メーカー名 | SONY |
機種名 | α900 |
ソフトウェア | Capture One 8 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 35mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/60sec. |
絞り値 | F5.0 |
露出補正値 | -0.3 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 200 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 2048x1365 (2.43MB) |
撮影日時 | 2010-09-19 01:52:07 +0900 |
昔のデジカメは画素数が少なかったですね。最近のカメラは通常が2000万画素であって、昔の数
百万画素という時代は遥か遠くになりました。
新聞記事で知りましたが、最近の若いZ世代の若者が、古いコンデジに興味を示しているというのが
ありました。中古なので極めて安いというのもあります。
これはつまり端的に言って画素数の違いのことです。コンデジの味わいがどうのと記事にはありまし
たが、本当はそうではなくて、最近の多画素カメラ(スマホも含む)に違和感を感じているということの
裏返しの現象だろうということですね。
写真というのは趣味としても、と言いますか、その情報量というのは想像以上に大きくて、脳内ストレス
が大きくかかります。20歳代の直感の優れた若い人は、趣味写真としては画素数の少ない古いタイプ
のコンデジが良いのではないか?というところかも知れません。
参考までにいうと、文章というのはPCデータでもごく小さいのですけど、脳内に於いても同様であって
その処理量というのは高が知れています。文章を頭に思い浮かべて字を打つという作業は、写真の
画像データを見て処理ずることに比べれば、ほんとにさほどのことはなくて要するに頭を酷使しないの
です。脳のストレスが小さいんですね。
写真は特に画素数が多いとか、画質が優れている(例えばRAWデータ)という場合に、はさらにストレス
が掛かるようです。それで可能な限りスマホのように自動処理をするのが脳にはよいわけですが、
しかし写真には画像画質を見て楽しむというところがあるわけで、なかなか写真趣味というのは一筋縄
ではいきません。
私はRAW撮影をしていますが可能な限り、画像処理はしないというスタンスをとっています。そして
撮影量は、1回の撮影では多い方だとと思いますが、PCで見る画像はとことん少なくして、要するに
モニターで見る写真を少なくしていくというやり方になっていきましたね。
フルサイズ2000万画素というのが、これが出現する時期において盛んに言われていたことですが、
135フィルムのリバーサルタイプの画質に相当するとことだったと記憶します。その最初のカメラが
ソニーアルファ900だったかな?記憶はさだかではありませんけど。
当時は一千数百万画素のカメラが通常でしたので2000万画素というのはエポックメイキングだったと
思います。私も当初、このA900を手に入れたのですが、そのあまりにもの多画素の画質に恐れをなし、
A900はあまり使わずにもっばら使ったのは1000万画素余のクラスのカメラでした。例えば二コンD700
とか。
現在ではフルサイズ2000万画素クラスを私も多用していますが、それでも4000~5000万画素の
カメラはあまり使わずにいます。もしそういうカメラを使ったとしても2000万画素カメラと同様に扱うこと
にしています。高ピクセルの画質を強く見つめるということはしません。
そして一番使いやすいと感じるのが1000万余のカメラ、1000~1500万画素クラスのカメラだということ
です。だいたい、そこらあたりがフィルム時代で言えば通常のネガフィルム相当なんですね。
フィルム時代でも中判カメラとなりますと、それはもちろん現在のデジタルで言えば24000万画素以上の
画質となりますが、フィルム時代でしたからその撮影量はたかが知れていました。
現在では2000万画素オーバーの多画素高画質のデジタル写真が無限に撮れるという時代であって、
それは人間の脳内処理能力の限界を超えているということなんです。したがって無理やり時代に合わせ
ようとすると脳内ストレスも無限になるということ。ですかね。
