14mmレンズ 作例

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【市販の狂った食べ物】「体が狂っていずれ病気になる..市販のあの狂った食べ物を買い続けていると腎臓が腐って髪が抜け落ちます..」を世界一わかりやすく要約してみた https://www.youtube.com/watch?v=ynvtMbJhl3o 和菓子と上白糖が取り上げられていますが、これは見た目重視の日本の美学の産物。見た目の美しさ の為には機能を犠牲にしてもよい、という誤った美意識があるというわけです。和菓子は見た目の美しさ を追求するがあまり、それを食べることで健康を損ねてしまうということ。 戦艦大和もそうです。美しいデザインをしていますが、役に立たないどころか特攻で多くの将兵を犠牲に してしまいました。それなのに宇宙戦艦ヤマトで復活するわけですからね。(笑) そして日本の写真もある意味、そうなんだと私は思いますよ。 まあ、和菓子も写真も見るだけだと害はないのですが、その和菓子を食ったり、自分でそういう写真を 撮ったりすると害が発生するのだと思います。 その日本的美意識の典型がボケ写真でしょうか。そして引き算の写真と言われる無地空白の多い写真。 こういう日本の美意識といわれるものは、つまりは独善の美学といってもいいんじゃないかと思ってます。 根拠なき自信過多な独善美。ようするに、そういうのは我がままな子どものような写真です。 そういう日本の写真風土に徹底的に闘いを挑んだのが、前回も紹介しましたが・・・ 「日本写真論」日高優著 講談社選書メチエ刊 ということになります。 木村伊兵衛、土門拳、濱谷浩の三巨頭を取り上げていますが、読み終えた後の感想としては、これは ある意味で日本人論なのだという気がしています。三巨頭が特別に偉いというよりも、我々日本人が だらしないんだなあということ。子どもっぽ過ぎるんだなあっていうことですか。 見た目ばかりに拘って、中身がない。さてその美意識とは小学生並み。 三巨頭が活躍していた頃はまだ黒白写真時代ですから本来の写真を追及する賛同者は多かったので すが、今やもう完全なカラー写真時代です。写真の本質を分かるような人はもう殆どいないでしょう。 しかし、日本の美学が見た目重視で、その為ならば機能や健康を犠牲にするというのは本当でしょうか。 現代日本の工業製品で、例えば自動車やカメラで美しいけれど非実用的なものがあるでしょうか。そんな ものはありませんね。 そうは言っても伝統的なものにはあるようです。伝統の名に縛られて変革ができないものなど。例えば 相撲や歌舞伎とか和服とか。かなり奇形的ですよね。書道や茶道もそんな感じです。 日本家屋の和室というのもそういうところがあって、今では新築の家では殆ど和室は見捨てられてい ます。しかし和室の畳や障子・襖というのは結構西洋では人気だったりします。 実は私はこの和室が好きなんです。それで寝室兼書斎は和室にしています。畳部屋は布団で就寝 しますので洋間のようなベッド配置での制約がなく、コンパクトに自由に布団を敷いて寝ることができ、 つまり東枕が実行しやすいのです。 そして柱が壁と明確に区別されているのも実用的です。簡単に棚とかが作れます。昨今の耐震補強 工事でも有利。基本土壁なので塩ビ系壁紙(シックハウス)を貼らずに済みます。 障子はガラス窓との二重戸となり断熱効果がありますし、襖は開ければ隣部屋との空間合体が可能 です。無駄だな、と思うのは床の間です。仏間もそう。床の間は西洋の出窓のような心理的空間拡張 の意味では優れているのですが、椅子の生活の現代では形を変えるべきだと思います。 そんな感じで基本は優れているのですが現代風な改革すれば和室は優れた部屋や家屋となります。 そのような現代風の和室はこれから出現するでしょう。 私は日本人の物つくりの思想は大変に実用的で優れていると思っています。ただ一部には思考停止 をしていて変革が止まっている部門があるというわけです。 和食は優れていて世界的に人気ですが、一部の和菓子のように間違ったものもあるというわけです。 問題なのは明らかにおかしいと思っても、日本人は伝統だからといって変えることを嫌うという悪習が あるということです。 それは美意識などという高等なものではなくて、そんなものは美意識でも何でもなく自滅意識だと 私は考えています。 日本人には、この自滅意識というものが根深く巣食っていて、このことに多くの日本人が気がつかない でいます。自滅意識を美意識と勘違いをするんですね。桜と散る特攻精神が最たるもの。 現在、日本人は子どもを産まなくなり民族として自滅しかかっています。 これは日本人の根本に自滅したいという、そういう不可思議な本能のようなものがあるからだと私は 考えています。特に時代が豊かになればなるほど、この自滅意識が巣食うのです。 貧しければ逞しく生きる能力がある日本人ですが豊になりすぎるとダメになっちゃう、自滅意識がもたげてくるというわけです。 昨今流行の引き篭もりや登校拒否なんかはその典型です。本質的に豊過ぎる時代だから出現するの ですし、この自滅意識に囚われている限り改善は望めません。特効薬は本当に徹底的に食うものが ない、寝る場所すらないという赤貧状態になることです。そして誰も助けてはくれないことを知ることです。 過剰であるからこそ消尽をする。その法則下に自滅意識なるものがあるんじゃないでしょうか。 この日本人の特異な特質に気づいたのが前出した写真家濱谷浩です。 簡単に言えば、私の考えですが、幼児や子ども時代に親から溺愛とも言える甘やかしを受けてしまうと 子どもは自滅意識を潜在的に芽生えさせてしまうのではないですか。親だけでなく(親は厳しく育てても)、 その親の両親が孫をダメにしてしまう場合も多々あります。 子どもというのはどんなに厳しく貧しく育ててもダメになるなんてことはありません。しかしその逆は大いに ありえるのです。伝統明なきちんとした家では老父母も孫達をけっして甘やかしません。 子どもにとっての最大の財産とは、この厳しく貧しく育ててくれたというその意識と記憶です。これが本当 の銀のスプーンであり親ガチャなんですね。 心に自滅意識を芽生えさせてしまった当人はどうなるのでしょうか。やはり自分の自滅意識と戦うしか ないということでしょう。しかし闘いの仕方すら知らないのだから困ったことになるわけです。 そして肝心なことですが、自滅意識とはやはり社会的知性(EQ)が低いというのが根底にあると思います。 一方、社会的知性が高く、また高知能に生まれた子どもは親の甘やかしを嫌います。自分で自らを 律しながら育っていくという能力が備わっているからです。多くの親達が言っていることですが優秀な 子どもは育てやすいのです。放っておいても自分で育ちます。 色々と脱線してしまいましたが、写真に於いても日本的美意識として間違いられやすい自己自滅意識 を排するということは写真をする上で大切なことだろうと思ってます。これに陥ってしまうともう前進は 望めません。 日本人には自滅意識、自滅願望というのがあり、分かりやすく言えば、投げやりな意識、努力を嫌い 安易に逃げ込む意識、狡猾な小狡さ、模倣性と権威主義、他人に責任転嫁、つまり甘えの精神、 その場限りの快楽主義、等々です。 このようなことは、世の中が物質的に豊になればなるほど人々の精神が緩んでしまい蔓延するのです。 今回は日本的美意識とは何か、と考察したわけですが、何事にも物事には表裏があります。 良い意味で発揮される日本の精神は素晴らしいものですが、間違ってしまうとそれはグロテスクな姿 となります。 昨今では、物質的豊かさを拒否して物的には節制して暮らしていく、というのがブームのようです。 物は可能な限り持たずに、極端な話、スマホひとつで暮らしていく、というものです。 実際のところ都会ではそれは可能でしょう。しかし考えてみればスマホ予約ひとつですぐさま注文品が 届くというのは物質的豊かさの極まりの姿ではないですか。モノを買って飽きればすぐさま捨てるか 転売する。それもまた世の中が物質的に豊であるからこそ可能なライフスタイルです。 そのようなものは、モノを大切にするという考え方とは対極にあるものです。モノを捨てることを前提と しての暮らしであって、それは物に溢れる豊かさを前提に対応した暮らしぶりなのです。 本来の日本人の節約精神はモノを大切に扱い、安易に捨てずに長く使っていくというものです。物にも 心が宿り、人も物も同様に大切にするという精神です。それを根底から、物イコール捨てること、として 考えているわけですから、日本人の心と精神は荒廃して当然というわけです。 幕末期に西洋人が日本に遣ってきて、その庶民の暮らしぶりを見て、物の少ない質素な暮らしぶりで ありながら、日本人の心と精神の高さに驚いたと言います。そして識字率の高さにも驚愕したと。 権力者の幕府でもそうであって江戸城には豪華な贅沢品はなかったと言います。 おそらく現在、日本人ほどモノを大切にせず使い捨て文化に没入している国や民族はいないと思いま す。まだまだ充分に使える物でありながら平気で捨てていますから。江戸時代の人間が今の現代を 見ればびっくり仰天するはずです。 モノとサービスは同義なものですから、現代都会の暮らしぶりは物だけでなくサービスも使い捨てして いるというわけです。物は自分では持たずにスマホというサービスで使い放題、というのが現実です。 例えばこの掲示板。現代サービスのひとつですね。これを皆さん、只で無料で使っています。何も 気にせずに使い放題をされているわけですが、それこそが現代のモノとサービスは湯水の如く使って いいのだという現代風潮の錯覚のものなんです。 本当はこの掲示板を利用するのは無料とはいきません。少し考えれば分かることてすが、投稿写真 を継続しようと思えば、撮影に出かけなければならない。交通費と労力が要ります。また新しい機材 も導入しようかということにもなります。購入費がかかります。 ネットでモノを買うのもそうなんでして、ただでサービスが利用できて便利、なんて思っていると、ついつい 不要なものまで購入してしまって結局は高くつきます。テレビショッピングもそうですね。 ただこの掲示板は普通の投稿サイトとは違い、かなり突っ込んで書かれている人かけっこういます。 そういう人の投稿はかなり私としては興味深くて役立っています。 ペンタックスな人の投稿は見守っています。稀有な投後者だと思うので私としては現代社会を分析 するのに役立っているのです。願うべきは彼が一般社会に復帰できるようになることですが、それは 難しいんでしょうね。しかし1年後くらいから、もしかすれば良い方向に行くかもしれません。 ※最近は時間がとれずで投稿する写真がありません。上げた写真は古い写真ですが、もしかすれば 既に投稿済みのものかも。 ところでPCに眠っている古い写真を見ていると、これらが自分が撮ったという実感が涌いてきません。 なんか別人が撮ったんじゃないかと。(笑) 考えてみると写真をする趣味というのはかなり贅沢なものなんであって、ゆったりとした時間と心の 余裕が持てないと写真なる趣味は持てません。 幸いに私はこの20年間程はそういう余裕が持てました。ありがたいことだと思ってます。

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カメラとは何かな?ということで一言。 私の場合は、カメラは身体の拡張パーツのようなものかなって考えることにしています。そいうのはPC もスマホも自動車もバイクも同じです。自身の拡張ですから完全にマスターして自由自在に扱えなくては なりません、まっ道具ですわね。(^^ゞ その道具というのは、必ずしも身体に良いモノではなかったりしま すし、もちろん当然に有益であったりするわけです。とにかく道具というものの性質を確実に抑えておか なければならないということ。 よく道具を神扱いする人がいるのですが、そういう方は自身の拡張パーツではなくて、道具の拡張パーツ として自分がいるという考え方だろうと思いますね。つまり道具に自分を合わせて使うと言うやり方。 これは本末転倒なんですが、そういうやり方をする人は人間の中に3割くらいはいそうです。(^^ゞ  日本はこれで戦争に負けました。兵器を陛下のお召し物として大切に扱い、人間を召使扱いしてしまった からです。カメラと言うのは電磁波をばんばん出しますし、デジタルスクリーン画像は人間の眼と脳を酷使 していきます。たかが道具のくせに何だろうこれは、と思うのですが、これを神扱いすれば確実に人間は 奴隷となってやがてはぼろぼろになっていくわけです。 よくデジタル写真やカメラというものに信仰心をもたれている人がいるようです。そういう人にフルサイズ の超高画素カメラやフォビオンカメラがよろしくないと言いますと猛然と突っかかってくるのは、それは宗教 化をしているからでしょう。カメラや写真というのはたがか道具です。その道具を神扱いしたり宗教化した りするのは、そもそもそういう性質をお持ちの人であるというしか他に言いようがありません。 人間は必ずしも諸道具の長(おさ)ではなくて、それどころか自身が道具であるという考え方は、近代的な 考え方ではなくて古代の奴隷制時代の考え方であるわけです。本当を言うとそういう考え方の人達が世 の中の半分は占めているというのが事実だったりします。 それはさておいて、私としてはカメラは道具としてみているので、いかに安全に上手く使ってやろうかと 常に考えています。手持ちのオリンパスE-30は液晶が物理的に壊れていて細かな設定ができません。 だいたいメディアのフォーマットすらできないのですが、不便とは言っても使えないわけではありません。 またスイッチの不良で良い按配で止めないと直ぐに切れたりしますがそれも慣れれば問題がありません。 E-510はなんと記録画像が縦になったり横になったり不安定なんですが、それでもこういうもんだと思えば 使えるものです。物に道具に完璧製を求めるべきではないと考えれば、道具とはこんなもので可愛いじゃ ないかというわけです。 次第に壊れていくのが機械や道具でありカメラだったりします。道具を神格化しすぎて不十分なのはけし からん、というのは道具への奴隷化の裏返しだったりするわけです。 道具を神格化していって、最後にたどりつくのか写真やカメラへの宗教化であり信仰です。私はそういう 道をとらないのでカメラは道具として扱ってます。きちんと道具としてみていくと中々、カメラというものは 面白いものです。買ったものの捨て置いていたカメラを取り出して動かしているわけですが、きちんと道具 として動いてくれる様は、本当にいいものだなって感じております。 ※写真はありふれた道路の橋ですが、英語で表記されているのは初めてみました。石地像とならんで 必ず撮るのが橋の表記です。

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確か、太郎さんは自家用車で移動するんでしたっけ。以前プリウスの写真を見たことかありますし。(^^ゞ  ご夫婦2人で広島市から高知市へ移動する、その道中で観光や撮影に良いところがあるのかどうか、 という話だろうと思います。 そして移動はカーナビを利用して主に高速道を走る、ということだろうと思います。E2→E30→E11→E32 の山陽道から高知市までの走行はスピーディでして、特に四国に入ってからはガラすきなので高速を キープできます。高知には午後6時ころに着けばよいとなると、車の移動は3時間かかるとして、2時間くら いは寄り道ができますね。 2時間は私としては少ないかなって感じますが、とにかく1箇所は寄るとして候補地は・・・ ①呉市---広島市からはかなり南下するので時間的には厳しいか。軍港であり大和ミュージアムがあり  ます。 ②尾道市--E2高速道からは地理的に近いとは言え一般道との連絡が複雑です。古い江戸時代の瀬戸  内の湊であり街並みが魅力です。 ちなみに ここから島並み海道が始まり四国の今治市まで橋が続  いています。 ③倉敷市--高速道のインターチェンジを降りたところです。倉敷市の古い町並みは有名ですね。大原美  術館もあります。街中は込み入っていますので迷いそうですね。でもこれは忙しいな。 ④香川の琴平の金比羅山--善通寺インターから一般道を南下し、帰りもそのコースになるので時間的に  難しいです。こんぴらさんは歩かないと参拝できません。これは半日コースなので無理ですね。 そんな感じなので一応、尾道市か倉敷市が候補に上げられますが、それにしても時間が少なすぎます。 殆ど観光することは出来ない時間なので、むしろ途中で休憩するというくらいの気持ちでなければダメで しょうね。そうなると岡山県倉敷市南端の鷲羽山の展望などくらいかなって思います。晴れていれば備讃 瀬戸の展望が見られますね。とは言え、ここも一般道をかなり走らなければなりません。 そうか素早く高知まで行って、高知市を過ぎた辺りにある、仁淀川を少し散策するという手もあります。 河口からは太平洋が見られますね。 とにかく瀬戸内地方は思いのほか広大です。そして広島、岡山、香川、高知と4県に渡って走破しなけれ ばならないので、あまり無理はできませんね。観光はすっぱり諦めて、ワンポイントの撮影だけにすると、 香川の豊浜サービスエリアから降りれば直ぐに瀬戸内の海に出ることができます。そのSEから降りて、 (再びそのSEに戻る)、香川愛媛両県の海辺を見ることが出来ますが自然の浜は、もう僅かです。しかし そこらは燧灘(ひうちなだ)という広大な海を見ることができます。もう少し時間があれば、観音寺市の有明 浜や三豊市の荘内半島(展望が良い)にも足を伸ばせるのですが時間的に無理です。 まあ、そんな感じで良い撮影地をあげることは難しいですかね。(^^ゞ まあ、あまり無理をなさらずに道中 の風景をドライブしながら楽しむというのがよいかと思います。 瀬戸内の海は、他県の海と比べて、とにかく穏やかで波静かです。その鏡面のような海に多くの島が点 在するというイメージですかね。もっとも灘などは島はありませんが。こういうのは九州の有明海と同じで あるわけですが、水深が浅いという特徴が共通しています。瀬戸内の平均水深は20~30メートルなんで すね。しかし潮の満ち引きは速いんですよ。そして瀬戸内全体は、四国、中国地方、九州や近畿などに 囲まれた広大な盆地地形なんです。それで雨が降りません。よく晴れていて自然の災害から守られてい ますが、地味が貧しく少雨なので全体的に貧しい地域です。特に四国側は。 そこらへんは中京地区とは大違いですね。特に香川県はとりわけ水に乏しく貧窮県だと言えます。この 瀬戸内の、あっけらかんとした雰囲気を感じるだけで有意義なんではないでしょうかね。(^^ゞ 

