無題
Exif情報
メーカー名 RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
機種名 PENTAX K-3 Mark III Monochrome
ソフトウェア Photoshop Lightroom 4.4 (Windows)
レンズ
焦点距離 40mm
露出制御モード ノーマルプログラム
シャッタースピード 1/400sec.
絞り値 F5.6
露出補正値 -0.7
測光モード 分割測光
ISO感度 200
ホワイトバランス
フラッシュ なし
サイズ 2048x1365 (1.38MB)
撮影日時 2023-11-18 02:02:06 +0900

1   kusanagi   2024/5/22 23:36

箱根はとても面白そうですね。
シッポ座さんの文章を読んでいて、私も好奇心がかき立てられました。
箱根は、巨大なカルデラ火山跡ですよね。阿蘇山と同じくらいのレベルの。
何しろカルデラの中に湖や街があるくらいですから。
確か、その芦ノ湖は戦前に巨大な飛行艇の基地があったと記憶しています。
そして周囲を外輪山に囲まれたカルデラは地形的に独立性を保った形になるようです。

シッポ座さんのいらっしゃる関東北部の平原地帯とは、だいぶ地形的意匠が異なるはずです。
開かれた平原地帯は、簡単に言うと軍事的に防御が難しいですね。
平易に言うと常によそ者が入ってきます。
中国平原なんかが典型的にそうです。(中原という)

騎馬民族が攻めてくれば簡単に蹂躙されてしまいます。
それで平原地帯に住む人々は地域が独立性を保つことが歴史的に困難であって、
結果として巨大な専制主義的な帝国ができあがります。
それでどうしても人心が荒れるというところがあるかもしれません。
まあ関東平野くらいではそんなことはないわけですが、中国のような大陸ともなりますと
人民は刹那的になるんではないですかね。生きるのに必死ではあるんですが。

その点は深い山岳に囲まれた山国や、海で隔てられた島国は比較的防御が楽であって
容易に独立性を保てるようです。
典型的なのがチベットや日本です。(もっともチベットは中共に蹂躙されてしまいましたが)
日本の連綿と続く長い歴史は、平和が保たれやすい島国のお陰ならです。
しかし人々の付き合いが濃厚すぎるところもあって、その点は平原部と違い、精神的に
開かれていない欠点も目立ちますか。

どちらが良い悪いというのではなく、そういう特徴が両者にはあるんだということ。
こういう地理的地形地質的な違いを知っていますと、各地を旅するのが面白くなります。
富士箱根伊豆国立公園と言いますね。地理的に近い三つを単純に纏めたのではなくて
実は、その成り立ちには深い理由があります。
そもそも伊豆半島は大昔は太平洋の中に火山島としてあったものですが、プレートの移動に
伴い、日本列島にくっ付いたものです。その衝撃で箱根や丹沢山地や富士山が出来上がった
のですね。大島などの伊豆諸島もやがては列島に衝突するはずです。

山岳や島国が独立性が保たれるといいましたけど、科学技術の発展と共に、かつては
障壁であったものが障壁とはならなくなるという事態になってきます。
今現在、日本にとって最大の懸念は、少子高齢化です。これはもう止めようがなくなって
しまい、それが経済や軍事力という国力の減退と深く結びついています。
誤解を恐れずに言うと、小子化は他国の侵略を招く恐れがあります。技術力によって
生産力や軍事力が機械化されつつあるとはいえ、やはり人の数の力は大きいのです。
大体、科学技術による機械化ですら、それを発明し改良するのは人間であり、とにかく
優秀な人間がその源泉です。そして優秀な人は大数の法則によって分母たる人口の
大きさがものを言うのです。

教育によってある程度のカバーは出来ますが、そもそも優秀といわれるのは生まれつき
のものであって、その優秀な人数を揃えるのには人口数の維持が不可欠です。
国民の生活レベルが向上すると一般的には少子傾向になるのですが、実はもうひとつ
の原因があるのてはないかと私は密かに思っています。
それは島国のような閉塞した世界では血が濃密になり、人々の能力が劣化しやすいと
いうものです。
日本の例をあげると、江戸時代300年は鎖国をしていて外国との交流が乏しかったですね。
明治になり西欧文明を移入して、富国強兵となって人口も増えました。しかしながら先の
大戦で大負けしてしまいました。

