リコー PENTAX K-3 Mark III Monochrome 作例

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雑

雑

RAWデータの方が劣化度が少ないとかどうとかではなくて、そもそもカメラがカメラ内で最初に作成する データは全てRAWデータなのです。RAWとは生の、という意味ですね。 それでは何故、普通はJPEGデータが作成されるのでしょうか。わざわざカメラ内でRAWからJPEGに 変換(現像)するということは、どういうことなのでしょう。 それはRAWデータが大きすぎてメディアに書き込むのに時間が掛かりすぎからです。そして当然にデータ 量そのものも大きすぎる。メディアの容量を圧迫しますね。 そして画質としては、比べるのはRAWとJPEGではなくて、TIFFとJPEGでなければなりません。モニター の画面で見ている画像は、おそらくTIFFとかJPEGでしょう。それはRAWソフトによって様々であって、 安価なRAWソフトではマトモな画像を見ることは出来なくて、現像してやっと綺麗な画像になるというのも 多々あります。 つまりRAWデータそのものを直接見ることは出来ないと思います。モニターでこれがRAWデータだと思っ ているものはPC内でRAWソフトが瞬時に現像したTIFFなりJPEG画像だと思いますよ。 RAWデータから現像して、最高の画質を得ようと思えば、それは圧縮の劣化が無いされるTIFFデータで なければなりません。しかし現実的にはTIFFはデータが大きくなりすぎて、またTIFFデータを見ることが できないPCもあったりするので、現実的にはJPEGとなります。 そのJPEGデータも現像時に画質のランクを選択できるように、圧縮の劣化度を選ぶことかできますね。 圧縮の劣化度が少なければ高画質でありデータは大きく、圧縮度が大きければ低画質となりデータは 少ないです。また現像時にピクセル数もチョイスできますし。 RAW、TIFF、JPEGの違いが分からない人が多いと思うのですが、そこはきっちりと理解できていないと 混乱の元になります。 JPEG設定でもきちんと撮影すればRAWで撮影したものと変わらないと言っている人もいますが、それは 大間違いです。カメラによっては優れたJPEGを出すカメラもないことはないのですが、普通はRAWと JPEG撮影では圧倒的な画質の差があります。RAWが100点だとするとJPEGは30点から50点くらいの 画質しか出てきません。 高級なレンズを付け、撮影をみっちりとやったとしても、JPEG撮影ではそれらの投資と努力が無駄に なるというわけです。逆に言えば、安物のレンズでいい加減な撮影をしても、RAWで撮影し、そのRAW ソフトもプロ級の高価なソフトを使えば良い画質を得ることができます。簡単に言えば安価なソフトは 現像をしても画質が悪いです。 私がいいねって感じるのは、デキシオ、キャプチャーワン、フォトショップ(&ライトルーム)ですか。メーカー 純正ソフトではキヤノンDPPとかシグマですかね。 RAW、TIFF、JPEGが混乱するのは、大きくて高画質の高性能のモニターを使っていない人が多いから です。エイゾウなどのプロが使うモニターと、PC内のグラフィックカードが優れていれば画像の違いを 自分の眼で見ることができます。スマホの閲覧なんかでは写真は金輪際、分からないんですね。 RAWデータは未現像のデータなので、このデータを一般の人が貰っても写真を見ることができません。 さらにRAWデータはメーカー独自のデータですから仕様が変わる可能性があり、たとえば古いカメラの RAWデータなどは、それを現像するソフトウェア、及びそのソフトを搭載できるOSもなくなってしまっている こともあます。つまり汎用性を持ちません。 時代を超えて通用する画像データはTIFFとJPEGだけですね。この2つは100年後も見ることができる と思います。 人様にデータをプレゼントするのならば、PC(ノートPCも含めて)かタブレットで見るわけですが、同時に プリントをすることあるわけですから、最低限、数メガバイトのJPEGデータでお渡しするのが普通かと 思います。数十メガバイトの高画質JPEGデータをもらってもPCが動かないといったこともあります。 逆にまた数百キロバイトのスマホでしか見れないデータをもらってもねえ。 ですから数メガバイトのJPEGデータという限られた制約のなかで最高の画質を見せたい、と思えば RAWデータで撮影して画像処理をして差し上げるのが正解だろうと思いますよ。もちろんピント外れは ダメですし画面が傾いていてもいけません。暗部は持ち上げてハイキーは飛ばないように。 そういうことをしてキッチリと良い画質と色味をだそうと思えば、もうRAW撮影以外にはないですね。 結婚式の写真とか、舞台発表とかの写真だと、高性能AFレンズでピントは正確に、そして連写撮影も しなければならないで、本当に大変です。そしてその後の画像処理もあるわけで、はっきりいって報われ ません。(笑) 素人さんは簡単に、良いカメラだから撮れてると思うわけでしょうけど、実際は四苦八苦 してるわけですしね。 そんなわけで、我々アマチュアは人様の写真を撮って差し上げる、なんてということはしなくてよいんで す。アマチュア人は自分の撮影したい写真だけを撮ればいいんです。そう思いますよ。 今の時代、みんなモバイルを持っているんだから、素人でも自分で写真を撮ればいいだけの話です。 今後の家族写真という話題では、写真はプリントをしない限り、データのままでは写真は最終的に全て 消滅しますね。PCに保存している写真、クラウドに載せている写真、すべて無くなる運命にあります。 しかし家族写真なんて、そういうものは大昔はありませんでした。戦後からですね。そういう写真がアル バムとして出現したのは。 ですからこれからのデジタルデータの時代、全ての写真データがなくなったとしても、それは大昔の時代 に戻るだけのことでして大したことじゃありません。 今の時代、ネットでは膨大な写真と映像が溢れていますが、そんなもの、大きな戦争や自然災害が あれば簡単に無くなる運命にあるわけです。今のネットの写真やデジタル写真というのは、この一時 だけの、幸せの時間の写真なのであるわけで、けして永遠性を持ちません。 私は仕事柄、思うわけですが、一般の人はデジタルデータを信用しすぎです。データは間違いのないもの だと勘違いをしていますし、永続性があるものとも誤解をしています。皆んなどうしでこんなに人がよい のだろうかと不思議に思うほどです。きっとそういうのは平和ボケなんだろうということでしょう。

無題

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今回上げたこういう写真もボケ&無地写真の類かも知れませんが、私としては、いま私が関心がある 室戸岬の一光景として捉えています。 太平洋側は海から朝日は昇るけど、夕日は海に沈まないと思われがちですが、ここ室戸では夕日も高知 湾に沈むのです。高知湾と言っても大きいですから事実上の太平洋でしょう。 若い時から何故か、この室戸が好きなんです。香川から近いというのもあります。3時間で行けますから。 (高速道1時間+55号線2時間) 往復6時間ですから、朝に出発しても帰宅は深夜になります。 高速道のない時代は片道4時間掛かりました。もうしばらくすれば高速道が延長され、2時間になるか も。 それでもあまり苦にならないところがあって、それはやはり太平洋の匂いを満喫できるからでしょうか。 いま自分が関心のあるものを撮る。芸術写真の為の写真撮影ではなくて、自分の知的関心の延長線上 で写真をするということは極めて大事だと考えています。 今回は、室戸岬の台地で農業を営む農村を見ることができました。標高は100から200メートルの、ほぼ 平らな台地で農業(水田とハウス農業)が営なわれています。とにかく目前に太平洋が一望できるという、 絶景の村ですね。一般の観光客は、そういう台地の村があることを知りません。 もっとも、写真の撮影地は台地農村ではなく、スカイラインへ登る道路からの撮影です。ここらで海抜100 メートルくらいでしょうか。もし津波が起こったとしても此処までは押し寄せてきません。