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昔の話ですがレンズ板で、高級路線の方々と花鳥風月氏との競い合いというのがありました。(^^ゞ  今にして思うと、あれは何だったのか?ということですが、そのどちらの方々もこの掲示板からは消えて しまっているので、つまりはそのどちらも大したものではなかったということなのでしょうか。 それとも、どちらにも多少の意味があったのでしょうか。 私の考えとしては、高級路線の方々と花鳥風月氏も写真の為の写真を撮っていたようなので、やはり 長く続かなかったのは当然なのかなって考えています。そして両者ともに模倣行為写真ばかりでした。 写真の画質には圧倒的な差がありました。それは当然なのですが高級路線の機材であろうが、廉価 機材であろうが、本当に御自分の好きな写真を撮っておられたかどうかは疑いがありますね。 つまりはサンプル写真(作例写真)ばかりだったような気がしてます。 写真というのはどうしても本質的には薄っぺらな画像を使わざるを得ないのですが、その画像自体には さほどの意味はないんではないかと考えています。 話は変わりますが、私の場合は広角レンズを使うのが多いです。50ミリ標準レンズともなると、私の 感覚ではもう望遠レンズです。寸が足りない望遠レンズでして、私には使いにくいのです。私が広角 レンズを使うのは画角を広げたいというよりも、空間を撮りたいとなると広角レンズになるだけだと考え ているのです。自分が目前に接しているこの光景をそのまま画像に収めたいとなると必然的に広角レン ズを使うということになります。 望遠レンズだと、それは空間を撮るのではなく特定の事物を撮ると言うように、視点がガラリと変わって くるのですね。次元がスイッチして変わるというイメージですか。 よく風景写真や広角レンズが苦手だとおっしゃる方がおられますが、おそらくそのような方は自分の眼 がモノを見る視点になっているのだろうと思います。特定の事物やモノを見て、それを組み合わせてのち 全体の視野を得ているのでしょうか。よくわかりません。(^^ゞ  少なくとも私の場合は目前の光景を漠然と視野のままに全体的に見て、次に特定の事物にスイッチを 入れ替えているという気がしています。 この2つの見方はかなり違いますね。何よりもまず順番が違いますから。(笑)  アップした写真は換算21ミリなので私の好きな広角レンズのひとつになります。ほぼ裸眼で見た全視野 が一枚の画像に収まります。私は農業写真家なので(笑)、稲の作付け状態や整備された田を見るわけ ですが、この場合は同時に空からの視点で俯瞰的に見ておりました。手前に河川がありますが、その 河川がもたらした緩やかな傾斜をもつ耕作地。それは私の背後にも広がっていて、全体してこの地域の 帯状の盆地の広さとか生産力というものに思いを馳せていたんですね。点在する農家をみれば平均して 一戸あたりの耕作地は2ヘクタールかな?とか、溜池が少ないので用水は河川からの出水に頼れるだ ろうとか、またそれだけの降水量があるんだなとか、そういうことばかり考えていたわけです。 こういう視点は多分、アマチュア写真人の視点ではないだろうって思います。もちろん光景が美しいと 自分で感じたから写真を撮ったわけですが、これはほぼ記録写真ですかね。そんな感じで私は趣味写真 家なんだけど、もう既に写真の為の写真、芸術的な作品という観点からは写真をやっていないということ になります。 そもそも私が写真を初めた頃は一般的な写真を撮っていました。しかし意識して被写体というものを考え 始めてからは、公害運動とか過疎の村とかそういう社会的な視点に移りました。 それは大昔の話なんですけど、写真を再びデジタルカメラで撮り始めた時も当初は祭りとかイベントとか の比較的写真趣味的でしたが、やがて電磁波の害とか、それから特に3.11以降は、自分本来の写真の 視点に変えたのかもしれません。再び大昔の自分が撮っていたようなシリアルな被写体に戻ったというこ となんでしょうね。 写真や被写体に対してどういう興味があるのかは人によって様々です。何がどうのというものではありま せん。しかし自分自身の関心のある被写体や写真傾向なりを見つけ出さなければ、写真は長く続かない だろうということです。それだけは言えそうです。 カメラがどうのとかレンズがどうのとかでは長続きしないです。それから花鳥風月的な何でも写真でも続き ません。こういうのは写真のテーマですかね。撮影対象指向としてのテーマであって、作風とかテクニック のテーマじゃないですよ。 そういうものが自分の中で出来上がったとき、それから鑑みて自分の機材というものが必要になるので あって、機材から写真がでてくるのではありません。また漠然と写真という趣味や文化や市場(マーケット) が存在していると考えるのもいけません。そういうことで、冒頭に上げた機材路線の方も、それに反旗を 翻した方も長続きしなかったということでしょう。 この世の中に写真文化というものが確固として存在していると考える人は多いでしょう。そこに不動のも のがあって、その常識に照らして、正しいとか邪道とか言っている人がいますね。しかしそんな信頼できる ものなんて無いと私は思ってます。存在する写真とは、私が、貴方が独力で作り上げる写真だけであって 他にはなにもないと考えるべきです。持たれ合った写真では長く続くことはできませんし、そもそも満足感 も乏しいものです。 この写真のカメラはシグマですので本来は大変に高画素で画質もよいです。画素数は半分に落として アップしてます。記録写真だからといって画質はどうでもよいとは私は言っていません。優れた画質は写 真に力を与えます。それが自分の為の記録写真であっても。 廉価なカメラやレンズでも良いのですが、高級な機材でもかまわないということです。ただ自分の為の写 真を撮らなくては写真として意味が乏しいということだけなんですね。 イワユル写真を捨てなければ写真には達しないということでもあります。イワユル写真を追求すればする ほど写真からは遠ざかるということでもあります。(^^ゞ 

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小型ミラーレスカメラとコンデジカメラで、ずっとこのまま撮影できたらこれこそ最高の写真ライフでは ないかなって思えて来ています。それはほんとうに自分だけの写真であって、誰にも迷惑もかけず邪魔 もされずで、これこそが本当の趣味写真ではないかなって思わずにはいられませんね。(^^ゞ  さて(笑)、じゃあ何故に高級な機材を追い求める人達がいるのでしょうか。正統の答えとしては職業写真 家がそれらを使うからです。写真を撮ってお金を稼ぐというよりも、社会に対して写真を役立たせている 方達です。映画・テレビ・動画配信・新聞・雑誌・書籍・数多くの印刷物。これらに動画や写真を掲載する 場合、優れた性能の機材が必要になるからです。 そういう媒体の場合、鑑賞者・閲覧者・読者の方々は膨大な数となります。映画館でスクリーンの前には 百人くらいの鑑賞者がいるとしてそれが全国・全世界の上映数を掛け合わせると大変な数の方々が映像 を見ていることになります。新聞でも雑誌でもその写真を多くの国民に触れるわけですね。 そういうことを考えると、プロのカメラマンが良いカメラやレンズを使うのは当然のことであるというわけで す。高々数万部印刷の地方の市町の広報誌の写真ですら、職員がコンデジでチョロッと撮った写真を使 わざるを得ない時、担当者に、こういう画質の悪いカメラを使わないでいただけますか?と文句のひとつ も言いたくなるわけです。そういうひどい写真でも何とか良くしようとして印刷屋としては四苦八苦する わけなので、さりとて数万人の読者がいることを思えば、たかだか印刷屋でも責任感がでてくるわけなん ですね。 つまり写真機材の優劣というものは、裾野に広がる鑑賞者や読者の過多が最終的に決定するものなん でしょう。 それで今、私が上げているような写真はその鑑賞者として私自身と、もしいたとして他に数人の人だけ です。そういう場合には当然に小型機のカメラと安いレンズで十分というわけです。 そういうわけですから、殆どの多くのアマチュアカメラマンは良すぎる機材を使っているということになりま す。分不相応な機材を使っているということ。そういう認識が大切だと思いますね。 そうは言いながらもついつい高級機材に手を出したくなるというのが趣味人としての人情とでもいうもの です。穀潰しとか極道とか、そんなイメージで語られて来た道楽人であるわけですが、当然にそういう、 普通の人達とくらべて明らかに道を外した人達は、一般社会からは認められることがありません。 ですから可能な限り、分相応な機材を使って、密やかに写真趣味をしていくという気持ちが大切ですね。 写真とは、最終読者数が決定権を持っていて、( これは一種の民主主義であり市場原理です)、それに 相応した機材を撮影者は使うということ。これが何よりも大切なことです。(^^ゞ  このバランスが何よりも重要でして、分不相応な機材を駆使して写真趣味をやったところでろくなことに はなりません。もしどうしても使いたいということでしたら、それは謙虚さを失わないように、むしろ罪悪感 をもって使わないといけません。 写真趣味人の多くは、おそらくプロの方を真似て、そして同趣味人の人達からして優越感に浸っているの ではないでしょうか。自己満足だからいい、というのは当たりません。これは明らかに間違いですから。 最終読者数という言葉で思い出したのですが、大昔に私が撮った写真が全国紙の全国版にかなり大きく 載ったことがありました。浮浪者の方たちを撮影していてたまたま懇意になった人の写真を撮り、そのプリ ントを当人に差し上げて、その1年後くらいに御当人が路上死されて社会問題化し、某新聞が取り上げた わけです。 それで私が差し上げた写真が一番に最近のものであったわけで新聞社は取り上げたのでしょう。私とし てはあくまでも路上ポートレート写真ですわ。(^^ゞ その最終読者数は数百万人でしょうか。使ったカメラ はオリンパスOM-1の28ミリだった記憶があります。トライXフィルムの自家製プリントです。 これが私の写真のピークでしたね。(笑) ちなみに数社の新聞社に私の写真を使われましたが、私は掲 載料は一円も貰っていませんし撮影者だと名乗ることもありませんでした。まるで新聞社のカメラマンが 撮影したかのような記事でしたがね。(^^ゞ  機材の選択は最終読者数が決める。これは今までにない新しい発想の考え方だろうと思っています。 それともうひとつ、写真とは当然に被写体が決めることでもあるんですね。最終読者数がゼロでも被写体 が素晴らしければそれでも良いんです。しかしカメラマンが素晴らしいとかはダメですね。(笑) 被写体の素晴らしさ。被写体だけでなくそのものの見方が新鮮であれば、その被写体自身も喜ぼうという ものです。被写体は何も人物に限りません。風景でもモノでも素晴らしい被写体は数多く存在し、新たな 発見を待っているわけです。 多くの写真人はそれを狙っていて、きっと良い写真を撮るから良い機材を使わせてくれ!って懇願してい るかのようです。これは神との契約のようなものでして優れた被写体を見出せなければ契約不履行となり 天罰を受けるわけでしてね。一か八かの勝負のようなものです。もしくは先行投資でもあって、それによっ て良い被写体を発見できれば元が取れるというだけでなく、高級機材を使う資格を得ることになります。 そして可能ならば是非とも読者を獲得しましょう。 また良い機材を買ってしまった人はその機材を眠らせるのではなく再び光を通して神との契約の再履行 をしなければなりませんね。 私のように機材は多くとも安物ばかりの人間は気が楽というものです。それらは自分のささやかな楽しみ だけに使えるものだからです。自分の楽しみのために撮り、自分だけが観て楽しむ写真だということ。 庶民の写真とはそういうものだろうと思ってます。 ※写真は試験貯水のダム湖の様子。長雨で思った以上に貯水が進んでいました。かつてこの水の中に 村があったことなどは思いもよらないわけですが、その村跡が再び出現することはもうないでしょう。

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自分の好きな写真だけを撮っていく。これは真っ当なようでいて中々に難しいものです。自分の好きな 被写体とか好きなスタイルですか。好きなカメラでもいいですし、とにかく他人に惑わされないような、 自分だけの写真を続けていくというのは簡単なようでいて簡単ではないです。 それは何故でしょう? ひとつの答えとしては、自分のモノの見方というものが出来ていないと、自分の 好きな写真は撮れないからです。だいたいは誰かの、人様の見方というものをなぞって、それを自分の 写真だとしているからですね。つまりは模倣です。模倣はものごとの始まりにすぎないわけですが、それ から脱却して自分の見方というものを作り上げていくというのはかなり難しいということです。 写真を長く続けていくというのが良いのかよくないのかは分かりませんが、少なくとも自分の見方の写真 を作り上げておかないと、写真行為というものは長続きしません。それとせっかく縁あって写真を始めた のだから、自分の写真というものを見つけておくというのは意味があると思っています。 これは間違いなく、自分の人生と関わりがあってそれが利益を生むと思うからです。写真とはモノの見方 とすれば、それは翻って自分自身に帰ってくるからですね。 写真を見ることは画像を読むということですし、現実から変換して画像化するということでもあります。 写真は言葉ではありませんが、言語と同じようにしてこの世界と自身を認識することへの手助けとなり ます。 以前にも書きましたが、個人的に言えば若い時期にやった写真(黒白写真)がその後の占星術への関心 に向いたというのは言えると思っています。占星術のチャート・ホロスコープというものは画像で図形なの です。言葉で書かれている占いもあるんですがそれは入門用ですね。本当の占星術は抽象的な図形か ら読み取る力が必要になります。つまり図形や画像からそれを言葉に変換する能力が求められるんで すが、それは写真などの画像読みと同じことなんです。 言葉(コメント)と写真とは関係がない、と多くの人は思っているのではないですか。 この掲示板でやたらコメント文が長いと思われているのは、この私とS9000さんですか。(^^ゞ S9000さ んは漫画を読む能力が高いのですね。ご自分では描けないと言ってましたがそりゃあ難しいですから。 とにかく若い時期に漫画という画像に親しんでいると、画像と言葉の境界線を突破できるのだろうと考え ています。この漫画の言葉というのは吹き出しのことではないですよ。 画像と言葉を行き来できるようになりますと、両刀遣いといいますか、普通とは違った発想ができるうに なると思ってます。 デジタル写真というものは昔のフィルム写真と違い、画像が物質固定化されていませんので、極めて 視神経や脳に近いところにあるものですね。画像的記憶の外部化というところがあります。それよりも 多数のショットを記録できるということの意味が大きいですか。 とにかく簡単に撮れて記録できてしまうというのが、考えれば凄いことです。写真画像への敷居が大変 に低いということ。とにかくあまり深く考えずともカメラで撮ってしまうという気軽さが一番かなって思って ます。 そうは言いながらも私としては、カメラは特別なときに持ち出すものであって、日常にはカメラ(スマホ)は 使いません。特別な時とは撮影のために出かける時だけだということです。ハレとケは区別していると いうことです。これを混同してしまいますと私の写真は崩壊してしまうと思ってるからです。 思いつくままに様々なことを書いていますが、写真のポテンシャルは多くあるものでして私にしてもごく 僅かなところを知っているだけです。写真の面白さはこれからやっと分かってくるものかもしれません。 ※この撮影は、このカメラの限界を超えた暗さでの撮影でしたが、それなりに写っているのが嬉しいで す。香川と徳島の県境といった盆地の山里です。なんとなく高野山に地形が似ていると地元の方に 言いますと、伝説として弘法大師空海は此処を真言密教の本拠ししたかったとのことです。もちろん都 とは離れすぎているので高野山にはなりませんでしたが。(^^ゞ 

