空き家
Exif情報
メーカー名 RICOH
機種名 CX2
ソフトウェア
レンズ
焦点距離 15mm
露出制御モード ノーマルプログラム
シャッタースピード 1/540sec.
絞り値 F4.6
露出補正値 -0.3
測光モード 分割測光
ISO感度 80
ホワイトバランス
フラッシュ なし
サイズ 2780x2084 (990KB)
撮影日時 2010-04-03 11:04:58 +0900

1   gokuu   2010/4/5 22:26

何年も手入れの形跡のない空き家。大きな屋敷です。侘しさを感じる窓が。

2   気まぐれpapa   2010/4/6 08:30

gokuuさん、おはようございます。
立派な家だけに、住むのも大変ですね。
我が家の回りも、空き家が目立ちます。
頑張って建て、子供達も巣立ち、伴侶が無くなり、
子供と一緒に住んだりして、自分が建てた家は空き家。
誰にも貸すことすらできずじまいです。

3   gokuu   2010/4/6 09:16

気まぐれpapaさん おはようございます。
他人のことは言えません。家内の生家も同じです。
息子は遠隔地に就職して、父親は亡くなり母親を引き取って居ます。
広い家屋の生家は空き家に。家内が時々掃除に行っています。
息子は定年になっても帰れないと言ってます。どうなることやら。

4   masaru   2010/4/6 19:40

gokuuさん今晩は
私の生家は戦前建った〈名古屋の中村区)長屋で築80年?この写真より痛みは進んでおり唯一この世に残されたわが身が処分する責任を負わされているのです
この写真をみて早くなんとかせねばとの思いにかられました。

5   gokuu   2010/4/6 21:13

masaruさん こんばんは〜〜
中村区なのに戦災に遭わなかったのですか。珍しいですね。
我が家は一宮で灰になりました。跡形も有りません。
せいせいしたものです。この歳になって墓地も転霊しました。
何時でもお参り出来るように。という訳で故郷も頭の中だけに。

6   masaru   2010/4/7 20:02

gokuuさん今晩は〜
なんとなあ僕は学童集団疎開とやらで一宮の苅安賀で半年ほど寺の厄介になったことがあります
そこで夜空襲で焼ける一宮市内を恐怖におびえながらながめていたことを今でも鮮明に思いだします
その頃gokuuさんは近くにみえたのかもしれませんね

一方名古屋の長屋は奇跡的に戦火をまぬがれ残りましたが自宅から名古屋駅(3キロほどある)まで一面の焼け野原で駅がみ通せた、そんな記憶もあります

7   gokuu   2010/4/7 21:27

masaruさん こんばんは〜〜
そうでしたか。疎開で苅安賀のお寺にでしたか。
中島郡苅安賀村ですよね。戦前は。
昭和20年7月28日の夜間空襲に遭いました。当時は中学1年生。
市内の焼ける猛火を観られたのは、その時だと思います。
焼け跡で終戦を迎えました。二度目の空襲でした。
1回目は米軍機が目標を誤って羽栗郡に焼夷弾が投下しました。
当時B29の爆音をラジオで流していましたが、それは1万m.上空
の音であり、何の役にも立ちませんでした。爆弾投下は低空飛行
で突然でしたので。警戒警報と同時に爆撃が始まり、逃げるのが
精一杯でした。直撃以外焼夷弾が怖いとは思いませんでした。
もう、肝が座っていて。焼け跡の黒焦げ死体も観ています。

8   masaru   2010/4/8 15:22

gokuuさん今日は
貴重な体験談ありがとうございました
かって近くで同じ体験をこうして語りあえようとは・・・
子や孫に悲惨な思い出をぜひ語り伝えていきたいですね
ありがとうございました。

9   gokuu   2010/4/8 21:49

masaruさん こんばんは〜〜
生まれ故郷は懐かしいですが、もう行く事はないと思います。
小学校の同窓会案内も貰いますが、顔見知りは同じ中学校に通っ
た3名だけです。故人も多く同窓会の写真を見ても、その顔から
小学生頃の顔を想像するこすら出来ません。古里は遠くなりけり。

余談ですが、苅安賀で思い出しました。小学生の頃の事。

「苅安賀のかどで かんからべんちょ ほりだぁて かんすに
くわれて かぁいい かぁいい」

なんて語呂だけで遊んでいました。方言丸出しの下衆言葉。
意味は通じると思いまして。(笑)

10   masaru   2010/4/9 15:40

gokuuさん今日は
大体意味はわかります
僕にもこんな思い出があります
苅安賀の学童疎開は近所のわんぱくが一緒でしたが
昔はどういうわけか最終寝小便が大変遅くて小2〜3,4年頃まででして僕と仲良しのS君とでその方面で競ってました、
寺での合宿ですから隠しようが無い〈笑)
その彼も昨年末に故人となってしまったり・・・・
思い出はつきませんことです。

11   気まぐれpapa   2010/4/10 10:23

gokuuさn、masaruさん、おはようございます。
諸先輩の思い出話、切々と身に沁みて感じています。
私は戦後生まれなので、戦争の辛い思いではありません。
父の兄弟3人も戦争に行っていました。
父親は飛行機乗りで、特攻で明日飛ぶといったときに
終戦を迎え、命は取り留めたのですが、その心境は
とうとう聞くことはできませんでした。
母から少し聞いてはいますが・・・・

私も中学、高校、大学と名古屋です。
中川区に住んで、名古屋の広い田んぼを駆け回って
いましたが、今では跡形も無い田んぼです。
新幹線口の周りがまだ昔のままの状態のときです。
今でも一軒、昔のままの建物が残っています。
それを見て、昔はこんな家だらけだったんだと
思い出しております。

心の勉強になりました。
お二人に感謝といつまでも元気で写真を撮って
ほしいと思います。

12   gokuu   2010/4/10 11:52

気まぐれpapaさん おはようございます。
子供の頃、まだ物資は豊富でした。勝ち戦に燃えて、大きくなっ
たら兵隊さんに。が、男の子の目標でした。負け戦は惨いです。
何が一番困ったかと言えば、街住まいで食料です。米が食べられ
ない。代用食の毎日、芋に南瓜(夏で良かった)戦災後は、遠縁の
農家に一時、身を寄せていました。気の毒だからと白飯を。夢見
る心地で食べました。その美味しかった事。今でも忘れません。
肥満がどうのこうのって贅沢過ぎ。痩せる薬まで。食べなきゃ太
らないのに。(笑)

13   masaru   2010/4/11 18:20

気まぐれPAPAさん gokuuさん今晩は
気まぐれPAPAさんは中川区のご出身とか僕も大学まで名古屋です結構世の中広いようで狭いですね
これからもよろしく御願いします
gokuuさんも仰ってますが戦後の食料不足時代
語りだしたらキリがありませんが
周囲が同じ状況ですからこんなものかと開き直っていて結構おいしいとおもうものも多かったようにもおもいます
食べ盛りのせいもあったのでしょうが。

戻る