ペンタックス K-01 作例

2012年5月11日発売

K-01の仕様

無題

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ペンタックスSP-F https://one-scene.com/products/221?srsltid=AfmBOorjhXYfhC-_MN9AoevFu8CgkAMW2eQ8Izsl73xLPNR35baUH0Wh このカメラ、実は私にとっても始めてのカメラだったんですよ。 ただし私のカメラではなくて友人が始めて買ったカメラだったんですね。そのカメラをずうずうしく使わせて もらっていました。 友人の家は金持ちとというわけではなかったでしょうけど、ひとり息子で大事にされていたので、こういう 高級機を新品で買えたわけです。(笑) 他人のカメラを使わせてもらったということでは、先輩のカメラのニコンFフォトミックもそうです。先輩は 写真学校に入学したものの結局は退学して、このニコンを持っていたんでしばらく私が使いました。こっちが 本当の高級機だったんでしょう。その先輩は苦労人の人でしたね。なぜか私を可愛がってくれて、私も先輩 から随分と学ぶことが多かったです。九州熊本の出身でした。 話は前後しますが、私が最初に購入したのはキヤノンFTの中古機です。少しフイルム送りが弱かったですけど 長く使いました。 当初はミノルタのSRTなんかを買うつもりだったんですが、店頭に並んでいたキヤノンを見てすぐさま気が変わり キヤノンに。そういういい加減な気移りは歳をとった今も続いています。(笑) そのキヤノンも後輩に譲り、私が新品で購入したのはオリンパスOM1ですか。このカメラではスナップ写真が 撮りやすかったのを記憶しています。私が最高の写真であると思っているショットも、このオリンパスで撮り ました。そのカメラも後に友人に譲りましたけど。 その後は写真よりもカメラ趣味に行って、キヤノンF-1とかニコンF2なんかを使ってましたけど、そう良い写真 は撮れなかったと記憶しています。 結局、フイルム写真は10年ほどやって、最終的には全てのカメラは手放し、写真を撮らない期間が長く続き ました。それで20年ほど写真趣味から遠ざかっていたブランクがありましたね。私がフイルム写真をやって いたのは黒白フイルムであり、自家現像もしていたわけですが、最後のほうは現像所任せになりましたね。 たまにリバーサルフイルムでも撮りました。ネガカラーはほとんどやってないです。とは言えそれなりに 撮ってはいたんだと思いますが。無論すべて現像所出しです。 今となっては随分と大昔の話になりましたね。十代末から20歳代末までの10年間、自分がフイルム写真を やったという記憶はあまりにも遠い出来事のことなので、懐かしさを通り越して、今では異世界のことの ように感じられます。(笑) 写真趣味を再開したのはデジタル化になってからです。当時パソコンに夢中になり、スキャナでフイルムを 自家プリントできるようになってからです。そうするうちにカメラもデジタル化をしてしまいました。 コンデジからデジイチへと。どっぷりとデジタル写真に浸かってしまいましたね。 シッポ座さんが今でもフイルム写真を大切にしておられるのを見るにつれ、それは私にとっては自分が 若かった時期を思い起こすわけで、今も大いに刺激になっているところがあります。 それは半世紀まえの出来事であるわけなんですが、当時も現在も同じ私という人間であるわけです。それは きっと繋がっているはずなんですね。(なかなかそうは感じられないところがありますけど(笑)) 残念ながら今の私にはフイルム写真を復活することは不可能です。それで精神的な心の思い出だけになる わけですけど、当時のフイルム写真の精神だけは決して忘れてはいけないと思っています。 例えば黒白デジタルカメラを使ったこともそれだと思っています。とは申せ黒白フイルム写真と黒白デジタル カメラとは全く別のカメラで写真であって、次元はまるで違うんですけどね。 今の私は単なる高齢者の一人であり、なぜか今も写真趣味を続けているだけの人間ですね。 先日、カメラを持たずに長い浜を、波打ち際を歩きました。香川でもそういう砂浜がまだ残っているわけです けど、20代の若い自分を思い出して仕方がなかったですね。そして自然の彩にも深く入りこみ浸りました。 