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この古いPC(ビスタ)には2つのブラウザが入れてあるんですが、MSインターネットエキスプローラーと グーグルクロームですね。両方とも古いバージョンです。 それでネットの写真を開きますと両ブラウザの写真画質の違いが非常に大きいのです。この掲示板写真 に関しては殆どIEを使って見ているのですが、たまにGCで見るとその違いに唖然としてしまいます。こん なにも違っていたのかと。 もう写真に対しては画質は問わないと私は考えているのですが、それでも意識して画質を落として見よう とは考えていません。高級レンズで撮影された写真が、数千円のジャンクレンズと同じに見えてしまう。 というよりも、ジャンクレンズはそれなりに精一杯がんばって写そうという意思を感じますが、ブラウザで 貶められた画質には投げやりさを感じてしまうのです。 そんなわけでこの掲示板に関してはこれからも可能ならばIEで見ていきたいと思ってます。 この掲示板はもう投稿者がほとんどいなくなってきています。きっと閲覧者にしてもそうでしょう。掲示板が いつまで運営されるのか分かりませんが、そう遠くない時点で閉鎖されるものと思われます。あと半年 かなっていう気がしてますし。 しかし先はどうであっても、最後まで私自身はコツコツと写真を上げてコメントも書いていきたいなって考 えています。写真の本当の力というものは、他力を頼まないことだと考えていますので、そういうマイペー スが大切だと思っています。 一人でする写真というのは、撮影もその写真の視聴も一人で行うことになるわけです。正直言うとこれに は限界があるんです。写真というの他者が見てくれ共感してくれて、それで写真行為として成立するという のがあります。それをたった一人でやっていくというのは難しいですね。 今、私が試みているのは写真は撮るけれど後で見ない、現像もしないというやりかたをしています。無論 この掲示板の投稿の為に、ごくまれに現像し、投稿しているわけですが。でもその殆どの撮影は日の目 をみないままデータとして眠ったままです。 写真の持つ潜在能力を撮影時にのみ発揮させ、後は知らないという具合ですか。これでどこまでやって いけるのか、試してみたいと考えています。デジタル写真はかつてのフィルム写真よりも、そういう点では やや頑強かもしれません。 この逆の論点を言いますと、写真というのは他者に巻き込まれすぎると返って自分の写真を失ってしまう というのがあります。自分自身を見失うというようなところですかね。私自身にしても他者の影響を受け過 ぎて無駄な買い物をし過ぎたと思ってますし。そういうことを考えると、今の時点がちょうどよいのかなって 思えますね。(^^ゞ 

私のシグマカメラの使い方 (パソコンの使用時間の制限)

私のシグマカメラの使い方 (パソコンの使用時間の制限)

私のシグマカメラの使い方 (パソコンの使用時間の制限) https://photoxp.jp/pictures/217113 ここでパソコンのパワーを上げればシグマの写真はある程度は解決さすると申しました。 しかしながら本当は嘘なんですね。半分は本当だとしても残り半分は正しくはありません。 私の場合、現在は10年前のPCでやっていますが、これでも十分なところがあるだろうと思ってます。 この現在のPCのスピードを幾分か速めたところで(例えば半分のスピードとかで)、本質的な問題は 何も解決できません。 それよりも有効なのは、パソコンの使用時間を制限することです。シグマのソフトを立ち上げている 時間を自ら規律的に、例えば1日60分と制限することだと思っています。これをやりますと制限内で 見れるファイルの数は、最新高速なPCの方が有利ですね。 シグマのカメラ自体の撮影は、これは普通のカメラと違いません。少しもたつくかなっていう程度で して、問題は撮影した画像ファイルを閲覧し画像処理をして現像するという、PCモニター前での時間 が膨大になり過ぎるということなんです。 それで1日の撮影でシグマ画像を500ショット撮ったとします。この500ショットの画像は、制限された 60分内で閲覧することはできません。仮にそれが50ショット分だとすると、それで1日の制限時間は 終わりですから、500ショットの写真全部を見終わるには10日かかることになります。 そんなの全部まとめて現像すればいいじゃないかって言われそうですが、つまりRAWからTIFFに一括 現像すれば確かに速いですし、PCの前に座ることなく自動でやれますからね。 仕事だとそれでよいんですが、趣味での1枚1枚の写真をみながら適性現像をするという楽しみ方を するのであれば一括現像は味気ないんです。そんなことをすれば自分は何ために写真を撮っている のかが分からなくなりますから。 それで現像すべき写真のみですが、丁寧に開いて画像処理&現像というスタイルとなりますと60分 の制限内ではせいぜい10ショットでしょうか。50ショット連続画像ファイル分から選び出した10ショット分 くらいしかやれません。PCが高性能になれば10ショットから15ショットに増えるだろうか、という程度 ですね。 一番肝心なのは、シグマの画像は特殊であるという自覚が必要であるということだと思っています。 500ショット撮影した画像をみるのに10日を掛けてやる。普通のベイヤーカメラであれば1日ですむことを、 シグマは時間をかけて分散してやっていく。これが肝心だろうと私は考えています。 シグマフォビオン画像は普通のデジカメ画像とは異なります。むしろフィルム写真に近いのであって、 フィルムで撮影して写真屋で現像をしてそれを自宅でスキャンして画像処理をするという時代のスタイル を思い出してくれれば、それに近い写真であるということなんです。 ですからフィルム写真と比べればシグマの写真はデジタルですから圧倒的に速いじゃないですか、と なるわけです。またフィルムに比べれば撮影量も圧倒的ですしね。 シグマのフォビオン写真は、具体的に言うと、メリルとクワトロに関しては、これはデジタルカメラでは あるけれども、フィルム写真の感覚でやっていかないと行けないよねって、いうことなんです。 これを根をつめて1日に何時間もPCモニターの前でやってしまうと、シグマの写真を長く続けることは できないということでしょう。趣味で写真をやる人間は十分な時間を与えられていませんから。 シグマのカメラでも画素数の低いSD15以前のカメラとか、またベイヤーになったfpだと普通のカメラの 感覚でしても問題はないと思います。それでもfpLは高画素なので要注意ですか。 私の場合、今はこういう結論に達するようになってます。 でも、こういうことが言えるようになるまでに3年掛かりました。(笑) シグマのカメラは普通のデジタル写真とは別格であり、むしろフィルム写真と同じなのだから時間を掛け て、じっくりとやるのが当たり前だ。ということなんです。 もっとも、デジタルカメラ、シグマフォビオン、フィルム、フィルムスキャン、CCDなどなとの違いが分から ないという人もいるでしょう。そこから説明していくのは大変ですから書きませんが、写真、デジタル写真 と一口に言っても随分と違うということてすかね。 この掲示板の視聴者の中にもシグマのカメラをお使いの方がいるかもしれません。私なんかよりずっと シグマのことを知っている方もおられるでしょう。とにかくシグマに関心のある方がおられれば、この書き 込みはそういう方々に向けて書いています。それからこれはあくまでも私のやり方です。 久しぶりにdpクワトロを使いました。ここしばらく光学ファインダーのある一眼レフを使ってきましたが、もう 私の写真スタイルはミラーレスカメラのコンデジ的使い方になっています。コンデジ的使い方というのは、 背面液晶を見ての撮影という意味です。事実上、ファインダーがありませんので、写真趣味的な嗜好する 写真ではなくて、あくまでも記録的な写真ということになりそうです。 写真趣味的ではなくて、そういうものをすっ飛ばして、あくまでも被写体を直接に記録するというスタイル ですので、写真としては何も面白いものはありません。 背面液晶を見ての撮影というのは、実は液晶を見ているのではなくて(それはアタリ確認だけ)、あくまでも 被写体だけを見ての撮影です。光学ファインダーというオブラートがありませんから、本当にシビアに被写 体が私の中に入って来ます。といいますか被写体のなかに入って行けなければ写真が撮れません。 こういうスタイルは広角から標準のレンズでの撮影となります。望遠レンズは難しいですから。

伝言板

伝言板

この写真、ダウンロードゲットしました。私が人様の写真を下ろすのは滅多にないことなのです。 しかし良い写真は積極的にやってます。 まず、これがキヤノンだっていう典型的なキヤノンのセンサーを活かした画質になってます。つまり 淡くてモノクロ的で東洋画の雰囲気の画質であり写風ですかね。 ソニーもニコンも良いんですけど、それらは輝度が高くて(栄養価が高い)確かに基本としては優れ ているんですけどそれと好感度とは別の話です。ソニーが一般向けの画質とすればキヤノンは 玄人受けする画質(伝統的日本食かな)なんですね。 これちょっとアンバーに振ってますけどその塩梅がとてもいいです。これも玄人受けだということ。 風景写真というのは、記憶、人間の長記憶に留める方向に向くと非常に威力を発揮するんですね。 少なくとも私はそう考えているのですが、こういう写真はたぶん地方の田舎育ちの人間でないと 撮れないし気がつかない写真だと思ってます。 この写真の醍醐味は空間だと思います。人が住んでいる山里の愛おしい空間。空間とは土地の 広さとそして立体的な空気感です。その空気の感覚は自然だけでなく人間の営みの匂いが漂って いる感覚でもあるんですね。こういう大自然と人間の生活の融合というのは都会育ちの人には分か らないだろうと思いますよ。都会育ちの人の写真は綺麗かも知れないけどどこか冷たいです。 ここには富士も写っていないし何も目を引くものも驚かすものもありません。何かを撮っているという ものではなくてしかし絶対的な自分自身の中にある何かを強烈に表現して、そして心に長く留める 長記憶としての記録をしているとも言えるんです。 次にボケのことを書いてみたいと思います。ボケというのはあの極端なボケではありません。ごく 自然な連なりのある微妙なグラデーションのことです。私がいうところのボケとはこういうボケ具合 のことなのですがそれは意味のあるボケですね。ここではボケと言わず霞(かすみ)と言うのが 相応しいでしょう。それが立体感を生んでいますしまた山里の空間を表現する要ともなっています。 このレンズのミリ数が35ミリというのも示唆的です。 私は本当の人間感覚の表現ができるのがいわゆる標準レンズ領域であり、35ミリから60ミリという 領域だろうと最近気がついてきているのですが、そしてその標準ミリ数こそが、現在の最大の難題で ある超高画素高画質のカメラに立ち向かえる最大の武器になるんではないかとも思考しています。 しかしこのレンズミリ数とは要するに、鑑賞者のモニターの大きさと深く関係していることでもあるん ですね。ですから正確に言えば絶対標準レンズというものはないのです。とは言え巨大なモニター で広角レンズ撮影した写真を大伸ばしして鑑賞することは一般的ではありません。やはり普通のモニ ターで普通に写してそれで違和感がなく見れるというのが標準レンズであるというのかも知れません。 しかし、それだけでなく標準レンズミリ領域は、ピントのシャープさとボケグラデーションが絶妙に配置 されるというのも標準レンズを推する大きな理由です。ボケが深く広すぎるのも、ピントばかりでグラ デーションがないという写真というのも片手落ちなのです。 人はなぜ写真を撮るのですか?この問いには回答者によって千差万別であろうかと思いますが、 やはりそのひとつに自らのアイデンティティの確認というのもあるんじゃないでしょうか。とくにこういう 心象的な風景写真はそうでしょう。おそらく撮影者はこういう山里の光景で実際に幼年期を過ごした ことのある人に違いありません。この写真はよそ行きの写真ではないですね。しかしハレとケという ことではあくまでもハレの写真です。そして人様に大向うを張って見せている写真でもありません。 あくまでも自分の中の静かな晴れ舞台の写真なのです。 都会育ちである北井一夫氏が若き日の成田闘争を契機として、自然に囲まれた村々の写真に没入 していく有様を写真雑誌で追っていた遠い記憶があるのですが、都会育ちの人でもこういう山里の 写真を理解できないというのではないでしょう。理解をしようとするか、俺はしないと意地を張るかの 選択でしかないと思います。 第1回木村伊兵衛写真賞を受賞した北井一夫は言わばドロップアウトした人間ですね。そういう人間 が持つ独特の雰囲気というか優しさがありました。だからこそ田舎育ちの人以上にこの世界の真の 姿というものを見ることができたのだと私は思ってます。 写真をする人は意地っ張りの人が多そうですが、それはこの世界の真の姿を見ることには大いに 妨げとなっているものなのです。人生の最後の最後まで意地を貫き通してしまうのか。それともせめて 最後ぐらいは意地を引いてみよう、ドロップアウトをしてもいいじゃないかと考えるのかはその人次第 です。しかし歳をとってからも成長したいということでは積極的に自己変革をおすめしたいです。 裏街道さんにも表の顔と裏の顔というものがあるでしょう。それを言えばこの写真は本当の裏の真の 裏街道さんの姿を表す写真となっています。表の顔を押し出さなければこの世の中では生きていけ ないというのがあるのですが、そればかりでは人は疲れ果てていきます。意地を張るというのはそうい う表の顔であるわけですが、せめて趣味の写真くらいは本当の自分の顔をさらけ出してリラックスして 行きたいと思いますね。 写真趣味は一種の宗教行為であるとS9000さんとも語ったのですが、その宗教にも自分を貫き通して やまない攻撃的な原理主義的なものから、そうじゃなくて心底落ち着けるこころの落ち着きどころとして の優しい宗教もあるわけです。 こうも言ってもいいのかな。この写真は涅槃(ニルバーナ)の写真でもあるのです。ひとつの形としての 自分の宗教写真ですか。山里に素朴に生まれ育ち成長するにつれ力が付き平野や街に出で自分の 力を試したいと願う。伴侶を得て子宝にも恵まれそして次第に歳をとっていく。そういう人生の心模様 があるとして、やがて人は気づくようになるのですね。自分のアイデンティティとはなんであるのかと。 宗教心とはなんであったのかと。実はもしかずはれ本当の自分自身の人生とはこれから始まるのでは ないのかと。今まで自分の人生と思っていたのは単なる表の顔。そうあれかしと親や世間から言われ 続けてきただけのものじゃなかったのかと。では本当の自分はどこにいるのか。 それを探す旅がこの写真を撮ることによって始まったと言えるのではないでしょうか。写真というのは 恐ろしく精神世界のものだと考えています。人間が人を超ええるのはこの精神世界があったればこそ ですね。

