メーカー名 | RICOH IMAGING COMPANY, LTD. |
機種名 | PENTAX K-3 Mark III Monochrome |
ソフトウェア | Photoshop Lightroom 4.4 (Windows) |
レンズ | |
焦点距離 | 10.0mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/125sec. |
絞り値 | F5.0 |
露出補正値 | -0.7 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 200 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 4096x2483 (5.46MB) |
撮影日時 | 2023-11-18 03:26:53 +0900 |
写真とは何か。
私の場合の答は明快です。画像ではありません。自分の社会的関心の喚起とその継続です。
もっとも、デジタルで写真をやり始めてからは、それを忘れて画像に走りました。これは大いに反省
すべきところです。私の場合、PC自作から始めて、さらにPCソフトのイラストレーターやフォトシップ
から写真を始めたので、まずは画像だったからでしょう。写真も最初はサンプル画像くらいしか撮れ
ないだろうって思ってましたし。
ところで…
私が若い時にフイルム写真を始めて、初めて撮った写真は道路高架橋の反対運動の人達でした。
そんな感じでフイルム時代は社会的ジャーナリステックな写真ばかり撮ってましたね。過疎地の
山村や漁村にも撮影に行きましたし。と言いますか、当時はそれが普通で、リアルリズム写真運動
が主流だったので、みんなそういう写真を撮ってました。
それでその反動で、次はコンポラ写真に行きましたが、これとても社会的なモチーフでしたし、とにかく
芸術とか美意識とか、そういう観点から写真をするというのは、私の時代にはなかったのです。
そう言えば、路上生活者の撮影をしたことがあって、その写真はプリントして被写体の人に差し上げた
のですが、その写真が偶然にも新聞に掲載されたことがありました。実はその方が路上で亡くなって、
持っていた写真が紙上に載ったわけですね。亡くならなければ私があげた写真が紙上に載ることは
なかったわけで、何とも複雑な気持ちになりました。
そんな感じで、私の場合というか、私の写真世代は、写真の画像の美学とかは二の次だったわけです。
しかし写真がカラーフイルムになり、カラーの品質も良くなってから写真を始めた人は、写真=画像美
であって、もしかすればそれ以外の考えには及ばなかったのではないですか。
写真は今でも、その本質は記録と表現なのですが、では自分は何を記録し表現するのか。その問い詰め
を多くの写真人はしていないと思います。ただなんとなく模倣的に綺麗だなっていう画像表現を真似て
いるだけではないですかね。
ですから今の人は写真が絵で終わっているという気がします。写真を鑑賞する人達も絵であることを
疑っていないでしょう。
現在の写真はそういう画像美というのと、もうひとつは写真のスタイルの追求というのがありますか。
これは特に、ライカユーザーが多い気がします。不便なライカを使いこなすという、精神的な喜びと
いうか。田中長徳さんなんかの世界ですかね。
変態と言われたシグマのカメラもそうだし、レンジファインダーを持つフジのカメラもそういうところが
ありそうです。そういう特定のカメラと密接に結びついた、画像ではないけれど、写真をするスタイルと
いうか、ややキザっぽい話ですけどね。そういうのもあるんではないでしょうか。
また、超望遠レンズで野鳥の撮影をするというのも、これまた写真スタイルの一種でしょう。さらに、
そういうことでは黒白写真も、そういうスタイルの一種かもしれません。また、写真の撮影でもって、
自分の健康の維持を図るというのも、多分これでしょう。
写真=画像美、というのが嫌いな人は、そういう写真スタイルの追求をするんではないですか。
そういう私もその一人だと思ってます。
しかしながら、写真の本質は、画像美にもないし、写真スタイルにもないだろうと私は考えています。
写真には、真実の追究というのが、その深い奥底に存在するのであって、これは何も言葉の写真の
「真」だけでなく、フォトグラフという言葉の海外の写真家でも同様です。
写真には「光」と「闇」が必要不可欠ですが、光は美を、闇は真をもたらす、と考えれば、写真を深く
追求しようとする人は、必然的に真実を追究しなければならなくわけです。
写真は表面的には、記録と表現てすが、同時に光と闇でもあり、従って正義と真実の追究でもあるん
ではないですか。命を懸けた戦場カメラマンや山岳写真家は、その究極の姿だろうと思ってます。
勿論そういうところまでは一般の人は行けないわけですが、写真を趣味とすることで社会的なものに
関心を寄せ、いろいろと知らべて考えて、また人と交わり話をして狭い自分に閉じこまらないというのが、
写真の本当の姿だろうと思っています。
ところで、ネットの掲示板とかSNSとかいうのも、ひとつの社会性の発露ではないかと問われそうです
が、私はそれは少し違うと思ってます。写真撮影は直接的で具体的なものですが、つまりリアル世界
ですが、ネットはそれがやや欠けています。
ネットは便利なものではありますが、それにばかりに頼りすぎると本当のソーシャルな社会的な写真
はできないと思ってます。
それで私の場合は、撮影と称して実は、現地の人達と積極的に会話をするというやり方をしています。
カメラはその為のアイテムのようなものて、大きなカメラを持っていれば(安易なスマホではなくて)、相手
はある程度、信用してくれるからです。
撮った写真画像自体は、もうネットで出す以外になくなったので、それならば撮影時に人々と直接交流
することで、写真のソーシャルな社会性を得ようといわけです。
見知らぬ人達と交わるには、いろんな関心ごとに通じていなければなりませんし、知識も必要です。
そして何よりも自分の考え方を持っていなければなりません。つまり自分自身にソーシャル性能を高く
保っていないと撮影での会話はできないということになります。
そんな感じで、これはかなり写真の本質に近くなっているのではないですか。
簡単に言えば、撮影時における積極的な世間話です。撮影ということにかこつけて多くの人達と交わる
ことも大切だと思うのです。これが多分、写真の本質に一番近いだろうと私は思っています。
それで冒頭の、『写真とは自分の社会的関心の喚起とその継続です。』ということになるのです。
写真画像に注力し、煮詰めて写真を完成させることは大切ですが、ともすれば独善的になりやすい
のです。今風に言えば、自己満足。でもそれは写真ではないですね。絵です。
ここ数ヶ月、仕事と私事で忙しく全く時間が取れずだったのですが、無理やり1日空けて高知県に撮影
に行って参りました。やっぱり撮影はいいもんですな。
すこし気がついたこと。このところ眼が悪くなっていたのですが、撮影となると遠方を見ます。これも
写真撮影の利点のひとつかなって感じました。
アップした写真は室戸市、旧・室津漁港です。この漁港は南海トラフ大地震の予想確率と深い関係が
あるようです。詳しくは「南海トラフ地震の真実」小沢慧一著・東京新聞刊に書かれています。
(「2038年 南海トラフの巨大地震」尾池和夫著・マニュアルハウス刊も参考になります)
歴史のある漁港と町並みで、非常に良い雰囲気の街でした。