多分カメラを持っていればそういうノスタルジックな感傷には多少はセーブが掛かったでしょうけど。 私は今、カメラを持って里山歩きをしていますけど、山歩きではこのような感傷に浸ることはありません。 しかし安全な砂浜とか海岸の道路とかを延々と歩くと、色々と思い起こすことが多いのですね。そういう 感情の波というのがやってきます。言い方を変えれば雑念とも言いますか。しかしカメラを持てばある程度 はそれを防ぐことができるようです。 これが里山歩きだと、これは多少は危険が伴いますので雑念はあまりないです。むしろ無我という感じに なるんじゃないでしょうか。静かな海と山では随分と違います。なお海岸でも磯となると危険度が高いので 里山と同じ感覚になります。 過去の感傷に浸ることではなくて、あくまでもフイルムで始めた当時の写真精神というものを思い起こし、 それを繋いで行きたいなと思っています。 例えば写真を撮ってもパソコン画面を出来る限り遠ざけるというのがそうです。そうなって来ますと、 写真は撮りっ放しになるんですが、デジタル時代ではそれは仕方がないことだと考えています。モニター は見ない、というのは、考えて見ればフイルムカメラにはモニターはなかったわけですし、パソコンも ネットもなかったわけですよね。 可能な限りフイルムカメラ、フイルム写真の精神に近づけようと思うと、今私がやっているように、 カメラ一台にレンズ一本を付けて、記録写真的に撮っていくというスタイルになってくると思ってます。 デジタルでフイルム写真的にしようと思えば、たとえばミラーレスカメラにフイルム時代のマニュアル レンズを着けて、じっくりとモニターを見ながら撮影し、そしてパソコンでも綿密に現像する、という のが普通の感覚かも知れませんが、それだとデジタル時代の弊害であるモニターの罠に嵌まってしまい ますね。 しかしそれは行き詰ります。そしてそれはフイルム写真の精神ともまるで違います。私はそういうのを 散々とやって、それは間違いだと気づいたわけですね。 そんなわけで、デジタル時代において、フイルム写真の精神を再現しようと思えば、まるで違うアプローチ をしなければならないと悟りました。 デジタル時代。今は全てがそれです。最近はAIともなっています。無論デジタルですね。 それで本当にいいんですか?という問いが私にはあるわけです。 しかしもうデジタルがない時代には戻れません。ですから否定はできないわけで、それではデジタルの 何が問題なのか、どう工夫をすればデジタルの弊害から逃れられるのか。そういうことを考えなければ ならないだろうと思っています。 そういう問いかけの私なりの結論として、私が今やっている里山歩きの撮影というのがあるというわけ です。里山歩きが好きだからやっているわけではないんですね。写真精神を取り戻そうとしてそうなって いるだけなんです。 --------------------------------------------------------------- いま取り組んでいる五色台ですが、かつてのカルデラ火山が大本になっているのがわかりました。 コールドロンとも言いますが、1400年前の瀬戸内大火山活動の時期に形成されたカルデラ陥没地形に 溶岩が埋まり、それが五色台というメサ地形の源流になっているとのことです。 実は古代カルデラ跡は香川には他にも高松クレーターとか三豊カルデラとかがあるんですが、もう ほとんど形態が分かりません。残っているものがあまりない状態ですが、この五色台は、いかにも という山になってます。小型のカルデラだったみたいでそれで今でも雰囲気的に分かるのだろうと 思ってます。 四国では他に石鎚山山系が古代カルデラの面影を残しています。カルデラの外輪山がいまでも残存 しているわけで、本州で有名なのが群馬と長野の荒船山が知られています。 なるほど、古代のカルデラだったのか。それで私が抱いた疑念が氷解したというわけです。 他の香川の里山とはまるで違いますからね。普通のメサ台地とは違っていてそれらの集合体という 感じですから。そういうのは他にはありません。 五色台新聞 第2版PDF https://www.pref.kagawa.lg.jp/documents/61322/goshikidai2map_1.pdf 火山学者に聞いてみよう -トピック編- https://kazan-g.sakura.ne.jp/J/QA/topic/topic12.html

