別子鉱山跡

1   kusanagi   2017/4/25 22:53

久しぶりに自分なりの写真撮影に行ってきました。
愛媛県新居浜市、別子銅山跡、東平(とうなる)というところです。別子銅山は広大な面積を
誇っており、銅山跡の遺跡は各所に散らばっています。ここ東平は比較的観光地化されていて
行きやすいところですが、それでも冬場は閉鎖されていました。
別段、自分は鉱山マニアというわけではないのですが、地中から掘り出される金属というもの
には大変、興味深く思っています。この金属というものがなければ、そもそも文明は成り立ち
ません。
文明=金属の歴史であって、特に産業革命以降はエネルギーも地下から掘り出されますね。

遠くに見えるのは瀬戸内海、燧灘であり、その海側に新居浜市があります。無論、この別子
銅山のよって都市化された町です。
この銅の鉱脈が海底下まで続いていて掘り出されたのですが、その銅の算出は膨大なもので
あって、江戸期から昭和まで、日本の経済を支えてきました。銅は主要な輸出品だったんですね。
別子の銅に限らず、足尾の銅、石見の銀、佐渡の金、そして古くは奥州の金と、日本は貴金属
を産出して、それを輸出品として、中国や南蛮から文明文化物を仕入れていたんですね。

今でこそ、日本は高度な工業製品を輸出して外貨を稼いでいますが、そういうのはごく最近の
ことであって、歴史的には日本の輸出品は金属と海産物(俵物)でした。
もしこれから日本も海洋開発ができるようになり、深海からレアアースやメタンハイドレートを産出
できればそれらも輸出品になるでしょう。
なんかそちらの方が、本来の日本のスタイルという気がしないでもありませんね。

とにかく、江戸の昔から別子の歴史は始まり、それが住友財閥というものまで作り上げ、世界に
銅を輸出して日本近代産業の基礎を作ったということは間違いがありません。
文明の基礎たる金属やエネルギーというのは、人里離れた深山とか砂漠とか海とかになるの
ですが、そこから、文明にはなくてはならない金属やエネルギーを生み出されるということ。
ここで働いていた鉱夫達の食料や日用品などは全て、麓の平野部から持って来ていたわけですね。
鉱夫はただひたすら鉱石を掘りその鉱石を精錬し銅の地金としていたのです。農繁期に農民が
片手間に鉱夫をやっていたわけではありません。
そういう専業の専門家というか職業群がいて、それを纏め上げ経営する資本家もできていたわけ
です。最終的には国家としての藩営とか幕府直轄とか、そういうレベルの話でしたね。
今でも石油・ガスや有望な鉱山などは、政府の国営とか、巨大資本とかが牛耳っていますから。

想像がつきにくいでしょうが、この遺跡の周囲は、操業していた当時は樹木などはなくて所狭しと
丸裸な急斜面に住宅などが立ち並んでいたんです。それらは今、全て植林された木々の中に埋も
れています。この全山全てが鉱山跡の遺跡群である、と言っても過言ではありません。

2   笑休   2017/4/26 19:22

東洋のマチュピチュと称されて、訪れてみたいとおもってました。
まむしは古い石垣がある山の中にはおりますね。
石垣のなかにひそんでますんで・・近づかないことです。

3   kusanagi   2017/4/26 22:35

マイントピア別子http://besshi.com/
別子は山の中にあるのでやはり車で行くのが正解です。道が狭いので小さな車が有利です。
九州からオープンカーのグループの人達が来ていました。四国の狭い山道には慣れていない
様子でしたね。(^^
帰りには広島からの老境写真愛好御夫婦と出会い、車中泊のノウハウを教えてくれたりもしました。
歳をとっても仲の良い夫婦って良いですねー。(^^
四国は夕日が瀬戸内に沈みます。それを写真撮りに本土から来る人って多いんですよ。