北上川支流

北上川支流

 東日本大震災によって発生した津波はとりわけ高齢者に大きな影響を与えた。死亡者の54%が65歳以上で、高齢であればあるほど死亡率は高かった。しかしその反対の傾向はさらに顕著だった。つまり若ければ若いほど生き残る可能性は高く、死亡した子供の数は驚くほど少なかった。  2004年にインドネシア、スリランカ、タイなとを襲ったスマトラ沖地震の津波は子供の死亡者が不釣り合いなほどに多かった。子どもたちは泳ぐための身体能力が低く、安全な場所にたどり着くことが出来なかったからだ。日本ではその反対のことが起きた。約18500人の死者・行方不明者のうち、小中学生は全体の50分の1以下に当たる351人だけだった。さらにそのうち8割は学校以外の場所で亡くなった。例えば病気で早退したり、心配になって迎えに来た親と一緒に帰ったケースだ。言い換えれば、教師と学校に残るよりも、家族と共に逃げるほうが遥かに危険だったことになる。  もしあなたが激しい地震の揺れに襲われなければならないとすれば、考えられる場所は日本であり、中でも日本の学校の室内にいれば助かったと思って間違いがない。数十年に及ぶ技術開発によって日本に生み出されたものは、世界で最も耐震性が高く、もっとも厳しく規制された建築物の数々だ。巨大な津波に襲われたにも拘らず、日本の防波堤、警報システム、日頃の避難訓練が数えきれない命を救った。2011年の大災害の規模がどれほどのものだったとしても、もし他の国で起きたとしたら、被害は何倍にも膨れ上がっていたことは言うに及ばない。そんな日本の中で、自然災害に対する備えが最も周知な建物こそが公立の学校だった。  日本の学校は鉄筋コンクリート造りの鉄骨フレームに支えられている。丘や高台に位置することも多く、全ての学校で細やかな防災計画の立案とその定期的な訓練が義務付けられている。その日の午後、日本の建築物と官僚主義は、子どもたちを護るためにはほぼ完璧な仕事をした。  この地震の揺れによって倒壊したり、深刻な物理的損害を受けたりした学校はひとつもなかった。東北沿岸の9校が屋上まで津波に呑み込まれた。そのうちの南三陸町の1校で、集団で高台に避難中だった13歳の男子生徒が溺死した。しかしその1例と大川小学校の1件を除いて、他の全ての学校では、子どもたち全員が安全な場所へと避難することができた。  2011年3月11日、日本では75人の子どもたちが学校の教師の管理下で死亡した。そのうち74人は大川小学校にいた。のちに保護者の多くは、急いで我が子を迎えに行かなかったという罪の意識に苦しめられることなった。ところが彼らは不注意だったわけでも、怠けていたわけでもない。彼らがとった一連の行動は、他のあらゆる状況下であれば、子どもたちの安全と命を護るもっとも妥当なものだった。 ・・・・・・・・・・・・・・  悲しみと怒りは、学校の関係者全員の評判を悪化させた。多くの人にとって柏葉照幸という人物を客観的に見ることはもはや不可能だった。背が低くぽっちゃりとした体形で、白髪頭の50代後半の男性、それが柏葉校長だった。楕円形の眼鏡をかけ、緊張したり熟考したりするときは唇を噛む癖があった。震災前でさえも、柏葉校長を詳しく知るものは誰もいなかった。校長就任から1年たっても、彼が校長であることすら知らない保護者もいたほどだった。  その日の午後に学校学校を離れていたことについて柏葉校長に落ち度はなかった。彼がどれほどの恐怖と苦悩を感じたのか、それは誰にもわからない。しかし校長は深刻な判断ミスを犯した。まず、震災発生後に現地に行くまで時間がかかりすぎた。次に、実際に姿を現した時の行動がひどかった。柏葉校長は遺体を捜す手助けをしようともしなかったし、する素振りさえ見せなかった。それは決して赦されることではなかった。最初に学校にやってきたとき、彼はマスコミからの質問に答え、持参した高価なカメラ※で写真を何枚も撮った。別の日には、学校の金庫を心配そうに捜す姿を目撃されている。 ・・・・・・・・・・・・・ ――校長先生、地震から津波までの1時間のあいだの子どもたちの気持ち、考えたことありますか?どんなに怖かったか、考えたことありますか? お母さんお父さん、早く迎えに来てっていう叫びや、叫んでさけんで冷たい思いをして、怖い思いをして、その気持ち考えたことありますか? ――わがっか、あそご。初めて見たとき、松の木※だらけで、希望もくそもねぐなって、どっから探したらいいべ。道路で来てからがらさ来た人たち、何もわかんねえべ。あそこ、水のなか、長靴はいて長靴のなかさ、水入って、がっぽがっぽ歩いたひとだちの気持ちなんて、わがんねえべ。自分の子ども見っつけでもさ、見つかっても、あそごさ、まだ来てけんだよ、ほかの人が、親なんか。ほかの子ども、見つけでけっぺって来てけんだよ。みんな。ほいづなのに、なんや校長、学校のもの(金庫)探すさ来たって、おだすなよ。この。んめ、探すの、学校の用か。 ――校長先生は、捜索とかできないんですか? ――スコップねえなら、なんぼでも貸してけっから。 ――長靴ねえごって、なんぼでもやっから。 ――革靴しか、もってねえんだべから。 ――カメラが、もってんの。カメラもってだな、子どもなんて探さいねんだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・ ※原著ではエクシペンシブ・カメラとある ※河口の防風林から流れでた多量の松の流木のこと リチャード・ロイド・パリー著/濱野大道訳/早川書房刊/2018.1.25発行 『津波の霊たち』=3.11死と生の物語=より抜粋。 私がこの本を読んだのは2018年の5月です。今年の5月の東北行の1年前ですね。それでまあ、粗方の本筋は覚えていたものの、細かな事は忘れていました。この校長の高級カメラなんていう下りは、今回再読してやっと思い出したわけです。しかし無意識には覚えていたんでしょうね。 今回の福島や三陸の東北では、最初からニコンやキヤノンの大型カメラを持っていくというのは端から考えてもいず、とにかく目立たない小さなカメラで行こうと思っていました。会津だからシグマのdpクワトロで行こうかと。ついでだから望遠の不足にクワトロHでも行こうかと。しかしレンズは小型の目立たないものにしたい。(その為にわざわざ小型レンズを購入しました) そして画質は前回と同じく低画素で行くべしと。 なぜ、そう考えたのか。長らく不思議だったのですが、今回この著作を読み返してみて、改めて納得したわけです。とにかくこの校長と同じようなカメラであったのではいけなかったのだと、いうことですかね。 それで第一に目立たないカメラにしたい。ブランドとして知られているカメラはダメだ。シグマならばよいだろうということだったのでしょう。 この文章を改めて読み返して思うのは、高級カメラやブランドカメラを使うことの是非ですか。この校長がもし学校の現場にカメラなぞ持参していなければ、私も考えることはなかったでしょうね。まあこの校長はあまりにも常識がなかったわけですが、少なくともハイアマチュアとしての常識はあったのでしょうか。しかしハイアマチュアの常識は一般人の常識じゃないですから。 アマチュア人の常識が一般人からは程遠いというのは以前から知っています。それはそれで致し方ないわけですがね。 三陸の津波被害のところではdpクワトロだけで撮りました。目立たない小型カメラだけです。クワトロHすら出せなかったですね。 福島の放射線被爆地区を見て、以前にも書きましたが、私のささやかな風景写真は死にました。しかしそれ以前に私のカメラも瀕死の状態でもあったわけですね。そして大川小学校などの津波被害地区を見て、ハイアマチュアの写真術なんていうのは大嘘であることが分かりました。 でもまあ、そんなことを言っていては掲示板として話にならないわけですが、少なくとも一眼レフの時代は去ったね、ということです。やはり時代はミラーレスカメラでしょ。大げさな一眼レフを振り回すのは過去のことになったということ。これだけは確かかな、と思います。 そして高級カメラやブランドカメラというのは、アマチュア同士では通用するのですけど、一般の常識のある世界ではむしろ嫌われているんじゃないでしょうかね。 高級一眼レフが一般に好かれていないというのは、結局はそういうカメラを使っているアマチュア人が常識観のない人だったからですね。そういう気がします。言わば自業自得なのです。 シグマのカメラは高級カメラだと思いますけど、一般には知られていず、現時点ではブランドカメラとは言えないかもしれません。アマチュア同士でもさえもシグマは無名であって知らない人が多いので、私としては嬉しいのです。 シグマはカメラ事業では利益がないと言っています。 そしてレンズはこれまでの廉価レンズから高級レンズに方向性をガラリと変えました。これは会社経営からの方向転換です。 「シグマは高級レンズでカメラマーケットをリードする」(1-4) https://blogs.yahoo.co.jp/ka_tate/64510840.html https://blogs.yahoo.co.jp/ka_tate/64510845.html https://blogs.yahoo.co.jp/ka_tate/65140412.html https://blogs.yahoo.co.jp/ka_tate/65140417.html こんな感じですかね。しかしまあ一般的にはシグマはレンズのサードパーティ製として、安物のイメージが一般的にはまだ続いていると思われます。 やがてはシグマは名実ともに高級ブランドカメラになっていくと言えますが、今の時点では無名カメラのイメージの残滓があるので、そこのところが返って良いかなって感じてます。 クワトロHは面白いカメラで、廉価レンズを着けて低画素で撮ると、なんてことはない普通のカメラになり、一方で高級レンズを着けて高画素で撮ると、とたんに高画質になるわけで、その落差というのが一般にはないユニークな性能となっています。 このクワトロ方式は現行のカメラで終了するみたいてすが、考えてみれば装着するレンズでこれほどに落差のあるカメラは珍しくて、これはこれで立派な特徴的性能だと思いますね。 しかしクワトロにかぎらず、ミラーレスカメラというのは肩肘張っていないカメラということで、これからも写真を継続していこうか、という人には無くてはならないカメラだと思っています。 考えてみますと、本当のデジタル時代のカメラは、このミラーレスカメラからやっと始まると言ってもよいのではないでしょうか。 それはつまりこれまでの一眼レフのデジイチは、半分はカラーフィルム時代の古い時代のカメラでしかなかったということです。高級カメラというイメージは、まだ一般的にはミラーレスカメラを指さないように思います。画質性能としてはテジイチを凌駕するほどのミラーレスですが、一般認識としては高級カメラはデジイチですかね。 これまでのデジイチでは古い時代の写真のやり方、大げさな芸術主義(真実は芸能娯楽です)が大手を振っていたのですが、これからはそうではなくなるということです。なぜならばミラーレスカメラは光学ファインダーを無くしてしまったので、これまでのように撮影者がファインダーに酔うことができなくなったからです。光学ファインダーの酔いから目覚めると、ユーザーは本来の写真というものに立ち返ることになるからですね。 ミラーレスカメラでは芸術芸能写真をやり続けることができません。それは既に明らかになっています。 私の場合は大昔のメカニカルカメラの時代から写真に入り、そしてカラーフィルム時代は写真をやっていませんでした。復活したのはデジタルカメラからですね。 それで大昔の一眼レフのカメラのファインダーなんてのは、見え方は今のEVF並だったのです。そんなわけで私などはライカのカメラ(レンジファインダー機)に憧れました。それがぐっと良くなったのは(フォーカシングスクリーンのナノ材質が良くなった時期)、ちょうどカラーフィルムが全盛になり、カメラがAFオート化されたころなんです。 おそらくその頃に大部分のアマチュア連は写真を開始しているはずです。ですから一眼の光学ファインダーというものは素晴らしい、と思っているわけですね。ほぼ素通しとも言えるAFカメラのファインダーをみておりますと、それこそスルーザレンズなのであって、この実際にファインダーを通してみた光景にアマチュアは憧れそして酔ってしまったわけなんです。 それが写真においての芸術主義芸能娯楽のオンパレードになってしまった原因のひとつでしょうね。それらは技術的にはファインダースクリーンのお陰というわけです。 そして時代は、今はミラーレスカメラということになりました。デジイチ最高って言っていた人も時代の流れには逆らえません。もちろん頑固な人はこれからもデジイチ流派を貫いていくのでしょうが、もはやそれは主流ではありません。デジイチの総本山であったニコンやキヤノンですら本格的なミラーレスカメラを出しています。 それで芸術主義をうたっていた人が時代に合わせるということで、それでミラーレスカメラに行くことができるのか。それが大きな問題なんです。 この掲示板は最近は投稿する人が少なくなりました。メインで投稿されていた方も去ってしまっていますね。それはなぜでしょうかね。この掲示板が一時、投稿しにくくなったからでしょうか。 私の見立てはこうです。つまり時代がミラーレスカメラになったからですね。 ミラーレスというのは撮影していて面白く無いんです。ただ淡々と写真が撮れるだけです。しかしカメラはカメラなんですし、写真が撮れるという機能ではデジイチとあまり変わらないです。しかし使っていてカメラが面白くないのですね。 その面白くないという、最大の理由は光学ファインダーが無くなったからです。装着するレンズを通る光を眼で眺めることができなくなった。これが一番なんですが、他にもシャッター音が無くなった(低くなった)というのもあります。これは高速連写をする場合にモチベーションが違ってくるんです。 デジイチを好んで使っていたというカメラマンは、芸術主義の人が多そうなのですが、しかしほんというと、光学一眼レフというカメラを使うのが好きだったというべきなんですね。そして写真そのものはカメラの付属物でしかなかったということです。 極論すればデジイチのファインダーとかシャッター音が好きだったというだけです。それに浸りたかったというだけだろうと思ってますよ。ですから時代がミラーレスになれば写真を撮らなくなるんです。それはミラーレスカメラというのは使っていて面白くないですから。 多くのカメラマンは自分は写真好きである。写真にイカれている。と、ご自分では思っていたかもしれませんが、本当はただ単に道具というカメラに耽溺していただけなんですね。 ニコンとかキヤノンの高級機、ライカとかツァイスという高級機なんかに心身ともに浸かっていただけなんであって、ほんとうに写真にぞっこん参っていたというわけではないんです。つまりここに大嘘があったんだということです。 機材好きの方はいますね。そういう方は自分に正直な人です。そして不正直な人とは自分は機材なんかよりも芸術主義の写真をやっていると断言し、しかしてその機材の時代の流れが変わった途端に、写真に興味をなくしてしまった人なんです。 本当に写真そのものが好きであるならば、カメラの方式が変わろうともびくともしないはずなんですが。 この掲示板でも実際に自分でミラーレスを使っている人。まだ使ったことはない人。いろいろだろうと思います。そして写真とは芸術主義であると考えている人。いや写真とは単なる記録であると思っている人。様々だろうと思いますが、確実に言えることは、写真とは芸術主義であると考える人はこれからは写真が撮れなくなるということです。そういう人はカメラをミラーレスにしたところで撮影に意欲が湧くというものではありませんから。 反対にミラーレスを使っていない人でも写真は記録でしかないと冷めている人はミラーレスを使わなくともこれからも写真は撮れるだろうということです。要はカメラマンの考え方ひとつなんですね。 写真が芸術ではないというのではありません。ただ芸術主義を全面に押し出すことに実は嘘があったということだけなんです。写真芸術はむろんミラーレスカメラでも立派にできます。しかしデジイチの力で写真を撮っていただけという人にはこれからの未来はあまり開かれていません。 この掲示板での、数多くの捨てハンというか捨てコメントの方は、間違いなくそういう嘘の写真を撮っていただろうという人なのです。 写真は記録で表現なのですが、とにかくそこに嘘があれば面白いものではありません。しかしながら多くの人たちはあくまでも即物主義であるわけなので、カメラという道具によって自分の意識が左右されていたというのはママあることなのです。人間とはその程度なんです。 小学校の校長は、あくまでも自分の日頃使っていたカメラで撮っただけなのであってちょっと記録として残しておこうと考えただけなのでしょう。そのカメラがライカなのかニコンなのかキヤノンなのかは知りませんが彼にとっては特別に高級カメラというわけではなかったでしょう。 しかしその撮影がこれほどパッシングを受けるとはつゆぞ思わなかったはずです。高級カメラで撮ろうがスマホで撮ろうが、その場ではふさわしくなかったというだけですけどね。 もしもこの校長がカメラや写真趣味なんぞにうつつを抜かす、日頃から子どもたちのことを真剣に考えいれば、こういう悲劇は起きなかったかもしれません。とにかく教育者として失格の人間がトップにたつということ事態が間違いだったわけです。 ここで書いてきたことは、このフォトXP掲示板の長年の総括にもなるんじゃないかなって考えているのですが、カメラのユーザーが、写真愛好家の方々がこの掲示板を通して有意義に交流できればいいなっていう、そういう創設者や管理人様の思いは、図らずもミラーレスカメラの登場とともに終わろうとしているのかも知れません。もう時間はあまり残されていないかもしれません。 そうですね。ある部分のものは終わりかけようとしています。しかしまた新しい流れが出て来ているのかも知れずで、まだまだ結論付けるわけにもいきません。 なぜならばデジタルカメラの本流はこれから始まるのであって、これまでのものは前哨戦でしかなかったからです。ここのところは確りと自覚していただきたいと考えています。デジタルを始めて、デジイチを使って20年、十数年という方は多いでしょうけど、これまでのことは本当のデシタル写真ではなかったということなんです。 ミラーレスカメラ、これを最初にリリースしたのはパナソニックですが、それ以前に高画質コンデジとしてデジイチ以外の選択肢を世に問うたのがシグマです。dpカメラは単にハイアマチュアの喜ぶ高級コンデジではなくて、レンズを3本用意した実質的且つ実用的なミラーレスと言ってもよいものでした。いさぎよくEVFすら付いていません。 シグマは今でもそうなのですけど、ブランドカメラとか高級カメラの路線を目指していないのです。あくまでも高画質を目指しています。それで他のミラーレスカメラ、オリンパスとかフジのように形だけのクラシックスタイルを継承していませんね。それを言えばソニーミラーレスもそうです。高級カメラの真似事をしていない。それは大事なことです。 先程はシグマもやがてブランドカメラになるんじゃないかなって書きましたが、確かに交換レンズはそうです。しかしカメラは相変わらずとんがった異端のカメラであり続けるような気がしています。 シグマのカメラが、その画質が随一だとしてもアマチュアはシグマを使いたがりません。それは使い難いカメラだからですね。写真を行うに於いて、ましてや芸術主義の写真をやるのならば画質第一主義のシグマを使うのは自然だと思うのですが、芸術主義ぶっているアマチュアはシグマを使わずにニコンやキヤノンを使います。それはシグマが彼らの流儀にそぐわないからです。 彼らのやり方は、簡単に使えて、光学ファインダーがあってブランドで威張れるカメラですから。シグマはそうではありません。 シグマは一眼レフを捨ててミラーレスに行きました。デジイチのSD-1などはけっこう良かった光学ファインダーを使っていたと思うのですが、クワトロでミラーレスに行きましたね。これから出るLマウントフルサイズカメラもミラーレスです。 シグマは鼻っから芸術主義のアマチュアを相手にしていないので光学ファインダーを捨てることに躊躇はなかったのでしょう。ミラーレスとなってピントが合うようになったということなので、ほとんどのシグマユーザーはミラーレス化に賛同していると思っています。 私が思うに、sdクワトロ以降のシグマを自分できちんと使えるという、そういうスキルというか意識が出来ていれば、これからの本当の時代のデジタルカメラの写真時代に行けるだろうと考えています。 勿論なにもシグマだけを言っているのではなく、ミラーレスカメラ全般に言えることなんですね。ニコンZ、キヤノンRP、ソニーα、フジ、オリンパス、パナソニックでもいいんです。そういう本格的な自分のメインカメラとなるべきミラーレスカメラを使うことができれば、これからの本当のデジタル写真の潮流に乗ることができるというわけです。 つまり光学ファインダーを捨てたカメラを使いこなせるかどうか。これを言っているわけですよ。 こんなことを言うと光学ファインダーのデジイチを敵視しているように見えるでしょうけど、しかしイワユル、デジイチはあまりにも俗物的な手垢が着きすぎて汚れてしまったきらいがあるからなんですね。 私としては本当は光学ファインダーは好きなんです。それらの多数の古いカメラを所持していますから。デジイチは捨てがたいと感じていますし、これからも折を見て使っていくつもりです。 しかし今や私のメインカメラは実用として使うカメラはソニーなどのミラーレスカメラなんです。非常に不思議な符合として、ミラーレスカメラはかつてのメカニカルカメラに回帰しています。 ひとつはファインダーがしょぼい。ひとつは電磁波を出さない。カメラが小型になった。これらが不思議に共通しています。 かねがね私は、デジタル写真こそは、写真本来の黒白フィルム写真時代に戻れると考えていたのですが、いまやっとそれが実現していきそうですね。別の言葉で言えば、カラーフィルム写真時代という、写真史としては異形の時代がやっと過ぎ去ろうとしている。そういうことですね。 今の、これまでの写真好きと言われる人間が、これからどれだけ生き残れるのか。10%生き残れば多いほうだと思ってます。 それから誤解のないように書いておきますが、私はシグマミラーレスは人様には絶対に勧めません。その画質の凄さに下手をすると眼と脳が過労で疲弊するからです。それからパソコンのパワーがモノを言うので普通のPCではスムーズに使えません。ミラーレスになってからというかクワトロになってから、AFはスムーズになりましたし連写もある程度できるようになりました。撮影は楽になったのですが後処理は相変わらずです。 それよりも普通のミラーレスカメラを勧めます。できればフルサイズ。ソニー、パナソニック、ニコン、キヤノンのやつです。手持ちのデジイチのレンズが使えるというメリットもあります。 それからEVFを期待してはいけません。背面モニターで撮影するという意識が必用です。 長々と書きましたが、こういうところが現在の写真の現状だろうと思います。 冒頭の「津波の霊たち」は大川小学校を書いているのですが、何度読み返してもショッキングな出来事でした。関心のある方は是非に本を買って読んでみてください。

