メーカー名 | SIGMA |
機種名 | dp0 Quattro |
ソフトウェア | SIGMA Photo Pro 6.5.4 |
レンズ | 14mm F4 |
焦点距離 | 14mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/30sec. |
絞り値 | F4.5 |
露出補正値 | +0.0 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 100 |
ホワイトバランス | オート |
フラッシュ | なし |
サイズ | 1808x2712 (4.57MB) |
撮影日時 | 2020-09-04 01:08:00 +0900 |
カメラとは何かな?ということで一言。
私の場合は、カメラは身体の拡張パーツのようなものかなって考えることにしています。そいうのはPC
もスマホも自動車もバイクも同じです。自身の拡張ですから完全にマスターして自由自在に扱えなくては
なりません、まっ道具ですわね。(^^ゞ その道具というのは、必ずしも身体に良いモノではなかったりしま
すし、もちろん当然に有益であったりするわけです。とにかく道具というものの性質を確実に抑えておか
なければならないということ。
よく道具を神扱いする人がいるのですが、そういう方は自身の拡張パーツではなくて、道具の拡張パーツ
として自分がいるという考え方だろうと思いますね。つまり道具に自分を合わせて使うと言うやり方。
これは本末転倒なんですが、そういうやり方をする人は人間の中に3割くらいはいそうです。(^^ゞ
日本はこれで戦争に負けました。兵器を陛下のお召し物として大切に扱い、人間を召使扱いしてしまった
からです。カメラと言うのは電磁波をばんばん出しますし、デジタルスクリーン画像は人間の眼と脳を酷使
していきます。たかが道具のくせに何だろうこれは、と思うのですが、これを神扱いすれば確実に人間は
奴隷となってやがてはぼろぼろになっていくわけです。
よくデジタル写真やカメラというものに信仰心をもたれている人がいるようです。そういう人にフルサイズ
の超高画素カメラやフォビオンカメラがよろしくないと言いますと猛然と突っかかってくるのは、それは宗教
化をしているからでしょう。カメラや写真というのはたがか道具です。その道具を神扱いしたり宗教化した
りするのは、そもそもそういう性質をお持ちの人であるというしか他に言いようがありません。
人間は必ずしも諸道具の長(おさ)ではなくて、それどころか自身が道具であるという考え方は、近代的な
考え方ではなくて古代の奴隷制時代の考え方であるわけです。本当を言うとそういう考え方の人達が世
の中の半分は占めているというのが事実だったりします。
それはさておいて、私としてはカメラは道具としてみているので、いかに安全に上手く使ってやろうかと
常に考えています。手持ちのオリンパスE-30は液晶が物理的に壊れていて細かな設定ができません。
だいたいメディアのフォーマットすらできないのですが、不便とは言っても使えないわけではありません。
またスイッチの不良で良い按配で止めないと直ぐに切れたりしますがそれも慣れれば問題がありません。
E-510はなんと記録画像が縦になったり横になったり不安定なんですが、それでもこういうもんだと思えば
使えるものです。物に道具に完璧製を求めるべきではないと考えれば、道具とはこんなもので可愛いじゃ
ないかというわけです。
次第に壊れていくのが機械や道具でありカメラだったりします。道具を神格化しすぎて不十分なのはけし
からん、というのは道具への奴隷化の裏返しだったりするわけです。
道具を神格化していって、最後にたどりつくのか写真やカメラへの宗教化であり信仰です。私はそういう
道をとらないのでカメラは道具として扱ってます。きちんと道具としてみていくと中々、カメラというものは
面白いものです。買ったものの捨て置いていたカメラを取り出して動かしているわけですが、きちんと道具
として動いてくれる様は、本当にいいものだなって感じております。
※写真はありふれた道路の橋ですが、英語で表記されているのは初めてみました。石地像とならんで
必ず撮るのが橋の表記です。