無題

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箱根はとても面白そうですね。 シッポ座さんの文章を読んでいて、私も好奇心がかき立てられました。 箱根は、巨大なカルデラ火山跡ですよね。阿蘇山と同じくらいのレベルの。 何しろカルデラの中に湖や街があるくらいですから。 確か、その芦ノ湖は戦前に巨大な飛行艇の基地があったと記憶しています。 そして周囲を外輪山に囲まれたカルデラは地形的に独立性を保った形になるようです。 シッポ座さんのいらっしゃる関東北部の平原地帯とは、だいぶ地形的意匠が異なるはずです。 開かれた平原地帯は、簡単に言うと軍事的に防御が難しいですね。 平易に言うと常によそ者が入ってきます。 中国平原なんかが典型的にそうです。(中原という) 騎馬民族が攻めてくれば簡単に蹂躙されてしまいます。 それで平原地帯に住む人々は地域が独立性を保つことが歴史的に困難であって、 結果として巨大な専制主義的な帝国ができあがります。 それでどうしても人心が荒れるというところがあるかもしれません。 まあ関東平野くらいではそんなことはないわけですが、中国のような大陸ともなりますと 人民は刹那的になるんではないですかね。生きるのに必死ではあるんですが。 その点は深い山岳に囲まれた山国や、海で隔てられた島国は比較的防御が楽であって 容易に独立性を保てるようです。 典型的なのがチベットや日本です。(もっともチベットは中共に蹂躙されてしまいましたが) 日本の連綿と続く長い歴史は、平和が保たれやすい島国のお陰ならです。 しかし人々の付き合いが濃厚すぎるところもあって、その点は平原部と違い、精神的に 開かれていない欠点も目立ちますか。 どちらが良い悪いというのではなく、そういう特徴が両者にはあるんだということ。 こういう地理的地形地質的な違いを知っていますと、各地を旅するのが面白くなります。 富士箱根伊豆国立公園と言いますね。地理的に近い三つを単純に纏めたのではなくて 実は、その成り立ちには深い理由があります。 そもそも伊豆半島は大昔は太平洋の中に火山島としてあったものですが、プレートの移動に 伴い、日本列島にくっ付いたものです。その衝撃で箱根や丹沢山地や富士山が出来上がった のですね。大島などの伊豆諸島もやがては列島に衝突するはずです。 山岳や島国が独立性が保たれるといいましたけど、科学技術の発展と共に、かつては 障壁であったものが障壁とはならなくなるという事態になってきます。 今現在、日本にとって最大の懸念は、少子高齢化です。これはもう止めようがなくなって しまい、それが経済や軍事力という国力の減退と深く結びついています。 誤解を恐れずに言うと、小子化は他国の侵略を招く恐れがあります。技術力によって 生産力や軍事力が機械化されつつあるとはいえ、やはり人の数の力は大きいのです。 大体、科学技術による機械化ですら、それを発明し改良するのは人間であり、とにかく 優秀な人間がその源泉です。そして優秀な人は大数の法則によって分母たる人口の 大きさがものを言うのです。 教育によってある程度のカバーは出来ますが、そもそも優秀といわれるのは生まれつき のものであって、その優秀な人数を揃えるのには人口数の維持が不可欠です。 国民の生活レベルが向上すると一般的には少子傾向になるのですが、実はもうひとつ の原因があるのてはないかと私は密かに思っています。 それは島国のような閉塞した世界では血が濃密になり、人々の能力が劣化しやすいと いうものです。 日本の例をあげると、江戸時代300年は鎖国をしていて外国との交流が乏しかったですね。 明治になり西欧文明を移入して、富国強兵となって人口も増えました。しかしながら先の 大戦で大負けしてしまいました。 その根本的な理由として、明治期からの出生増とは、江戸時代からの血が濃密なままに 無理やり数だけ増加させたということで、そこに無理があったのではないかということです。 その反対に米国は移民の国であり、血の濃厚さが防がれていました。欧州各地の人達が 米国に渡り、それらの人々が交わることで優秀な人達が多かったということではないですか。 そしてアメリカは今もって海外から多くの移民を受け入れています。米国の根本的な強さが そこにあると私は考えています。 今の日本の少子高齢化はピンチですけど、同時にチャンスでもあると私は思ってます。 時代は世界的に民族大移動の体を呈していて、諸外国の若者が日本に来たがっているという 現象があり、このチャンスを利用して日本人の濃厚すぎた血を入れ替えるというわけです。 実は歴史上、日本は定期的に何度もその血を入れ替えてきました。帰化人とか渡来人とか 言われる人達の存在です。大本の日本人だった縄文時代の日本人などの血は極僅かです。 子どもを産まなくなった旧日本人に代わって、これからは移民の人達の末裔である新日本人 がこの日本を牽引していくようになるのではないでかね。 かつてとある政党の総理大臣が、日本は日本人だけのものではない。と発現して話題に なりましたが、あれは案外に正しかったのではないですかね。 日本列島代改造ならぬ日本人種大改造ですか。その遺伝子を改善していこうというわけです。 今の若い日本の人達は、優秀な人達は外国へ出たがり、そうてはない普通の人達は国内に いるのですが子どもを産みたがらなくなりました。いろんな原因があるのだろうと思いますが、 私の考察では、きっと時代が新しい血を求めている、ということではないかと考えています。 ちょっとばかり、話を広げすぎてしまいましたが、これから百年二百年と日本は随分と変わる のではないかと想像しています。 …というような与太話はどうでもよくて、箱根湯本の撮影カメラは二コンですか? なにしろもうカメラごとド忘れて撮影に行こうか(笑)、というような体たらくなので、カメラメーカー のことも忘れてしまいそうなんですが、二コンのちょっとキツめの画質が懐かしいような気が してます。 先日の高知室戸行きで使ったカメラはペンタのカラー機でしたが、これは単にペンタモノクローム とバッテリーやレンズが共用できるので使っただけで、それ以外の機材は全て眠ってます。 もう全部倉庫にしまったのでどこに何をどう仕舞ったのか忘れているほど。 ところで久し振りにカラー機でカラー写真を撮ってみて感じたのは、ああ、カラー写真って綺麗。 やっぱり写真はカラーでないといけないよねっていうところ。(^^ゞ  しかし考えてみれば、カメラがなくても撮影には出かけられるということも知りました。スマホでも 撮れるし、いや撮影なんかしなくても脳内撮影でも充分かな?という感じ。 さすがにそれは無理ですけど、カメラを持って行って撮影をしたところで、後で見直すことも殆ど ないのだから、要は、カメラを使っているというスタイルだけでいいんじゃないかなって感じてます。 カメラ機材を倉庫にぶち込んでいたとき、膨大な三脚のコレクションがあるのに気づきました。 三脚はでかいですからね。こんなに集めていたのかと自分でも驚くほど。撮影で三脚を使うこと はないんですけど、ただ単純に三脚というアナログなスタイルが好きだから集めちゃったわけ でして、最初から無用の長物なんです。100本くらいはあるかもしれません。 しかし三脚は私にとっては、刀剣のコレクションの感覚に近いものがありそうで、愛着があります。 ほぼ全てバラして清掃しグリスも交換して保存してます。 デジカメは時間の経過で自然に壊れていきますが、三脚は壊れません。 写真から遠ざかった今でこそ言えるのかも知れませんが、写真撮影を通じて学んだことは多く あったのだと思ってます。撮影と称して色んなところに出かけられました。もし自分が写真をやって いなかったら、ほぼどこにも出かけなかったでしょうね。 写真は人の世界を広げる働きをしてくれたようです。テレビやネットで映像や画像してどこでも 視れるわけですけど、やはり自分の足で現地へ出かけるというのとは違います。写真をする ことは、カメラひとつさえあれば、さあ出かけよう、という気にさせられるということです。 それは魔法の小箱のようなものでしょうか。 そしてただ物見の見物に出かけることだけでなく、深く強く見る、ということを決定付けてくれたのも、 写真というものをやっていたからこそ出来たものです。カメラを持つことで、物事を見る強さや深さ が違ってくるというのも写真の大きな特徴です。 写真の素晴らしさは、きっとそこにこそあると思ってます。綺麗な画像とか共感を呼ぶ画像とか、 そんな上辺(うわべ)だけのものなんじゃないわけです。見ることの知ることの度合いが違って くるわけですね。 自分で写真をしていない人は、写真とは画像映像を作ることだと思っているのかもしれませんが 本当はそんなものではないわけですね。 しかしカメラだけでは自分の世界を広げることはできませんね。足がないと無理です。 バイクとか車。鉄道や飛行機といって交通機関も。そういうものとカメラの両方がないと自分の 世界を広げられません。まあ最後の行程は自分の脚で稼ぐわけですけど。 考えてみると車もカメラも文明の利器そのものです。自分の手足と眼の拡張です。 マクロ撮影で米粒のような虫を撮影されている方がおられます。ドローン撮影で三次元の撮影を されている人も。こういうのも世界の拡張版であるわけですね。 ---------------------------------------------------------------------- https://photoxp.jp/pictures/227912 この写真は、ある意味で革新的です。この撮影者自身にとって。 この投稿者はその始まりから今までずっと、下を向いて小花や草を撮るか、上を向いて空や小枝を 撮るか。そういう写真ばかりだったんですね。 秒速5センチメートルならぬ、眼の先5メートル内の世界でした。 つまり普通の人のように、眼の高さ位置で、数十メートルから無限大の撮影はしてこなかったようです。 俯くか、仰ぎ見るか、そのどちらかだったわけですね。 それがこの写真では、霧は掛かっていますが、普通の眼の高さでほぼ無限遠近くの撮影をされた わけです。それ以前に藪の中の撮影では普通高でしたが視界は藪で妨げられていました。 それがやっと開けた場所で、普通の眼の高さの遠方撮影をするようになりました。 私は彼に、山に登りなさい、と助言しました。律儀にもそれを続けてくれているようです。 近くにある低い山のようですが、とにかく山に登っているのは確かなようです。私が期待したのは もっと大きな山、赤城山とか浅間山とか、そういう山登りを期待していたわけですが、彼にとっては そういう山はまだまだ遠いようです。だからまずは近くの里山でいいんですね。 山登りは確実に体力がつきます。そう簡単に中断し引き返すこともできません。一歩間違うと事故や 遭難ということもあります。だいたい引き返すことだって大変なんですね。 体力が付きますと自信というよりも実力が付きます。これが第一歩の始まりなのであって、そこから 全ては再出発をするわけですね。 引き篭もりの人は、この自信ならぬ初歩的な実力を失っているわけです。それを取り戻すことが 何よりも先決なのであって、其処からしか何事も始らないと思っています。 実力には色いろな要素があります。口が達者な人、手先が器用な人とか。しかし足腰という体力的 な実力こそが、この世界に於いて生きていくのには最大の実力者であるということです。 大自然の山の中に放り出されて、ちゃんと生きて帰ってこれるという実力。これが一番なのであって、 それさえ身に着けて我が実力とすれば、多少口下手でも不器用でも人間は生きていけます。 この人としての実力が少しばかりは身に付いてきたように思えます。それが通常目線で遠景を撮れる 写真となったのではないですかね。最終的には晴れた日中での遠景写真にならないといけません。 そして人々も(社会です)撮れるようにならないと。 ちゃんと胸をはって堂々と写真を撮れるようになれば、引き篭もり人生からは脱出できるようになれる と思うんですね。 ある意味では、引き篭もりの人はずるいわけです。楽なほう楽な方にやってきて、それで現在の姿 があるんであって、努力することも闘う事も避けてきたわけでしょう。そりゃあ人には生まれ持った 能力というものがあるわけだから、それを超えることは難しいです。しかしやれることはやらないと。 私は人の運勢を研究してそれなりのノウハウを習得したわけですが、このノウハウを聞き入れて くれる人は、みな頭がよく運の良い人ばかりです。生まれ付いて優秀で、良い家に育ち、かつ努力家 で強い人ばかりなんですね。だから運の良い人がさらに運がよくなるわけです。しかし私としては、 不運の人にこそ運を高めて欲しいと願うのですが、そういう人は哀しいかな、聞く耳を持ちません。 それはともかく、写真というのはけっこう正直に、その人の心の有り様を表現するものなのだなっ て感じました。私にとっては写真は道楽なわけですが、ある人にとっては生きるギリギリの表現で あったりするのでしょう。 彼は根は正直な人ではないですかね。文では小嘘もいっぱい並べているでしょうけど、こと自分の 写真に対しては正直な人、素直な人であると感じます。この自分への正直さと率直さは、それは 強い心であることの証左ですから、もしかすれば彼は引きこもりから脱出できる可能性があるかも しれませんね。