4   oaz   2017/4/30 07:43

お早う御座います。
 此方の岩美銅山も木が密植してどこが銅山の後かすら分かり難くなりました。
反映した徳川、明治時代、昭和初期は遠くなりにけり。

5   kusanagi   2017/5/1 00:09

oaz様、どうもご来店ありがとうございます。(^^ゞ 
kusanagi本舗は長文ゆえに敷居が高くて敬遠される方が多いののですが、広く何方にも開かれて
います。無論、読者からのコメントなどは期待はしていなくて流しで読んでくださるだけで有りがたいと
思っているのですが、言うまでもなく的確なコメントを頂ければこれに勝る喜びはありません。

>繁栄した徳川、明治時代、昭和初期は遠くなりにけり
この洞察は鋭いですね。敬服しました。そのとおりで、日本の近代時代は江戸時代から始まり、
途中幕末に西洋文明を本格的に取り入れて明治となりましたが、日本近代史は継続的に江戸時代
の初めからから明治・昭和と続きました。
江戸期は封建時代で中世時代だとする左翼系の見方は間違っていますがこれがなかなか修正できず
にいますね。歴史的な中世時代を終わらせたのは無論信長であり秀吉で家康です。
戦乱の不安定な世の中から安定した江戸期に入り、国内の産業は大発展をしていくんですね。新田
開発も各藩で盛んでした。
江戸・明治昭和と約400年ありますが、200年づつ2分しても良さそうですね。後半は西洋文明を取り入
れ文化力や科学技術力が大いに高まってかつスケールも大きくなっていきました。

別子銅山は時代的にその日本近代の歩みと同じくしています。島根の石見銀山(後半は銅山になり
ました)も、ほぼ戦国時代後半から江戸時代前期にかけてですので、石見が少し早く、そして別子が
少し遅くという違いがあるだけです。
そしてこの2つの鉱山は世界的規模であり、日本の海外輸出品の筆頭でありその稼ぎによって日本は
近代化していくことが出来たのだと思います。幕末明治に日本の各藩や幕府は膨大な武器や文物を
輸入していますが、その支払は金や銀でした。どんなに日本人が意欲に溢れて優秀であっても、金が
なければ何もできません。留学もできないし外国人を雇うこともできません。
江戸明治にかぎらず、有史以来、日本は常に有り余るほどの金銀銅で海外の文化文明を買ってきて
いたんです。このことを忘れてはなりませんね。

日本列島に金銀銅なる貴金属が産出するのは、地質学的にみれば日本列島が火山帯だからです。
ちなみに別子銅山も古い数千年前の石鎚巨大カルデラ火山の跡地であるからだろうと考えられます。
石見もそうですね。火山地帯にあります。東北の金山もそうですね。おそらく佐渡金山もそうでしょう。
鹿児島の菱刈金山も正に火山地帯ど真ん中です。
火山は災害ももたらすけれど豊かさももたらしてくれるわけで、これは日本の強みです。それを言えば
これから開発がまたれるメタンハイドレートやレアアースも火山地帯と深い関係があります。とにかく
日本はこれからも独自の強みを生かしていかなければなりません。

日本は今、海外から資源やエネルギーをまるごと輸入して、それを加工して製品とすることによって、
その労力と技術力という付加価値(極めて薄利)だけで食っている有様です。戦後の一時期はそれで
上手くやっていけましたが、それは米国の力が圧倒的で石油が格安に抑えられていたからです。
それで石油が高騰するに連れ日本の稼ぐ力は落ちてきましたね。さらに加工貿易は中国などの新興
発展国が主流となりました。日本は貧乏になり、若い人は子どもをつくることすら叶わなくなってきて
います。
これを打破するには日本が独自のエネルギーや資源を開発するしか他に手立てがありません。
歴史をみれば分るように日本は資源を産出し、しかも輸出までやっていたわけですから。これからの
日本が食っていく為には、資源かエネルギーのどちらか、もしくはその両方で自給なりをしていくしか
方法がありません。資源とエネルギーの輸入を少しでも減らせればオンの字です。何しろ今の日本は
食料すら輸入に頼っているのですから。そしてこれから防衛力も高めて行かなければならなくなって
います。
このことへの国民的な認識が広く広まって欲しいと願っています。

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