Capture Oneソフトウェア 作例

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最近読んだ本。『半導体有事』 湯之上隆著 文春新書刊 帯には・・・米中戦争の引き金になる。アメリカが中国に突きつけた半導体規制  狙われているのは世界トップ企業台湾TSMC 日本は再び失敗を繰り返すのか。 ラピダス「2027年までに2ナノを作る」なんてできっこない。 ネット参考: 「衆議院 2021年06月01日 科学技術特別委員会 #04 湯之上隆(参考人 微細加工研究所所長)」 https://www.youtube.com/watch?v=iCbyGzxFPWE なかなかに面白い本です。興味深いのはラピダスは絶対に失敗すると言い切っているところです。 それでラピダスの設立日で占うと、2022年8月10日ですが法人の占いなので厳密ではなく、また 時刻もわかりません。しかしその太陽は土星と火星・天王星と凶角のT字スクゥエアとなり、非常に 厳しいアスペクトとなっています。 簡単に言うとこの企業が成功する確率は限りなくゼロに近いですね。だいたい企業経営で、国が しゃしゃり出てきて(税金を投入するプランで)過去に成功した験しがありませんから。 このラピダスのチャートを見て思い出したのが、ファイーウェイです。1987年9月15日。国家よりも 共産党の権威と権力が強い国なので占いの信頼は低くなるのですが、太陽は火星・金星と月、 そして土星・天王星とT字スクウェアとなっています。金星と月という吉星が混じっているので一時 の成功はありましたが今や完全に米国に狙い撃ちされていますね。 そして参考になるのが台湾のTSMC。1987年2月21日。これはなかなか良いです。凶星が見られず 月は木星と吉。そして創業者のモリス・チャン、また任正非(ファーウェイ)も調べることができました。 これは創業者と自ら創業した会社との相性を見るためです。当然によろしいです。 残念ながらラピダスの社長の小池淳義氏のデータがわかりませんでした。顔写真を見ると派手な 感じの人のようです。世渡りも上手そうな感じも。もちろん小池氏は自らラピダスを創業したわけでは ありせんね。 それにしてもラピダスという名は、エルピーダとルネサスの愛の子のような名前です。誰が付けた のでしょう?電通でしょうか。(笑) ネット動画で著作者の湯之上隆氏を見ると、率直な感じの人で、いかにも元日立出身というイメージ がして好感がもてました。 こんな感じで、西洋占星術は人だけでなく企業などの法人も占うことができます。それを利用して 株式投資をされている人もいるんじゃないですかね。

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風景板で・・・ https://photoxp.jp/pictures/223703 "コンラストの効いた写真もいいが今はフラットな写真に好感を持つと・・・" いう下りは興味深い ですね。 これは、そもそもデジタル写真画像というのは、各ユーザーの使っているPCやモニターの影響を 強く受けるわけです。 私が画像処理に使っているPCは輝度もコントラストも発色も強いので(EIZO)、そのままのデータ では、画像が眠く浅い色の画像になるんですね。しかしそれをそのままネットに投稿したのでは、 皆さんが使う一般的なPCモニターでは見難くかろう、というのでコントラストを少し強くしています。 そういうサービス精神が良いのかどうかは微妙なところですけどね。(^^ゞ  ネット情報というのは広く浅く、そして素早く、というのが長所でして、それをきっかけにして、私の 場合だと本という著作に行きます。本当に頭に入るのはやはり活字ですね。そして写真にしても ネットのモニター画像ではなく、写真集などの紙媒体の写真がいいわけです。と言いますか写真 文化の発表の場は、プリント写真(展示会)であり、写真集という出版物が本当のものです。 それで写真評論をしようと思えば膨大な出版物をコレクションしなければならずで、もしくは公共 の図書館の利用ということになりますかね。 そんな面倒くさいことは私にはできないので、私の場合、写真と言えば人様の撮った写真の評論 なんかではなく、あくまでも実際に自分が撮影に出かけて、それから得られる様々なことが写真と いう、私が考えるところの総体的な意味での写真趣味ということになります。 下調べて知って出かけても、実際には其処はつまらなくて、しかしその途中で見た光景に魅せら れて、そっちの方に撮影に夢中になるということは良くあることです。撮影にでかけても撮影よりも 地元の方と話すほうが面白かったりもするわけです。私は撮影にでかけて見ず知らずの人とよく 話し込みますね。そういう場合にこちらが大型のカメラを持っているということが身分証明になる のかなって感じてもいます。 誤解を受けるかも知れませんが、私はインターネット情報は信用していません。しかし参考には なるので利用しているということですね。とくにネットで、モニターで見て勉強ができる、知見が広め られるなんて全く思っていません。それどころか、ネットは逆に人間をダメにしかねないと考えています。 子供たちにスマホを与えて学力が落ちてしまった、子供の成長を阻害してしまったというのは本当 にあることです。PCでのネットはスマホに比べればまだマトモですかね。画面が大きいだけに。 世の中には経済的時間的な諸般の事情で実際に写真撮影ができない方が多くおられます。 私にしても20歳代後半から50歳代半ばまでは写真とは無縁でした。そんな余裕はなかったです からね。それで写真趣味は学生時代か、歳をくってからの趣味というのが相場だろうと思いますよ。 若い時期はしっかり仕事をして稼いで家族を養う。仕事をすることで学び社会に貢献できることが 本命だろうということです。 最近思うに、今の比較的若い人、就職氷河期以降の世代の人達は、仕事に邁進するチャンスに なかなか恵まれていなかったという場合があるんではないかということですね。女性の場合はそう は感じませんが、男性の場合は自分の仕事に阻害感があるような人が多くいそうな気がしてます。 もちろん優秀な人は別なんんですが、普通はそういう人ばかりではありませんからね。そういう意味で ちょっと不幸な時代が続いていたなという気がしてます。 まあ、これからはそういう時代も変わってくるのじゃないかなって期待感がありますげとね。