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久しぶりの写真投稿になります。 実は写真を投稿しようにも、撮影した写真データを現像していないので投稿はしませんでした。 しかし撮影そのものはしっかりと継続しています。 ここ2ヶ月余は特に里山ばかりに撮影の重点を置いていて、もはや写真趣味というよりも里山歩き趣味と いった感じになりましたね。 それで撮影時にお話をする人達は、必然的に写真趣味人ではなく山歩き趣味の人達となりました。 そういう人達の影響を受けてか、私の写真観も随分と変わりました。それで撮影はしても現像はしない と言った感じになったわけですね。 普通の多くの人達は野山の写真をスマホで写真を撮り、その画像は自己記録程度に留め、またその 写真をスマホ内に留め置いたままで、あえてプリントをするとか、そういう特別なことはしていません。 それどころか自分の撮り溜めた写真を特別に見ることもあまりない状態だといいます。 そういうのが現在の多くの人達の、今の普通の写真感覚だろうというところですかね。 私の場合は野山撮影をスマホではなく、本格的なデジカメでしかも、体力増強の為にそのカメラは 鉄アレイとして扱っていますので、重く大きく一般の眼には大型カメラと映ります。 それで出会った人から、(あなたは)どういう写真を撮っているのですか?という問いかけも偶にして くれます。 大体は野鳥を撮っているのですか?というのが多いですね。カメラが大きいので、きっと野鳥撮影だ、 と思われるのでしょう。 しかし私は言下に否定。まず野鳥はこの程度の機材では撮れませんと言い、私は皆さん方と同じく、 ごく普通の、つまり自分が出会った光景を撮り、ただ記録しているだけですと答えています。 つまり自分は、写真好きなハイアマチュア人間ではありませんと言下にいっているようなものです。 そんな具合で、私はもう写真趣味人であることを止めたというか、卒業をしてしまったようです。 それにしてもカメラを持たなければ山に入れないというのも何だかな~ぁ、という気もしますが、 これはこれでいいのかも、と思っています。 持って行くカメラは基本、カメラボディ+レンズ1本です。つまりボディに着けたレンズのみ。 標準ズームレンズが多いです。たまに広角ズームをバッグに入れることもあります。 絶対に必要なのはバッテリーグリップです。これがないと左手でカメラを持てない場合もあります ので。カメラの重さは2キロを目安にしています。1キロちょいのカメラでは運動にならずで体力は 付きません。 そしてカメラは歩く全行程で手に持ったままです。右手か左手のどちらかで保持したまま。 体幹を鍛えないといけないのでストックは持ちません。急傾斜が多い香川の里山ですが、三百㍍ くらいの里山ばかりですのでなんとかなります。いざという時は拾った枝を杖代わりに。 あくまでも里山歩きで体力を鍛え維持するのが目的なので、撮影はいい加減です。ノーファインダー 撮影みたいな感じで撮ってます。 こんな感じの撮影がすっかりと板につきました。写真から画像を取り去り、撮影のみに邁進する、 といったところですか。 撮った写真を後で見ることはないのですが、保存はきちんとしています。もう二度と見ることは ないでしょうけど。 気をつけなければならないのは撮影ではなくて、低山ながら登山ですので、道迷い、滑落、そして 蜂や蝮や猪との遭遇ですね。なお、そういう危険動物の写真は絶対に撮りません。対象物に注意力 を集中ですから。 今回、投稿のために1枚だけRAWデータを現像しました。300㍍くらいの山の、中腹での撮影。 火山灰が固まった凝灰岩ですか。香川の山は麓が花崗岩、中腹が礫岩、山頂部が安山岩といった 感じです。しかし山頂部まで花崗岩の山も多いです。そういう山は、山頂に巨石がありますね。 ところで、この板もAI評論がすっかりと定着したみたいです。私のように人間が書いた長い文は、 長文だとして嫌われるのですが、AIだと問題視されないようです。内容が平易だからでしょう。 しかしAIを積極的に利用する人、全く使わない人で2分されたみたいですね。 私としてはAIの恐ろしさを書いた本やサイトを見たり読んだりしていますので、気軽にAIで遊ぶ 気にはなれません。グーグルで利用はしていますが必要に迫られて、だけですね。 余談ですが、占星術でのAI史観を考えると、現在のAIは片手落ちの知能です。人間は全12星座 全てを持っていて、それで人間としてバランスが取れているのですが、AIはそうではありません。 機能を研ぎ澄ます為に敢えて知力と突撃力一本に絞ったところがあり、極めて過激で危険なところ があります。どうにも止まらない欲望を制御できていないようなAIです。 将棋や囲碁ソフトや、最新のアンソロピックのような、特定の部門で完全に人間の能力を凌駕 してしまったAIが出現しているのですが、やがて汎用AIが出現し、それが人間の知能を悉く大きく 上回った場合、人間にできることは電源を切ることだけです。それは人類の全インフラを失う ことでもあって、その瞬間に現在文明は崩壊します。 半世紀前のコンピューターもネットもない時代に後戻りしないと超AIからは逃れられません。

