そして...誰も住めなくなってしまった。
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カメラ:LUMIX GH2
レンズ:LUMIX G VARIO F4 7-14 ASPH
ソフト:ADOBE PHOTOSHOP LIGHTROOM 3
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この撮影地・・・もしかして福島ですか?
半径20キロ県内は封鎖されて入れないんですよね。
(入ろうと思えばバイクならば可能でしょう)
その外に、計画的避難区域、緊急時避難準備区域
・・・等々。
私が東北の近くに住んでいれば、きっと撮影に足しげく
通うんでしょうなあ。しかし放射能は怖いんだけどね。
フクシマ3.11以前からチェルノブイリの写真には興味が
あって、それで多少なりとも原発災害に予備知識があり、
それで震災の時には、津波なんかどうでもよくて一番に
福島原発のことが気になっていました。
・・・それで震災後は100冊くらいの著作を読みました。
週刊誌の記事もファイルブックに。多少なりとも知って
見ると愕然とすることばかり。それから今の日本という国
がよく分かりましたよ。
流石に此方から東北まで行くだけの時間は取れないので、
それで此方はこちらの原発の撮影に行くことにしました。
まず伊方原発、島根原発、そして予定地の山口県上関
原発予定地。
自分の眼で見て、さらに写真に撮って考えてみようって
いう私なりのやり方です。行って見るとやはり得るものが
ありますね。百聞は一見にしかず、です。
写真趣味の人達なんて、こういう社会的な関心なんて、
ぜんぜんないだろうって思いますよ。無論そうでない人も
いるんですが、ごく僅かです。
趣味の写真を、ただ単に画像依存症的な時間つぶしに
しないで、ご自分の考え方、生き方の一助にできれば
いいですよね。
嫁の実家は福島原発の近くです。
3.11で半壊しその後の余震がボディーブローのようにきいて
4月の大余震でノックダウン(全壊)してしまいました。
後輩二人の実家(石巻市、陸前高田市)が津波に襲われ
ふたりとも両親を亡くしてしまいました。
被災地には復興支援で何度か足を運びました。
リュックにカメラは入れてはありましたが、
一度もカメラを取り出すことはありませんでした。
夏過ぎて復興支援コンサートに行った時に
はじめてシャッターをきる気がおきました。
この写真は福島ではありません。
写真というのはあまりにも身近であり過ぎると撮れない
ものなんですね。特に身近に不幸があると尚更に撮れ
ない。
私が原発に撮影に行けたのも、かの地からは100キロ
以上離れているから、半分他人事だから、撮れるんです。
写真というのは、そう考えると自分の撮れないものは
他人に撮って貰う。他人が撮れないものは自分が撮る
という具合に、交換性があるのだと言えそうです。
交換の経済人類学とでも言うそうな属性が、本来写真
にはあるのだと言えるのでしょう。
これは写真の本質的な問題なので、よくよく考えるべき
事柄だと私は考えています。
プロのカメラマンは死々累々たる戦場でシャッターを
切れるんですが、それはあくまで第三者の立場だから
出来るんでしょう。
同時に、自分の撮ったものが報道として記録として、
多くの人々に見てもらえるという使命感で、自らの命を
かけながら且つ職業として成り立っているわけです。
そういうプロフェッショナルなカメラマンが写真を撮って
くれなければ、我々はこの世の中の動きがぜんぜん
分からなくなってくるわけです。
それではいけないのです。
震災の大津波の下で、テレビや新聞では見えないので
すが、何万人と言う方が命を亡くしました。しかしその
遺体はマスコミで見ることはできません。無理もない話
しで家庭のお茶の間に流れてしまうと我々は茫然自失、
言葉を失ってしまいますから。
週刊誌には少しは遺体写真が出ましたが、原則として
自主報道規制が敷かれているということでしょう。
しかし、現実として震災では多くのリアルな不幸があり、
さらに原発では、あまりにも真実が明らかにされずに
来てしまっているのですね。
それは今も続いています。
特に震災と原発事故とは全く別に考えるべきだと考えて
いるのですが、例えば震災は数十年経てば忘れることが
できます。しかし原発事故は数十年経っても終わらない
のです。数百年経ってもそうかも知れないのです。
人間の想像を遥かに超えた不幸がそこにあるということ。
原発大事故は何も福島だけではなく、全ての原発地で
起こり得ることであり、明日は我が身ということである
わけです。
ことフクシマに関しては、プロ・アマを問わず多くの写真家
が今後とも長期間訪れてルポルタージュをして欲しいと
願っています。
けしてフクシマの不幸を忘れないために、そして全世界
から全ての原子核の惨事を葬るために。そして人類の
正義の為にも。