新潟・柏崎市

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シグマが次のdpカメラというべきか、fpという小型カメラを発表しましたね。 フルサイズ・ベイヤー裏面照射型2400万画素(無論ソニー製)です。( ここでソニーと取引して、ソニー ミラーレスマウントのシグマレンズが出せます) fpの値段は安いそうです。さて、コントラスト検知AFのみなので一眼レフのレンズがまともに動くかは わかりません。しかし遅くても良いから正常動作して欲しいです。(^^ゞ  メカニカルを排して電子シャッターのみ搭載というのは良いですけどね。これでコストダウンできます。 シグマがsd系のフルサイズ・フォビオンをリリースするわけですが、じゃあ、dp系はどうするのか?が 不明だったのです。 dpにフルサイズ・フォビオン搭載では値段が高すぎるし(ユーザーが離れる)、 かと言ってフォビオンのAPSサイズも同時に作るのではコスト高になってしまうしで、それで私も読め なかったわけですが、今回、実に良い回答を出してきたという気がします。 しかしこれが完全に従来のdpに取って代わるのかどうかはまだ分かりません。フォビオンセンサーを 作る新しい米国工場は生産能力が高いからです。 やはり本当のdpカメラはフルサイズ・フォビオンで出るのではないですか。 レンズ交換式のsdフルサイズ・フォビオンだけではセンサーが捌けないでしょうから、どうしてもレンズ シャッターカメラのsdより低価格のdpが必用です。 新dpの大きさは現行のdpクワトロと同サイズに収めるでしょう。やはりフルサイズセンサー搭載なので 値段は上がります。 それで新dpを買えないユーザーには、今回発表した小型のベイヤーカメラを勧めるんでしょう。 これは上手い戦略ですね。初期型のdpと同じく小型サイズにして(デザインもそうです)、スタイルだけ シグマしたい、というユーザーにはこれで十分に受けるんです。 それで本当のシグマファンに対しては、正統派のフォビオンフルサイズの新dpと新sdでいく。 カメラがミラーレス化して各社マウントが新タイプになってますね。本来シグマはレンズメーカーでした が、これからはなかなかそうは出来ないような雰囲気です。特にニコンのマウントが作れないでしょう。 そんな感じで、シグマはカメラの領域に、これからぐっと力を入れてくると思うんです。 フォビオンセンサーはシグマの看板ですから、これは絶対に外せません。しかしそれだけでは戦力と しては不十分。それで今回、廉価機モデルとしてソニー製センサーを導入したんでしょう。 レンズメーカーとカメラメーカーの二足の草鞋はなかなか履けません。カメラメーカーに言わせれば、 コウモリみたいな真似をするな、ということですからね。それでシグマはライカマウントにしたんじゃ ないですか。シグマ独自のマウントでは、まだまだ時期早々。そんな実力はまだないですから。 ライカマウントにすることで、ライカユーザー、パナソニックユーザーを取り込める。さらにソニーと取引 をしてソニーマウントもゲットした。 こういう戦略というのは一歩間違うと会社を潰しますからね。まさに薄氷を踏む思いでやってると思い ます。私は、このベイヤー・シグマはまだまだ次のモデルが出ると思ってます。ここを売れ筋として 稼がなくちゃって感じですかね。それだけでなく、ライカマウントのユーザーをどんどん増やさなければ なりません。 カメラは小型が間違いなく売れます。今回のdpの下位クラスとしてのfpは、その小型化の王道を行って ます。メカニカルシャッターを廃したのは英断です。小型化とコストダウンの両得でいけますから。 シャッターゴミが出るクレームもないですし。(^^ゞ fpはレンズ交換式ですけど、これの固定レンズ式も出せば面白いですね。もちろん電子シャッターで。 シグマはベイヤーも出すということで、今までフォビオンではできなかった高ISO感度撮影、そして動画 撮影ができるようになってきました。発熱対策としてヒートシンクを採用したというのは、シグマの技術 ではないでしょう。しかしアイデアはシグマでしょうか。長年発熱カメラを汚名をもらってましたから。^^ゞ このヒートシンク方式は、私もクワトロsdとdpでやってます。ボディ下部にアルミやステンレス板を着け てますから。(笑) コンデジでありながら大型センサーを搭載した初めてのカメラが初代のdpでした。 そして本格的なカメラでありながら、メカニカルシャッターを排して電子シャッターのみにした初めての カメラがfpですね。 シグマのアイデアは新しい時代を作り出すことに長けています。それからシグマにとっては、初めての フォビオンセンサー以外の搭載カメラなんですね。動画に力が入っているのも見逃せません。 何やかやでいい加減なことを書いてますけど(^^ゞ、これらもジグマには頑張ってもらいたいですね。

新潟、柏崎市

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キヤノン板で、露出制御をマニュアルモードで撮影されているという話題が出できていました。 なるほど、マニュアルで撮影されている方は、今ではごく少ないですね。 歴史を振り返ると・・ちょっとオート撮影について考えてみましょう。 露出機構がマニュアルからオートになった時代の時に、絞り優先主義か、それともシャッタースピード 優先なのかで、色々と論議がありました。 それで、統合として両優先搭載とそまミックスであるプログラムオートが出たんですね。 つまりAVとTVの統合としてのプログラムオートなんです。ですからPモードとはAVとTVの両要素を 含んでいて、プログラムシフト次第でどのようにでも使えるというのがミソなんです。 経緯としては、シャッターオートを採用していたキヤノンが、他社の絞り優先オートに比べて見劣り がするということで、キヤノンがいち早く両優先モードとプログラオートをリリースしたかと記憶してい ます。それから後はもう全社右へ倣えですかね。 おそらく原理的には絞り優先モードの発展版がプログラオートという感じがしますね。一方、ーシャッ タースピードオートはというと、かなりマニュアルモードに感覚が近いですね。 車の変速機の話をしますと、Dレンジでおっとり普通走行モードでしか走らせないというのではなくて、 レンジも多段化していますし、電子モード自体もスポーツモードとかエコモードとか色々とあるでしょう。 そういうAT車の融通無碍の仕組みを積極的に使えば、車の性能としての走行性やタイムとしては MT車よりもAT車が速いんですよね。(特に左足ブレーキを使えば) こういう具合でオートモードのポテンシャルは非常に高いのですが、関心のない多くのドライバーは 多分、ひとつのモードのDレンジでしか運転していないでしょう。 そういうのはカメラの露出機構モードにも言えて、確実な素早い露出を決定するのはオートモードだ と思います。一方、絞り値とシャッタースピードを自分で決定するマニュアルモードは、どうしても遅く なってしまい、且つ正確さにも欠けます。(これはユーザーが面倒がってしまうので) なので現在、マニュアルモードで撮影されている方は、特殊な撮影、長秒撮影とか、特殊レンズを付け ての撮影などや、露出の変動を嫌う場合とか、ごく狭い範囲に限られると思います。 オートモードというのは露出が自動変化します。この長所を欠点として捉える向きもありますし、 実際の撮影でも邪魔になってくる場合もあるんですね。私などはそういう場合、面倒なので多量撮影 でもって、数撃ちゃあ当たるという偶然を拾うというやり方をします。 ちなみにオートの自動露出変動を嫌う、というのはAT車独特のクリープ現象を嫌うっていうのと、 非常によく似ています。このクリープ現象をカットするのは、ニュートラルシフトを積極的に使うやり方 となります。発進などでギクシャクはするんですが、思わぬ暴走を防ぐということではニュートラルモー ドを多用するのは意味があります。 しかしこのニュートラルを使うやり方は、よく分かっていない人がやると、アクセルをベタ踏みしながら NからDレンジに突っ込んだりして車は大暴走、ということになってしまうこともあるので要注意です。 同様に左足ブレーキも慣れていないと、思いっきり両足ペダルを踏み込んでしまうかもしれないので、 若い時からやっていないと難しいかもしれませんね。 カメラの話に戻すと・・ 完全なマニュアルモードというのは、本当の撮影の感覚を取り戻すということでは良いんです。 昔のカメラは露出計すら付いていないカメラが多々有り、撮影者のカンで露出を決めていたのですが、 ああいうのは、(失敗ばかりでしたが)、かえって良かったなあっていう気がします。 そのうちにファインダーに露出の針が付いて、その上下動での感覚で露出を決定するのもオモシロ かったのではないでしょうか。 現在のデジタルカメラは露出計やAF素子がそのまま発達して撮像素子となっていますので、マニュ アルモードと言っても、本当のマニュアルカメラのような撮影はできませんね。実際はマニュアル風の オート撮影しかできないというのが真実です。 厳密に考えれば、本当のマニュアル撮影は、あくまでも古いメカニカルカメラでしか撮影ができません。 それはAT車を、いくらMT車風に走らせてもそれはMT車とは本質的に違う、ということと同じなのかも 知れませんね。 それでは、MT車とAT車の決定的違いって何だと思いますか? 私の考えは、こうです。 それは車では、まずミッションの機械式シフトレバーです。これはマニュアルカメラでは外部ダイヤル (シャッタースピードダイヤル)と、レンズの絞りリングに相当します。 次には、決定的なもの。 車では、クラッチペダルです。ではカメラでは?・・・答えは巻き上げレバー(シャッターチャージレバー) です。 私が昔やっていたマニュアルカメラでは・・ 以前のフィルムマニュアルカメラ(露出計が装備されていようがいないがにかかわらず) での撮影は、 カメラを構える以前にといいますが、撮影時とは関係なく、常に、絞り・スピード・ピントリングの3つに 気を配っていたというです。もちろんフィルム巻き上げもそうです。 とにかく全てはコマメに事前対処をするのが基本でした。常時カメラの現状把握と、次なる被写体へ の先読みです。 考えてみると、これはマニュアルミッション車で運転するのと全く同じなんです。 カーブに差し掛かる直前にヒール&トゥとかでエンジン回転を少し上げておくというわけです。 MT車はとにかく事前に道路情報や交通事情を先読みしていく。これがマニュアル操作の基本という わけですね。 そこのところがAT車とは根本的に違うところなんですね。どうしてもAT車は漫然運転になりやすい。 AT車は機械がやってくれるから、人間はだらけてしまうんです。 MT車は無意識に運転しているようでも、脳はしっかりと働いている。この違いは大きいんですよ。 MT車では常に車のミッションの位置、エンジンの回転数を脳内では把握し続けています。そして 運転時は、いつも両手両足を使います。( この部分は大事です) AT車でも、MT車と同じ感覚で運転できれば事故は起きないはずなのですが、実際には車に対しても、 道路交通事情に関しても、ドライバーはそれらを正確には把握できていず、それで大きな事故を起こし がちになるのではないでしょうか。 現代のデジタルカメラでも往年のスタイルを踏襲したモデル、外部ダイヤル設定があるタイプのニコン Dfや富士ミラーレスなどでは、マニュアル撮影がしやすいのですが、一般的なデジイチでは難しいと いうのが現実ですね。 現在のカメラはあくまでもオートで使う前提で設計されているからです。 被写体をファインダーに捕らえてから、それから絞り・シャッターを設定していては遅すぎます。 カメラを構える以前にそれらの操作は済ませておく。というのが本当のマニュアル撮影であるわけで すが、ここのところは多分、今の若い人は知らないと思います。 マニュアル・カメラの操作は・・ ピントや絞り設定は左手、シャッター設定や巻き上げは右手というのがよくて、とにかく両手を使う。 これもMT車と同じです。しかもそういう設定や動作はいちいちカメラを眼で追わず、自分の手の感触 だけでできるものです。こういう操作はメカニカルカメラでしか出来ません。 かろうじてDfと富士で出来るだけかな。(富士てちょっとやってみましたが、ダイヤルが軽すぎて信頼 性が置けませんでした。多分にファッション的なダイヤルのようです) 初心者はまず最初に、絵柄モードで撮影をしますが、上達するに従って、まず最初にやるべきなのがマニュアルモード、それが理解できれば次に、絞り優先モードやプログラオートモードに発展していく というのが筋です。 これはカメラの発達そのものの歴史を発生学的に踏襲しているわけですね。 しかしここに来て、オート撮影ではアカンのじゃないか?っていう反省が生まれてきている。 かどうかは不明ですが(笑)、少なくとも車ではそうなんです。 高齢者の暴走事故は社会的な大問題となってしまいました。そして時代はさらに自動運転ですからね。 そして車もカメラも要するにコンピューターです。コンピューターの最たる、スマホ依存やオンラインゲ ーム中毒が社会的にも大問題となっています。 そういうものに溺れれば学力は落ちて、場合によっては社会的廃人ともなりかねません。ゲーム依存 という重篤な患者だけでなく、今の時代、ごく普通にスマホやパソコン、SNS等のインターネットを使って いても、やはり学力というか理解力というのは大きく劣化しています。 コンピューターのせいで皆が考えなくなってしまったわけですね。これではこれからのAI化社会では 人間は失職して食べていけなくなります。そういう危機感がマスコミや教育界にはけっこうあるんじゃ ないでしょうか。 話をカメラに戻しましょう。マニュアル撮影の話題でした。 それで一番のおすすめは、露出の失敗を恐れずに、完全に自分の判断だけで、絞りとシャッター値 を決めて撮影することです。そして撮影後のモニターはあまり見ないようにします。 これを続けていくことで本当のマニュアル撮影テクニックを身につけることが出来ると思います。 同時にお勧めなのが、ピントもマニュアルでやってみることです。これは眼が疲れますから眼のよくな い人は無理にやる必用はありません。 しかしある程度のピントで良い、とすれば銅鏡のリングの数字見のみのマニュアル動作のピントで 撮影することは(広角レンズでは)十分可能です。さらにはノーファインダー撮影というのもあります。 とにかく写真を過剰に綺麗に撮ろうとしないことですかね。あえて積極的に失敗をしていき、それから 学ぶという姿勢が大切な気がします。 そうそう、デジタルカメラで決定的にマニュアル風に出来ないものがありますね。 それは巻き上げレバーです。 最近はアクセサリーとして巻き上げレバー風なものが出ておりますね。これを富士のカメラとかライカ に着けるんです。(笑) 今の人は巻き上げレバーの大切さは分かりませんね。物心ついた頃からカメラはモータードライブ だったからです。最初から自動小銃を与えられたようなもので、日本刀を鞘から抜くというような写真 に於ける精神性を知らないわけです。 マニュアル撮影の極点というのは、おそらくはカメラは手の一部と化して、自分の眼は、そして足は、 被写体にのみ絶対的に注力できるということなのだと思います。 https://www.youtube.com/watch?v=mvMS0GFLT-I 「2018年 全日本ラリー選手権 第8戦 北海道」 こういうドライビングを見ておりますと、写真も被写体に全神経を注力することが大事であるかがよく 分かります。さらにはこれは都市伝説の類ですけど、 「笹子事故NHK記者奇跡の脱出」 https://www.j-cast.com/2012/12/03156539.html?p=all 「インプレッサは蘇った」 https://bfaction.exblog.jp/22100375/ というのもあります。ここで重要なのは、ドライバーが日頃から道路の周囲への認知がよく出来ていた からこそ、いざという時に咄嗟の判断と実行ができたということです。つまりそれが生死を分けたという ことかも知れません。そういうのはAT車ではできにくくMT車では比較的学びやすいということです。 まず認知(先読みを含む)、そして判断(先読み判断も)、そして実行(即時)ですね。 こういうのは、コンピューター時代を勝ち抜く課題として、認知・理解・記憶という3要素と同じなんです。 最近は車の安全な走らせ方を研究しているのですが、結局は自分でスキルを磨いていくしか方法は ないのではないかと思っています。 加齢によりだんだんと眼も脳も身体能力も落ちてくれば、それ相応の走らせ方をするしか方法があり ません。しかし自分に十分知識や技術力の蓄積があればその対応の仕方は多々あるわけですね。 そんな感じで、写真に関してもありとあらゆる手法を身に付けておけば、人生において長く写真を楽し むことができるでしょう。 最終的にはそういう総合力がモノをいいますかね。 それから写真撮影において、よくモノを見る習慣を付けておきますと、それは写真だけの問題でなく、 自分の人生において、ありとあらゆる局面で、正しく認知・判断・実行ができ、また理解においても、 認知・理解・記憶ということへの大きな手助けとなります。 ですから写真を単なる画像(芸能)と見ずに、写真とはつまり被写体であり、もっと正しく言えば 「被写体をよく見るという自分の能力を高める」ということであって、それが翻って自分自身を助けると いうことに繋がるのです。 こういのも総合力のひとつですかね。 ということで、マニュアルモードから、色々と考えさせてくださったS9000さんには感謝です。(^^ゞ 実は車はマニュアルが良いのは分かっているのに、カメラはどういう状態で今はどのようになってる のかが、良くわからなかったんです。 結論としては、今のデジタルカメラではマニュアル撮影はできないなーっていうことですかね。 昔のメカニカルカメラを知っている人間には特にそう思えました。 しかし考えてみれば、Dfとか富士とか、ある程度はマニュアルで撮ろうと思えばそれらしきことができる カメラが登場したのは、少しは時代に反省というものが出ているのかもしれませんね。 カメラのスタイルにしてもミラーレスの多くはメカニカル時代のクラシックスタイルてすから。 ちなみに、こんなに何でもかんでもカメラがオートマチックになってしまったのは、日本がカメラを独占 してしまったからですね。車なんかはヨーロッパ勢が頑張ってくれているので、それでMT車がまだ生き 残っているわけです。(欧州のMT率は40%くらいらしいです) 日本のモノ作りというのは、余計なお節介をしてしまうんです。至れり尽くせりというか、ユーザーを 子供扱い(年寄り扱い、障害者扱い)しますから。それに乗ってしまうユーザーもだらしないんですが。 まあ、そんな感じで、マニュアルカメラ、本当のマニュアル撮影というのは、とっくに死んでしまっていた というわけなんですね。(^^ゞ  フィルムで昔のメカニカルカメラを使うしか方法がありませんが、写真学生でない限りそういう珠晶な ことをする人はいないですね。 それよりもカメラがオートになったのは仕方がない。それはそれで使って、昔は撮影に使っていた撮影 時の思考力というものを、もっと別のものに向けるというのが今では正解なのかもしれません。 現在ではもう写真というのは目的ではなくて道具のひとつですね。その道具を使ってもっと上のものを 目指す。そう言う具合になってると思います。 車で言えば安全に早く目的地に着けばいいんです。その目的地で何をするのか。それが問題だという わけです。 しかしながら車に関しては、(写真は失敗しても大丈夫ですけど)、車の運転で失敗をすると大変なこと になります。その違いが大きいです。 また、写真はむしろ、コンピューターやインターネットの一部として考えるほうが適切という気がします。 私にしても、パソコン趣味が発展してデジカメになりましたから。 こんな感じですかね。写真と車の両輪で考察をしていったわけですが、いろいろと考えると、ますます 今のカメラが詰まらないなーっていう感じになってきました。(^^ゞ 私のカメラ趣味もそろそろ終わりか なっていうところです。