写真の人格性

写真の人格性

写真には上手いとか下手とか、そういうのを超越した魅力というものがありますね。 とても上手な写真なんだけど、魅力を感じないという写真があり、下手な感じだけど魅力を感じて どうにも見逃せないという写真もあるわけです。 その差はなんだろうかと言うと、それはすなわち撮影者自身の持つ魅力なんだろうと思っています。 たとえばプロ作家というのは圧倒的な人間的な魅力を持っているわけです。それが全ての作品に 醸し出されているだろうからその作家の写真は魅力的に映るんです。 つまり人格が写真を作る。人格性でもって写真となす、と言う具合です。 これからはAIが写真をつくることになるかも知れないですね。そういう場合は、AIに指示を出した 人間の人格がそのAI写真の人格性をつくるということになります。AI自体には道具としてのカメラ と同じような意味しかなさそうですから。 この人格性というのは基本的に生命しか持ち得ないものなのです。つまり人間です。 それで写真というのはモノですから当然に人格性を持っていません。しかし人格性を投影したもの だとはいえるんです。 人格には個人を超えた集団的集合的な法人格なるものもあります。人々が集まった形態での象徴的 人格ですかね。その最大のものは国家や民族なのかもしれません。 とにかく写真とはそういうものなので、写真というモノ自体を撮影者の人格から切り離して論じても、 それは本当の写真の論評とはならないのでしょう。写真というものは生みの親である撮影者を切り 離しては何も語られないものなんですね。語ることができるのは単なる画像です。

無題

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先に写真は下手でよい、と言いましたが、もうひとつ言えば写真は被写体のコレクションで良いという ことです。被写体に対してはコレクション以上のものを求めないと言うことでしょうか。 私の溜池撮影、里山撮影、そして神社撮影は全てコレクションなのであって、地元にあるそれらを全部 網羅したいと願っているのですが勿論実際はなかなか難しいです。 ですから一回撮影をしたものは次に撮影することはめったにありません。そういう暇があれば別の所 のものを撮影しに行きますからね。この一所一種に拘らない姿勢がコレクション写真だというわけです。 コレクション写真の良いところはしがらみがないということです。 柵と書いてしがらみと読むのですが 自らに柵を設けないことが写真への自由に繋がるからです。それでいて継続すべき自分のテーマは続 行できるわけですからね。ある特定の場所で特定の被写体をしぶとく狙うというのは、それは芸術に 被れるおそれがありますから。 この投稿掲示板に於いて、長く写真を続けておられる方々は、野鳥撮影の方が多いです。鳥の撮影は 芸術とは無関係です。そして撮影は鳥まかせです。蝶の撮影もそうでしょうね。 こういう芸術的な写真とは関係のない被写体を追いかけるのが写真としてはベストなのかもしれませ んね。

