メーカー名 | SIGMA |
機種名 | dp0 Quattro |
ソフトウェア | SIGMA Photo Pro 6.5.4 |
レンズ | 14mm F4 |
焦点距離 | 14mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/25sec. |
絞り値 | F4.0 |
露出補正値 | -0.3 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 800 |
ホワイトバランス | オート |
フラッシュ | なし |
サイズ | 1808x2712 (3.34MB) |
撮影日時 | 2020-09-04 01:57:57 +0900 |
【市販の狂った食べ物】「体が狂っていずれ病気になる..市販のあの狂った食べ物を買い続けていると腎臓が腐って髪が抜け落ちます..」を世界一わかりやすく要約してみた
https://www.youtube.com/watch?v=ynvtMbJhl3o
和菓子と上白糖が取り上げられていますが、これは見た目重視の日本の美学の産物。見た目の美しさ
の為には機能を犠牲にしてもよい、という誤った美意識があるというわけです。和菓子は見た目の美しさ
を追求するがあまり、それを食べることで健康を損ねてしまうということ。
戦艦大和もそうです。美しいデザインをしていますが、役に立たないどころか特攻で多くの将兵を犠牲に
してしまいました。それなのに宇宙戦艦ヤマトで復活するわけですからね。(笑)
そして日本の写真もある意味、そうなんだと私は思いますよ。
まあ、和菓子も写真も見るだけだと害はないのですが、その和菓子を食ったり、自分でそういう写真を
撮ったりすると害が発生するのだと思います。
その日本的美意識の典型がボケ写真でしょうか。そして引き算の写真と言われる無地空白の多い写真。
こういう日本の美意識といわれるものは、つまりは独善の美学といってもいいんじゃないかと思ってます。
根拠なき自信過多な独善美。ようするに、そういうのは我がままな子どものような写真です。
そういう日本の写真風土に徹底的に闘いを挑んだのが、前回も紹介しましたが・・・
「日本写真論」日高優著 講談社選書メチエ刊 ということになります。
木村伊兵衛、土門拳、濱谷浩の三巨頭を取り上げていますが、読み終えた後の感想としては、これは
ある意味で日本人論なのだという気がしています。三巨頭が特別に偉いというよりも、我々日本人が
だらしないんだなあということ。子どもっぽ過ぎるんだなあっていうことですか。
見た目ばかりに拘って、中身がない。さてその美意識とは小学生並み。
三巨頭が活躍していた頃はまだ黒白写真時代ですから本来の写真を追及する賛同者は多かったので
すが、今やもう完全なカラー写真時代です。写真の本質を分かるような人はもう殆どいないでしょう。
しかし、日本の美学が見た目重視で、その為ならば機能や健康を犠牲にするというのは本当でしょうか。
現代日本の工業製品で、例えば自動車やカメラで美しいけれど非実用的なものがあるでしょうか。そんな
ものはありませんね。
そうは言っても伝統的なものにはあるようです。伝統の名に縛られて変革ができないものなど。例えば
相撲や歌舞伎とか和服とか。かなり奇形的ですよね。書道や茶道もそんな感じです。
日本家屋の和室というのもそういうところがあって、今では新築の家では殆ど和室は見捨てられてい
ます。しかし和室の畳や障子・襖というのは結構西洋では人気だったりします。
実は私はこの和室が好きなんです。それで寝室兼書斎は和室にしています。畳部屋は布団で就寝
しますので洋間のようなベッド配置での制約がなく、コンパクトに自由に布団を敷いて寝ることができ、
つまり東枕が実行しやすいのです。
そして柱が壁と明確に区別されているのも実用的です。簡単に棚とかが作れます。昨今の耐震補強
工事でも有利。基本土壁なので塩ビ系壁紙(シックハウス)を貼らずに済みます。
障子はガラス窓との二重戸となり断熱効果がありますし、襖は開ければ隣部屋との空間合体が可能
です。無駄だな、と思うのは床の間です。仏間もそう。床の間は西洋の出窓のような心理的空間拡張
の意味では優れているのですが、椅子の生活の現代では形を変えるべきだと思います。
そんな感じで基本は優れているのですが現代風な改革すれば和室は優れた部屋や家屋となります。
そのような現代風の和室はこれから出現するでしょう。
私は日本人の物つくりの思想は大変に実用的で優れていると思っています。ただ一部には思考停止
をしていて変革が止まっている部門があるというわけです。
和食は優れていて世界的に人気ですが、一部の和菓子のように間違ったものもあるというわけです。
問題なのは明らかにおかしいと思っても、日本人は伝統だからといって変えることを嫌うという悪習が
あるということです。
それは美意識などという高等なものではなくて、そんなものは美意識でも何でもなく自滅意識だと
私は考えています。
日本人には、この自滅意識というものが根深く巣食っていて、このことに多くの日本人が気がつかない
でいます。自滅意識を美意識と勘違いをするんですね。桜と散る特攻精神が最たるもの。
現在、日本人は子どもを産まなくなり民族として自滅しかかっています。
これは日本人の根本に自滅したいという、そういう不可思議な本能のようなものがあるからだと私は
考えています。特に時代が豊かになればなるほど、この自滅意識が巣食うのです。
貧しければ逞しく生きる能力がある日本人ですが豊になりすぎるとダメになっちゃう、自滅意識がもたげてくるというわけです。
昨今流行の引き篭もりや登校拒否なんかはその典型です。本質的に豊過ぎる時代だから出現するの
ですし、この自滅意識に囚われている限り改善は望めません。特効薬は本当に徹底的に食うものが
ない、寝る場所すらないという赤貧状態になることです。そして誰も助けてはくれないことを知ることです。