自分は撮影しなくて、ネット上に上げられた他者が撮った写真を評論するという御仁がおられましたが
そういう人は本当の写真の現場を知りません。ネットに上げられた写真は、撮影者が画像処理をして
画素数を小さくした写真でしかなく、わざわざ閲覧者の為に見やすくした画像なんですね。
それだけを見て自分は写真評論ができると思うのは大きな勘違となります。スマホで写真を撮る場合も
同じです。スマホが画像処理からデータ量まで全て自動でやってくれるので、これもまた写真の実際の
ところを知らないで済ませられます。
ネット上で流布されているものは画像であれ文字であれ、それにはすべて加工済みなんです。食べ物
で言えば加工食品ですかね。ソーセージを食って生の豚肉を想像できるのか、ということです。
RAWデータを直に見ることのできるRAW現像ソフトで見ますと、それが投稿用にJPEGとして画素数も
落とした画像などは本当に別物だということがわかります。
そして文字であっても、私の場合もそうですが全て加工済みであってリアルなことは書かれていないと
いうことです。投後者名kusanagiと言う架空の人物を作り上げているということであって、これにも気が
付かない人がいます。kusanagiという人物がこの世に本当に存在すると思っている人がいます。それ
には驚いてしまいます。
要はネットに於いてはリアルな写真も文字も何も存在しないということです。それを本当のことのように
して見るのは、例えば小説を読んで夢中になり、あたかもその小説に書かれていることが本当のことの
ように考えることと同じであるわけです。
私がつくづくネットや掲示板でみて思うに、今の人たちは物事を知らなさすぎて、生産者ではなく消費者
の立場でして物事を感じていないということです。つまり加工食品しか知らない人ばかりです。もちろん
そういう人ではない優秀な人もおられますが、ほんとうに極わずかです。
人様から与えられた低品質のものしか知らないし、また体験したことがない。そういう人も一方で職業で
は生産者の立場にいるわけですが、最近の生産現場というのは詳細に分断されていて各人はマニュ
アルによって細部化され、そこで働く人は本当の意味での生産というものを知りません。そして営業職に
おいてもコンビニ店員のようなセールストークしか知りませんね。
偶然に最近知った50歳くらいの若い人(私からすれば)の仕事能力の無さには驚きを通り越しました。
物事を知らなさ過ぎる。自分で思考することができない。それでいてプライドだけはあるという具合。
おそらく、50歳前後の世代の特有な現象かもしれません。しかも男性に限りです。(この世代の女性は
優秀です) 氷河期世代といわれる世代の最初の年齢かもしれませんね。
色んな世代論がありますけど、時代の変革期に青少年期を過ごした場合、心の形成があやういところ
があるのかもしれません。
話を元に戻しますすと、デジタル写真には2000万画素の壁、というものが存在します。もっと突き詰める
と1000万画素の壁だと、と言ってもよいでしょう。
1000万~2000万画素までが我々が応用できる写真画像なのであって、それも無限に撮られた写真では
なく厳選された少数の写真であるということです。
数百ショット撮った写真でも実際に処理するのは数ショットくらいにしないといけない。
実際にリアルに自分でカメラを持ち、実際に撮影にでかけて写真をやってみると、そういうことが身に沁み
て分かるということです。そういう写真のリアルな生産現場というものが、実際に行う写真趣味の現場にも
あるということです。
それでカメラの画素数や画質が上がるにつれて掲示板の投稿は少なくなるはずです。かつての数百万
画素時代のようにはいきません。そして実際に撮影者自身も撮影量が減るはずです。
久しぶりにKazさんがキヤノン板で投稿されましたが、彼のように休みやすみをしながら撮影も投稿もやっ
ていくというのが順当です。
私においては、写真は撮影運動という展開をしています。写真においては画像はもう関係がない、撮影
という身体運動にこそ意味があるという立場をとっています。頑なに画像こそが写真だと思い込んでいる
人には肩透かしであるわけですけど、時代と共に写真の意味も変わります。
私は比較的長文といわれるものを書くわけですけど、これにも意味があります。文章を書くには思考を
伴います。長分はその思考の訓練になるわけですね。思考は人が生きていくには欠かせないものです
けど最近は思考をしなくても生きていける時代です。