無題

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写真は下手こそが良し。というのはカメラが発明されて以降の不変の真理です。 このことを知らない人かたまにいます。例えば、他人をして機材に凝る人は写真が下手であるというよう に。そういう方は、自分本人は機材に凝らないので写真が上手であると自負しているのかも知れません が、事実はそのような人は写真を長く永続することができません。すぐさま爺さんになってカメラを持ち出 すこともできなくなります。 ほんとうに写真を良く分かっている人は、わざと写真を下手にしているんですね。写真を上手に撮ろう、と か写真を突き詰めて上手くなりたいと思っている人がいれば、その方の写真寿命は短いものとなります。 なぜでしょうか。それは写真は本来、被写体とカメラという道具だけで成り立っているからです。この二つ の間に写真美学というものを挟み込んだ時点で写真行為は欺瞞への一途を辿るからです。 写真美学でも写真芸術でもいいんですが、そういうものは本来存在しない空想物であるわけです。写真 行為には記録(被写体であり自分自身への)が一番大事であって、無論多少の表現はよろしいのですが、 そこに美学とか芸術とかを入れ込んだ時点で、自分自身を喪失するという憂き目に逢うのです。 写真の三位一体論とは、被写体、道具としての機材、そしてカメラマン自身のこの三つです。ですから 写真の美学なりを入れ込めば、カメラマン自身がはじき出されるという結果になるのです。 このようなことは大昔から言われていることなのですが、相変わらず理解をしていない方が多いのです。 それは写真を表面的にしか見ていないからでしょうね。いや写真だけでなく物事も世界も自分で考えるの ではなく表層的に形や色だけでしか見ていないと、こういう過ちを幾世代にわたって続けてしまうというこ とになるのでしょう。 そうは言ってもそういう仕組みがこの世界の現実であって、写真をすることで自分を見失うのも、これも またこの世界の既定路線なのかもしれません。そういう人にとっての写真とは、竜宮城であり浦島太郎 であるというわけですね。 というわけで写真のことが良く分かっている人は写真を上手にしません。写真は被写体とカメラだけで良く て美学などは挟み込まないのです。 私の経験から言えば、写真に美学を排除しますと、写真行為は非常に楽になるという気がしてます。 気を入れ心を注入するのは被写体と機材だけで済むからです。このシンプルさが心地よく、写真を撮るの が楽しくなるわけですね。ですので写真美学というものは1ミリたりとも入れ込まないようにしています。 というか、そういうものはもう完全に忘れています。 最近手にしているカメラで面白いなあって思ったのは、ニコンD5200/5300です。ほとんど性能は同じで すが、両機は搭載しているセンサーのメーカーが異なるだけです。東芝とソニーですか。その違いも大し たことはなく、特に面白いと感じたのは、カメラボディの表面に液晶スクリーンが見当たらないことです。 つまり背面液晶は反転して隠すことができるのです。光学ファインダーを見て撮影する限りは余計なスク リーンを見ないですむという潔さがあります。 とは言え、殆どのユーザーはライブビューで撮影するのかもしれません。両機ともニコンの廉価機になる わけですが、こういった入門機種もやがてはミラーレスカメラになるだろうと思います。 そしてこの廉価機に、自作のバッテリーグリップを着けて撮影すると非常に使いやすいということを発見 しました。バッテリーグリップといっても専用のそれではなく只単に、何にでも着く様に改造したグリップな のですが(縦位置レリーズも出来ず、予備バッテリーも入れられず)、ボディよりもグリップが少し大きくて、 それが使い良さの秘訣となっているようです。 廉価小型機というのは小さくて軽いのですが、いざ使う段になると小さすぎて持ちにくく使いにくいのが 欠点です。それを自作グリップがカバーしてくれることを発見したわけです。下手な専用グリップよりも使 いやすいということで、中国製専用グリップの購入は止めました。 小さなカメラを大きくして使いやすくする、これがグリップの本来の目的であるわけなので、良い発見をし たものだと思っています。 この写真のカメラは何となくコダックDSC-14Nに雰囲気が似ていると感じてます。(^^ゞ  このグリップはプラスチックのドンガラなので軽くて重さを感じません。外せば小さなバックにも入れられる ということで、カメラ本体のサイズと軽さもスポイルしていないのです。 なおボディにスポンジの貼り付け(グリップ性の向上)やストラップにも工夫をしています。リングを挟み込 んだり滑り止めゴムの縫込み(写真には写ってない)なんかですね。 こういう具合に改造をしていきますと、廉価機でも大きなレンズを装着することが可能です。自分のカメラ を使いやすくして、撮影に傾注できれば被写体に注ぐ集中力も増します。理屈を捏ねて芸術ぶるよりも とにかく使いやすいカメラを目指そうじゃないかということですね。 カメラはなにも高級機を買う必要はありません。中古廉価カメラで十分です。それで少しの改造でとても 使いやすくできるし大型レンズの装着をしても苦になりません。短焦点高級レンズを着けるとフルサイズ にも負けない描写をしてくれます。そしてグリップを付加することで長丁場の撮影も可能になります。 写真における大体の悩みはカメラ機材を工夫することで大体は解決できると思ってます。メーカーで出し ているカメラはあくまでもスタンダードのスタイルでして、それをそのまま有難がって使うというのでは良い 撮影はできません。カメラは車検もなければ違法改造で捕まることもないんです。もっと自由な眼で機材 を工夫されてはいかがでしょうか。

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