無題

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写真とは何か。 私の場合の答は明快です。画像ではありません。自分の社会的関心の喚起とその継続です。 もっとも、デジタルで写真をやり始めてからは、それを忘れて画像に走りました。これは大いに反省 すべきところです。私の場合、PC自作から始めて、さらにPCソフトのイラストレーターやフォトシップ から写真を始めたので、まずは画像だったからでしょう。写真も最初はサンプル画像くらいしか撮れ ないだろうって思ってましたし。 ところで… 私が若い時にフイルム写真を始めて、初めて撮った写真は道路高架橋の反対運動の人達でした。 そんな感じでフイルム時代は社会的ジャーナリステックな写真ばかり撮ってましたね。過疎地の 山村や漁村にも撮影に行きましたし。と言いますか、当時はそれが普通で、リアルリズム写真運動 が主流だったので、みんなそういう写真を撮ってました。 それでその反動で、次はコンポラ写真に行きましたが、これとても社会的なモチーフでしたし、とにかく 芸術とか美意識とか、そういう観点から写真をするというのは、私の時代にはなかったのです。 そう言えば、路上生活者の撮影をしたことがあって、その写真はプリントして被写体の人に差し上げた のですが、その写真が偶然にも新聞に掲載されたことがありました。実はその方が路上で亡くなって、 持っていた写真が紙上に載ったわけですね。亡くならなければ私があげた写真が紙上に載ることは なかったわけで、何とも複雑な気持ちになりました。 そんな感じで、私の場合というか、私の写真世代は、写真の画像の美学とかは二の次だったわけです。 しかし写真がカラーフイルムになり、カラーの品質も良くなってから写真を始めた人は、写真=画像美 であって、もしかすればそれ以外の考えには及ばなかったのではないですか。 写真は今でも、その本質は記録と表現なのですが、では自分は何を記録し表現するのか。その問い詰め を多くの写真人はしていないと思います。ただなんとなく模倣的に綺麗だなっていう画像表現を真似て いるだけではないですかね。 ですから今の人は写真が絵で終わっているという気がします。写真を鑑賞する人達も絵であることを 疑っていないでしょう。 現在の写真はそういう画像美というのと、もうひとつは写真のスタイルの追求というのがありますか。 これは特に、ライカユーザーが多い気がします。不便なライカを使いこなすという、精神的な喜びと いうか。田中長徳さんなんかの世界ですかね。 変態と言われたシグマのカメラもそうだし、レンジファインダーを持つフジのカメラもそういうところが ありそうです。そういう特定のカメラと密接に結びついた、画像ではないけれど、写真をするスタイルと いうか、ややキザっぽい話ですけどね。そういうのもあるんではないでしょうか。 また、超望遠レンズで野鳥の撮影をするというのも、これまた写真スタイルの一種でしょう。さらに、 そういうことでは黒白写真も、そういうスタイルの一種かもしれません。また、写真の撮影でもって、 自分の健康の維持を図るというのも、多分これでしょう。 写真=画像美、というのが嫌いな人は、そういう写真スタイルの追求をするんではないですか。 そういう私もその一人だと思ってます。 しかしながら、写真の本質は、画像美にもないし、写真スタイルにもないだろうと私は考えています。 写真には、真実の追究というのが、その深い奥底に存在するのであって、これは何も言葉の写真の 「真」だけでなく、フォトグラフという言葉の海外の写真家でも同様です。 写真には「光」と「闇」が必要不可欠ですが、光は美を、闇は真をもたらす、と考えれば、写真を深く 追求しようとする人は、必然的に真実を追究しなければならなくわけです。 写真は表面的には、記録と表現てすが、同時に光と闇でもあり、従って正義と真実の追究でもあるん ではないですか。命を懸けた戦場カメラマンや山岳写真家は、その究極の姿だろうと思ってます。 勿論そういうところまでは一般の人は行けないわけですが、写真を趣味とすることで社会的なものに 関心を寄せ、いろいろと知らべて考えて、また人と交わり話をして狭い自分に閉じこまらないというのが、 写真の本当の姿だろうと思っています。 ところで、ネットの掲示板とかSNSとかいうのも、ひとつの社会性の発露ではないかと問われそうです が、私はそれは少し違うと思ってます。写真撮影は直接的で具体的なものですが、つまりリアル世界 ですが、ネットはそれがやや欠けています。 ネットは便利なものではありますが、それにばかりに頼りすぎると本当のソーシャルな社会的な写真 はできないと思ってます。 それで私の場合は、撮影と称して実は、現地の人達と積極的に会話をするというやり方をしています。 カメラはその為のアイテムのようなものて、大きなカメラを持っていれば(安易なスマホではなくて)、相手 はある程度、信用してくれるからです。 撮った写真画像自体は、もうネットで出す以外になくなったので、それならば撮影時に人々と直接交流 することで、写真のソーシャルな社会性を得ようといわけです。 見知らぬ人達と交わるには、いろんな関心ごとに通じていなければなりませんし、知識も必要です。 そして何よりも自分の考え方を持っていなければなりません。つまり自分自身にソーシャル性能を高く 保っていないと撮影での会話はできないということになります。 そんな感じで、これはかなり写真の本質に近くなっているのではないですか。 簡単に言えば、撮影時における積極的な世間話です。撮影ということにかこつけて多くの人達と交わる ことも大切だと思うのです。これが多分、写真の本質に一番近いだろうと私は思っています。 それで冒頭の、『写真とは自分の社会的関心の喚起とその継続です。』ということになるのです。 写真画像に注力し、煮詰めて写真を完成させることは大切ですが、ともすれば独善的になりやすい のです。今風に言えば、自己満足。でもそれは写真ではないですね。絵です。 ここ数ヶ月、仕事と私事で忙しく全く時間が取れずだったのですが、無理やり1日空けて高知県に撮影 に行って参りました。やっぱり撮影はいいもんですな。 すこし気がついたこと。このところ眼が悪くなっていたのですが、撮影となると遠方を見ます。これも 写真撮影の利点のひとつかなって感じました。 アップした写真は室戸市、旧・室津漁港です。この漁港は南海トラフ大地震の予想確率と深い関係が あるようです。詳しくは「南海トラフ地震の真実」小沢慧一著・東京新聞刊に書かれています。 (「2038年 南海トラフの巨大地震」尾池和夫著・マニュアルハウス刊も参考になります) 歴史のある漁港と町並みで、非常に良い雰囲気の街でした。

無題

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もう二ヶ月以上、写真撮影ができていないのですが、できるだけ時間を作って撮影に行く、つまり 歩きの撮影をしなければならないな、と強く感じています。健康への秘訣の重要な要素が歩きなん だということで、やはり撮影は、体力の維持、健康増進の為には絶対に欠かせませんね。 とは言え、まだ当分は撮影の時間が取れそうにありません。 写真を趣味としている人は、無意識に野外に出かけて歩くことになるのですが、おそらくその意味 を深く意識して考えている人は少ないでしょう。写真と言えば画像であり、その画像の価値を高める こととか、より多くの画像をゲットすることとかは考えているでしょうが、画像ではなく撮影の意味を 理解して考察している人は少ないはずです。 しかし撮影、とりわけカメラ機材を持って自分で歩いていくという効果は画像生成以上に重要であって、 きわめて大切なものですね。 黒白写真は、その本当の意味は、ローコストで写真ができるということに尽きると思ってます。 黒白フイルム時代では、カラー写真に比べてフイルムやプリントが安くつく、これが主な理由でしたが、 デジタル時代のモノクロ写真においても、安さの法則は変わらないと思っています。 デジタルではカメラやレンズという投下資材が最小で済みます。優れたカメラやレンズが欲しくなる のは写真に色があるからです。この色というものをなくしてしまえば、カメラやレンズを物色する気持ち もなくなります。そういうことでデジタル時代に於いても、黒白写真はローコストであるということになり ますか。 そして、私の場合は物欲意外はあまり感じなかったのですが、カラー写真では各方向の依存症が 発生すると考えられます。私の場合は物欲一辺倒でしたが、人によっては、撮影中毒(休み毎に写真 を撮りに出かけたくなる)や、画像処理中毒などが出るのじゃないかと感じます。 そういうものも、黒白写真だけにすれば解消するのではないですかね。つまりそもそも「色」という ものは本質から外れた過剰なものであって、その過剰な無駄こそが実は人には魅力的であり、その人 をして中毒症状や依存性、はたまた逃避性向にさせるのではないでしょうか。 白黒写真のローコストとは必要にして充分であるということです。そしてそれが写真の原点であり、 写真の本質のように思いますね。 フイルム時代は技術の歴史上、黒白写真が先にあって、その時代が長く続き、それから技術が進んで、 カラー写真が訪れましたが、これはユーザーの写真技術の習得や心や精神性の獲得の上で、理に かなったものでした。 黒白写真という写真の本質を先に知り、充分に熟すまで人々は基本を磨くことができたからです。 ところがデジタル写真では、先にカラー写真がありました。黒白写真はそのカラー写真の、いちモード として付随していたに過ぎません。これがデジタル写真がともすれば過剰になり消尽するような写真 趣味になってしまった根本的な原因だと思われます。 現在、デジタルに於いてもモノクロ専用機がリリースされていますが、ごく数機種にすぎません。しかし このモノクロ専用機がもっと広く安価で出るようになれば、デジタル写真事情も変わってくるかもしれま せん。 この掲示板に於いても最近は黒白写真の投稿が多くなったように感じられますが、それらはカラーの カメラで撮った写真を後で黒白化したものです。 残念ながらそれは本当の黒白写真とは言えず、画像処理でモノトーンとして黒白写真的にしたものです。 また最初から黒白モードで撮影したにしても、シビアに言えばカメラ技術的にはそれはモノクロ写真とは 言えません。カラー写真の変形でしかないものなんですね。 そうは言っても現実的にデジタルで黒白写真をするには、事実上このモノクロモードでの撮影手法しか ありません。充分に時間をかければ、カラーカメラでもモノクロ撮影に専念することで、往年の黒白写真 の精神性を獲得することは可能だと私は思っています。 デジタル写真は最初からカラーが出たために、黒白写真を体験する絶好のチャンスを逃してしまった わけです。ここにデジタル写真の不運というもがあるように思います。 最初から色香に惑わされた写真しか知らないユーザーが多いのです。それでフイルム時代と比べれば、デジタル写真の精神的なレベルは低いままに留まっていますね。撮影者のレベルは低くて、素人さん とあまり変わらないのが実情です。そしてその御自分の低さにも気が付いていない不幸があります。 フイルム黒白時代に於いては、写真には高い文化性があったのですが、現在ではそんなものは影も 形もなくなってしまった感があります。 この掲示板もデジタルが出現した当初は多くの投稿がありましたが、今では投稿数は少なくなり、多分 写真そのものをやめてしまった人も多いと思われます。それだけデジタル写真が詰まらなくなってしまって いる、いや、そういう本当の現実の姿を知ってしまった人が多くなったからなのでしょう。 この現状の復権は極めて難しいと思われます。 巷に言われるように、スマホに食われたから写真投稿が少なくなったのではなく、デジタル写真の本来の 持つ姿が見えるようになったからこそ、多くのユーザーは離れてしまったのだと私は考えています。 写真趣味の復権とは、ひとつは撮影の意味。撮影における身体的に関連づけられた仔細なノウハウ。 その自分に見合ったやり方の獲得です。(私はこれを自分なりに高めたと思ってます) そして画像論としては、デジタル写真に、フイルム時代にあったような、文化的で精神性の高い、あの 「黒白写真時代」を再び取り戻すこと。 そこから再度始めないと、デジタル写真は復権しないと思います。 しかし時代はそのように向いてはいません。さらに過剰に複雑に邁進していく一方です。静止画よりも 動画であり、素人さんに迎合したAI的な写真であり、また新鮮なところではドローン撮影なんかもありま すか。とにかく撮影と画像の能力の向上は凄いのですが、肝心のユーザー自身が捨て置かれている ような状態が今後も加速していくという感じですね。 そして最終的には写真は人間から離れて、AIやロボットが撮影し、さらに人間に鑑賞指示するような ものになって行くように思われます。そして人間が出来ることは、「ぐへっ」「ぼこっ」「ぐふっ」というような、 呻き声ような呟きだけかも知れません。 余談ですが、ドローン撮影は有効な撮影に化ける可能性があると思っています。現在では私の目指す 歩き撮影には向かないところもあるのですが、ドローンがさらに小型化してもっと撮影が容易になり、 普通の手持ちカメラと変わらない感覚で撮影できるようになれば面白いことになるのではないでしょうか。 こういうようなデジタル写真の社会状況というものがあり、人々は抗う素手もなく取り込まれてしまってい ます。 私の場合、とにかく全てはペンタックスモノクロームから始りました。 黒白写真はローコストである。という観点からは、モノクロ専用機はある程度の安さでなければ意味を なしません。ライカが最初にモノクロ専用機をリリースしましたが、あのバカ高い価格ではローコストと いうには程遠く、やはり最初のモノクロ専用機はペンタックスモノクロームしかありません。 そういうことではモノクロ専用機は、現在ペンタックスの1機種しかありません。それも本来は計測器か 何かに使っていたセンサーを写真カメラ用に利用したものです。 このカメラの私に対する衝撃はとてつもないものだったと言えます。以来、私のデジタル写真に対して の考え方はガラリと変わってしまったからです。写真だけでなく全ての方向に対して修正を余儀なく されたほどです。 黒白カメラですから衝撃は派手なもではなくて、じわじわとしかし確実に効いて来るものでした。 デジタル写真以前の、パソコン趣味からの自分史すら書き換えてしまうほどのものでした。なぜIT関連 のものは過剰でエスカレートするのか、消尽と依存症を併発するのか。その全てが一挙に解けたと いう感じで多重な波動攻撃を受けたような気がしましたね。 このようなことは既にこの掲示板で書き連ねましたが、とにかく黒白専用機、実はこれも半導体の一種 に過ぎないのですが、そのもたらした私への影響力は甚大だったといえます。 30数年以上もの間、私は騙されていたわです。それに気づかされたのが黒白専用機というカメラで、 モノクロセンサーの半導体です。 デジタルカメラはカメラではありますが、同時に半導体機器でもあるんですね。つまりコンピューター であり、パソコンやスマホと同じものです。同じようなスクリーンも備えていますしね。 ペンタックスモノクロームという半導体製品は、稀に見る正義の半導体だったということでしょう。そう いう言い方をすれば。 こんなに長い間、私は騙されていたということ。それを知ったときはショックというか、大きすぎて長すぎ て笑ってしまうほどのものでした。しかしとにかく私は知ったわけです。知ってしまった以上は、もう元 には戻れません。それでもう、私は二度とカラー写真には戻れなくなったというわけです。 デジタル写真に依存症があるということは以前から気が付いていました。何故ならば私の若い時の フイルム黒白写真時代とは機器への欲望が違っていたからです。当時はカメラやレンズといえば、 ほんの数台数本で済んでいたものがデジタルでは桁が違っていた。それはなぜだ?というわけです。 今にして思えば当時は黒白写真であって、今はカラー写真だったからです。たったその違いだけ。 つまりは、全ては色欲だったというわけ。(笑) 色即是空空即是色。言ってしまえばそれだけのことですが、要は無駄が多かったわけです。 もっとスマートにローコストでできる写真があるわけです。必要にして充分事足りる。そういうものが黒白 だったということに気づいただけですね。しかしそれが本質で物事の根本だったというわけです。 本質で根本、それが真実。無駄が多くなると真実からは遠ざかる。きっと黒白写真とはそういうところの 要に位置しているのではないですか。 黒白写真で強く思うのは、それは自分で撮って自分で鑑賞して楽しむ写真であるということです。 一人称完結の写真です。他者に見せて云々という写真ではないわけですね。カラー写真のように見て もらって楽しんでもらうという写真ではないということです。それを言えば動画はもっと他者の眼を意識 しています。ですから黒白写真はサービス精神のある写真ではありません。パッと見てすぐに分かる 写真ではないということ。 逆に言えば、そこが黒白写真の本質ともなっています。見るのではなく意識して読まなければならない。 能動性が求められるんです。 そういうわけで、趣味として写真をやっていくハイアマチュアに向いている写真です。言わば自己完結型 の写真行為だと思うんですね。だからこそ、今の時代、貴重なのかもしれません。 私のコメントは、無論コメント欄の枠内に直接書いたものではなく、ワードパットに書いてから、コピーして 貼り付けたものです。良い文章とは言えませんが、やはりある程度は自分で考え、練って書くという技術 を持つことは有益なことだと思っています。 これからはこういうコメントは生成AIを通していくようになると思いますが、そのようなことをすれば人間の 思考力を機械に奪われます。 そういえば文章というのは黒白の世界です。黒白写真と親和性のあるものですね。