昔の写真には実は思考が隠されていました。写真を見て多くの考えが浮かび頭を巡らせて見るのが
写真でしたが、今の写真は感じるということだけになっています。
その失われた写真思考をコメントとして書くということなんだろうということですかね。これもまた時代と
ともに写真の形態は変わるものだということです。
時代に合わせて写真も物事も変化します。その変化に気づき、時代についていくということが大切です。
昔の写真にはジャーリステックな写真が多かったですね。しかし現在では写真趣味という個人的な分野
では、社会的な視点は失われて写真は個人的で美意識なものだけになっています。これは社会的には
劣化現象のひとつであるわけでずか多くの人たちはそのことに気が付いていません。
社会と接点が失われて自分や同趣味の人の間だけの狭いものになっています。それを打破する為にも
コメント欄は大事かなって考えます。
文を書くにはコツがあります。できるだけ一文(句読点で区切る)を短くすることです。一文を長くしない
ことです。そうすると不得意な文語体ではなく慣れた口語体に近づきますね。多くの人は本などの文語体
には慣れていません。しかし話し言葉(口語体)には慣れているでしょう。その短い口語体に近い文を数
多く並べることで結果として長文になります。
流麗な文章は必要ありません。短文を多く羅列することで意味はちゃんと通じるのです。可能な限り
一文は短くする。これが文章を書くコツです。私の書く文はだいたいそれです。
大事なのは自分は何を言いたいのか。書きたいのか、ということです。これは話し言葉での対話におい
ても大事なことです。何を言いたいのか分からない話し方をする人も偶にいますが、常に自分が伝えたい
ことを頭の中に置いておくことが大事です。
もっと大切なのは、自分が世間や物事のなかで、日頃発見すること、気づくことがあるのかないのか、
ということです。これがなければ、そもそも自分の中に考えそのものが浮かびません。
誰かに何かを言われて、その反応として自分はこう思う、こう感じるということを言う人は多いです。
しかしそれは思考ではないと知るべしです。単なる生化学的化学反応でしかありません。他人に何かを
言われて反応するのではなく、自分からゼロから発信をすべきなんですね。それが本当の思考力です。
こういうフォロアーな人が多すぎる時代になりました。人々が思考しなくなった時代なんでしょう。
多くの人々が自分で考えなくなった時代というのは極めて危ないです。これは本当で、先の大戦の前夜
がそういう時代でした。そういう時代には大量殺戮が始るのです。これは時代の一種の間引き現象と
いうものでしょう。自分が間引かれる立場に置かれているのかどうか、よくよく考える必要があります。
私は写真画像そのものはあまり好きではないのかもしれません。デジタルになって益々そう感じること
が多いですね。それよりも画像を生成するカメラやレンズという機械に関心があるほうですし、何よりも
撮影は楽しいです。撮影だけして後で画像をPCで全く見ないこともかなりあります。
私の写真撮影は写真画像の獲得を目的としていない。そういう具合にも言えますね。これは写真の否定
なのかどうか。必ずしもそうとは言えないと思います。
逆に考えると画像獲得に躍起になって、撮影時に被写体の観察が疎かになる場合も多いからです。
それこそが写真における大きな本末転倒という気がしてます。
他人が驚くような良い写真をゲットしよう。そればかり考えて写真撮影本来の楽しみをスポイルしている
人が多いのではないかと考えるからです。
ともかく自分が長く楽しめるやり方でないと写真は長続きしません。そういう自分流の写真のやり方を
自分で発見しないといけませんね。
写真なんて面倒な趣味を止めてしまってスッキリするという手もありますが、結局は他のコンシューマー
的な、誰かから与えられたものしかできないというのが大体の落ちです。
こちには最近、撮影はあまりできていません。本もあまり読めていませんね。
意欲が出なければ休むというのも大事で、無理やり撮影に出かけていってもよいことはありません。
そういえば、本と言えばちょっと面白かったのが、
「ラザルス」ジェフ・ホワイト著 草思社刊。
世界最強と呼ばれている北朝鮮のハッカーグループのドキュメンタリーです。コンピューターやネット、
金融の知識が多少要りますが、なかなか面白いです。現在の時代とはこういう時代なのだということが
よく分かる本となっています。