東北行

東北行

高齢になって車を暴走させる人には、おそらく共通した性質というものがあるだろうと考えます。 それは、アクセルやブレーキを踏む動作が急激で強過ぎるのです。おそらくハンドル操作も そうでしょうね。つまり若い時から車を飛ばしていた人だろうと思いますよ。飛ばすことが格好良い と勘違いしていた人達だろうということです。 もともと安全運転でおっとりとした操作をする人は、たとえペダルを踏み間違ったとしても暴走なんか しませんから。 よく車を飛ばす人や、自分は運転が上手いと思っている人の車の助手席で、その自慢の運転法 を見る時があったりするんですが、殆どの人は車を正しく制御できていません。ただスピードだけが 出ている危険な運転をしているように思いましたね。 とにかくそういう人は運転はしているけれど車に乗せられているような人ばかりです。 そういう自覚がなくて、しかも過剰な自信があり、それでそのまま歳をとって身体能力が落ちると、 大きな事故を起こすのではないですかね。 暴走事故には、オートマチック車とかハイブリット車とか、そういうような要因もあるんですけど、やっ ぱり基本的に日頃から手荒い操作の運転をしている人が、重大事故を起こすっていうことだろうと 思います。 私のことを言えば、車を所有してから3台目で軽自動車(しかも低馬力の)に乗り換えました。 それまでのスポーツタイプの普通車に比べて、なんと走らないことかと唖然としたのですが、(^^ゞ よくよく考えてみれば、これまでは車の力で自分が速いって勘違いしていたことに気がついたのです。 そしてこういう非力な車を適切に走らせることこそが、本当の意味での車の運転ではないかと考える ようになりました。以来ずっと軽自動車のマニュアル車に乗り継いでいます。自分にはこれが分相応と いうか、これで十分に満足できるわけですし。 しかし私のようではなく、ずっと高性能のスピードのでる車に乗っていたならば、人間、勘違いしたまま で終わるんじゃないですかね。若い頃は高出力の車を制御できていても歳を取ればそれができなく なる。 気持ちでは制御できているつもりでも身体能力ばガタ落ちですから。どうも、そういう人達が昨今の 暴走事故を起こしているように思えてきます。 車もカメラも要するに機械やモノです。自分の本当の素のママの力ではないですね。そういう身体の 拡張系であるわけですが、ともすればそれらも自分の力の一部のように錯覚をするのが人間という ものです。 しかし強力な機械やモノを、自分が本当に制御できているのか。使いこなせているのかと問うと、実際 はそうじゃなくて機械に引きずられているのがリアルな現実であったりするんでしょうね。 「私とMT車(マニュアル車) 」 https://mtsya.hatenablog.com/entry/2017/09/01/113747 https://mtsya.hatenablog.com/entry/2017/11/19/012929 他にも色々とあり、なかなかにしみじみとしたブログで興味深く読ませていただきました。 笑休さんが良くおっしゃっていたのですが、自分の写真に行き詰まった時は、コンデジなんかを敢えて 使うって言ってましたね。つまり高級な高性能な機材ばかり使っていては自ずと限界があるということ でしょうか。 これはつまり自動車の例と同じで、高性能の車ばかりに乗っていてはダメだよっていうとことと共通 するものがあるのかもしれませんね。 高性能なカメラ機材の使用で、車ではないので取り返しの付かない事故を起こすことはありませんか、 もしかすれば自分が気がつかないだけで大きな不利益というものを被っている可能性があるかも知れ ませんね。それは自分の能力以上の、過剰な機材性能による不自然さ、ということでは同じだから です。 もしかすると、高級な機材ばかり使うっていうことは、自分のモノの見方というものが歪められるような ことが起こるかも知れず、モノごとの真実を正しく見ることができなくなってしまう、ということが起こりう るかもわかりません。 カメラというものは眼の拡張系です。良いカメラやレンズを使って写真を撮ると、自分の本来の能力以 上の写真を撮ることが可能です。しかしそれが習い性になると、自分の本来の能力の見極めができな くなるような気がします。 実は今回の東北行で、シグマsdクワトロHでは廉価レンズを着けて撮影しました。それで同時に持参し たdpクワトロ0/2と比べれば画質はかなり落ちます。写真はあまり綺麗ではないのですね。 dpクワトロには良いレンズが最初から付いていますね。レンズ固定専用機ですから当然です。一方、 sdクワトロHは、良いレンズも良くないレンズも着けられるのですから、dpクワトロに匹敵させようとすれ ば18-35とか24-105とかのレンズを装着しなければならないのです。 しかし今回の撮影は、敢えてそういう廉価レンズを着けての撮影でよいということでやりました。自分の 撮った写真に満足していてはいけないような撮影行になるだろうという予感があったからです。 つまり良い写真(良い画質の写真)ばかり撮っていてはダメなんじゃないかなっていうことなんです。 もちろん全て低画質のLOW-RAW写真で撮ったというのも同じ理由によるものです。 もしかすれば良い写真とは、人間の想像力を無くしてしまう可能性があるのではないですか。 写真撮影はきっかけに過ぎず、本当はその被写体について自分なりに思いを巡らし考えるということ が大切なのですが、綺麗な写真を撮ってしまうとそれだけで人間は満足してしまい、それ以上の考えを しなくなるように感じられるのです。つまり思考停止です。 ビジュアル情報は人間の思考をスポイルさせる。これは昔から私が感じていたことですが、しかし今の 世の中はほぼそのような事態に陥っていますね。つまり写真を撮ったり見たりすると思考力(認知・理 解・記憶)の減退になるということなのかもしれません。 人間の正常な思考力をスポイルさせるということでは、オンラインゲームなんかも言われていますね。 特に成長期の子どもがゲーム依存症に罹ってしまうと大変なことになります。ゲームも写真も高精彩な ビジュアル画像です。もしすれば現在のカメラというのは、人間の能力の限界に来ているのではない か、という気がしています。

胆沢城

胆沢城

古代日本の領土は西暦750年ごろで宮城県北部と秋田県までだった。 という記述が見えますが、面白いことに私の最初の東北行は山形と秋田までであり、2度目の今回は 福島と宮城、そしてほんの少し岩手に垣間見ただけでした。 もし私が朝廷軍だとすれば、西暦750年の時代に合致しているわけですね。それは西日本から見れば 日本海側は比較的近くて、太平洋側は遠いのです。ここらあたりは現代の東京関東を中心にしてみる 見方とは随分と違います。 それにしても岩手県というのはあまりにも此方からは遠くて、ピンとこないのですが、岩手県の面積は 15,278平方キロメートル。そして四国の総面積18,300平方キロメートルなので、若干四国のほうが大き いですがほぼ匹敵すると言えば、やはり驚いてしまいます。 「地図遊び」 http://fanblogs.jp/oortcloud/archive/124/0 もっとも何度も書いたように、東北の道は走りやすくてあまり距離感を感じないところがあります。 実は今回の東北行も、震災跡は止めにして会津から一気に岩手県を北上して十和田湖まで行こうか、 という別プランもあったんです。途中、遠野なんかを見学してですね。 しかし奥磐梯で出会ったご夫婦にお会いして、強く福島の震災跡の見学を勧められて、もう腹は決まっ たというわけだったのです。 震災跡を見るのは苦しいだろう、という予感は当然にあり、できることならば避けてとおりたいというの はごく普通の人情ですね。 もしも今回、福島原発被災地を避けて通っていれば、私はハッピーのままで今も過ごしていただろうと 思いますね。(^^ゞ しかしそうはならなかったというのも何の縁みたいなものです。 福島原発被災地は私の心の中のがん細胞のような位置を占めてしまったという気かしています。これ を取り除くことはできないように感じられます。 そうだ、話は岩手県でした。(^^ゞ 胆沢市まで行ってきました。その途中、平泉も寄りましたがこれは オマケみたいなものです。本命は胆沢城跡です。もっとも城柵跡は田圃の真ん中位で遺構らしきもの は何もないのですが、その周囲の雰囲気を体験したかったのですね。 そんな程度で岩手を知ったことにはならないのですが、とりあえずはタッチをしたよっていうところです かね。(^^ゞ もし3回目の東北行があるとすれば、こんどは胆沢城から北上して青森まで行ってみたい ですね。そして津軽を回って日本海側にそって帰郷するというルートになろうかと思います。 とにかく岩手、陸奥の国は私にとっては未知の国です。