雑

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私が、この20余年間、デジタルで写真趣味をやって、それで何が良かったのか、さて何を自分は 得たのだろうかと、そういうことを改めて考えると… ①まず現場主義が身についたこと。見たいな、撮りたいなと思えば、千キロ車で走って行くことも したこと。 ②そして徹底的に歩くことが写真であることを知ったこと。これが結果として健康維持にすごく役に たっていること。 ③最後に理解できたことだけど、写真画像の大きな落とし穴に気が付いたこと。すっかり分かって いることだと思っていたことが、実は何も分かっていなかったことだと知ったこと。(でも実際、これは 紙一重なのですが) やはり写真というのは、その得られる画像と、写真の写真する行為を切り離して考えていかないと、 上手く行かないのではと考えています。つまり、モノという写真画像と、モノではない写真行為と いうものを、この2つを全く別のものであるという認識が必要ではないかということです。どちらが 重要かと問われれば勿論、画像ではなく写真行為そのものです。 カメラ技術の発展は、この画像を常に高度化する方向でやってきました。つまりよい絵が得られる ようにと技術は発展してきたのです。 しかし写真行為という面では、技術の発展はむしろマイナスのところが大きいです。私が若い時分 に使っていた、完全メカニカルカメラ(フイルムカメラというのではなく)と黒白フイルムの崇高性は、 今のカメラには得ようとしても得られないものなのです。 だからこそ、当時の写真には文化があったんですね。今のデジタル&ネットの写真などに文化など ないですから。有態に言えばネット、スマホ、そして生成AIなんてのは劣化現象そのものです。 それでは今はデジタルカメラしかないからそれでやっていくのですが…

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https://www.youtube.com/watch?v=LtA5SQr6Iao 『GR Special Talk』森山大道 × 野口智弘 --- [CP+2021 リコーイメージング オンラインセミナー] https://www.youtube.com/watch?v=LOvXiJAM5Rg 保存版「森山大道」#Daido Silk Hasselblad Award Winner 2019 https://www.youtube.com/watch?v=pAbhkLxhn40 ①Ten Questions with Daido Moriyama - part one https://www.youtube.com/watch?v=oveYsV5ubzA ②Ten Questions with Daido Moriyama - part two https://www.youtube.com/watch?v=Yj3UtUdOnvI ③Ten Questions with Daido Moriyama - part three https://www.youtube.com/watch?v=NuST3XTyfO8 ④Ten Questions with Daido Moriyama - part four https://www.youtube.com/watch?v=BHy666sqizk ⑤Ten Questions with Daido Moriyama - part five https://www.youtube.com/watch?v=truAAYWeiqg ⑥Ten Questions with Daido Moriyama - part six https://www.youtube.com/watch?v=O7IOuyUibx8 ⑦Ten Questions with Daido Moriyama - part seven https://www.youtube.com/watch?v=Gd8azHdc8eU ⑧Ten Questions with Daido Moriyama - part eight https://www.youtube.com/watch?v=E2V1oLcZztI ⑨Ten Questions with Daido Moriyama - part nine https://www.youtube.com/watch?v=htLBL3m4tmQ ⑩Ten Questions with Daido Moriyama - part ten https://www.youtube.com/watch?v=xtVraiNqoOo 写真とは記録であるとか、発表された写真は受けるとる側のものであるとか、そういうのは 一般的なものですね。敢えて特別なものではありません。私の考えとしては、森山の写真とは、 歩くことであり歩いて撮影するということだろうと思っています。森山にとっては、それは至極 当たり前のことなので、彼自身強くは言っていませんが、それが森山写真の本質だろうと考え てます。 それは太古の狩猟採集文明のような人類にとっての本質的なものであって、それを無意識に 実践しているということてす。彼の撮影映像をみると、ほんとにキョロキョロと何かないかと、 うろついてますね。しかも逃さないように素早く。これは良い獲物がないかと探し回っている 石器時代のハンターのようです。 そこに森山写真の本質的性があり、それが高度に都市化された現代に於いても、欧米人にも 評価を受けているというところだろうと思うわけです。そこに深く強い意味があると。 そしてもうひとつ、得られた写真という画像を最低限のスタイルにしているということでしょう。 得られた釣果を誇らないスタイルでもあるんです。獲物というのは獲りすぎるといけないわけ ですが、そこをきちんとセーブしていないとマンモスハンターのように文明崩壊をしてしまうから です。 画像はモノクロであり、しかもアレブレボケと低品質としていますね。このセーブ感がするどい のです。彼が長く写真をやってこれた秘訣がその画像にあるというべきです。ですから彼の 膨大な作品をを見続けていても読者は見飽きないというか栄養過剰を起こさないですみます。 森山氏は1938年10月10日の生まれですが、むろん出生時刻は不明です。 そこで占星術でもって逆算してみますと、とりあえず15時20分くらいかなっていう数字が出て きました。勿論仮説段階です。ASCは水瓶座の最後。木星が乗ります。またイコールハウスの 天頂には金星があります。こんなことを書いても分からないだろと思いますが。 とにかく大変に優れた天才的な人物です。そして改革的で知性的な人ですね。 そして大変にバランスが取れていて、王道を行くようなチャートになってます。決して奇抜な人 ではなさそうです。それで多くの友人に恵まれたという感じですかね。 とにかくこんな感じで、森山大道が私なりに少しは理解できたというところが今回の収穫となり ました。そこには写真の本質というものがあり、森山が教えてくれたという気がしています。 私も、長らくデジタル写真をやってきて、もしかすれば無駄な時間を過ごしてきたんではないか なという危惧を抱いていたんですが、半分は正鵠を得ていたということで(歩きの撮影)、それで 良しとするところです。もちろん半分は画像溺愛ということで間違っていたわけですけどね。 これは本当に大きな間違いをしていたと思ってます。 私としてはこれから多分、写真趣味から離れていくだろうという予感がしています。 森山氏のようなプロ写真家には、例えば写真集出版というような具体的なモノがあるわけです が、アマチュア写真人にはそういうものがないからだと気が付きました。歩き撮影と黒白写真は 確かに正解なのですが、それだけでは写真はやっていけないだろうということですかね。 これまで20年間もデジタル写真をやってこれたのは、カラー画像という耽溺があったからこそ でしょう。その麻薬が切れれば写真趣味の継続は難しくなるという気がします。 しかしもう一度、カラー画像に浸ることはできません。一度気がついてみると元には戻れない わけですね。浦島太郎が玉手箱の白煙を浴びた後はもう再び龍宮城には戻れませんでした。 黒白写真を続行していくには、これにはプリント写真による表現力が欠かせないと思っています。 それは黒白フイルム写真時代と同じです。それはどういうことかというと、ネット写真では無理 なのではないかということだろうと思うわけです。 そして、ネットでのデジタル的な写真はあくまでカラー写真でなければならないという気がして います。そして黒白写真は本来的には紙による写真文化であったということでしょうか。 しかしそれはあくまでも他者に対しての表現の場合です。実際のところ自分で写真を完結する 場合では、自宅のPCモニターで充分に黒白写真をすることができます。 私が面白いなあと思ったのは、スラムさんの投稿手法です。スマホで地元近辺の撮影をされて それを随時アップロードされています。興味深いのは掲示板に上げる画像は最低限の画質だ ということです。実際の撮影では普通の画質で撮っているはずですが、投稿ではピクセル数を 落としています。 ここに、二重の基準がスラムさんにあるわけですね。自分で見る写真と他者に掲げる写真とは 違うものにしているということです。もしかするとそういう手法がデジタル黒白写真にも通用する のかも知れません。 この二重性は森山にもありますよね。彼の写真は徹底的に歩いて撮影をするということなので すが、そのことは読者には伝わりません。多くの読者は森山の写真の真実を知ることはできない ということです。 森山は写真とは、とにかく一枚でも多く撮影することだとか、考えるよりも撮れって言ってますが、 そういうメッセージは実は嘘であり、本当は歩き撮影では、そのようなことは必須で当然のことだ というだけです。写真とは関係がなくて、歩きに関係することだからです。 私も森山のような撮影をしていますが、(ただし山里の撮影で)、一秒でも時間が惜しいわけで、 撮影はスピーディですし、最低限の機材しか持っていきません。ですがら彼の撮影手法はよく わかります。 こういう具合に、写真には秘められた真実と、表に出されるものとは違うのだということです。 こういうことを知らないと多くの読者は騙されてしまうんですね。ですから写真を見る読者は、その 秘められた真実というものを自らが発見しなければならないということになります。 デジタルモノクロも同様でして、やはりモノクロ専用機がなければ本当にはデジタルモノクロという ものが理解できません。カラーデジタルでのモノクロモードでは、所詮はカラーのモノクロ風でしか ないんですね。 しかしネットで上げれたモノクロ写真ではその両者の相違が判別できません。しかし自分でやれは 直ぐに分かります。ここでも写真の真実というものは隠されているというわけです。 この真実の秘匿性こそが写真であるという気がしています。いや写真だけでなく全てに於いて、 真実というのは隠されていて表からは容易に見ることができないというのが、そもそもこの世の中 であり、この世界というものではないでしょうかね。 清原達郎氏の「我が投資術」角川 というのを読んでいますが、清原氏が言うには、自分には弟子 がいないので、自分が獲得した投資術を皆に公開したいと言っています。 読んでいて確かに面白いですね。しかし、やはり本当の事は書かれていないという気がしています。 本人にとっては当たり前のことでも、核心的なものは、当人自身も気が付いていないのであって、 読者は本当はそのことを知りたいのに、それが書かれていないというもどかしさがあります。 しかし著作でもインタビューでも、そういうものではないですかね。 本当に大事なものは、本人自身も気が付いていない。そういうことです。 ですから、森山でも清原でも、読者は、その語られていないことを抉り出すようにして読者自身が 発見していかなければならないと思ってます。 清原氏の生年月日は不明です。1959年生まれとしか。生年月日を知って占ってみたいなあと思う のですが、それはかなわないようです。 彼は東大卒で野村に入社したわけですが、ドロップアウトしてます。東大出で世の中から弾き出さ れた人間というのは実に面白いんですよ。私も個人的に2人ほどそういう人間を知っていますが、 普通の人間とは違います。というか、彼らこそ本当の人間であって、普通の人は人形みたいなもの ですからね。(^^ゞ  昔、悪霊に取り付かれた家がございました。その悪霊をなんとか取り払って欲しい。と若い坊さん が相談を受けました。が、どうすればいいのか分かりません。そこで物知りの和尚さんに相談 したところ、こう言われました。 「このお経をその部屋の中で一晩中唱えなさい。ただし、悪霊が色んな悪さをしますよ。姿を変えて 驚かせたり、幻惑したりして部屋から追い出そうとします。それでも一晩中、絶対に障子を開けて 外に出てはいけません。もし障子を開けて外に出ようとすれば悪霊に殺されてしまいます。 どんなに恐ろしいものを見ようが聞こうが、それは悪霊の幻に過ぎませんから、ただ一晩中、お経を 唱えていればいいのです。朝になれば悪霊は去って生きます。」 そして、若いお坊さんは覚悟を決めて部屋でお経を唱えました。すると恐ろしげな物音と共に怪物 が現れます。怖かったのですが、彼は必死でお経を唱えました。 その後、亡くなったはずの母親の声が障子の外から聞こえてきます。「お前の姿が一目見たい。 こっちに来ておくれ」と。しかし、和尚さんの言葉を思い出し、これも悪霊の仕業に違いないと誘惑を 振り切りました。 すると今度は、「私はお兄さんと幼い時に離れ離れになった妹でございます」という声が聞こえて きました。そう言えは自分に妹がいると聞かされたことがある。それでも彼は会いたいという気持ち と涙を押し殺してお経を唱え続けました。 そうこうしているうちに空が白み、悪霊の声は聞こえなくなりました。ようやく夜が開け、小鳥の鳴き声 も聞こえて来ました。「自分は悪霊の誘惑に打ち勝ったんだ」。 そう思い、彼は障子を開けました。 しかし、外はまだ真っ暗。そのお坊さんは悪霊に殺されてしまいました。                                      (清原氏の著作からの一文です) ・・・・・・えっー、これ、部屋に時計があれば、こういう失敗はしなかったですね。(^^ゞ 何ていうのは なくて、悪霊が時計を操作するのは朝飯前だったでしょう。 浦島太郎の物語とは全く違って恐ろしさ百倍です。 ※山道を歩いていて、やっと頂上か。と思いきや、単に人工樹林の森が終わっただけで、ここから 自然林の深い森が始るのでした。頂上はまだまだ遠い。(笑)