雑

昔のデジカメは画素数が少なかったですね。最近のカメラは通常が2000万画素であって、昔の数 百万画素という時代は遥か遠くになりました。 新聞記事で知りましたが、最近の若いZ世代の若者が、古いコンデジに興味を示しているというのが ありました。中古なので極めて安いというのもあります。 これはつまり端的に言って画素数の違いのことです。コンデジの味わいがどうのと記事にはありまし たが、本当はそうではなくて、最近の多画素カメラ(スマホも含む)に違和感を感じているということの 裏返しの現象だろうということですね。 写真というのは趣味としても、と言いますか、その情報量というのは想像以上に大きくて、脳内ストレス が大きくかかります。20歳代の直感の優れた若い人は、趣味写真としては画素数の少ない古いタイプ のコンデジが良いのではないか?というところかも知れません。 参考までにいうと、文章というのはPCデータでもごく小さいのですけど、脳内に於いても同様であって その処理量というのは高が知れています。文章を頭に思い浮かべて字を打つという作業は、写真の 画像データを見て処理ずることに比べれば、ほんとにさほどのことはなくて要するに頭を酷使しないの です。脳のストレスが小さいんですね。 写真は特に画素数が多いとか、画質が優れている(例えばRAWデータ)という場合に、はさらにストレス が掛かるようです。それで可能な限りスマホのように自動処理をするのが脳にはよいわけですが、 しかし写真には画像画質を見て楽しむというところがあるわけで、なかなか写真趣味というのは一筋縄 ではいきません。 私はRAW撮影をしていますが可能な限り、画像処理はしないというスタンスをとっています。そして 撮影量は、1回の撮影では多い方だとと思いますが、PCで見る画像はとことん少なくして、要するに モニターで見る写真を少なくしていくというやり方になっていきましたね。 フルサイズ2000万画素というのが、これが出現する時期において盛んに言われていたことですが、 135フィルムのリバーサルタイプの画質に相当するとことだったと記憶します。その最初のカメラが ソニーアルファ900だったかな?記憶はさだかではありませんけど。 当時は一千数百万画素のカメラが通常でしたので2000万画素というのはエポックメイキングだったと 思います。私も当初、このA900を手に入れたのですが、そのあまりにもの多画素の画質に恐れをなし、 A900はあまり使わずにもっばら使ったのは1000万画素余のクラスのカメラでした。例えば二コンD700 とか。 現在ではフルサイズ2000万画素クラスを私も多用していますが、それでも4000~5000万画素の カメラはあまり使わずにいます。もしそういうカメラを使ったとしても2000万画素カメラと同様に扱うこと にしています。高ピクセルの画質を強く見つめるということはしません。 そして一番使いやすいと感じるのが1000万余のカメラ、1000~1500万画素クラスのカメラだということ です。だいたい、そこらあたりがフィルム時代で言えば通常のネガフィルム相当なんですね。 フィルム時代でも中判カメラとなりますと、それはもちろん現在のデジタルで言えば24000万画素以上の 画質となりますが、フィルム時代でしたからその撮影量はたかが知れていました。 現在では2000万画素オーバーの多画素高画質のデジタル写真が無限に撮れるという時代であって、 それは人間の脳内処理能力の限界を超えているということなんです。したがって無理やり時代に合わせ ようとすると脳内ストレスも無限になるということ。ですかね。 自分は撮影しなくて、ネット上に上げられた他者が撮った写真を評論するという御仁がおられましたが そういう人は本当の写真の現場を知りません。ネットに上げられた写真は、撮影者が画像処理をして 画素数を小さくした写真でしかなく、わざわざ閲覧者の為に見やすくした画像なんですね。 それだけを見て自分は写真評論ができると思うのは大きな勘違となります。スマホで写真を撮る場合も 同じです。スマホが画像処理からデータ量まで全て自動でやってくれるので、これもまた写真の実際の ところを知らないで済ませられます。 ネット上で流布されているものは画像であれ文字であれ、それにはすべて加工済みなんです。食べ物 で言えば加工食品ですかね。ソーセージを食って生の豚肉を想像できるのか、ということです。 RAWデータを直に見ることのできるRAW現像ソフトで見ますと、それが投稿用にJPEGとして画素数も 落とした画像などは本当に別物だということがわかります。 そして文字であっても、私の場合もそうですが全て加工済みであってリアルなことは書かれていないと いうことです。投後者名kusanagiと言う架空の人物を作り上げているということであって、これにも気が 付かない人がいます。kusanagiという人物がこの世に本当に存在すると思っている人がいます。それ には驚いてしまいます。 要はネットに於いてはリアルな写真も文字も何も存在しないということです。それを本当のことのように して見るのは、例えば小説を読んで夢中になり、あたかもその小説に書かれていることが本当のことの ように考えることと同じであるわけです。 私がつくづくネットや掲示板でみて思うに、今の人たちは物事を知らなさすぎて、生産者ではなく消費者 の立場でして物事を感じていないということです。つまり加工食品しか知らない人ばかりです。もちろん そういう人ではない優秀な人もおられますが、ほんとうに極わずかです。 人様から与えられた低品質のものしか知らないし、また体験したことがない。そういう人も一方で職業で は生産者の立場にいるわけですが、最近の生産現場というのは詳細に分断されていて各人はマニュ アルによって細部化され、そこで働く人は本当の意味での生産というものを知りません。そして営業職に おいてもコンビニ店員のようなセールストークしか知りませんね。 偶然に最近知った50歳くらいの若い人(私からすれば)の仕事能力の無さには驚きを通り越しました。 物事を知らなさ過ぎる。自分で思考することができない。それでいてプライドだけはあるという具合。 おそらく、50歳前後の世代の特有な現象かもしれません。しかも男性に限りです。(この世代の女性は 優秀です) 氷河期世代といわれる世代の最初の年齢かもしれませんね。 色んな世代論がありますけど、時代の変革期に青少年期を過ごした場合、心の形成があやういところ があるのかもしれません。 話を元に戻しますすと、デジタル写真には2000万画素の壁、というものが存在します。もっと突き詰める と1000万画素の壁だと、と言ってもよいでしょう。 1000万~2000万画素までが我々が応用できる写真画像なのであって、それも無限に撮られた写真では なく厳選された少数の写真であるということです。 数百ショット撮った写真でも実際に処理するのは数ショットくらいにしないといけない。 実際にリアルに自分でカメラを持ち、実際に撮影にでかけて写真をやってみると、そういうことが身に沁み て分かるということです。そういう写真のリアルな生産現場というものが、実際に行う写真趣味の現場にも あるということです。 それでカメラの画素数や画質が上がるにつれて掲示板の投稿は少なくなるはずです。かつての数百万 画素時代のようにはいきません。そして実際に撮影者自身も撮影量が減るはずです。 久しぶりにKazさんがキヤノン板で投稿されましたが、彼のように休みやすみをしながら撮影も投稿もやっ ていくというのが順当です。 私においては、写真は撮影運動という展開をしています。写真においては画像はもう関係がない、撮影 という身体運動にこそ意味があるという立場をとっています。頑なに画像こそが写真だと思い込んでいる 人には肩透かしであるわけですけど、時代と共に写真の意味も変わります。 私は比較的長文といわれるものを書くわけですけど、これにも意味があります。文章を書くには思考を 伴います。長分はその思考の訓練になるわけですね。思考は人が生きていくには欠かせないものです けど最近は思考をしなくても生きていける時代です。 昔の写真には実は思考が隠されていました。写真を見て多くの考えが浮かび頭を巡らせて見るのが 写真でしたが、今の写真は感じるということだけになっています。 その失われた写真思考をコメントとして書くということなんだろうということですかね。これもまた時代と ともに写真の形態は変わるものだということです。 時代に合わせて写真も物事も変化します。その変化に気づき、時代についていくということが大切です。 昔の写真にはジャーリステックな写真が多かったですね。しかし現在では写真趣味という個人的な分野 では、社会的な視点は失われて写真は個人的で美意識なものだけになっています。これは社会的には 劣化現象のひとつであるわけでずか多くの人たちはそのことに気が付いていません。 社会と接点が失われて自分や同趣味の人の間だけの狭いものになっています。それを打破する為にも コメント欄は大事かなって考えます。 文を書くにはコツがあります。できるだけ一文(句読点で区切る)を短くすることです。一文を長くしない ことです。そうすると不得意な文語体ではなく慣れた口語体に近づきますね。多くの人は本などの文語体 には慣れていません。しかし話し言葉(口語体)には慣れているでしょう。その短い口語体に近い文を数 多く並べることで結果として長文になります。 流麗な文章は必要ありません。短文を多く羅列することで意味はちゃんと通じるのです。可能な限り 一文は短くする。これが文章を書くコツです。私の書く文はだいたいそれです。 大事なのは自分は何を言いたいのか。書きたいのか、ということです。これは話し言葉での対話におい ても大事なことです。何を言いたいのか分からない話し方をする人も偶にいますが、常に自分が伝えたい ことを頭の中に置いておくことが大事です。 もっと大切なのは、自分が世間や物事のなかで、日頃発見すること、気づくことがあるのかないのか、 ということです。これがなければ、そもそも自分の中に考えそのものが浮かびません。 誰かに何かを言われて、その反応として自分はこう思う、こう感じるということを言う人は多いです。 しかしそれは思考ではないと知るべしです。単なる生化学的化学反応でしかありません。他人に何かを 言われて反応するのではなく、自分からゼロから発信をすべきなんですね。それが本当の思考力です。 こういうフォロアーな人が多すぎる時代になりました。人々が思考しなくなった時代なんでしょう。 多くの人々が自分で考えなくなった時代というのは極めて危ないです。これは本当で、先の大戦の前夜 がそういう時代でした。そういう時代には大量殺戮が始るのです。これは時代の一種の間引き現象と いうものでしょう。自分が間引かれる立場に置かれているのかどうか、よくよく考える必要があります。 私は写真画像そのものはあまり好きではないのかもしれません。デジタルになって益々そう感じること が多いですね。それよりも画像を生成するカメラやレンズという機械に関心があるほうですし、何よりも 撮影は楽しいです。撮影だけして後で画像をPCで全く見ないこともかなりあります。 私の写真撮影は写真画像の獲得を目的としていない。そういう具合にも言えますね。これは写真の否定 なのかどうか。必ずしもそうとは言えないと思います。 逆に考えると画像獲得に躍起になって、撮影時に被写体の観察が疎かになる場合も多いからです。 それこそが写真における大きな本末転倒という気がしてます。 他人が驚くような良い写真をゲットしよう。そればかり考えて写真撮影本来の楽しみをスポイルしている 人が多いのではないかと考えるからです。 ともかく自分が長く楽しめるやり方でないと写真は長続きしません。そういう自分流の写真のやり方を 自分で発見しないといけませんね。 写真なんて面倒な趣味を止めてしまってスッキリするという手もありますが、結局は他のコンシューマー 的な、誰かから与えられたものしかできないというのが大体の落ちです。 こちには最近、撮影はあまりできていません。本もあまり読めていませんね。 意欲が出なければ休むというのも大事で、無理やり撮影に出かけていってもよいことはありません。 そういえば、本と言えばちょっと面白かったのが、 「ラザルス」ジェフ・ホワイト著 草思社刊。 世界最強と呼ばれている北朝鮮のハッカーグループのドキュメンタリーです。コンピューターやネット、 金融の知識が多少要りますが、なかなか面白いです。現在の時代とはこういう時代なのだということが よく分かる本となっています。