その根本的な理由として、明治期からの出生増とは、江戸時代からの血が濃密なままに
無理やり数だけ増加させたということで、そこに無理があったのではないかということです。
その反対に米国は移民の国であり、血の濃厚さが防がれていました。欧州各地の人達が
米国に渡り、それらの人々が交わることで優秀な人達が多かったということではないですか。
そしてアメリカは今もって海外から多くの移民を受け入れています。米国の根本的な強さが
そこにあると私は考えています。

今の日本の少子高齢化はピンチですけど、同時にチャンスでもあると私は思ってます。
時代は世界的に民族大移動の体を呈していて、諸外国の若者が日本に来たがっているという
現象があり、このチャンスを利用して日本人の濃厚すぎた血を入れ替えるというわけです。
実は歴史上、日本は定期的に何度もその血を入れ替えてきました。帰化人とか渡来人とか
言われる人達の存在です。大本の日本人だった縄文時代の日本人などの血は極僅かです。
子どもを産まなくなった旧日本人に代わって、これからは移民の人達の末裔である新日本人
がこの日本を牽引していくようになるのではないでかね。
かつてとある政党の総理大臣が、日本は日本人だけのものではない。と発現して話題に
なりましたが、あれは案外に正しかったのではないですかね。

日本列島代改造ならぬ日本人種大改造ですか。その遺伝子を改善していこうというわけです。
今の若い日本の人達は、優秀な人達は外国へ出たがり、そうてはない普通の人達は国内に
いるのですが子どもを産みたがらなくなりました。いろんな原因があるのだろうと思いますが、
私の考察では、きっと時代が新しい血を求めている、ということではないかと考えています。
ちょっとばかり、話を広げすぎてしまいましたが、これから百年二百年と日本は随分と変わる
のではないかと想像しています。

…というような与太話はどうでもよくて、箱根湯本の撮影カメラは二コンですか?
なにしろもうカメラごとド忘れて撮影に行こうか(笑)、というような体たらくなので、カメラメーカー
のことも忘れてしまいそうなんですが、二コンのちょっとキツめの画質が懐かしいような気が
してます。
先日の高知室戸行きで使ったカメラはペンタのカラー機でしたが、これは単にペンタモノクローム
とバッテリーやレンズが共用できるので使っただけで、それ以外の機材は全て眠ってます。
もう全部倉庫にしまったのでどこに何をどう仕舞ったのか忘れているほど。
ところで久し振りにカラー機でカラー写真を撮ってみて感じたのは、ああ、カラー写真って綺麗。
やっぱり写真はカラーでないといけないよねっていうところ。(^^ゞ 

しかし考えてみれば、カメラがなくても撮影には出かけられるということも知りました。スマホでも
撮れるし、いや撮影なんかしなくても脳内撮影でも充分かな?という感じ。
さすがにそれは無理ですけど、カメラを持って行って撮影をしたところで、後で見直すことも殆ど
ないのだから、要は、カメラを使っているというスタイルだけでいいんじゃないかなって感じてます。

カメラ機材を倉庫にぶち込んでいたとき、膨大な三脚のコレクションがあるのに気づきました。
三脚はでかいですからね。こんなに集めていたのかと自分でも驚くほど。撮影で三脚を使うこと
はないんですけど、ただ単純に三脚というアナログなスタイルが好きだから集めちゃったわけ
でして、最初から無用の長物なんです。100本くらいはあるかもしれません。
しかし三脚は私にとっては、刀剣のコレクションの感覚に近いものがありそうで、愛着があります。
ほぼ全てバラして清掃しグリスも交換して保存してます。
デジカメは時間の経過で自然に壊れていきますが、三脚は壊れません。

写真から遠ざかった今でこそ言えるのかも知れませんが、写真撮影を通じて学んだことは多く
あったのだと思ってます。撮影と称して色んなところに出かけられました。もし自分が写真をやって
いなかったら、ほぼどこにも出かけなかったでしょうね。
写真は人の世界を広げる働きをしてくれたようです。テレビやネットで映像や画像してどこでも
視れるわけですけど、やはり自分の足で現地へ出かけるというのとは違います。写真をする
ことは、カメラひとつさえあれば、さあ出かけよう、という気にさせられるということです。
それは魔法の小箱のようなものでしょうか。

そしてただ物見の見物に出かけることだけでなく、深く強く見る、ということを決定付けてくれたのも、
写真というものをやっていたからこそ出来たものです。カメラを持つことで、物事を見る強さや深さ
が違ってくるというのも写真の大きな特徴です。
写真の素晴らしさは、きっとそこにこそあると思ってます。綺麗な画像とか共感を呼ぶ画像とか、
そんな上辺(うわべ)だけのものなんじゃないわけです。見ることの知ることの度合いが違って
くるわけですね。
自分で写真をしていない人は、写真とは画像映像を作ることだと思っているのかもしれませんが
本当はそんなものではないわけですね。