雑

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中平卓馬回顧展  https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/28422 ウイキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B9%B3%E5%8D%93%E9%A6%AC 生年月日は1938年7月6日とあり、そして、1977年9月11日未明、酔いつぶれて昏睡状態に陥る。 意識は回復したものの、言語能力と記憶に障害が残る。・・・とあります。 私はこういう写真家をあまり評価しないですね。 「アレ、ブレ、ボケ(荒い画面、手ブレや被写体ブレ、ピント外れの意)」 この意味を中平は理解していなかったように思います。今にして思えば、アレ・ブレ・ボケこそは、 当時の時代の、画像溺愛、画像に浸りすぎることを諌めていた写真手法であったのだろうと思うの ですが、つまり、それで本来の写真行為に立ち帰ろうとする運動のようなものだったろうと考える わけですが、中平にはそこまでの思考がなかったのだろうということです。 もしかすれば彼は全てが、模倣の人ではなかったでしょうか。 そして、デジタル時代におけるモノクロ写真とは、あの時代のアレ・ブレ・ボケのようなものかも 知れないなという気がしています。 https://www.1101.com/n/s/kotaro_iizawa/2021-04-10.html   当時というのは60年代後半、闘争の時代。   そうですね、70年代はじめくらいまでの、   政治や社会が揺れ動いていた時代です。   そこへ「アレ・ブレ・ボケ」が、出てきた。 ・・・とあって、時代背景は必ずしも良い時代ではなかったわけです。 その時代に登場したのが森山大道ですね。   何を撮るかを決めず、   カメラだけを手に持って町に出かけて、   目の前に現れたものを捕まえていく。   何人か、そのスタイルの先行者がいて、   独自の方法論として   確立していったのが森山さんだった。 ・・・森山は、写真を画像ではなくて、もっと広い写真行為として捉えていたように思います。そこに 森山と中平の決定的な違いがあるように思えます。 森山大道 https://www.1101.com/daido-moriyama/index.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E9%81%93 しかし森山が世界的評価を受けるようになったのは、森山が50歳代になった90年代以降なんですね。 https://www.youtube.com/watch?v=xLsEpQV_DqA https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_aad3c16c-fdf4-4687-a06e-76519fbf768a.html 森山は1938年10月10日生まれですので、中平とは同年代です。しかし人生後半の様相はまるで 違っていました。その違いは何かというと森山は撮影が主体であり徹底的に東京を歩いたということ ではなかったですか。しかし中平はそうではなかったようです。 中平は終生、写真を画像論としてでしか捉えられなかったのに対し、森山は撮影における歩きを 重要視しました。その違いが人生後半において決定的な相違となって表れたとしか思えません。 とにかく、アレブレボケもデジタル時代のモノクロ写真も、共通するのは画像に比重を置きすぎること への考え直しや再考察のように私には思えます。その本質は、写真とは画像だけで考えるものでは ないということなのですが、しかし写真=画像=作品というモノだと信じて疑わない人からは、それ らは新しい画像の表現の様式としてしか思われていない点です。 そこに大きな齟齬があるのではないでしょうか。その食い違いの主な原因として、写真を受け取る側 はモノとしての写真でしか作家・撮影者と接することができないからでしょうね。 アレブレボケもデジタル時代のモノクロも、その時代の写真の画像力を弱めたものです。情報が 不足し、美的魅力も減退しています。しかしそこを狙っているのですから当然です。 ですから私は写真を画像の視点からではなく、どのように撮影をしたのか、どういう考えて撮影をする のか、という観点でやっていかなければならないと思ってます。写真よさようなら、ではなく、本当は、 画像よさようなら、ですかね。 しかしこの考え方は永遠に人々には理解されないことだろうと思います。森山がリバイバルできたのは 黒白写真というカラー時代での新鮮さからでしょう。都市化という時代にもマッチしていたでしょうし。 一般的には理解できなくとも、実際に写真をコツコツと撮っている人間からは、森山の真髄は理解 できるのではないでしょうか。また写真に初めて接する優秀な若い人からも理解可能かもしれません。 アレブレボケ写真は、ほんの数年しか続きませんでした。一時の流行だったわけですね。もっとも 森山などは生涯、その写真手法で続けたわけですから、時代と個人とは違います。 アレブレボケ写真に違和感を感じた写真人は多くて、嫌われた写真だったろうと思いますね。期しくも 私はその時代に写真を始めたということもあって、当然に若くて、アレブレボケ写真に新鮮さを感じた ひとりです。 同様なことはデジタル時代のモノクロ写真にも言えるだろうと思ってます。流行として(実際は流行にも なってないけど)は数年で終わるはずです。しかしここでも時代の流行と個人の考え方とは違います。 デジタルモノクロームをずっと続ける写真人もいる筈ですね。 そしてカラー写真は魅力的です。高級機材を使ったカラー写真には多くの人が虜になっているわけ です。こういう私もそのうちの一人であるわけですが、その魅力には抗し難いものがあるわけです。 しかし森山は生涯、その写真の持つ画像の魅力というものに囚われることはありませんてした。森山 が世界的評価を受けているのは、真にはその理由に拠るはずです。 しかし森山がアレブレボケ写真を長く続けられた本当の理由については、語られることはありません。 https://www.youtube.com/watch?v=y9ZNw19idcI https://www.youtube.com/watch?v=Kjb58Gtx9Iw 森山の撮影光景が見えますが、想像以上に歩いている。走っている場合もあるんですね。私の予想 は当たったなって感じです。80歳になってもこういう撮影がてきるってのは本当に驚きでした。 余談を書くと、占星術では森山は土星がとても強いです。なるほどっていうところです。

雑

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写真とは何か、ではなくて、写真をするということは何なのか。と自問すれば、それは見聞なの ではないかと思うようになりました。自らの見聞を広めて、しかも確度を高めるということ。机上論 ではなくて、実地での思考をするということではないでしょうか。 こういうことはあまり考えたことはないのですが、改めて自分の写真とは何だったのかと問うと、 自分の思考の広さと強さ、そして正確度なのではないかと思うようになりました。 多くの人達の思考というか考え方は大体は人様からの見聞であって、他人から聞いたことを そのまま覚え込んでいるに過ぎないと思います。そこに自分の思考というものが少ないですね。 誰それが、先生やテレビが言っていたことを、そのまま真実と思い込んで自分の考え方とする。 それは違うと私は思うのですが、大概の人達はそのようにしていると思います。 自分独自の思考を持っている人などは本当に少ないと思いますね。 写真という行為は、もしかすれば反社会的な行為かも知れないと思うときがあります。少なくとも 今のロシアとか中国とかでは本当の写真はできないと想像できます。ああいう権威主義的(専制 主義)国家では自分の考え方を持つことが許されないからです。 写真を美学そのものたと思っている人は、ロシアやチャイナでも写真ができるでしょう。国家が 定めた美学の方向に何の疑いもなく模倣するだけでよいのですから。 北井一夫氏の「村へ」という写真集に感銘を受けた自分なのですが、考えてみれば北井氏は東京 の下町ま生まれでしょう。そういう彼が成田空港建設の反対運動を撮影することがきっかけとなり、 つまりは村へ行き、これまでは見知らぬ世界だったことへの見聞を広めることになったわけです。 そういう意味での見聞であり、写真行為だということです。 そして良く知る為にはカメラや写真が必要であったということ。そこに机上論の空想過激思想は ありません。そこが桐島聡とは決定的に違っていたということ。 多くの一般の常識人とか社会人というのは、都合のよい人達です。そういう人達ばかりだと為政 するのは楽ですね。しかしそうではない人達が一定数います。多分、写真をしたいという人達は そういう、世間から見ると、まつろわぬ人達の中に入るのではないかと考えられます。 それから写真をする人間は自然人だと思います。それは常識人とか社会人とかとは反対の側に いる人達かもしれませんね。でもそういう自然な人達がいるからこそ、この社会が危うくなった時、 その方向性を正してくれるようにも思えます。 私は思うに、写真をすることはとても自然なことであって、息をするように飯を食うように写真を撮る ことだと思うのです。ですから写真に妙な美学や芸術というものを挟み込むのは根本的に間違って いると思っています。そして自然な写真行為を続けることの結果として、見聞が広まっていくという ことではないですかね。この見聞を定見の確立と言い直してもよいですし、要するに自ら考えること への習慣付けのようなものです。 それで長く写真を続けていくと、その積み重なった見聞は深い地層となり、個人を強く大きくしていく のではないですか。こういうのは物知り博士やAI人工知能には絶対に出来ないことだと思います。 写真人は、その思考の裏づけに、自ら見た撮った動いたという背景があるのであって、これは写真を しない人間には得られない、たぶん想像もできない利点だろうと考えます。百聞は一見にしかず、 とはよく言うことですが、 百聞は一見にしかず(何度も聞くより一度見た方がいい) 百見は一考にしかず(何度も見るより一度考えた方がいい) 百考は一行にしかず(何度も考えるより一度行動した方がいい) 百行は一果にしかず(何度も行動するより一度成果を出した方がいい) こういうのもあるのです。それで写真行為とは、上の3番目までは自動的にやっていることになるよう です。もちろんそれは正しく写真をすれば、という意味です。そういうことが自然に身についてくると いうことで、けっこう自信を持っても良いのではないかと思ってます。 写真には落とし穴がありますね。 これに嵌ってしまうとなかなか抜け出せないですし、全てを無駄にしてしまうところがあります。 それは画像です。写真ではなく画像に入れ込んでしまうと、正しく写真をすることができなくなります。 綺麗なものばかり撮っていてはいけませんね。