雑

極まれにですが、中古でレンズを購入して、この胴体の文字が擦れてしまっている物があります。 確かによく使われているレンズではあるんですが、文字が消えるほどの摺れはあるものの、レンズ 自体にはさほどの劣化は見られません。 これはどういうことなのかと誰もが不思議に思われるのですが、私の達した結論とはこういうものです。 つまり、とりわけ左利きの人間がレンズ鏡胴を常に持って撮影に及んでいるということです。 普通は右手でカメラのグリップを持つわけですけど左手も強い場合は、レンズを左手で鷲掴みをする のではないかということです。 それで試しに左手でカメラのレンズを持ちますと、消えている字の部分がちょうど指と合います。 カメラを常に手に持ったまま撮影に及ぶというのは、それは私と同じですが、私の場合はやはり右手 でカメラ自体を持つ時間が長いです。そして疲れれば左手でも持つわけですが、その場合にレンズ ではなく、バッテリーグリップを装着していますからそこを持つわけです。レンズ自体を掴むこともあり ますけどそんなに長時間は持ちません。 ともあれ不思議なレンズもあるものだということですね。そういうレンズは使う頻度が高い標準ズームに 多いです。また標準ズームレンズは掴むにはちょうどよい大きさです。 こういう話をするのは、私と同様に撮影の歩き中、ずっと手に持ったままのカメラマンが、私以外にも いるということ。それを現物でもって知ったということですね。 左利きの人でなくとも長く右手でカメラを持つことは難しいですから、左手でも持ちたくなる。私はそう いう場合を想定してカメラには必ずグリップを追加しているのですが、グリップを着けていない場合は 必然的にレンズ部を持つことになるのか、ということでしょう。 写真撮影は、歩くという以前に、まずカメラを持つ、ということから始ります。そしてカメラを持つという こと自体で、数あるカメラの中で最も持つ事にこだわったカメラが光学一眼レフです。 どのデジイチも立派なグリップをもっているのですが、それはカメラの中では一番重いからですね。 小型のカメラの中にはグリップ部がないカメラもあります。そういうカメラは手に持つという実用性では なくて、ファッショナブルに机に置いた状態のスタイルを重視するからでしょうか。M型ライカなどの スタイルはそうです。しかし結構重いカメラなので後付けグリップを着けている人は多いです。 カメラにグリップ部が大きく出来始めたのはカメラが大型化したAF一眼レフカメラからです。それ以前の 一眼レフは小型でしたのでグリップ部はなかったですから。 この大きなグリップによって、撮影の瞬間だけでなくそれ以外の歩きの時でもカメラを手に持ったまま、 ということが可能になりました。それでも最も撮影しやすいカメラはデジイチとなったわけです。 それを受け継いだミラーレスカメラにも当然に立派なグリップがありますね。デザイナーはこのグリップ を取り除きたいという気持ちがあるようですが、現実にはユーザーの要望により、立派なグリップが 無くなることはありません。ミラーレスのソニーアルファも当初のモデルは控え目なグリップでしたが 次第に立派なグリップになっています。 カメラの中には縦横の両方のグリップが最初から備わっているモデルがあります。プロ機と言われる カメラですが、やはり長時間左手でカメラを持つには、後付けグリップのタイプがよろしいようです。 確実に左手の指でカメラを持つことが可能です。そうは言っても後付けなのでネジが緩むことがまま あり注意が必要です。 グリップと並んでカメラに大事なのは、ストラップなんですね。私も常にカメラを手に持ったまま、という ことはなくて両手を使いたい場合はカメラを肩に掛けます。ストラップは無くてはならないものです。 しかし常はストラップはブラブラしていますので邪魔だってことになるわけですが、実はこのブラブラの ストラップが、私はカメラを持っていますよっていう他人の目には無言のしるしになるんですね。無用な 時が多いのたけどやはり意味があるということ。 私はストラップは短くしています。長いと何かに引っかかってしまいますので。それでカメラを落とした こともあります。 アクセサリーとして後付けグリップ、そしてストラップを書きましたが、もうひとつ大事なのがレンズの フードです。私はフードを必ず着けます。フードの意味は余計な光を除くことですが、他にも・・・ 人混みの込み入った場合には、フードが緩衝材になって他者を傷つけることを防ぐ役割。そしてショット 時に自分の指が写り込むことを防ぐという役目も。 そしてストラップと同様に、カメラを大きく見せられるので、私はカメラをもっていますよというシグナル にもなるのです。ですから逆付けしたままのフードではいけません。 こういう具合に所持しているカメラを大きく見せることが大事となります。小型カメラで盗み撮りなんかは しませんよっていう意味を持たせられるからです。100メートル先からでもカメラを持った人が来るのが 分かるっていうのが、私のカメラの使い方です。 それは何よりも自分の写真趣味に自信を持っているからだろうと言えます。卑屈な写真は撮らないと いうことです。自らが発起してカメラを持ち、そして写真を撮る。撮った写真はたまにネットに投稿もする。 卑屈な心などは何一つないということを、カメラの大きさで示していこうということですかね。 というのはまるで大げさですけど、最近は写真をするのに自信がないなあっていう人が多いのですかね。 どうもそんな気がしてます。自信はないけどプライドだけと多分にある?という人もいそうです。 そういう人にとっておきのやり方が、カメラを常に手に持ったままで、そしてカメラ自体も大きく見せる ということなんだと私は考えています。そうすることで逃げも隠れもできませんよねって。コバンザメの ような卑屈なこともしないですむわけです。 私はコンデジですら自作グリップと自作フードでデジイチ並みの大きさのカメラにして撮っています。 写真というのは、物事を生産するということでは大いに意味があります。消費ではなく生産です。 生産活動として写真を捉えると、まずは初期投資として中古でいいからカメラとレンズを買う。パソコン も必要ですね。中古で十分。スマホだけでは写真はできません。写真を投稿しようと思えばネット環境も 必要ですが、スマホを持っているのならそのネットインフラを利用することも可能です。 そういう最低限の環境からでも写真はできます。カメラひとつにレンズ1本からで撮影はでき、PCで現像 もできます。アプリも必要ですがまがい物で十分。 写真を撮り画像を編集することは写真というモノの生産を開始することです。それは誰の写真でもなく 撮影をしたものの生産物です。そのモノが売れる(人気がある)かとうかは関係ないです。自分で写真 というものを作ったということ自体が大切であって、また、ネットに上げればきっとどこかの誰かがコメント をくれるでしょう。 とにかく自分で撮影から投稿までやってみる。それが大事です。 写真というものはそういうものなんです。

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このところの生成AIブームはもの凄いものがあるようですね。 考えてみますと、米国が自動車を大量生産をしだしてから自動車ブームがはじまりました。日本に 於いては戦後の高度成長時代からモータリゼーションがはじまりましたが、発展途上国や中国では 21世紀に突入してからです。 多少の時代のズレはあるんですが、人類は自動車というものを持つことによって文明が発展し、そして 人々は『歩かなくなった』というのは歴史的な現実のようです。 それと同様にAIブームはモータリゼーションに続くものだと考えてます。 人間、歩かなくなれば考えることができなくなります。 自動車に次いで人工知能が出現するというのは既定の路線だったかも知れませんね。そういえば車も 自動化AI化していて操作し考えることなく走れるようになっています。 これからは、人々が『考えなくなった』という時代のはじまりです。 これらを人類の文化の進歩と言えるのかどうか、文明の進捗と捉えることはできるかもしれませんが、 人としての人類的には、もしかして退歩であって劣化というものではないですかね。人々の幾ばくかは 私と同じくそう捉えて抵抗をこころみるだろうと思いますが、多くの人々はきっと自ら進んで劣化の道を 選ぶだろうと思われます。