過剰であるからこそ消尽をする。その法則下に自滅意識なるものがあるんじゃないでしょうか。
この日本人の特異な特質に気づいたのが前出した写真家濱谷浩です。
簡単に言えば、私の考えですが、幼児や子ども時代に親から溺愛とも言える甘やかしを受けてしまうと
子どもは自滅意識を潜在的に芽生えさせてしまうのではないですか。親だけでなく(親は厳しく育てても)、
その親の両親が孫をダメにしてしまう場合も多々あります。
子どもというのはどんなに厳しく貧しく育ててもダメになるなんてことはありません。しかしその逆は大いに
ありえるのです。伝統明なきちんとした家では老父母も孫達をけっして甘やかしません。
子どもにとっての最大の財産とは、この厳しく貧しく育ててくれたというその意識と記憶です。これが本当
の銀のスプーンであり親ガチャなんですね。
心に自滅意識を芽生えさせてしまった当人はどうなるのでしょうか。やはり自分の自滅意識と戦うしか
ないということでしょう。しかし闘いの仕方すら知らないのだから困ったことになるわけです。
そして肝心なことですが、自滅意識とはやはり社会的知性(EQ)が低いというのが根底にあると思います。
一方、社会的知性が高く、また高知能に生まれた子どもは親の甘やかしを嫌います。自分で自らを
律しながら育っていくという能力が備わっているからです。多くの親達が言っていることですが優秀な
子どもは育てやすいのです。放っておいても自分で育ちます。
色々と脱線してしまいましたが、写真に於いても日本的美意識として間違いられやすい自己自滅意識
を排するということは写真をする上で大切なことだろうと思ってます。これに陥ってしまうともう前進は
望めません。
日本人には自滅意識、自滅願望というのがあり、分かりやすく言えば、投げやりな意識、努力を嫌い
安易に逃げ込む意識、狡猾な小狡さ、模倣性と権威主義、他人に責任転嫁、つまり甘えの精神、
その場限りの快楽主義、等々です。
このようなことは、世の中が物質的に豊になればなるほど人々の精神が緩んでしまい蔓延するのです。
今回は日本的美意識とは何か、と考察したわけですが、何事にも物事には表裏があります。
良い意味で発揮される日本の精神は素晴らしいものですが、間違ってしまうとそれはグロテスクな姿
となります。
昨今では、物質的豊かさを拒否して物的には節制して暮らしていく、というのがブームのようです。
物は可能な限り持たずに、極端な話、スマホひとつで暮らしていく、というものです。
実際のところ都会ではそれは可能でしょう。しかし考えてみればスマホ予約ひとつですぐさま注文品が
届くというのは物質的豊かさの極まりの姿ではないですか。モノを買って飽きればすぐさま捨てるか
転売する。それもまた世の中が物質的に豊であるからこそ可能なライフスタイルです。
そのようなものは、モノを大切にするという考え方とは対極にあるものです。モノを捨てることを前提と
しての暮らしであって、それは物に溢れる豊かさを前提に対応した暮らしぶりなのです。
本来の日本人の節約精神はモノを大切に扱い、安易に捨てずに長く使っていくというものです。物にも
心が宿り、人も物も同様に大切にするという精神です。それを根底から、物イコール捨てること、として
考えているわけですから、日本人の心と精神は荒廃して当然というわけです。
幕末期に西洋人が日本に遣ってきて、その庶民の暮らしぶりを見て、物の少ない質素な暮らしぶりで
ありながら、日本人の心と精神の高さに驚いたと言います。そして識字率の高さにも驚愕したと。
権力者の幕府でもそうであって江戸城には豪華な贅沢品はなかったと言います。
おそらく現在、日本人ほどモノを大切にせず使い捨て文化に没入している国や民族はいないと思いま
す。まだまだ充分に使える物でありながら平気で捨てていますから。江戸時代の人間が今の現代を
見ればびっくり仰天するはずです。
モノとサービスは同義なものですから、現代都会の暮らしぶりは物だけでなくサービスも使い捨てして
いるというわけです。物は自分では持たずにスマホというサービスで使い放題、というのが現実です。
例えばこの掲示板。現代サービスのひとつですね。これを皆さん、只で無料で使っています。何も
気にせずに使い放題をされているわけですが、それこそが現代のモノとサービスは湯水の如く使って
いいのだという現代風潮の錯覚のものなんです。
本当はこの掲示板を利用するのは無料とはいきません。少し考えれば分かることてすが、投稿写真
を継続しようと思えば、撮影に出かけなければならない。交通費と労力が要ります。また新しい機材
も導入しようかということにもなります。購入費がかかります。
ネットでモノを買うのもそうなんでして、ただでサービスが利用できて便利、なんて思っていると、ついつい
不要なものまで購入してしまって結局は高くつきます。テレビショッピングもそうですね。
ただこの掲示板は普通の投稿サイトとは違い、かなり突っ込んで書かれている人かけっこういます。
そういう人の投稿はかなり私としては興味深くて役立っています。
ペンタックスな人の投稿は見守っています。稀有な投後者だと思うので私としては現代社会を分析
するのに役立っているのです。願うべきは彼が一般社会に復帰できるようになることですが、それは
難しいんでしょうね。しかし1年後くらいから、もしかすれば良い方向に行くかもしれません。
※最近は時間がとれずで投稿する写真がありません。上げた写真は古い写真ですが、もしかすれば
既に投稿済みのものかも。
ところでPCに眠っている古い写真を見ていると、これらが自分が撮ったという実感が涌いてきません。
なんか別人が撮ったんじゃないかと。(笑)
考えてみると写真をする趣味というのはかなり贅沢なものなんであって、ゆったりとした時間と心の
余裕が持てないと写真なる趣味は持てません。
幸いに私はこの20年間程はそういう余裕が持てました。ありがたいことだと思ってます。