雑文

雑文

私は長い間、写真をやりすぎた感があります。それでちょっと世の中から遅れてしまっている感覚を 最近は抱いてますね。なんというか写真趣味って、老人の隠遁生活という気がしないでもなくて、 確かに写真をすることで、私でも歩きの健康法というのは身についてきて、それはとても良かったと 思ってます。 しかし残念ながら世間からずれてしまっている感覚は拭えないでいるのです。ここらは大いに反省 するところです。 写真は所詮は道楽だと思ってます。それでなにか得られるものというのは、ほとんど無いのではない かということですよ。金と労力と時間の無駄遣いというか、そういうことを私は20年はやってきたという ことで、これは猛反省どころではなくて、そんなことよりも、これから失われた20年間をどのようにして 取り替えそうかと思案中です。(笑) しかしよくよく考えてみれば、この20年余というのは何方にとっても無駄に過ごした時間ではなかった ろうかと考えるのです。そういう時代だったということで、みんな眠っていた時代だったのではないで すかね。しかしもう、既にそういう時代ではなくなりつつあって、皆さんは目覚め始めているのでは と考えています。 写真は限界集落を撮影中に出会った猫。むろん飼い猫ですが野生を忘れていない鋭い目つきで気に 入りました。データはDNGファイルで、画質的にはRAWとJPEGの中間に位置するようです。

無題

無題

歌詞 https://www.uta-net.com/song/62063/ 綾香さんは30代半ばですか。つぶあんさんより世代は若いです。歌唱力があり人気歌手ですか。 まあ私が気に入っているだけで取り立ててつぶあんさんへのメッセージというわけではないんです。 でも、歌詞の中で、「光差す方へ」とか、「想い重なり花開く時」「信じていれば叶うから」、というのは、 つぶあんさんにも相応しいかなと思ってます。 写真に於いて、普通の人が撮るのは自分への記録写真です。実は私もそうでして記録写真しか 撮っていません。今の若い人がスマホで観光地で自撮りするのもそう。自分がそこに行ったよ、って いう、存在証明なんていう大げさなものでもないくらいの記録写真なんですね。 それがアルバムとして積み重なってくると結果的に個人史という存在証明になるのかも知れません。 しかし写真を趣味とするアマチュアの人達は少し違います。最初から美学的な創造性を目指してます。 そこは普通人(写真には素人)と、アマチュア&ハイアマチュア人の大きな違いです。ですからアマチュア は高価な機材を投入するんですね。つぶあんさんだって、リミテッドレンズを使っているじゃないですか。 普通人だとコンパクトで便利な標準ズームを使うはずです。私も標準ズームばかりで撮影してますから 普通人の仲間ですよ。(笑) とはいえ、この記録性と創造性は明確に区別するものではなく可変連続的なものですから。私だって 偶には創造性に引かれて撮影することがあります。 創造性に大きく振っていると思われる、つぶあんさんの写真も、見方によっては自分自身の記録で あり存在証明とも言えますから。それはつぶあんさんもご指摘されているとおりです。 観光地に行く普通の人が、眼前に広がる光景を味わっていないということはないと思います。つぶあん さんのように時間をかけて細部を見ないだけで、彼らなりにスピーディに見ているのですよ。 例えば私が山道を歩くとき、行きと帰りが同じ道の場合には、行きでは徹底的に道を覚えます。木々とか 岩とかの様子を頭に叩き込みます。帰りはその記憶を元に確認しながら歩くんですね。そうしないと 道に迷ってしまうからです。特に山深い奥山ではこの記憶能力は必須であって、遭難を防ぐことに繋がり ます。何よりも大事なのは方向感覚であり、これは記憶とそれを基にした演算の結果です。 そういう場合、細かな細部は観察もせず記憶もできません。何よりもスピードが大事です。のんびりとは 出来ないんですね。山道を歩くには自分が撮った写真なんて役に立ちませんから。 観光地でも同じであって、忙しいスケジュールを円滑にこなす為には時間をかけて観察をしている暇は なく、それなりのスピードで彼らも風景を堪能しているというわけでしょう。 そうですか。子供のころに登った山に登られましたか。おめでとうございます。(^^ゞ  まずはそこから出発ですね。山の地主さんに聞いても何も分からないと思いますよ。先祖代々から受け 継いでいるだけで大した話は得られないでしょうから。 今はまだ小さな山でしょうが、これから徐々に大きな山に登られることをお勧めします。大きな山だと麓 は個人の土地ですが、上の方は国有地となります。道に迷わないように事前の準備(山道の調査)をして 登ってくださいね。とにかく徐々に体力を付けながら山に挑戦するのがコツです。 山に物質世界と精神世界があるというのはそのとおりです。物質世界とは山を経済的に利用する立場 ですね。畑があったり植林をしていたりします。昔は山から落ち葉などの肥料や炭焼きなどの燃料も 得ていました。 川があれば、その水を平野部の水田に利用します。水は山から得られるのであって特に重要です。 精神的には山は山岳信仰と深く結びつきますね。身近には麓に地蔵巡りなどがあって、地元の人々 の身近な信仰の対象となります。 山岳信仰は、私が少し前に訪れた平安時代の山寺の廃寺跡もそうです。深い山に仏教の修行者達が 寺を構えていたわけですよ。 山は里人にとっては経済的な支えであるわけですが、同時に山自体が人々の信仰の対象でもあった わけですね。山は多くの人々の精神的な支柱でもあるということて、俗世間(平野部や街部)とは違う 立ち位置にあるようです。こういうのは寺の住職さんと是非お話してみてください。(^^ゞ  投稿写真は老人が作ったろう、里山にあった下世話な看板です。いろいろと書かれてますが、大事 なのは1番だけであって、「念ずれば花開く」とは「四六時中その事が脳裏から離れない」ですか。 これは本当です。

無題

無題

「冬陽」「光路」など、光をモチーフにした写真だと、やっぱりカラー写真でないといけませんね。 それから、光が射す、というのは何とも縁起が良いじゃないですか。冬の凍てついた大地に光が さすのです。 つぶあんさんのこれからの人生に於いても、これからきっと光射すようになるのではないですか。 それを期待して光の写真を撮り続けることは有意義なことのように思いますね。 縁起担ぎというのは、つぶあんさんは意味を認めないかもしれませんが、私はそういう縁起の 経済人類学というのもあって良さそうだと思っています。 深く願うことはきっと実現すると。 写真をされる方は、大小はあってもすべからず創造性というものを心の底に内包しています。 私のような美意識や芸術性を問わず、記録写真一辺槍の人間であっても、きっとどこかに創造 性の片鱗を追い求めているところがあるんではないでしょうか。 この根本にある創造性の衝動から、写真人はどうしても写真を撮りたくなってしまう。 そしてその内包された創造力こそが、人をして人生を豊にするのではありませんか。ですから、 私は写真が好きで実際に写真を撮っておられる方は、皆さんクリエイターだろうと思ってます。 創造すること、それがなによりも、人の人生を幸福にするのではないですか。 綾香 https://www.youtube.com/watch?v=gtCjUOU3sjQ 音楽で一番大事なことは、歌詞だろうと思ってます。 写真は讃岐山脈から南方を遠望したもの。吉野川を跨いで徳島方面の四国山地が立ちはだかり ます。延々と続く山々を抜ければ太平洋にでます。現在では高速道で、約1時間走れば香川から 高知太平洋に出られます。 前掲したタワー写真は、高知県くろしお町佐賀の日本一高い津波避難タワーでした。その姿は 帝国日本時代の戦艦か空母のような威容を誇りますが、2色で塗り分けられとても綺麗です。 小さな街にとっては鋼鉄の天守閣といっていいほどにシンボル化しています。

妖精

妖精

つぶあんさんの写真には大きな特徴がありますね。自然の草木を撮り、空だったり水面だったりも するんですが、大よそは接写撮影で、そして部分の切り取りが多いです。 そして差し込む光(朝日なのか)をモチーフにしているところも。極めて美意識的で、メルヘンチックな イメージがあります。 きっとこういう世界に住みたいと願っているというか、いや既にそういう世界観に住まわれているの でしょうか。私の居るところはここですよって、囁いているようで、もしかすればつぶあんさんは 人ではなくて妖精なのかも知れません。 世の中にはこういう人間の生き方もあるんだなって、不思議に教えられるところがあります。 人の命の表現は無尽蔵だなって感じます。 一方、私はつぶあんさんとは対極の側にいる人間かもしれません。俗物的で詩や文学を理解する ことも出来ずで、撮る写真といえば記録写真オンリーです。 写真はその人のこころや生き場所を表現することができる。カメラがひとつあればそれには充分に 事足りる。そういう気がしてきました。 投稿写真は山道で見つけた越冬中の蝶のようです。強風に吹かれながら、笹の葉にしがみついて いました。持ち上げると蝶は手足が少し動く。春になるまで何も食べず飲まずで過ごすのでしょうか。 よく知りませんが、健気だと思わずにいられず、撮影をした後、そっとそのまま元に戻しました。