無題

参考までに、 ONE・・・ https://www.one-line.com/ja/standard-page/ocean-network-express

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やはりカメラを手に持っての撮影歩きは、とても気分が良いですね。日常生活で速歩きや階段上りを したところでさしたる運動にはなりませんから。(無論、しないよりはする方がいいんですが) 半日を使って数ヶ所ほどの小山に登りました。この撮影をした所は盆地の中に飛び出た小山の頂上 ですが、その周囲を巡る山の中で最大の山(メサ型)が背後に写っています。標高600メートル。左が 大麻山で右が象頭山。二つの名前があってもひとつの山なんですけどね。 それで日頃の速歩きのせいか、わりと楽に登れました。メサ型の山は高松市の屋島が有名ですか、 数多くある溜池と並んで香川の隠れた観光資源となりうるものです。平均して300から600メートルの 高さがあるのですけど、頂上はほぼ平らで平地とは違う異世界を味わうことができます。もっとも最近 はイノシシの出没が多くて山歩きには注意が必要となりました。 ポンコツながら車があるので撮影には大いに利用しています。やはり車はありがたいものです。 生成AIなる人工知能も、きっと使い方次第だろうと私は考えています。

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最近はよく使うカメラはイオス5Dマーク3。これにEF28-70を着けると、とてもかっこよく見えるのか、 人様から何度もいいカメラだねって指摘を受けます。実はストラップに1D系の赤ラインのいったもの を付けているので、それがレンズの赤線とマッチングするからだろうと思ってます。またフードにも位置 決めとして赤テープを貼ってあるのも加えてよいようです。 時代的には古くなったデジタル一眼レフですが、素人さんの眼にはまだまだ高級品に見えるのかも? ということでしょうか。 最近のミラーレスカメラではなく、時代的に古いと言われる光学一眼レフを最愛するする者にとっては、 よいカメラだねって言われるのは、照れくさいながらも嬉しいものです。少数派となりつつあるデジイチ カメラですが、私はこれですっと行きたいと思ってます。

無題

「新版・運動脳」アンデシュ・ハンセン著 で学ぶことは、考えてみれば歩きとは、それは写真撮影時 だけの問題ではないわけですね。やっと遅ればせながら今それに気が付きました。(^^ゞ  撮影は良くて1・2週間に一度です。それくらいのペースですが、そんなもんでは危ういほどに、この歩き に関しての脳や身体との問題は深刻であるということです。そういうことに気が付いたということ。 そして掲示板でヘビーユーザーの投後者がやめて姿を消していった背景には、確かにVDT症候群と か電磁波問題はあるでしょう。しかし本質はそれだけでなくて、それらに本人が打ち勝てなかったという ことが何よりも本質的に挙げられるのじゃないかということです。 現代人は圧倒的に運動不足になっているとのことです。歩く歩数が少なすぎるという指摘が著作の中 で何度も書かれています。 それでここ数日、私は仕事中や日常生活で速歩きを実践しています。大またでそくさと歩く。だらだら とは歩かない。これだけで随分と違うなあって感じました。手ぶらに近い格好なのでカメラを持っての 撮影行とは違いますが、体に重さが掛からない分、速さが違います。風を切って歩くという感じ。(笑)  もう少し行くと走りになりますかね。 写真の撮影では実践できていることを日常に於いても取り入れようということです。つまりは写真に学ぶ ということでしょうか。写真は写真、日常は日常では、それは本当の写真の哲学とは申せません。写真 で学んだ良いところは全人格的に取り入れなければいけないということ。 そういうことに今、やっと気が付きました。(^^ゞ  まあ、現実的には写真撮影の時間がだんだんと少なくなってきているという事情があって、それへの 対処というところがあります。 占星術の話をすると、身体や脳のアップには、要するに運勢を向上させるには、4つの柱があり、 ①就寝時の東枕の実践、電磁波を避けることも ②食事への気遣い、栄養です ③運動と、何より歩くこと ④快適性、例えば衣服は暖かく、きつくせず柔らかくです。そして休養も それぞれ①山羊座、②蟹座、③牡羊座、④天秤座に対応しています。この4つの柱をきちんとやれて いれば運勢は自動的に向上し、健康で体力もあり続け頭も明晰になるということです。 簡単に書きましたけど、それそれ皆ひとすじ縄では行きません。私自身、何十年も実践し続けている のですけど常に新しい発見がありますね。 掲示板から遠ざかって行った人たちは、多分、写真に画像としての質とか美意識を追い求めたのでは ないですかね。そして他方で身体性への意識というか配慮が希薄になったのだと思います。 ※このカメラ、ISOがオートでないのを忘れていて、ブレ写真を大量生産してしまいました。 そして天候がよろしくなくて、こういう古いカメラはピタッと画質が決まりません。この天候が良くないと いうのは、私にとっては、湿度が高くて日射が強い状態を言います。瀬戸内によくある天気でして画質 が崩れて泣かされます。 私は美意識は求めていないのですけど画質はリアルであって欲しいと願っているのですけど、考えて みれば天候で画質が崩れるというのも、それも一種のリアルな事象なのかも知れません。

雑

「村上春樹『ノルウェイの森』のあらすじ・要約」 https://manapedia.jp/text/1360 今はもう便利なものがありますよねー。(^^ゞ これを見て、なるほどーと思いました。 まず、ノルウェイの国とは何の関係もなかったということ。ノルウェイが小説の舞台かと思っていたら そうではありませんでした。 人と人との関係なんですが、特に男女の仲は、占星術的には相性とかシナストリーというものがあり ます。それだけではなくて、自分の運勢に一致する他者を、人は無意識に求めるんですね。 この小説では、弱い方向←キヅキ・・直子・・僕・・みどり→強い方向、というのがあって、 つまり、こういう様な登場人物の構図というか基本レイアウトがありますね。 占星術では人の性格の強さ弱さというのも見ることができます。強い人というのは自身が独立して存在 しうる能力、強い性格や身体力を持っている人です。弱い人というのはその反対で他者に頼って生きる 人ですね。これは運が良いとか悪いとかとは全く別の見方です。 村上氏には、山羊座(太陽)という強い星座もありますが、双子座(月)とか魚座(ASC上昇宮=地球) とかいう弱い星座もあるんです。ボク、弱いんです。と言ってはばからないところがあるかもしれません。 現在ではこの弱さというものを前面に出して、それが多くの読者の共感を得るというのがあるようです。 占星術的には1980年代末くらいから弱さの時代が始ったというところがあって、それが今後も当分続く と思われます。(時代を大きく決める土星と天王星の会合) 村上氏は、時代を捉えるのが上手いようですね。彼が30歳のころに作家デビューをしましたが、1980頃 に、これも時代を画する土星と木星の風象宮での会合(グレイトコンジャンクション)がありました。それまで の地象宮という堅苦しい時代から、形式張らない柔らかな時代に突入したのですが、見事なまでにその 時代の空気というものを彼は嗅覚的に感じ取っているような気がします。 時代の持つ弱さを前面に出すというのは、歌手の綾香さんもそうなのかなって思います。村上氏もその 方向で成功しているという感じですかね。彼の文体は感覚的なんですかね。そして読みやすい文体だ とも聞きます。つまり弱い人でも読めて共感が得られるというような。 話を元に戻しますけど、この小説では、人と人との繋がりでもって、人は救われたり救われなかったりする ということが書かれているように思います。繋がりというかコミニケーションですかね。恋愛小説とのこと ですけど基本的に人と人との関係性を書かれているみたいです。 占星術でもやはり人と人との関係性というのは大事です。強い人が弱い人を基本的に引っぱっていったり 助けたりしているようですね。これは現実社会の成功不成功とか、また人気とか人望とも関係がなくて、 純粋に力学的な人と人との関係性があるような気がします。 村上氏にしても、おそらく彼を陰から支えているのは奥様ただろうという気はしてますね。 文中に、生と死は正反対のものではなく、生の中に死があるということをこのとき僕は実感しました。 とあります。占星術では元より生死はホロスコープの中にこそ存在していて、それは弱さ強さ、そして 人に、また時代に与えられた星という形での試錬によって決まります。オンオフというか全く別の世界の ような簡単なものではありません。 星にはラッキーな幸運の星もあり、そして凶星という試錬の星もあるのであって、実は本当の実力の星 というのは、案外に凶星でもってでしか身につかないというところがあります。つまり苦労をしなければ、 ということ。しかしそれには強い性格と強い身体が必要です。そしてまた、何といっても人と人との繋がり というものも大いに助けとなるわけです。辛い時に助けてくれる人というのは有りがたい存在ですよね。 ちなみに、人は強くあれ、と求めたのが地象宮や火象宮の時代であってそれは16世紀から20世紀まで 続きました。つなわち男性原理です。それが現在の21世紀は女性原理の、人と人との繋がりを大事に しようね、というように様変わりしています。 例えば今回のウクライナ戦争ですけど、ロシアのプーチンは古い時代の観念で強者の支配を求めたの ですが、ウクライナを支援する国家群は繋がりと助け合いで持ってロシアに対抗しています。時代の 正義としては間違いなくウクライナ側にあるのが分かります。

