良く見 えます。そしてミラーシャッターの動作音は絶妙でよい音がします。漏洩電磁波はデジイチなので大きい のですがボディの大きさの割には低いほうです。これは高速連写を謳っていないカメラですからね。 このカメラはフィルム中判カメラと間違われるようですね。それで作品撮カメラマンと見られるわけですが 私がするのはスナップ撮影なので感が狂う感じでしょうか。(^^ゞ 三脚は持ちませんので。 中判デジタルカメラには行かないと思っていたのですが、例外的にペンタックス645Dを手にしているので すが、すでに申し上げたように、このカメラは単なるグラシックデジタルなので、形こそ中判カメラですが 中身はフォーサーズ機と大差ありません。 フルサイズの高画素高画質機やシグマで随分と懲りていますので、フジなどの本物の中判デジタルには 行くことはないでしょう。 CCDカメラは既に絶滅していますので、このカメラはある意味で貴重ですね。改めて思うにCCDは良い 感触があります。それを言えばフィルムはさらに柔らかくて眼に優しい写真なんですよね。フィルムカメラ もまだ少しとっておいているのですが、スキャナを使わなくてはならないのでやはり負担は大きいです。

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