ニューモノクロ

ニューモノクロ

自分のことを言うと、10代末から黒白フイルム写真をやって、それがほぼ10年ほど続き、以降は写真 趣味から遠ざかりました。黒白写真自家現像をやれなくなったのが直接の理由ですが、フイルムカラー (ネガ)に行こうという気には一切なれなかったのです。それでスパッとやめました。 写真趣味を復活させたのはデジタルになってからです。最初はフイルムで撮りスキャナで。そして デジカメとなりました。 なぜ自分はネガカラー写真をやらなかったのか。それを思い出そうとしているのですが、やっぱり絵が 雑だったからではないでしょうか。それと写真屋に全て他人に任せてしまうというのが気に入らなかった というのがあります。写真の現像やプリントは自分でするものであって人任せでやるっていうのはね。 その点デジタルになるとパソコンの助けを借りながら自分でやることができます。そこは気に入りました。 モノクロ写真は画質的に綺麗な写真をすることができますね。まず解像力が上がったような気がします。 そしてノイズ(昔は粒子感と言った)も、カラーに比べて気になりません。 カラー写真は色情報を載せようとして色々と無理をしている。そういう気がしています。 しかしまあ、そういう技術的なことはどうでもよいのかもしれません。 私が今回デジタルで黒白写真を半年ほどしてみて、痛切に感じるのは黒白という絶対的な不足感と いうものが、きっと私の心の琴線を引いているのだろうということです。 不足はしているし貧窮ではあるんだけど、それでも必要にして充分な写真を得ることができる。そういう ある意味で、貧乏でみすぼらしく写るという、そういう写真に心引かれたのだと感じています。 ペンタモノクロ機を手にする直前、国産レンズでは最高といわれるレンズを購入しました。流石に凄い と思わせる描写でしたが、それで心が晴れたかというとそうはなりませんでした。ああこんものか、と いうくらいの感想しかなかったわけです。ただその重いレンズを持って歩いて、これはなかなか運動に なるわい。ということで少しばかり嬉しかっただけです。(笑) もしかすると私はその時点で、カラー画像に無意識的に見切りをつけたのかもしれませんね。 これはもう沼ばかりで島が見えない。取り付く島がないよな。(笑) ということだったのかもわかりませ んね。 黒白写真は豊かさからは(敢えて)背を向けた写真である。そう自分では捉えています。 私はもう二度と豊穣の海に住むことはないだろうと思ってます。清貧の思想とでも言いますか、そういう 不足感がある世界に身をおきたいと考えているのです。それには黒白写真が最も仏和しいということ ですかね。 その考え方の背後には自分のいき方、自分なりの思想感というものがあるのだろうと考えてます。 つまり、私はカラー写真を捨てた人間なのかもしれません。 この掲示板を長くみていくと、写真趣味を捨てた。という方々が累々とおられます。そういう屍の上に いるんじゃないかって感じるほどです。私は、はしたなくも恥知らずも未だに写真をやっている。そういう 負い目が結構あるんですよ。いい加減、やめちゃったらいいのにね。と思うこともありますが、それでも 未練がましく続けている。(笑) カラー写真はやめたけど、黒白写真ならば別世界としてやっていけるのではないかということなんです。 そういうことで、私にとっては、カラー写真と黒白写真は明確に分けて考えているものなのです。そこに は二つを分け隔てる大きな乖離というものがあるのです。私はそう捉えています。 しかしこれはあくまでも私個人の感想であって、今の人はそのように考えるべきではありませんね。 カラーとモノクロを自由に行き来できるのが、新しいモノクロ写真の考え方だろうと言えます。 デジタルフィルターを使ってモノクロに・・・というのは、カメラに搭載しているRGBカラーフィルターの効果 を使っているということですか? カラーカメラをモノクロで表現する場合、各色の濃度を調節してモノクロ 化するのは有効ですね。フィルターワークが使えると写真の幅が広がります。出来ればRAWデータから それを行うと拠り一層効果を高めることができるでしょう。 新しいモノクロ写真は基本的にRAWカラーで撮影し、それからファインチューニングして作品としてモノク ロに仕上げるという具合になるだろうと思います。 つまりカラーは最終的にモノクロにする為の一過程に過ぎないということ。 つぶあんさんをみていると、そういう新しい形態のモノクロ写真の息吹を感じます。デジタルモノクロ、 ニューモノクロの世界がこれから見えてきそうです。 ネットのAIサービスで、モノクロ写真をカラー化するものがあります。無料版では大した物は出来ないの ですが、AIができるのならば人間はとっくにやっているはずですね。つまり、モノクロに慣れた人ならば 黒白画像を見ても心の中でカラー化して見れるのだろうということです。カラー化してというのはちょっと 御幣があるんですけど、つまり、モノクロを自然なものとして見ることができているということです。 自然現象のひとつとしてモノクロ画像を見ることができる。 私は写真はそうあるべきものだと思うんです。モノクロ写真こそが自然であって、色が付き過ぎた写真は 返って不自然であるという具合に。もしかすればそこにこそ、これからの写真や映像の未来が潜んで いるかも知れませんね。

雑文4

雑文4

つぶあんさんのコメントには考えさせられることが多いです。何しろ本格的に黒白写真を やっておられる方は少ないからです。それで私としてはとても参考になっています。 少し理解できないのは、「モノクロの眼」というところですね。そんなものがあるのでしょうか。 モノクロの眼でもって撮影に臨むというのは、ちょっと私には分からないです。 ただ結果として、黒白写真ばかり撮っていると、その撮った画像を見ていく内に、自分はもう カラー写真というものから離れてしまって、黒白写真の世界に突入しているのだとは感じて います。 カラーの、特にRAWカラーのキラキラした絵には違和感を感じるようになっているのです。 カラーはJPEGも含めて色イロ、RAWカラーはキラキラ色イロですかね。(^^ゞ  そうするとモノクロは渋いです。シブイといいますか、貧相ですし制限が掛かっていますし、 ワビサビとも言うかも知れませんが、派手さ艶やかさは一切ないです。最近はそういう 画像が気に入ってしまったというか。 つぶあんさんは、JPEG撮影の拘りというのを書かれていましたが、RAWと比べれば簡単で あるというのは理解できます。 私の場合はキャプチャーワンという大変使いやすいRAWソフトを使っていますので、あまり 感じなかったのですが、シルキーピックス(ペンタがそう)やライトルームというRAWソフトだと、 とっても使いにくくて嫌になることがあります。 それでペンタモノクローム機は思い切ってJPEGで撮影することにしたのです。(ただし保険 としてプラスRAW記録はしています) 画質としてJPEGよりもRAWが優れているのは間違いがないところです。レンズに例えれば、 リミテッドレンズがRAWで、廉価レンズがJPEGというくらいの差がありますからね。 ただモノクロ写真の場合は、カラーほどの差は感じなくて、JPEGでもけっこういけるって感じて います。それはカラー機をモノクロモードで撮影した場合もそうなんですね。 私の考えでは、カラーもモノクロも基本的には変わらなくて、ただ画像の派手さが違うだけ だって、簡単に考えています。モノクロ撮影だからといって特別に構えることも考えることも ないですしね。 ただモノクロ写真ばかりするようになって、私の写真への考え方や感じ方。そういうものは 随分と変わってきました。今までは無駄が多すぎた、飽食でありすぎたのだと反省ができる ようになりましたからね。 写真は充分にモノクロ、黒白写真で出来るものであって、今までのカラー、特にRAWカラー は無駄ばかりしていたなって思うようになってます。 一般的に言っても、カラーのスクリーン・モニター画像というのは怖いなあっていう感じです。 写真だけでなく、パソコンやテレビやスマホの、あの派手すぎなカラー画像は全てが食わせ 物であったということまで考えられるようにまでなりました。 そしてスクリーンモニター依存症というものがあったとすれば、それはカラーのキラキラ色イロ そのものだったんだろうということです。 とにかく、これまでパソコン趣味からデジカメ趣味まで長年道楽をやってきて、今回ほど考え させられたことはなかったです。 モノクローム専用機というのは、フイルムカメラとも違って、モノクロでしか撮れないカメラです。 言い換えれば徹底的にカラーを拒否しているんですね。カラーと同衾しようとか住み分けよう とか、そんなことではないような気がします。 頑なに、この世の中の一切のカラー現象を拒絶しているような機械に見えてくるんです。 そういう機材を使ってしまった、というところから、私の黒白写真は出発しているのかも知れ ませんね。 まだまだ考えは纏まりませんが、私の黒白写真への感じ方や考え方は特別かもしれません。

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① 昨年の写真としての私の1年は、自分なりに大きな出来ごとがありました。前半はいつものように レンズ遊びでやりましたが、しかし後半はどんでん返しの黒白写真ライフに大転換してしまったのです。 この黒白写真ばかりの撮影がいつまで続くのは分かりませんが、今の私の写真のスタンダードは 黒白写真であり、もう二度とカラー写真が主体になることはないのかなあ、という感じになりました。 カラー写真と黒白写真には、実は大きな違いというか隔たりがあります。同じ写真として一括ることは 不可能ではないのか、とすら思っています。それはまったく別の写真文化なのかもしれないと感じて います。 黒白写真は、思うにフイルム時代の自家現像の経験がなければできないのではないか?とすら 感じます。 例えば、俳優の佐野史郎さんが黒白写真の愛好家ですが、彼の母の実家が老舗の写真館。そして 医師だった父が写真マニアだったということで、氏は子ども時代から自然と黒白写真に接していたと 言います。薫陶を受けていたと言っていいのかもしれません。それくらいの経験というか環境がなけれ ば、黒白写真の良さというものは実際のところ分からないかもしれませんね。 つまり黒白フイルムでの体感的な経験の有無が必要なのかも、とすら感じています。 面白いことにカラー写真も黒白写真も、それはフイルム時代でも現在のデジタルカメラであっても、 同じ機材が使えるという不思議さです。フイルム時代はカメラに入れるフイルムを変えればとぢらでも 可能であり、デジタル時代ではカメラ設定、もしくはPCソフトでの変更だけで選択が可能です。 それぼとに近似であって親和性が保たれているのに、その両者は文化として異なるという具合です。 しかし黒白フイルム写真の経験や記憶があるような人は稀ですね。佐野さんにしても父が残した膨大 な黒白フイルムや写真を見て、それで黒白写真の良さに気がついたと申されていました。もしその父の 遺産がなければ佐野さん自身も黒白写真に目覚めなかったかもしれません。 私の場合にしても、過去の黒白フイルムの経験は淡く封印されていて、それが目覚める切っ掛けは 黒白デジタルカメラの購入がきっかけになっています。もしこのカメラを手にすることがなかったならば、 もしかすれば私も永遠に黒白写真に向かうことはなかったのではないかと感じています。 このちっょとした切っ掛け。歴史時間の揺らぎのようなものが、その後の人生の歴史時間を変えてしまう という不思議さですか。そういうものもあるのかも知れないねっていうことですか。 私が黒白写真をするようになってから、その劇的変換は、無駄なことをしなくなったということです。 無駄だったこと、贅肉を削ぎ落とせたということですか。それは機材にしても、時間にしてもそうでして、 シンプルさが増したということです。 もう何度も記しましたが、カラー写真のもつ属性である、キラキラと色イロがない黒白写真は、それを 製作する人間に対してもキラキラ色イロ感覚を削いでくれるようです。このキラキラ色イロは考えてみれば 写真自体の本質ではありませんね。言わば過剰な付加物であったわけですから、黒白写真に転換して も写真そのものは変わらずで、事実、私の写真の撮影はちっとも変わっていません。 すでに撮影そのものは黒白写真に行くまでに自ら自覚して贅肉を落としスマートにしていたからでしょう。 それで大きく影響を受けたのは、機材に対しての無駄な欲望がなくなったということになります。 カラー写真はまさに豊穣という言葉が当てはまります。それは色情報が多岐に渡り、カメラやセンサー、 レンズの、種々の影響を複雑に受けて多様化するからです。それらをいちいち抑えていけば切がない ほどです。 黒白写真をそれらを無駄なものとしてバッサリと刈り込んでいくわけですね。そりゃあ、機材に対しての 欲がなくなるのは当然なのでしょう。 黒白写真に行くまでに、私自身は既に自分の写真行為は、写真という画像ではなく写真を撮影するという 写真する行為の方に向いていました。つまりはカメラを手にして、それを手土産にして、自分が撮影に かこつけて歩く行為自体が目的であるという風に。 とは言え、やはり撮った写真の画像は気になるものです。撮った写真をあまり見なかった私ですが、 この獲得画像の縛りというものはやはりあったわけで、それでレンズ遊びなんかもしていたわけですね。それを徹底排除できたのはやはり黒白写真です。 黒白写真をするには、その黒白の表現の良さ、奥の深さとでも言うのですか、と、いうものを自覚できな いと行えません。これがない限りは黒白写真を永続できず、カラー写真のキラキラ色イロに留まるという ことになります。 これは本質的にはその人個人の美学の問題です。黒白に美意識を見出すのは、多分、不足感という 独自の美意識を理解できていないと難しいかもしれません。例えば水墨画とか枯山水という美意識は 決してカッコイイものではないと思っています。それは不足していて、貧であり、さびしいものです。しかし それで十分に事足りるという強さがないと理解できないものかもしれません。 デジタルモノクロームではわかりませんが、商業印刷ではカラーとモノクロではコストの違いは大きいの です。版代が4倍となります。日本画ではさらに差があります。岩絵の具は高く金箔ではもっと。水墨画 は墨のみなので安くあがります。こういうコストの面から考えるとカラーとモノクロには大きな違いがある ことになります。 デジタル写真は基本がカラー対応なのでそういうコスト面のことを考えることはありませんが、本来は カラーとモノクロには大変な差があるということです。フイルム時代のカラーとモノクロにも大きな違いが ありましたね。 そうは申しても、黒白写真は何も我慢するだけのものではなく、そこに積極的な美意識を見出さなけれ ば長く続けることはできません。黒白写真も極めれば黒白専用機とか、カラー機でも多画素高画質の カメラが必要になり、レンズも良いものとなるのですが、そこまで行ってしまうと黒白写真の本質を踏み 外すことになりかねないので注意が必要です。 私はまだ黒白写真の撮影はJPEGの小サイズでやっています。同時記録でRAWも保存していますが、 まあ滅多に開けることはありません。まだまだ黒白写真としては入門クラスだと自覚しているので、 カラー画像の見えないJPEGで行こうというわけです。そして何といっても、JPEG撮影は簡易で無駄を 最小にできる点が高評価です。 画質はRAWでの黒白現像に比べれば随分と落ちるわけですが、そういう画質意識は写真の本質とは 違うと思ってますので。こういう意識もカラー写真時代ではなかったことで、黒白写真にしてから芽生えた 新しい意識です。 デジタルカラー写真は、何が何でもオーバースペックで、オーバークオリティです。まず撮影量からして フイルムとは桁違い。撮影スピードもそうです。昔はクオリティも劣っていたデジタルですが今は完全に 逆転しています。この過剰なスペックにユーザーは振り回されているという気がしないでもありませんね。 その過剰さを本来のユーザーの等身大に戻す、振り返るという意味で、現在のデジタル黒白写真は 意味を持つのではないでしょうか。 そういうのはデジタルの、ピントがシャープすぎるという反発からマニュアルレンズでの撮影に。というの もそうでしょう。撮れすぎるへの反発からマニュアルピント、マニュアル露出、三脚撮影というのもあるはず です。 そう考えれば黒白写真も、そういうゆったりとした使い方をしたいっていう、ユーザーの意識から行き着く ひとつの到達点だとも言えます。 ※投稿した写真は年末恒例の金比羅山参拝での撮影。レンズはいつものシグマではなくて、ペンタックス 20-40ミリです。やはりシグマと違い、諧調が豊かですね。小型レンズなのでバッテリーグリップ不装着で 撮影。陽も落ちているのですが良い描写をしてくれます。RAWで現像すれば格段によくなるのですが JPEG小サイズでの撮影。