雑

「村上春樹は朝4時に起き、原稿用紙10枚の執筆をして、運動をする」 https://president.jp/articles/-/39770?page=2 これは前出の、「新版・運動脳」アンデシュ・ハンセン著 サンマーク出版にも書かれていました。 これに興味を喚起されて、村上春樹のホロスコープを作成してみました。 ネットで調べると生年月日は1949.1.12です。まず間違いはないでしょう。そして私の生まれ時刻の想定 とは、10時30分かな?というところ。(^^ゞ  ASCは魚座の最後になります。彼は30歳前後で小説家を目指して成功を手にしたのですが、その時刻 を想定するとASCは魚座の最後か水瓶座(両方とも初春の星座です)の最初しかなくなると思うので、 だいたいこんなものではないですかね。かなりいい加減な占いですけどね。 だいたい私は小説を読みませんので村上氏のことは全然知らんのです。急遽、ネットで情報を集めて インスタント分析しちっゃたという具合です。 そしてこの時刻の生まれだと、社会的成功運というのはびっくりするくらいの大吉星となります。 まず太陽と木星の星座が合していてしかも山羊座です。そしてハウスの10室には同様に太陽と木星が 入ります。さらにMCは射手座金星と合。あとは火星が水瓶座、金星が射手座というのも。これら全部吉星 なんです。 無論マイナス点もありますよ。11室に火星が。3室に天王星が。ですから村上文学に批判的な人もいる ようですね。 ともあれこういう強運な人間もいるんですね。彼は何をしても成功したと思います。ただまあ思うに、 こんなに恵まれていると小説家としては、その小説の内容として面白いのかな?という気はしてます。 庶民受けはするでしょうけどノーベル賞は難しいでしょう。 小説嫌いの私ですから、これを機に彼の作品を読もうか、という気は最初からありませんけどね。

雑

機器の発する電磁波障害とスクリーンを見続けることによるVDT症候群(別名ゲーム脳ですがこれは 認知症でもあるんです)のどちらが怖いかというと、もちろん両者ともに恐ろしいものです。 電磁波は主に身体にでます。無論、脳も身体のひとつですが。例えばパーキンソン病などもそれです。 心は正常ですが体の運動機能をやられますね。 そしてVDT症候群は身体というよりも直接的に脳、つまり心とか精神にでます。ですからその人の運勢 や運命を直撃するんですね。私としては電磁波よりもVDT症候群のほうがより広範囲に影響が及ぶ為、 深刻の度合いがより深刻なのではないかと感じています。 そして何事も許容範囲というかその限界を超えてしまうと元の正常な自分に戻ることができなくなって しまいます。身体でも当然それはありますが、ここでいう精神の分野でもあるわけですね。 それでこの掲示板を見ておりますとヘビーな写真ユーザーは、これ以上自分が写真をやることは危険 だと察するとスパッと写真から遠ざかるみたいです。最近では長らく米国からの投稿をされていた方が 投稿をやめました。かなり画像処理に凝っていたと思うので自分でも限界を察したのだと推察していま す。 長いあいだ夢中になっていた写真をやめるっていうのは、なかなかできないことというか、それをやる というのはよっぽど限界地が高かったのだと思います。しかし人間には決断が必要な時があるんですね。 精神というのはアプリのようなソフトウェアのように思われている方が多いと思いますが、つまりダメだっ たら入れ替えることができるような。しかし人間の脳はパソコンとは違います。生きた細胞で物理的に 精神という形を作っているわけです。精神や心を変えるということは、それまでに作られた膨大な細胞 のシナプスを作り変えるということてあって、それには大変な負荷を脳や身体に強いるのです。 それから、一言いっておきますが、写真を自ら撮らない人間は、この掲示板に投稿されている方々に とっては存在しないのと同じです。この掲示板は自分で苦労して楽しみ苦しみながら写真を続けている 人達の場です。そんなことも分からないなんて、もしかすればアラシ君は本物の馬鹿だったのか。(笑) 写真を只みるのが好きというのと、実際に自分で写真をするというのは天と地ほどの違いがあります。 それは別として、写真を続けてきて自ら限界を感じてスパッと写真をやめるなり投稿をしなくするという のは改めて偉いなあって思ってます。もちろん忙しくなって写真どころではないって止めるのは私にも ありました。写真趣味を再開できたのは時間的金銭的余裕ができてからですから。 そういうのとは違う理由で、写真を自ら限界までやってきて、それで力尽きて、写真から遠ざかるという のは、なんかカッコイイですよね。私はそういう人間をこころから尊敬しています。 ※写真はタムロンの200-500のズームレンズでの撮影ですが、画質が厳しいので200ミリ限定で撮影 したものです。200ミリだとなんとか見れる画質となります。 ※音楽に詳しいヴィター氏の投稿写真が新鮮です。私は音楽のことはからっきしですがリズムや メロディー゛か聞こえてきそうな投稿写真、これからも期待してます。(^^ゞ 

雑

シッポ座さん、このカタリの人は掲示板では有名な人なんです。80歳代でその年代の半分はいっている と思います。昔は掲示板に多くの写真を投稿されてましたね。最新機材を次々と使われていて撮影量も 多くて、言わばヘビーユーザーだった人です。当時は掲示板内でのお仲間も多かったと思います。 それが今は完全な認知症患者様になっています。もう誰も彼を相手にしていません。 彼が私にフォロアするのは、私も同様なヘビーユーザーだからでしょう。私は最機材は持ってませんが 古い機材ならば数多く所持していて、そういうヘビーユーザー同士の感覚の繋がりというのはあるのかも 知れませんね。 写真というのは、カメラ機材も同様ですが、ある意味で夢を見させてくれるものなんです。浦島太郎のカメ というか玉手箱(暗箱)というのか、現実を忘れさせてくれるようなところがあります。 しかしながら、私こそ、そのカメラなり写真というものに多くの危険性が宿っていることを指摘し続けてきた 人間はいません。写真をすることは本当は恐ろしいことなのだという、そういう論陣を少しばかり張って きたつもりです。でもそういう話が人様に通じるとは少しも思っていないというのも正直なところあるんで す。 また、カタリであろうがアラシであろうが、この掲示板に来られて何らかのコメントを発するという人は、 やはり写真が心底好きな人なのではないでしょうか。人様とのコミニュケーションが苦手な人というのは 多いです。ましてや掲示板は言葉を書き綴る能力を要求されますね。しかし写真が好きであればこの 掲示板に登場する資格というか権利はあるんではないですかね。私はそんな具合で大まかにみていま す。(^^ゞ  カメラを持って野外に出て美味い空気を吸って歩いて何でもいいから散策をする。写真というのは良いと ころが多々あります。特に家庭や仕事から解放された高齢者の人にとっては良い趣味だと思いますよ。 本当は手放しで写真の良いところばかり話せればいいんですけど中々そうはいきません。 写真というのは龍宮城のようなものですかね。乙姫様に鯛やヒラメの舞い踊り。綺麗な景色に有頂天に なって時間が過ぎるのも忘れるほどです。しかし無常にも最後は玉手箱によって現実に戻ってしまいま す。 良いことも悪いこともすべてを含めて写真であるわけですね。写真をすることは、そういう全てのものを 受け入れるということかもれません。

雑

「新版・運動脳」アンデシュ・ハンセン著 サンマーク出版から・・・  「脳の最も重要な仕事は移動すること」 基本的には移動する生物だけに脳がある。初めてこの世に脳細胞が出現したのは6億年前。 主な機能は原始的な生物の動きを制御することでした。 つまり、地上に初めて現れた脳細胞の大切な仕事は、その生物を移動させることだったのです。 人類も同じであって、最も大切な脳の仕事は動きの制御だと考えられ、今の時代でもそれは 変わらない。 そう考えれば、もし身体を動かさなかったら脳が影響を受けないはずがない。脳なくして身体は 動かせない。そして身体を動かさなければ、そのためにできている脳も機能できないのである。 「移動距離と脳の大きさは比例する」 人間の脳は身体の大きさに比べて大きい。60キロの哺乳動物の脳の容積は平均で0.2リットル。 人間は1.3~1.4リットルある。つまり人間の脳容積は他の動物の6倍もある。 ある研究チームが様々な動物の脳容積を調べてみたところ、高い持久力を有する動物、つまり 遠くまで走ることができる動物の脳は大きいことか分かった。ラットや犬も体重に比較して脳が 大きい。 これはおそらく運動によって生成されるBDNFが脳を成長させ、脳細胞の新生を加速させた結果 だと思われる。脳は身体活動によって進化し発達してきた。身体を活発に動かしていたことは 私たちが知性を手に入れた大きな要因といえるだろう。 ※BDNFとは・・・ https://www.fujingaho.jp/lifestyle/beauty-health/a34019318/keonkokeyword-bdnf-201001/ ・・・この遠くまで走れる、移動できる、歩けることが脳と深い関係があるとのことですが、これに は私にも実感があって、何ヶ月に1回くらいは一日中歩き通すことを自分に課しています。 つまりたまには極限の歩きをしなくてはいけないということ。そうすると自分の中の何かが突破で きるという気がしているんですね。 そして持久力という言葉が出てきましたが、占星術的にはこれは土星です。山羊座とも言います。 この星と星座は知能指数でいえばIQというよりもEQになりますか。本当の意味での知性や理性と いうのはこの土星山羊座になります。持久力であり耐久力であって忍耐力でもあります。 今流行の人工知能なんかとは正反対の概念でしょうかね。人類が核戦争で滅ぶことを回避する にはこういう知力というのが求められるということです。