猪苗代湖

猪苗代湖

ウィキペディアによりますと、東北地方は北海道と同じく北アメリカプレートに属しているとあります。 東北や北海道の、あの緩やかで広大な山々の光景写真をみておりますと、他の日本の風景とは 随分と違うと感じるのですが、その主な原因が西日本のユーラシアプレートとは根本的に成り立ち が違うっていうことなのかもしれませんね。 日本列島にはもうひとつ異質な光景があって、中部山岳地帯ですが、これはフォッサマグナ地帯 も含めてこの日本列島の成り立ちと深い関係があります。巨大なプレート運動の褶曲の力でもって、 世界的にも稀な高い峻険な山岳帯が形成されたからです。同様に列島を東西に走る中央構造線の 山脈地帯もそれに次ぐものかもしれません。 とにかく東北地方の自然のスケールは西日本と随分と違うのですが、不思議に香川に住む私には 東北の光景に違和感がないんですね。それは香川平野というものが特殊な地形だからかもしれま せん。香川県はとにかく狭いのですが、山々は低くてなだらかです。実は山の天辺は急傾斜なので すが麓は緩やかです。 この香川独特の自然地形は瀬戸内全般に共通していて、もし瀬戸内海が干上がってしまうと広大な 平原が生まれるのですが、その風景はきっと東北地方に似ていると誰もが感じるでしょうね。 香川平野は特別に、その想像上の瀬戸内平野が陸地化しているだけなのです。 香川や瀬戸内平野が東北に似て緩やかな傾斜をしているのは、これは水の侵食による老齢化した 地形のせいです。かたや東北や北海道は北米プレートという元々のプレートの成り立ちの違いから。 とにかくスケールこそ違え、その山の形から香川に住むものは東北の地形に違和感がないのです。 これは車で走っても直ぐに分かります。香川平野や東北を走ってもエンジンに負荷があまり掛かりま せん。各平野をつなぐ峠なんかもなだらかで低いですしね。 ところが四国の山々を走ると一変します。エンジン全開が続くんですね。 東北の道の走りやすさと言ったら、山はあるけど山はないという感じで、もし車ではなく昔の馬に乗って しても同じように感じるんではないでいかね。考えてみると戦で馬が本当に使えるというのは東北だけ ではないでしょうか。だいたい日本の戦国時代の戦などは歩兵が主で騎馬なんてのはわずかでは なかったですかね。武田軍の騎馬軍団なんて言いますけど、 https://www.lymphocyte-bank.co.jp/blog/etcetera/1966003/ あんなのは局地戦だけの利用でしょう。本当に馬に乗って山野を縦横に駆けめくるっていう本当の馬 の使い方なんて、日本ではもしかしたら東北でしかやれなかったのではないでしょうか。 北海道はもっと広くて、自衛隊の戦車で北海道でしか使えないという大型戦車がありました。(^^ゞ その戦車はもう時代遅れで、今はもう日本全国どこででも走れて空輸もできる小型戦車や双輪の戦車 になってますね。 とにかく地形というのは移動ということに関しては大きな意味を持っていて、歴史や政治経済を考える 上で重要な事柄ですね。 東北は、ミニチュア香川平野の拡大版であるというのをつらつらと書いてきましたが、しかしそれ以外 のことはまるで違います。というか圧倒的に違うんですね。(^^ゞ 気温が違う。空気や空の清さが違う。水が違う。米の美味さも違う。そして植生が全く違います。雑草 から樹木までぜんぜん違うのです。 そういうのは私には現実感が今だに伴わなくて、なんだか天国がどこかに迷い込んだのではないかな という、そういう気分なんです。(^^ゞ 東北から帰ってきてしばらく経つと、あれは夢のなかでの出来事 だったのかな?という、そういう感じです。海外旅行から帰ってくるとそんな気分になるのでしょうが、 まさに私にとって東北とは海外そのものかも知れませんね。 ふと思ったのですが、東北は馬で車で走るのに適しているのですが、それを言えば瀬戸内は船で走る のに向いているということです。南船北馬なのか、と言えなくもないですね。(^^ゞ 潮の流れなんか関係ない高出力のプレジャーボートならば、縦横無尽で瀬戸内を走り回ることができ ます。その爽快感は東北の高速道を思わせます。

タイムスリップ

タイムスリップ

天安門事件30周年 当時の写真2000枚を初公開 「大紀元時報※」 https://www.excite.co.jp/news/article/EpochTimes_42637/ https://www.excite.co.jp/news/article/EpochTimes_42637/?p=2 https://www.excite.co.jp/news/article/EpochTimes_42637/?p=3 https://www.excite.co.jp/news/article/EpochTimes_42637/?p=4 ※https://www.epochtimes.jp/djy/about_djysb.html >当局の情報封鎖で今の中国の若者は事件の存在さえ知らない。事件の様子をカメラに収めた、当時19歳の大学生、劉建(Jian Liu、仮名)さんですら、この30年でフィルムの存在を忘れていた。 >数年前、アメリカに渡った劉建さんは、少しずつ心の奥にしまい込んだ記憶を取り戻した。劉さんは今年の6月4日は事件の30周年記念日だと気づいた。30年前、天安門広場で50日間カメラを構え続け、当時の様子を撮影したのを思い出した。 >「フィルムはどこだ?どこに置いたか?現像できるのか」と心配していた劉さんはこの2カ月後に、分厚いほこりを被った大量のフィルムをやっと見つけた。しかも、フィルムはきれいに現像できた。 >劉建さんは銃声が響くなか、家まで走って逃げた。その後、劉さんは中国当局にフィルムを没収されないように隠した。以後30年間、撮影したこともフィルムのことも、記憶の深い底に封印した。 >劉建さんはこの2000枚以上の写真の公開を大紀元時報に託した。アメリカにいる友人が劉さんに大紀元時報を薦めたという。友人は他のメディアに写真を公開すれば、中国共産党による海外での浸透活動で、劉さんの身の安全が危険にさらされる可能性があると言った。 劉建さんが撮られた写真は1989年ですからね。もう随分と昔のことなんですけど、いまこの時点で 天安門事件の写真が劉さんだけでなく各所から出ているということは、米国が本気になって中国共産 党叩きを始めたことと関係があるのかもしれません。しかしそういう政治的なものとに関係ありなし でも、やはり劉建さんが撮られた写真には迫真の価値がありますし、見事な撮影だなって感じます。 未現像のままで保管されていても、カラー写真は少し退色がみられるものの、殆ど劣化していない ことに驚きますね。フィルム写真というのは侮りがたいという気がしました。 30年経って現像され日の目を見た写真は、つい数カ月前に撮影されたのではないかという錯覚すら 覚えてしまいます。 (未現像フィルムということが返ってよかったのかもしれません。パトローネに収められさらに塩ビの 容器に入れられたフィルムはキズとか光やカビの侵入を防ぎますから) この場合、写真論として肝心なのは、写真を撮ったことすらすっかり忘れていた劉建さんが、現在この 写真を発表する意義を見出したというか、使命感というものに至ったということです。その決意という ものがなければ、この写真は最初から存在していなかったのと同じになったわけですからね。 過去からタイムスリップでやって来たような写真。なんとも不思議を感じますがこういうのがあるから 写真というのは面白いって思います。

ブレーキとアクセルペタルの踏み間違いとは?

ブレーキとアクセルペタルの踏み間違いとは?

動画 なぜ老人はプリウスで事故るのか、年間500台の車を運転するドライバーが解説 https://www.youtube.com/watch?v=z4o4PT2l70k どうしてこうした?プリウスのシフトレバー https://www.youtube.com/watch?v=uIFdMK8cj4U プリウスのチェンジレバーで悩む https://www.youtube.com/watch?v=zC6p3OkDZis 【トヨタ プリウス】高齢者にお勧めできないトヨタに直して欲しい事 https://www.youtube.com/watch?v=wygFuE4uUVM BMW&プリウスのアクセルとブレーキ踏み違えを語る‼ https://www.youtube.com/watch?v=fHUcs6SpQeg プリウス事故の理由をプリウスユーザー目線で考えてみた https://www.youtube.com/watch?v=Bz2Zm7mYohE 高齢者によるプリウスの事故の原因はここにある? https://www.youtube.com/watch?v=5pCp373hD6Q 新型プリウスでも事故!サポカーは誤作動? https://www.youtube.com/watch?v=xMd1zM7VQIg 意外と知らない!?車のオルガン式ペダルをマツダが採用する理由!そのメリットとデメリットとは? https://www.youtube.com/watch?v=G5tYxAOk20s デミオとセルシオでは同じオルガン式でも構造が違う https://www.youtube.com/watch?v=GfXyrq4A7KE 意外と知らない!AT車のコラムシフトが消えていく理由とは?シフトレバーの特徴やこれからの形状はどうなる?!?【インパネシフトの時代】 https://www.youtube.com/watch?v=tq-OnRg38yc 今日のプリウス 圧倒的加速で5台ぶち抜く!! あおり運転 https://www.youtube.com/watch?v=9MoTjaHip_w プリウス相手にゃ道交法は機能せず。ルール違反しまくりの暴走まとめ【ゆっくり実況】#今日のプリウス https://www.youtube.com/watch?v=XKX5uctZ2zo 【衝撃】 トヨタ プリウスの暴走事故多発の 裏側に 回避マニュアルが あったとか、、、 https://www.youtube.com/watch?v=OV9iHrxvkas 【プリウス試乗!とにかく事故る要素を詰め込んだのかと】 https://www.youtube.com/watch?v=Y2KgB8iI-40 プリウス全車種入庫禁止 https://www.youtube.com/watch?v=-SGtZg3bzOk プリウスミサイル https://www.youtube.com/watch?v=xW8SKu0eEQg GTA5 プリウス乗りの良くある事故映像 Part.6 https://www.youtube.com/watch?v=prRgPlNy5og 市原市の公園にプリウスが飛び込んだ事故 HV・EVなど電動車特有の事故か? モーター駆動の低速トルクの強さ http://news.livedoor.com/article/detail/16485740/ 運転手は踏み間違いを強く否定していたにもかかわらず、早々に“メーカーの担当者“と車の安全性を調べて『異常はなかった』と結論が https://tocana.jp/2019/05/post_95865_entry_2.html 気がつけば高齢者御用達に! トヨタ・プリウスが年配者に人気なワケ http://news.livedoor.com/article/detail/16416791/ 一連のプリウス/アクアによる多数の暴走死亡事故はトヨタ車の欠陥ではないでしょうか。 https://carview.yahoo.co.jp/ncar/catalog/toyota/prius/chiebukuro/detail/?qid=10167621180 なぜ「プリウス」はボコボコに叩かれるのか https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1904/23/news048_2.html 「プリウス暴走事故」トヨタも警察も解明しない深い闇 https://www.sentaku.co.jp/articles/view/17594 プリウス ペダルレイアウト https://isayama.info/archives/8130 セレクターレバーやブレーキペダルに操作感が皆無に等しく・・・ https://togetter.com/li/1355569 左寄りブレーキ https://minkara.carview.co.jp/userid/1511142/blog/39151695/ 高齢者事故を防止する人間工学 https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1704/24/news041.html 再び動画 プリウス操作 https://www.youtube.com/watch?v=MDtuxswqypA ★1 「タクシードライバーが語る、アクセルとブレーキの操作方法。」 https://www.youtube.com/watch?v=nCXCiM_ZFLw ★2 「ペダルを踏み変える場合は足を完全に離してはいけない」 https://www.youtube.com/watch?v=zljDOVi0dcI 色々と貼り付けましたけど、プリウスのことなんてどうでもよくて、最後の★しるしのリンクだけが 有益だと思います。 なぜ人はブレーキとアクセルペダルを踏み間違うのか。その根本には正しいペダルの踏み方を していないからだろうと思うんですね。 ★2の「ペダルを踏み変える場合は足を完全に離してはいけない」というのは運転工学のある教授 も言ってましたが、じゃあ、どうすれば良いのかという具体的な操作感は、★1のリンクで細かく 説明してくれています。 このドライバーは自分はマニュアル車に乗っていると言ってますが、私もそうなのでよくわかるんです。 マニュアル車だと左足でも足を操作しますから、正しい姿勢を保つ必用があるんです。 それはどういうことかと言うと、左右の足はそれぞれペダルに対して斜めにペダルを踏まないって いうことなんです。そして右足のカカトは床から離さないこと。アクセルとブレーキの右足はペダル軸に 平行になるようにカカトごと移動し、正しく足を構えてから踏む、ということです。 マニュアル車に乗っている人は直ぐに分かると思うんですが、両足ともペダルを操作するというのは 考えてみれば姿勢が不安定になるわけで、それで左右の足とも踏ん張れる姿勢でないといけないん です。ということは右足を斜めにしてアクセルやブレーキペダルを操作するなどというのはできない んですよ。 とくに昨今の高性能車や、昔の性能の低かったマニュアル車の場合だと、特にブレーキは正しい位置 から強力に踏まないと車は止まってくれなかったんです。 そういうわけですから、アクセルの位置からブレーキの位置への移動は、足のカカトを床に着けたまま スライド移動をして、それでそれぞれの定位置でペダルを踏むんですね。★1の方が言っているとおり のことを私もやってます。 ★1の方は(ペダルを踏み間違えて)事故を起こす人は、アクセルペダルとブレーキペダルの真ん中に 右足のカカトを置いたままで、足先を斜めにして両ペダルを踏んでそれぞれの操作をしているんでは ないか?と言ってます。(教習所はそれを勧めているようです) たぶんきっとそうでしょう。しかしこの操作法は極めてルーズな操作法で、まるでペタルを何かのフット スイッチを押すような感覚で操作をしているんですね。これではマトモにブレーキもアクセルも踏めて いません。 1トン以上の高速で移動している物体を操作する方法ではないです。極めて無責任な操作法ですよ。 最近はプリウスとかの重大事故が多いですね。高齢者だからと言って、事故原因をそれで済まして しまうのではなくて、何が問題で何がいけないのかっていうことをよく考えないといけないんです。 こういうのは他人事ではなくて、私もやがては高齢者になるわけでそれで事故を起こす可能性だって あるんですね。 それにしてもアクセルペダルとブレーキペダルを踏み間違うっていうのは、私にはどうしても理解でき なかったんですよ。理解不能なんだけど歳を取ればそうなるのか?という具合ですかね。(^^ゞ  とにかく納得がいかなかったわけです。 しかし★1の説明で、なるほどそうだったのか!という気持ちになってます。 カカトを中心にして左右につま先を振るだけの操作と、カカトからずらせてから操作するというのは 全然違うんですね。これは自分でやってみるとわかります。私は幸いに今までつま先だけでペダルを 操作をしたことがないです。そんなルーズにやり方をしようとも思いません。 話はちょっと変わりますが、左足ブレーキ操作というのがあります。私も少しやる場合があるんですが 本格的にその操作はしません。なぜならば左足ブレーキというのはカカトを床に着けたままのチョコン ブレーキしかできないからです。(実際に左足ブレーキをやっているよっていう人の動画をみると、 チョコンブレーキで始終やってます) これではもしもの場合のフルブレーキはできないんですよ。 強力なフルブレーキはあくまで左足を床に固定し身体を安定してから思いっきり右足でブレーキを踏む しかできないんですね。それで左足ブレーキというのは正しくない操作法だと私は思ってます。 (アクセルの右足を床に据え直して、それから左足ブレーキだと強力に踏めますが、そういうやり方を 習得している人はいるのかな?) もしもの時、事故直前にドライバーがすることは、ハンドル操作で逃げることではなくて、とにかくおも いっきりブレーキを踏んで速度を殺すことです。その結果相手の車にぶつかっても仕方ないです。 ABSが付いている車はブレーキを踏みながらハンドル操作もできます。でも実際にはプロドライバー でもない限りなかなできないんですよ。なのでひとつの操作をすることになると、とにかくブレーキなん です。それも圧倒的なブレーキです。タイヤはロックしますが制動距離は最短でいけます。 「自動車事故多発の原因は、ブレーキを適切に踏めない人が多いせい!?」 https://diamond.jp/articles/-/203103 それからプリウスの重大事故が多いのですが、これは基本的にはモーター駆動プラスで加速するので 加速力が強力なんですね。ハイブリット・スカイラインで乗った時、その加速力に驚かされました。瞬時 にして時速100キロになるんです。こんなの普通の人には制御出来ないレベルだと思いましたから。 それで結論として、『間違ったペタルの操作法+強力モーターのハイブリット車+高齢』という3重苦の 場合に重大事故が起きるっていうことじゃないですかね。 とにかく基本的に正しいペタル操作ができていないということ。これが一番の問題だろうと思います。 昨年起きたレクサスの暴走も加害者は今だに踏み間違っていないと主張しているようですけど、AT車 しか乗ったことのないドライバーですからね。やっぱり正しいドライビングができるのはマニュアル車 でないと難しいと思います。 「アクセルとブレーキの踏み間違えた!ペダルの踏み間違いを防止する方法」 https://www.youtube.com/watch?v=E6KvjPr47XU これが多分、教習場で教えてくれる操作法だと思います。右足のカカトはブレーキ前に据え置く、という わけですね。しかしそうなるとアクセルペダルは斜めにして踏まなければなりません。長く運転すると 疲れますし、それから微妙なアクセル操作が出来ず、発進時に思わぬ急発進、という感じになるの ではありませんか? そして実際のところは、ブレーキとアクセルの真ん中に右足カカトを置くようになると思います。 それで私も自分のマニュアル車で右足定点の方式でやってみました。そうすると、まず発進がマニュア ル車の場合は難しいです。下手をするとエンスト。それからアクセルペダルをずっと踏んでいると右足 が疲れますね。どうしても足を捻った姿勢になるからです。信号待ちでブレーキを踏んだままの時も 足は逆方向に捻れたままです。 結局、アクセルもブレーキも中途半端のままで運転をし続けることになり、こんな奇妙なことを学校で 教えているのかと思うと、日本の教育機関というのは今も昔も不自然なことばかり生徒に教えている んだなあって思いますね。 踏み間違い事故はセダンタイプの車に多いですね。(プリウスはセダン) このセダンタイプは最近の ミニバンと違って着座位置が低く、ドライバーの足は割りとストレートになります。 右足カカト固定の操作法は、このセダンタイプの車でやり易いようです。ミニバンだと着座位置が高く なり上からペダルを押さえるという感じになりますので右足カカト固定はやり難い気がしますね。それで 踏み間違い事故は圧倒的にセダン車に多いんじゃないですか。 もっとも、高齢者はミニバンでなくセダンタイプを好むっていうのもありますがね。 ペダル踏み間違い暴走事故は、AT車が増えだした頃もありました。 http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a109032.htm 昭和六十一年八月二日に東京の環状七号線で発生したいわゆるAT車暴走事故で、当事者である ドライバーの主婦は、三人を死亡させ、五人に重軽傷を負わせたとして東京地裁に起訴され、禁固 二年の実刑判決・・・ 1986年の事故ですが主婦は高齢者ではありませんでした。たしか車はセドリックだったかな。 私の場合は、この正しいペタル操作と正しい姿勢だけでなく、停車時には必ずニュートラルにする方法 やってます。これはマニュアル車だけでなくAT車でもです。つまり私の車の操作法は、徹底的に車を 止める、ということを主眼に置いているのです。 かの徳大寺有恒氏はかつて、車は、「走る・曲がる・止まる」っていう名言を残し、日本の自動車業界 を牽引したのですが、今では走る・走る・止まらないよっていう車ばかりになってしまいました。 走らせることばかり考えていて、車を止める、止めておく、ということが御座なりになっているんです。 ユーザーも低燃費のことばかり考えていて、また安易に安全は機械任せっていうこともあります。 もっともっと真剣にユーザー目線で、自動車の安全のことを考えてもよいのではないでしょうかね。