しかしカメラだけでは自分の世界を広げることはできませんね。足がないと無理です。
バイクとか車。鉄道や飛行機といって交通機関も。そういうものとカメラの両方がないと自分の
世界を広げられません。まあ最後の行程は自分の脚で稼ぐわけですけど。
考えてみると車もカメラも文明の利器そのものです。自分の手足と眼の拡張です。
マクロ撮影で米粒のような虫を撮影されている方がおられます。ドローン撮影で三次元の撮影を
されている人も。こういうのも世界の拡張版であるわけですね。

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https://photoxp.jp/pictures/227912
この写真は、ある意味で革新的です。この撮影者自身にとって。
この投稿者はその始まりから今までずっと、下を向いて小花や草を撮るか、上を向いて空や小枝を
撮るか。そういう写真ばかりだったんですね。
秒速5センチメートルならぬ、眼の先5メートル内の世界でした。
つまり普通の人のように、眼の高さ位置で、数十メートルから無限大の撮影はしてこなかったようです。
俯くか、仰ぎ見るか、そのどちらかだったわけですね。
それがこの写真では、霧は掛かっていますが、普通の眼の高さでほぼ無限遠近くの撮影をされた
わけです。それ以前に藪の中の撮影では普通高でしたが視界は藪で妨げられていました。
それがやっと開けた場所で、普通の眼の高さの遠方撮影をするようになりました。

私は彼に、山に登りなさい、と助言しました。律儀にもそれを続けてくれているようです。
近くにある低い山のようですが、とにかく山に登っているのは確かなようです。私が期待したのは
もっと大きな山、赤城山とか浅間山とか、そういう山登りを期待していたわけですが、彼にとっては
そういう山はまだまだ遠いようです。だからまずは近くの里山でいいんですね。
山登りは確実に体力がつきます。そう簡単に中断し引き返すこともできません。一歩間違うと事故や
遭難ということもあります。だいたい引き返すことだって大変なんですね。
体力が付きますと自信というよりも実力が付きます。これが第一歩の始まりなのであって、そこから
全ては再出発をするわけですね。

引き篭もりの人は、この自信ならぬ初歩的な実力を失っているわけです。それを取り戻すことが
何よりも先決なのであって、其処からしか何事も始らないと思っています。
実力には色いろな要素があります。口が達者な人、手先が器用な人とか。しかし足腰という体力的
な実力こそが、この世界に於いて生きていくのには最大の実力者であるということです。
大自然の山の中に放り出されて、ちゃんと生きて帰ってこれるという実力。これが一番なのであって、
それさえ身に着けて我が実力とすれば、多少口下手でも不器用でも人間は生きていけます。

この人としての実力が少しばかりは身に付いてきたように思えます。それが通常目線で遠景を撮れる
写真となったのではないですかね。最終的には晴れた日中での遠景写真にならないといけません。
そして人々も(社会です)撮れるようにならないと。
ちゃんと胸をはって堂々と写真を撮れるようになれば、引き篭もり人生からは脱出できるようになれる
と思うんですね。
ある意味では、引き篭もりの人はずるいわけです。楽なほう楽な方にやってきて、それで現在の姿
があるんであって、努力することも闘う事も避けてきたわけでしょう。そりゃあ人には生まれ持った
能力というものがあるわけだから、それを超えることは難しいです。しかしやれることはやらないと。

私は人の運勢を研究してそれなりのノウハウを習得したわけですが、このノウハウを聞き入れて
くれる人は、みな頭がよく運の良い人ばかりです。生まれ付いて優秀で、良い家に育ち、かつ努力家
で強い人ばかりなんですね。だから運の良い人がさらに運がよくなるわけです。しかし私としては、
不運の人にこそ運を高めて欲しいと願うのですが、そういう人は哀しいかな、聞く耳を持ちません。

それはともかく、写真というのはけっこう正直に、その人の心の有り様を表現するものなのだなっ
て感じました。私にとっては写真は道楽なわけですが、ある人にとっては生きるギリギリの表現で
あったりするのでしょう。
彼は根は正直な人ではないですかね。文では小嘘もいっぱい並べているでしょうけど、こと自分の
写真に対しては正直な人、素直な人であると感じます。この自分への正直さと率直さは、それは
強い心であることの証左ですから、もしかすれば彼は引きこもりから脱出できる可能性があるかも
しれませんね。

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