雑

モノクローム。黒白写真専用機には、ライカM9/10モノクロームがあります。最新のものはM11M ですかね。そしてコンデジタイプのMQモノクロームもあるようです。 そういうカメラの作例をみておりますと、次第に自分の眼がモノクロになってしまって、それで改めて カラー写真をみると、今度はその神々しさに感激します。(笑) モノクロは言わば銀の世界なんで すが、それが次の金の世界を通り越して、錦の世界という最高世界に突入した感じです。 皆さんはこのカラーという錦の世界が当たり前だと思っているでしょう。しかし印刷の世界では 昔はカラー印刷はコストが掛かり決して当たり前ではありませんでした。写真の世界も昔はモノクロ 写真が普通であって、カラー写真はハレの世界(ケの日常世界に対して)のものだったわけです。 ページ数の多い本ではいまだに印刷は墨1色の印刷が多いです。雑誌はカラー印刷ですけどね。 簡単に言いますと活字世界はモノクロであり、写真などのビジュアル世界はカラーとなります。 つまり写真はカラーであるというわけですが、それを敢えて活字世界のようなモノクロにする。その 意味が現在ではどういうことを示しているのか、ビジュアル人ではなく活字人間の私にはよく分かり ません。 占星術的にはビジュアルなカラー世界は、太陽と獅子座、金星と牡牛座といった感じになります。 両者ともに10代の星であってハイティーン時代ですね。カッコ良く、美しく着飾り恋をするっていう時期 です。若いですね。(笑) そしてモノクロ時代というのは40代50代60代でしょうか。人生60年とすれば後半期も後半です。 ちなみに12星座では、 カラー世界・・・獅子座10-20歳代、牡牛座10-20歳代、牡羊座10-20歳代、射手座10-20歳代          魚座30-40歳代、天秤座30-40歳代 モノクローム世界・・・山羊座50-60歳代、蠍座40-50歳代、水瓶座20-30歳代、乙女座20-30歳代          蟹座0-10歳代(60-70歳代、双子座0-10歳代(60-70歳代 とこんなふうになります。10代から20代の星座が多いのが分かるでしょう。これは簡単で昔はその 時期に結婚をして子育てをするのが多かったからです。子孫を残す為の占星術的智恵です。時代が 変わって寿命が延びてもこの占星術のパターンは変わりません。 ともあれ、カラー時代とモノクロ時代は半々だということが分かればいいんです。世界も人生もカラー ばかりではなかったということ。人生の半分はモノクロ的にシコシコと働いて地味な時期があるんだ ということです。そう考えると写真もカラー半分でモノクロ半分なのが本当かもしれませんね。現在は カラー写真が氾濫しすぎてその有り難味が分からなくなってきています。 随分以前にこの掲示板で書いたことがあるんですが、モノクロ写真に近いものにモノトーンカラーと いうのがあります。彩度を落としてあえて地味にする写真ですね。それからアウトフォーカスを多様 することも。ひとつは被写界深度を狭くしてボケの領域を広くする。そしてもうひとつはピント面すらも シャープにしないという手法です。こういうのも写真に意識的に情報量を落として、その分想像力を 喚起するという手法ですね。現代のモノクロ写真はそういうのに近いと感じています。

雑感

新聞記事で、感情の老化が意欲減退に、という記事がありました。 それには3つの要素があって、 ①前頭葉の老化・・・思考・意欲・感情・理性をつかさどる。早くから萎縮がはじまり、神経細胞が減少。 感情も老化する。 ②脳の動脈硬化・・・コレステロール・中性脂肪が血管壁に付着し血流が悪くなる。自発性の低下。 泣き出すと止まらなくなるという感情失禁が起こる。さらには認知症へと発展。 ③セロトニンの減少。セロトニンは幸せホルモンとも言う。ドーパミンやノルアドレナリンが暴走するのを 抑える。セロトニンが減少すると意欲低下やイライラに。 対策:前頭葉の萎縮を防ぐ為には脳に刺激を与え続けること。日々の日常を意識して少し変化させる のが効果的。セロトニンは肉類、ヨーグルト、納豆などを摂取する。そして日光を浴びると活発に。 前頭葉の老化とは、要は頭は使わなければ退化する。ということだろうと思います。筋肉も使わなけれ ば萎縮するというのと同じでしょう。筋肉と脳は自助努力により鍛えれば確実に期待に応えてくれるの は、男性原理そのもののようです。食事とか栄養は女性原理のところがあって、しかし現在では男子 厨房に入らずでは済まされないところがあります。 それから脳の動脈硬化は、脳に限らず動脈硬化がでるのは要は運動不足ではないですかね。 まあ、そんなわけで写真ということで、歩き撮影をするのは極めて有効で理に適っていると思います。 しかし伏兵はいるのです。それはカメラの出す電磁波です。これは前頭葉を直撃するわけですね。 脳がもともと弱い人(頭の悪い人ではなく繊細すぎて耐久力のない人、所謂シンケイな人)は、この電磁 波に覿面にやられます。私なんぞは鈍感なタイプなので実は電磁波には強いタイプかもしれません。 しかし幼児期を自然のなかで過ごしたせいか、電磁波を感じる能力があるようです。漏洩電磁波の強い カメラは直ぐに分かります。計測機いらずですけど持ってますよ。 広い意味での電磁波の概念で言うと実はもうひとつあります。それがVDT症候群。画面やモニターや スクリーンを見続けることで発生します。ゲーム脳という言い方もしますね。これも前頭葉をやられるという 感じですかね。脳の視覚野は前頭葉だけではないのですが(後頭葉)とにかく脳をやられてしまうのです。 私はこの電磁波とVDTに両方ともやられた経験がありますのでそこら辺の人よりは詳しいと思ってます。 したがってこの2つの伏兵を遠ざけて写真をやるということが強く求められるわけです。 これらによってヘビーな写真ユーザーの相当な部分は大きな被害を受けて、それで最後には写真を やめてしまうという結論になるようです。ただ写真を捨てるだけでなく、現実に脳や身体に取り返しの つかない被害を受けている人も大勢いるはずですね。 私はこの話を2011年の大震災以降、この掲示板でずっと言い続けています。お前が認知症になった のはこうこういう原因でそうなったのだ、と丁寧に繰り返し解説してきたわけで、ズバリ図星の人にとっ ては耳の痛いことだろうと思います。 そういう他山の石を無視してはいかずで、自分だって何時そういうことになるかも知れない。だったら 気をつけようね、となってくれればいいわけです。しかし現実にはそうはなりません。なぜならば人間 というか、動物というか草食動物というのは、仲間が狼に食われても、それは自分ではなかった。 だから大丈夫だ、となる心理が働くからです。他山の石は他人の不幸。俺とは何の関係もない。 --------------------------------------- 裏街道さんの「陸前高田の記憶」に新たにコメントが付きました。S9000さんですね。 masaさんもさらに。 社会的な問題を写した写真を無視してはいけませんね。写真は半ば社会的であるからこそ、文化で あるわけです。写真の文化を絶やしてはいけないと思います。 写真に対し自分意識の美学だけではないと知っている人は長く写真を無事に続けることができるかも 知れません。きっとそうであって欲しいですね。そして自分意識だけの世界で写真をやっている人は、 写真の持つ悪魔的フォースによって身も心も蝕まれるかも知れません。気の毒ではありますがきっと そうなるでしょう。そういうような分別が起きるのがこの世の中というものではありませんか。 写真の真の面白さはそこにあります。 ----------------------------------------- 以前、デジイチでライブビュー撮影でもって、サイレント撮影(電子シャッター)が使えるカメラはないのか な?という書き込みをしましたが、・・・ありました。二コンD780です。デジイチでありながら電磁波被爆 のない電子シャッターが使えるカメラです。このカメラは現行機種なので中古でも高いです。 しかし気に留めて置いて良い名機ですね。メーカー各社はこぞって光学ファインダーのないミラーレス カメラばかりに資源を注入しておりますので、二コンでもこのD780が最後のデジタル光学一眼レフに なる可能性が高いです。二コンファンは見逃すことができないカメラだと思ってます。 ペンタックス・ケースリー・マークスリー・モノクローム。うっかり予約を入れてしまいました。何時はいる のか、そもそも手にいるのかどうかも分かりませんが。 この手のカメラは限定的な生産販売となるので、 しばらく経って中古で、という私のいつものパターンは使えません。 この専用機、そんなに期待はしていません。モノクローム専用機だからと言って、フルサイズ機ではあり ませんので、二コンやキヤノンやソニーのフルサイズ機でモノクロ化した写真と比べても負けるんじゃな いかって思ってます。 違うのは精神的なものですね。K3M3Mはモノクロ写真しか撮れないということ。贅肉を削いでいるので す。そこだけが違うのであって実際の画像を期待してはいけないと思ってますし、私も大した画像は 出てこないものと考えてます。 そしてペンタックスというのは、今は知りませんが過去のモデルは皆、漏洩電磁波が高いものばかり でした。この点も期待はできません。 技術的な利点として、普通のベイヤーカメラはカラー画像でもって写真を撮り、それをモノクロ変換して いるわけですが、K3M3MはRAWデータの最初からモノクロしかないのです。 モノクロは目に優しいです。カラー画像に比べれば、という意味で。 VDT症候群としてはやや低レベル ですむと言うこと、ですね。 ところでペンタックス、レンズは(私は)持ってません。(笑) ジャンクレンズばかりがあるのみです。