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日本は現実的にアメリカの属国的存在・・・というのはよくある巷の認識かもしれませんが、それは 属国の意味を少し取り違いをされているように思います。例えば歴代の朝鮮半島の諸国は中国 王朝の属国という立場でした。軍事的に守ってくれる代わりに富や物産のみならず奴隷という立場 の貢物も差し出さなければならなかったのです。歴代ずっとそうしていたために半島は貧しいままで 経済も文化も長く停滞しつづけ、やっと半島が発展をしだしたのは日本が併合をして教育をはじめ あらゆる投資をしてからですね。 それでは、こういうのはどうでしょうかね、現在の世界は徳川の江戸時代という風に考えれば分かり よいかと思います。 近世から第2時世界大戦までの世界は、言わば戦国時代でした。それが最終的に徳川による 全国統一といいますか、米国が世界大戦に結果的に勝利をして、やっと世界が統一されたという ことになりませんかね。 徳川氏は中国のように直接的な中央集権体制を敷いたのではありません。諸国の大名による 自治を通して間接的に支配しただけです。大名には普代親藩外様という区分けがありました。 島津や伊達なんかは外様なので、大藩でしたが幕政には参加できずしかも普請や冥加金などで 搾り取られたところがあります。そのかわり幕府は外様の大々名の内政干渉はしませんでした。 出来なかったというのが正しく、改易とか取り潰しとかいうのは外様の大藩ではなかったですね。 こういう歴史のモデルからすると、現在のアメリカ一極の世界というのは、アメリカという徳川幕府が あって、外様の大名としてロシアとか中国というものがあるのだなっていうことが直ぐに思い浮かび ます。 私はこの日本も外様大名のひとつであると考えています。やはり1億の人口がありGDP世界3位 というのは大藩です。場合によっては幕府の仮想敵国になる存在ですね。 英国とかカナダとかメキシコというのは普代親藩とかになるんでしょうね。しかし日本は身内という よりもライバルであり、米国も日本に対して対等な関係を結ばなければ制御出来ない、大国と大国 との関係になりますね。 その太平洋を挟んだ大国どうしが現在は日米軍事同盟という世界最強の同盟関係にあるんです。 戦後、ソ連の圧力があったヨーロッパにおいてはNATOという集団軍事体制を敷かなければなりま せんでしたが、東アジアにおいては米国は日本というたった一国とだけ(実際は韓国やフィリッピン や台湾など個別に同盟を結んでいますが)、強力な軍事同盟を結んだだけで、東アジアの平和は 保たれて、しかもソ連の崩壊にまで大きく寄与したわけです。 まあ現在では日本は米国幕府体制の御三家のひとつとなっているのかもしれません。 こんな強力な国である日本が米国の属国であるというのは、ありえないことですよね。 もし日本が米国を捨てて、中国とかロシアとかと組んだとするでしょう。そうなると世界はどうなるのか。 再び戦乱の世の中になるのは目に見えています。それでは世界は滅びてしまいますが。 日本とアメリカは、対等な国と国との同盟関係でもって世界平和に寄与しているというのが真実の 見方です。これを見誤ってはいけませんね。 属国という言葉は、奴隷というレベルの言葉なんです。中国においては人民は皇帝が生殺与奪を 握っているということで奴隷の立場でしたし、朝鮮もそれによく似たレベルの属国だったのです。 もし中国がアメリカを打ち負かせて世界の覇権を握れば、文字通り日本も世界も中国の属国になりま すね。 こういうことを言うのはいけないのかも知れませんが、世界の国民の民度には資質というものがあり ます。それが高度なのは世界ではほぼ3地域しかなくて、西ヨーロッパと北米と日本だけなです。 これははからずも、飲料できる良質の水と同じ配置になってます。世界で生水がそのまま飲める地域 は少ないんですよ。森林が豊かで砂漠化していない場所です。 かつては中東もすばらしい歴史を持っていたのですが、環境が悪化して現在では歴史のリーダーシッ プを発揮できていません。 これからの2千年の未来の歴史を考えた時も、豊かな自然を保っているところでしか発展しないという のは直ぐにわかります。 米国は少し見誤っていたところがあって、日本と中国の違いというものが理解できなかったところが あるんです。米国が中国に投資をして経済が豊かになれば、日本と同じように民主主義国家になる だろうという甘い見通しがありました。それは戦前からの見通しだったのです。 しかし日本というのは聖徳太子の時代から民意というものを大切にして政をしてきた国です。別段に 西欧や米国の力で民主主義の国になったわけではありません。 それで米国は同盟国である日本をすら犠牲にして、中国に投資をし技術を教えて経済を発展させて きたのですが、結果は無残でしたね。裏切られたという思いなのでしょう。日本は中国の本質という ものを明治以降からよく知っていますから、最初から結果は見えていたわけですが。 しかし日本もそういう過ちを日韓併合でやりましたよね。膨大な投資をして日本の国富を傾けてまで 半島に思い入れたのですが、結果は反日を招いただけでした。つまりは中華圏というのはそういう 地域であるというだけなんですけど、人間というものは失敗をして身に堪えないと分からないものなん ですね。 米国政府はファーウェイを徹底的に潰すっていう感じですけど、これはまあ前哨戦ですね。中国には 世界先端の技術というものを持たせない、軍事に回る金は作らせないという方向でやってます。 今はまだ貿易戦争の段階ですけど、いずれは中国海軍を徹底的に潰すはずです。つまり中国共産党 を消滅させるという覚悟でやるんでしょう。 歴史的にみれば徳川時代に於いて、日本は豊かになったというか、国力を溜め込みました。明治に なって日本が世界に飛躍できたのは、それの資産があったからなんですね。江戸時代といえば鎖国 をして技術も経済も停滞していたという見方をする人が多いのですが、それは左翼の見方に眼を曇らされているだけです。江戸期に日本の社会インフラといものは全て出来上がり、明治になって政府が 投資をしたのは鉱工業や鉄道、軍事や教育くらいのものです。 考えても見ればわかると思うのですが、たった数十年で貧しかった中国が今や数億人の中国人が 日本人よりも豊かな生活をしているんですね。それが出来たのは、現在の時代が米国幕府体制という ものによって平和な時代が続いているからなんです。けっして中国人が頑張って自助努力でやった わけではありません。日本が徳川時代の資産でもって、世界戦国時代のなか、自ら努力をして一流 国家になったのとは根本的に違うのです。 中国共産党を作ったのはソ連や米国であり、中国をGDP世界2位に押し上げたのは米国なんです。 米国と日本のような西側同盟国のおかげで、言わばタダ乗りで大きくなっただけですね。 ちなみに中国国民党を作ったのは日本でしょう。とにかく今の中国の国というのは、中国人自身が造 りあげた国ではないのです。明治政府は日本人が創り上げましたが、中国人は全てにタダ乗りばかり していますね。 これから強硬な対中国戦略というものが米国の主流の政策になるわけですから、米国は日本という ものを見なおして大切にしなければならないわけです。ですから米国が日本に対して無理難題を押し 付けてくることはないでしょう。 さて、問題は中国自身ですね。これまで米国の技術のプレゼントやモノマネや盗みでやってこれた わけですが、これから自前の技術発展ができるのかどうか。じっくりと見ていきたいと思います。もし やれたのならばちょっと中国人を見なおしても良いんですがね。 「始皇帝 中華統一の思想」キングダムで解く中国大陸の謎 集英社新書 という本に何度も問われて いるのですが、あの巨大な人口と巨大国土というものが歴代ずっと統一されていたのは世界史の 不思議であるということなんです。 世界中見渡してみても巨大帝国というのは確かにありましたがそれは一時的なもので、中国のように 何度もなんども巨大帝国が生まれ続けた地域はないんですね。 一般的な見方ではそれは地勢的に見てその要素があるということなんですが、この本の著者はそれを もう一歩踏み込んで人文的にソフトウェア的に解説しているのです。けっこう面白い本でした。 中国というのは地理的に平坦な地域ですから、容易に北方からの侵略を受け続けてきました。北の 遊牧民族ですね。騎馬民族ですので軍事力は強大です。それに対抗するためには中国を統一して 力を着けるしか生き延びる方法がなかったということです。 その為には強い強制力で人民を縛り付けるしか手法がありません。そのような為政は秦の成立以来、 ずっと続いていて現在の共産党体制でも何ら変わりはありません。この2千年間以上、同じような仕組み で国家を運営しているんですね。 我々は日本という、先進的ではありますが国家観としては世界の歴史的にみてごく普通の国に住んで います。大きすぎず小さすぎず、そして歴史の積み重ねがあり、人々の人権は保たれ平和で民主の 国です。 そういう国にいては決して解らないのが中国という国です。 ところでゾンビ映画というものがありますね。ジョージロメロ監督がジャンルとして確立したようですが、 https://screenonline.jp/_ct/17112057 このゾンビ映画の流行と中国の発展とは一致しています。ゾンビ映画がメジャーになったのは2000年 代にいってからでしょう。 ゾンビというものはけっして普通の人間には解らないものなんですね。そういうものとして描かれてい ます。それは普通の庶民の感覚としてはゾンビが理解できないように、中国の人々も我々には解らな いという本質性があるということなんです。中国というまったく理解できないものが興隆してきている。 それで庶民感覚としてはそれはゾンビである、ということなんです。 中国以外のどこの国も人々も中国というものを理解できません。あえて言えばアフリカ大陸の人々が 割りと感覚的に理解できるかもしれませんが。 中国大陸という巨大な大陸。大陸内では移動を妨げる自然障害がありません。海もないし大山脈も ないし気候は温順で人々は容易に移動でき、ついでに盗賊も軍隊も大陸内を走り抜けることができます。 弱き者や少数派の隠れるところがないのが中国大陸なのです。 https://www.youtube.com/watch?v=bJv7tOGkN0k 中国の人々というのは、タガが外れるという気がします。日本にもそういう人達がいるようで、例えば 過労死ですかね。死ぬほど働くっていうのはタガが外れるとしかいえません。会社とは契約で働いて いるに過ぎないわけですが、死ぬほど働かせられるのならば辞めればいいんです。やめて他の仕事を 探せばいいじゃないでいかと。なにも死ぬほどのことはないわけですから。 タガが外れているということでは、それはゾンビなんですね。 中国人は帝国の共産党の圧政に辛抱強く耐えるというか、普通の国では考えられないようなタガの 外れた被虐待耐性、ゾンビ性があるんですね。それは信じられない程の能力です。しかしそうしないと 歴代の国家権力の苛斂誅求の中国では生きられなかったということなんです。 私は中国はタガが外れた幼児性の人々の国だろうと考えています。たしかにモノを学ぶ学習能力は 凄いのですが、それ以上ではなく、真の創造力というものはありません。新しい科学技術でもって歴史 を変えていく能力というのはないようですね。人口と国土は大きいのですけど世界の歴史には、もしか すれば何の貢献もしていないのかもしれません。 米国は日本のような同盟国とでもって、世界の大洋、大西洋、太平洋、インド洋を握っています。これが あるから米国は世界幕府体制を敷くことができるのであって、それはかつてのローマ帝国そのものかも しれません。 しかしローマ帝国も長くは続きませんでした。中国のような2000年にも長きにわたって巨大帝国を維持 し続けたのとは違います。 現在のローマ帝国である米国幕府はその役割が終えるとともに消滅をするでしょう。しかし中国には 絶対の世界の覇権を握らせないという役割があるうちは健在であろうかと思います。 巨大帝国というのは、歴史の発展を阻害するとも言えるんです。ローマがあるうちは西ヨーロッパの 歴史の発展はスタートできなかったんですね。中国は2000年間、何も生み出さなかったわけですし。 人間というのは安全が保たれ生活が豊かでも、自由であり、人権を尊重する世界でなければ創造力を 発揮できません。ですからいくら中国の沿岸の人々が経済的に豊かになろうとも、中国発の科学や技術 というものは今だに出来ないのです。これは中国にとっては致命的です。 中国が巨大帝国で持って強権的に維持され続ける間は、中国人は中国では何も生み出せないだろうと いうことなんです。ましてや中国が世界的に覇権を握り、その走狗たる中国人が世界に散らばるようでは それこそ人類の未来はないに等しいということかもしれません。 中華帝国は人類の負の遺産。とでも言っていいかと思っています。 2千年前、ローマ帝国が栄えた時、中国では独自の漢帝国が栄えました。しかし現在では地球は狭く なりましたから、中国が独自に帝国を築くことはできません。現代のローマである米国幕府とぶつかる のは目に見えていますね。中国がこれから発展し続けていくには、2千年来の中華思想を根本から 解き放たれて生き方を大きく変える必用があります。台湾や香港、モンゴルがその良い見本になるの ではないでしょうか。

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北上川河口から牡鹿半島に向けて海岸線を走っている時、こんな具合で、よく見れば津波の傷跡は 多々見つかります。これらもやがては嵩上げ工事で見えなくなるんでしょう。 そんな小さな傷跡を探している時、ふと涙がこみ上げてくるんですね。それらの津波の痕跡は同時に ここで多くの人達が波に飲まれてしまったことを意味しているからです。 福島第2から北上して石巻市の北上川近辺にある道の駅で宿泊しようと思ったのですが、駐車場が 一杯で車を留めるスペースすらない有様。どうせならと翌朝予定している北上川河口の大川小学校 までの道のりを、夜間ハイスピードで車を走らせました。北岸を最初に走り、橋をわたって小学校跡地 へ。 真っ暗闇の中、ヘッドライトに校舎らしきものが映しだされました。ああ、ここなんだろうと。 そこら辺りは全てといってよいほど何らかの津波の被害を受けているはずです。 何なら、ここらで宿泊しようか?・・・とは私、ぜんぜん思いませんでした。 再びゆるゆると低速で車を走らせて、今度は川の南岸をとおって元来たところに戻りました。 『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』訳者あとがき https://honz.jp/articles/-/44600 https://honz.jp/articles/-/44650 http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/mobile?date=20180501&section=p1 多くの人々がなくなった場所というものは特別なものです。私はある程度は心霊現象というものを 知っている、つまり科学的に理解しているつもりですが、それだからこそ危うきには近寄りたくない ものです。 翌朝、眩しいまでの朝日のもと、まず最初に見つけた目新しい慰霊碑に手を合わせました。 私をここまで引き寄せたであろう、9歳の女の子の名前をみつけました。 そしてやっと大川小学校の震災遺構を訪れたのです。 同じ震災でも、津波と原発とではまったく違うものなのです。もっともその2つを同時に受けた地区も あるわけでして、もの事は複雑です。 津波は多くの人々を、2万人近い方々の命を一瞬にして奪い取っていったわけですが、原発はそういう ものではありませんでした。人々から土地や財産や仕事や人間関係を奪ってしまったのですね。 そして健康や寿命というものも奪っていきつつあります。原発被害は緩慢なる死とでも言っていいかも しれません。原発被災地とは、人よりもまず大地が癒やされるべきということなんでしょうか。