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④ 里山歩きには医者いらず・・・これで理解できたのが、里山の中腹から麓にはお地蔵さん巡りが多くの 山で設置されているんですね。 なぜ山なのか? ひとつは場所の問題。平野部は耕作で貴重です。山だとその辺は緩やかです。 しかし何といっても大切なのは、お地蔵さんを巡り参拝するのは老人であるということ。現役から退いた 隠居の老人。特に長生きするおばあちゃん。 おばあちゃんは歳をとっても元気でいて欲しい。その願いが里山に地蔵さんを作ったのではないです かね。おばあちゃんはただ地蔵さんにお参りするだけでなく、花も添えたり涎掛けなんかも着せたり します。信心深いおばあちゃんであるからこそ、山で歩いて健康で長生きできるというわけですよ。 お地蔵さん巡りの社会人類学とでも言えそうな思いつきの考察ですが、案外と外れてはいないと 思っています。お地蔵さん、これを石屋に作らせて(けっこう金はかかりますよ)、それを山にまで持って いって設置して、当然に道も作り、メンテナンスもし続けないといけません。 こういう一種の宗教的なインフラとでもいうんですかね。村人がお金と労力を出し合って造るわけです が、その効果はあるのだということで、村人は納得しているわけですね。 「里山歩きには医者いらず」。おばあちゃんが長生きはしても病気だとすると大変です。お金は掛かるし 世話もすることで若い人の労力が削がれます。 「写真趣味老人に医者いらず」。・・・そういうのもあるんではないですか。(笑) お爺ちゃんには長生き して欲しいけど、病気で寝込まれると困ります。ボケても困るし。いつまでも元気でカメラを持ってそこら 辺を歩いてくださいな。と、若い人が言っている様な・・・気がしませんか? ※写真はフイルム時代の50ミリF1.4レンズ。ちょっと柔らかすぎて黒白の風景写真には向かないかも。

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⑤ 黒白写真にしてから、ほんとうに機材に関しての意欲がなくなって、撮影意欲は衰えないですが、使う 機種は限られてます。これまでに良く使ったカメラは、ペンタK3M3Mとイオス5DS/5DS2・3と、二コンD800 くらいかな。ペンタK2やシグマも1回使ったか。何故かそれ以上に使いたいという気がおきないんですね。 しかしこれは考えてみれば、普通のカメラマンと同程度であるわけですよ。 ではなぜ自分は多機種に渡ってカメラやレンズという機材を手にしてきたのだろうかというと、そういう 疑問が当然に涌くのですが、それは各種の機材の相違が見えてくる良質な受動機、パソコンやモニターと いうものに投資をしてきたからだと思うんです。 そういう受動機というか受信機に、普通はあまり投資しませんね。適当なやつを1つ買ってそれておしまい です。ですからカメラやレンズを換えても違いが分からないというわけです。 ということで結論付けられるのは、多機種に渡って機材を試されているユーザーは、それなりの受動機 システムを持っているということでしょうね。逆算すればそういうことになりそうです。 しかしこれもまた、オーバースペックであって過剰投資であったということになります。 それともうひとつ、画像を受け取る人間側の問題もあるでしょう。例をあげると味音痴の人は何を食って も同じであるということ。そういう裏事情もあるのかもしれないですね。 ともあれ、使う機材が少なくて済むというのはメリットであって、メンテナンスが容易であり保管場所にも 困らないということ。大変にコストパフォーマンスに優れています。なにも考えず適当ににカメラを掴んで 撮影に出かけることができます。このスマートさも黒白写真になってからの優位点です。 そして私の場合、黒白写真は基本、JPEGの小サイズで撮影しています。汎用性のあるJPEGですので どんなソフトウェアでも開くことができ、動作も圧倒的です。ここは物凄い時間と労力の節約になります。 黒白写真の場合、カラーほどRAWとJPEGの画質差は感じないで済みます。本当はカラーもモノクロも 同程度の画質の相違があるはずですが、黒白はそう感じないですむだけなのでしょう。 このJPEG撮影でやるというのも、黒白写真であったればこそであって、これまでのRAWカラー写真と 比べて、圧倒的なコストパフォーマンスとタイムパフォーマンスを獲得するもとなっています。 コスパとタイパに関してはS9000さんが論説を書かれていましたが、私としては単に無駄を削ぎ落として 軽くする短くするという具合にしか考えていません。過剰クオリティは必要がないという考え方ですね。 考えてみますとカラーに比べてモノクロームはその情報量が1/3であるわけなので、1/3に削ぎ落として も問題がないという大前提があります。 トータルな撮影データ量を1/3にするには、撮影ショット量を減らすという考え方もできます。マニュアル 撮影や三脚撮影がそれに当たります。AFや自動露出に比べればそれくらいに落ちるでしょう。三脚 撮影となればもっと落ちます。 そういう考え方をすれば黒白写真は便利さをそのままに、もっと過激に実質総量を減らしてくるという 感じです。 カラー写真からモノクロという大きな壁さえ乗り越えれば、黒白写真ほどコスパ・タイパの優れたものは そうそうはないというところでしょうね。 よくよく考えてみれば、私が若い頃に黒白フイルム写真だったのは、当時はネガカラーフイルムが未熟 であったことや、リバーサルカラーフィルムは高価すぎたということもあって、必然的に黒白写真になら ざるを得なかったのですけど、やはりそこにはコストが優れていたというのが根底にありました。 ですから学生の身分でありながら写真ができていたわけですね。 この白黒写真優位のコストパフォーマンスは、デジタル写真になってからも生きているわけでして、さらに タイムパフォーマンスすらも獲得しています。 コンパとかタイパといのは経済学、エコノミーからの視点ですが、無視はできないことだと考えます。 写真趣味の経済学とでも言うんですかね。そういうものあるんだと考えています。 ※写真は社殿はなくて石の祠と囲いがあるだけの弁天さんを祭った宮。正月の供物として定番の、 お酒、塩、お米、水、そして餅。 私は大小のお宮さんやお寺の写真を撮りますが、参拝はしませんし手を合わすことはありません。 しかし賽銭はいつもあげています。ここにも正月だけの小さな賽銭箱が置いていました。 お賽銭は撮影料というわけ。(笑) お賽銭だけでなく、寄進のチャンスがあればそれをもやっています。 匿名での寄進ですね。 この世の中、只のものはありません。ただで利用できると思っていても、誰かがそれを負担しているか、 または我々にも回りまわって請求が来るのに気がつかないだけです。ならば私としては、出来る限り 直接的に支払うのがシンプルかなって考えてるだけですね。量販店ではケーズデンキとドラッグストアの コスモスがそうしてます。好感がもてますね。

雑文

雑文

シッポ座さん。投稿された下の写真は、フイルムで撮られた写真なんですね。フイルムの現像機は ノーリツのようです。 私はもうフイルムでは写真を撮っていないんですが、あのフイルムの感覚というのはまだ自分の手 の感覚で覚えているみたいです。カメラにフイルムを詰めるっていう、その最初から自分の意識が 高ぶると言いますか、ああいうのは絶対にデジタルでは味わえない感覚です。 何と言いますか、フイルムは生きているって感じがするんですね。つまり生ものです。それを冷徹な 機械であるカメラに詰め込んだその瞬間から、カメラは生まれ起動する、動き出すというというか、 カメラは生命を与えられるという感じです。 デジタルカメラにはそういうものがありません。デジカメは電気製品であり半導体製品です。ロボット のようなもので、どうしても命を吹き込むという感覚が得られません。 デジタルカメラはソリッドな硬質の、言わば化石化したようなカメラなのかもしれません。 このところずっと黒白でデジタルをやっていて、それで少し不安な気持ちになることがあります。 つまり、自分はこの先ずっと黒白写真でしか写真をやれないのではないかということです。もうカラー 写真に戻れないのではと。 そして感じるに、自分が今まですっとやってきたデジタルカラー写真というのは、もしかしたら作り物 ではなかったのか、偽物ではなかったのか。そういう感覚が出てきてしまうんですね。人間が撮った のではなく、人工知能が勝手に作った写真?というような疑いが芽生えてきているんです。 そういう機械が作った写真を、さも自分が撮っていると誤解をしていたのではないかと。 こういう疑いが生じてくるともう致命的ですよね。 しかしこの写真を見て少し安心しています。 https://photoxp.jp/pictures/225631 この写真、デジタルで撮ったのは間違いはないんですが、極めてフイルム的な描写なんですね。 いやフイルム写真のような雰囲気というか、そういう主張が聞こえてくるんです。 ところでリウ・ミセキさんは高名なアーティストで写真家なんですね。有名な写真集もあったりするん ですが、写真のジャンルが私の関心とは違うので、今回初めてリウ・ミセキさんを知りました。 現在は沖縄に在住して作家活動をされているのでしょうか。年齢的に高齢者になりますね。

PENTAX K-3 Mark III Monochromeで撮った写真の話題

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