歩き写真の意味

歩くことと脳の思考は、密接に繋がっていて連携されていると私は考えています。 写真を撮りながら色々と考えが浮かぶわけですが、その殆どは今歩いている場所のことではなく、他の 雑多なことなんですね。例えば家のこととか仕事や会社のこととか、それから日々出会う人たちのこと。 そして少し前に読んだ本の内容なども。また過去の自分の体験したことや思い出なんかもです。 心配事という程ではなくとも、様々な思いが浮かんでは消え浮かんでは・・・という具合。もちろんその場 で何かの結論などとかは出ようはずがありませんが、気持ちがスッキリとするというのはあります。 それは例えば悩み事を人に話すと気分が落ち着く、というのに似ているかもしれません。「話す」ことは 「離す」ことだなんて、洒落ですかね。(^^ゞ こういうのは特に女性に多いです。 それと同じような具合で、歩きというのは自分の思考を深めるという気がしています。いや思考を回転さ せるとも言えて、それでどこかで引っ掛かりができて解決の糸口に繋がるということもあるみたいです。 もっと別な言い方をすると、胃が幾つもある咀嚼動物の胃の中の食物の変わりに、歩きは思考の咀嚼を 何度もしているとも言えますか。へんな喩えですね。 よく机上論と言いますが、歩かない動かない座業思考は単純であって、考えが浅いという気がします。 歩きの撮影で良い被写体に出会った時は、そういうもやもやは一気に失せ、今度は被写体の観察と撮影 に注力します。そういう時間のバイオリズムのような山と谷の波が歩きの撮影にはあるようですね。 そして良い被写体や光景(光線の具合など)で出くわした時はこれぞ行幸だとして、撮影をすることの幸福 を感じることができます。 私が歩きの撮影に注意を向けたのは、当初は単純に自分の健康と体力の維持だったと思いますが、 このような歩きの思考法という習慣を絶やさない為にも、歩き撮影は極めて有効だと思うようになって来 ています。 歩くことはイコール考えること。考えることもイコール歩くことじゃないかということです。 歩いているときのその場で自分の考えが纏まり何らかの結論に達することはないのですが、歩きの間は ただ脳裏に浮かぶ思考の咀嚼をするのみであって、その後に時間が経って落ち着いた時に、ふと不思議 に思考の結論が出ていたと言う具合です。 こんな具合で、歩くことと思考することはきっと不可分のことではないかと思っています。 思い起こしてみれば、私の写真は写真を始めた時から歩いていました。二十歳の頃の私と今の私は変 わっていないようです。どうやら私には遊行癖があるのかもしれません。 脳科学なんかでよく言われるのは、睡眠時に日中に起こった記憶を定着させるという仕組みがあるとい うことなんですが(それが夢なんかで出現する)、歩くときにでる思考は一種の夢遊の様な状態なのかも 知れませんね。ほんとかしら。(笑) 写真と「歩きの科学」は何の関係もないことなんですが、そもそも写真をすることは趣味であって自分には 直接には何の利益もないことです。しかし歩きは健康によいし体力も維持でき、そして脳にもよいとなると これは見逃すことはできません。写真は役に立たないけど歩きは役に立つ。そして利益を生む。 写真やカメラにかけた投資とは、歩きの科学の実益となって返ってくる。そういうことではないですかね。 そういうのは多くの人が、仕事や日常の環境から離れて、レジャーとして大自然の中で日頃のストレスを 発散させるという発想とそんなに違うものではありませんね。昔と違い、現代では年から年中働くという ことはできなくなっています。それは昔と今の生活や仕事の環境が違うからでしょう。都会の住環境は 不自然になっているというか、特に職場環境はそうです。仕事の内容も人間的ではないように思います ね。それで多くの人たちは休日に自然に入って本来の人間性を取り戻すということだと思います。 しかしもっと直接的に言えば、歩くことは現金な(ストレートな)効果があると思ってます。ストレスとかでは なくてストレートですよ。(笑) この効力を簡単に得られるのが歩きの写真だ、というわけですね。 以下、私の歩き写真は、こうです。 歩きの写真とは、一箇所に留まっての撮影はしないということです。常に歩いているということです。常に カメラを手にして肩掛けなんかもしないということです。 ですから普通の撮影とは違いますね。機材も異なります。三脚は使いません。カメラには縦横のグリップ が必須です。ストラップはもしもの場合に必要なので着けますが無くてもいいんです。(必要な場合は小型 バックに入れられるから) かなりストイックな撮影だと思ってます。常にむき出しのカメラは傷だらけになります。たまには落とすこ ともあります。歩きには岩場もあり山道も藪分けもあります。そういう時でもカメラは手に持ったままです。 右手に持ち左手に持ちを繰り返します。そして当たり前ですけど撮影行はひとりです。 基本的に写真趣味は、脳の刺激になってよいわけです。脳の前頭葉は刺激しなければ衰えます。新しい 刺激を常に欲しているわけですね。 それで車や自転車に乗って走るだけで脳には刺激となるようです。最近は自転車や自動二輪が流行で すけど、これも仕事環境が昔と違い、PC前での作業など単調になっているからこその時代変化でしょう。 目前の光景が移り変わる、ということでは車でも歩きでも同じかも知れませんが、刺激の密度としては やはり歩きに勝るものはないと思います。 私の場合、新型コロナ流行から近場の撮影ばかりになっています。光景の変化としてはやや退屈感を 感じているところなので、そろそろ県外に出ても良いかなって思ってます。そうは言うもののなかなか時間 が取れないのが悩みです。それと大中古になったマイカーも不安ですね。そろそろ買い換えんといかんの ですが、妙に愛着が涌いてしまって買い換えられません。(笑)

反旗を翻したモノクロカメラ

写真を「清貧の思想」として捉えるのも面白いなって考えてます。 一汁一菜のような質素な写真をやりたいなって。(^^ゞ  ペッタックスから本当にモノクローム専用カメラが出たとは返す返す驚きです。 「PENTAXとライカから「モノクロ専用カメラ」が相次いで登場! 今後の展開はどうなる?」 https://kakakumag.com/camera/?id=19457 私としては別段に白黒写真が好きで、写真において特別に意味があるとは思っていません。しかし こういう特殊なカメラがユーザーの志向から出てきて、それをメーカーが実際に作るようになったという 時代の変化に感銘を受けているということです。 そこに横たわっているのは写真における清貧の思想というものでしょうか。この20年間、デジタル写真は 高性能化、高機能化でやってきました。これでもか、これでもかという具合で、新型機が登場するごとに、 多機能な機能を満載し、かつ性能の向上が著しいですね。 それをモノクロ専用機は切って捨てているかのようです。 モノクロ写真は、現在のデジタルカメラでは画像選択のひとつとして搭載されていて、無論ソフトとしても 簡単にできます。写真のひとつのバライティとしてのモノクロ写真が組み込まれているわけですけど、 専用機は真っ向からそれに反旗を翻しているかのように見えます。 モノクロ専用機に近い感覚のものが、オールドレンズを使うとか、意識して不便なMFレンズを敢えて使う とかいうのに似ていると思っています。これはユーザーの、というより撮影者、カメラマンの復権であると 思っていますが、モノクロ専用機はさらに過激です。 カラー写真の文化を切り捨てているんですね。時代が一気に半世紀以上遡ったような感覚におそわれ ます。60年代70年代初頭の、メカニカルカメラで黒白フィルムを使う、という時代錯誤感が、そこにはあり ます。 私はその頃に写真を始めましたのでモノクロ写真には親しんでいたわけですが、確かに今思っても 撮影の充実感は昔のカメラの方がありました。今のカメラはカメラが勝手に撮影しているという感覚が 強いですからね。カメラがかって主人の意に反して多量の画像を生産しているという風な。 こういうのは、便利な機能を捨て敢えて、手動露出を使う、ピントはAFではなく手動でいく。またさらに言え ばモータードライブを捨て手巻きチャージで行く。・・・この機能のカメラはまだ発売されていませんが、 レリーズボタン後に自動でモーターチャージされる機能を、手動化(もしくは選択的に)することで可能で す・・・この機能搭載でデジイチの顔面の電磁波被爆を事実上避けられるようになります。 そういう、現在のカメラの飽食性を否定するようような、撮影者側からの主体感のあるカメラがこれから 登場するような気にさせますね。リコーペンタックスがどれほど意識してモノクロカメラを出したのかは 分かりませんが、私としてはシャッターチャージボタン(チャージレバー)を持つデジイチを出して欲しい なって思ってます。(^^ゞ  カメラからモータードライブを捨て手巻きチャージで行くというのは、顔面電磁波被爆を避けるだけでなく 撮り過ぎるデジタル写真を精鋭化することにも繋がります。飽食のデジタル写真を清貧化させるということ にもなるのです。 ・・・ふつふつと書きつつも、ペンタックスがモノクロカメラを出したのは単にライカが出していたから。という のに過ぎないと思ってます。マイナーだけど流行になりそうだから。(笑) ライカは自社の哲学性でもってモノクロを出したんですが、ペンタは物真似でしょう。本当のところは。 でもペンタはミラーレスには行かず光学一眼で行くのだ、というのは哲学があるからでしょう。そこのとこ ろは大きく評価したいですね。 そしてペンタのモノクロはモクマネだとしても、安価でユーザーに提供するというのは大変立派です。

情報としての写真・社会的な情報を

アップの写真と引きの写真。奇抜構図の写真と見たまんまの自然な写真。厚化粧の写真と薄化粧の 写真。誰もが知ってる有名どころの写真と敢えての無名場所の写真。自分表現の表に出した写真と 自分は控え目でむしろ社会性を帯びた記録的な写真。 等々、写真は様々ですけど、私としては写真は自然で無私の写真が良いなって感じてます。 私自身も出来る限り誰が見ても自然で奥ゆかしい写真にしたいなあって常に思ってますし。 結局のところ、写真は情報量の勝負というところがあって、自然な写真は情報量が多いですが、我を 出した写真はそれが少なくなります。これに気がついている人はあまりいないのではないでしょうか。 カメラの発展は、とりわけデジタルカメラでは顕著ですが、画素数の増大、画質の向上(白飛と潰れを 克服)、高ISO感度での撮影などなど、情報量の増大に邁進してきたといえます。連写能力もつまりは 時間的な情報量の増強です。 カメラもそうであるならば、写真自体も可能な限り情報量を多くしていくというのが当然という気がします。 陸前高田の記憶 https://photoxp.jp/pictures/223333 陸前高田の記憶 Ⅱ https://photoxp.jp/pictures/223334 陸前高田の記憶 Ⅲ https://photoxp.jp/pictures/223335 こういう自然で控え目で社会的な写真を撮ってくれる人がいるのは嬉しいですね。細かいことを言えば 使用したミリ数は標準域ですね。最も情報量が多くなり自然さも増します。 一本松は有名かも知れませんが観光地ではありません。しかしこの写真は一本松というよりも震災遺構 を撮られた写真です。そもそもこの掲示板で震災関連の写真を撮られた人はどれほどいるのでしょうか。 殆どの写真人は震災の被害に無関心でした。それは自分のことではなかったからですね。 多分、写真を趣味としてやっている人は9割方、写真は自分の為の趣味であって人様や世間のことは 関係ない、と思っていることでしょう。写真とは自分が金を出して自分のためにすることであって、被写体 はその為の道具であるとすら考えているはずです。 この社会的意識の欠如は決定的です。何に決定的かというと、写真は個人の消費活動、その個人は コンシューマーであるという、生産と消費というマクロ経済の一単位でしかないという意味でです。つまり パチンコやゲーマーとなんら変わりません。 早速にコメントを寄せたmasaさんも裏街道さんと同じく、本当の意味での良い写真を撮られる方です。 良い写真というのは自分だけが満足している写真ではなく、多くの人たちが見て良い写真だという写真 なんです。特に素人の方が。それは10年経っても100年経ってもそうだという意味での写真です。 それには写真に情報量を込める必要があります。見る人様の役に立つ情報量ですね。写真に心を込め て情報を入れる、いや元より備わった情報を削らないということでしょうか。 写真は切り取りの美学だなんて嘘を言う方もいますが、それは自欲写真での話です。

無題

カメラを手にしての写真撮影は楽しいですね。何を撮ろうか?なんて目的は要りません。気が向くまま 足の行くままの撮影行が最高です。そして撮影しながら歩きながら、色んなことを考えている自分が そこにいます。きっと歩くこと撮ることはすなわち考えることであり、これぞ人生最高の贅沢だなって思い ますね。 こういうのは低欲望化社会(GDPが上がらない)だと批判する御仁もいるわけですが、それで結構ですわ。

無題

別の板に高速道と神社のモノクロにした写真を上げました。 https://photoxp.jp/pictures/223250 https://photoxp.jp/pictures/223265 ペンタックスからモノクロ専用のカメラが出るそうです。凄いですね。時代はこれから少しずつ変わ るのではないかという予感と期待を抱かせます。 モノクロ写真は精神的なものだと私は考えています。清貧の思想としての写真の最たるものです。 人の運勢は、その大きさと量が予め決められているようです。太く短くか、細く長くかですね。(^^ゞ  それと同じように、我々の写真の楽しみの量も一定であるとすると、モノクロ写真は細く長くという ことになります。 多分、オールドレンズも、MFレンズもそういう清貧の写真思想のアイテムだろうと思いますね。 もちろん太く長くというのもあるんですが、そういう恵まれた人は少数です。細く短くという人もいる わけですから、細く長くは恵まれた写真人生だったということになります。 ※ダブりの写真を上げてしまいましたね。(^^ゞ 

無題

以前から高速道の土手(法面)の緑が気になっていて、少し前から実際に撮影をしています。 写真に美を求め、その同じ美を皆が競うのが写真だ、という考えの人達にとっては、何のことやら 分からないような被写体となっています。(^^ゞ  写真とは、人とは違う写真を撮ることだ、という考えの人には少しは理解してもらえるかも知れません。

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画像の左端の奥に溜池が見えます。その溜池の用水でこの田圃の水を潤すことになります。

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高速道の土手の緑と、向こうの奥の山の緑の境目がかろうじて見えます。

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高速道の側にある小さな溜池。高速道建設時に周囲を四角くコンクリートで固められたようですが 今では自然な緑で覆われています。ツツジでしょうか。きっと建設時に誰かが植えたのが生き残って いるみたいです。

無題

高速道は長大な距離を持った国家的レベルのインフラです。随時メンテナンスは欠かせませんが 一体、何十年くらい持つのでしょうかね。

無題

左手が高速道(法面の樹木は伐採されていました)、右手が神社です。

無題

日枝という名の神社は多くて複数あります。語源は簡単で稗田でしょう。ヒエが採れる地域という くらいの意味ですが、当然今は溜池が整備されて水田地帯ですね。 この神社は地域面積のわりには大きくて立派でした。