メーカー名 | Canon |
機種名 | EOS-1D X |
ソフトウェア | Windows Photo Editor 6.3.9600.17418 |
レンズ | EF24-70mm f/2.8L II USM |
焦点距離 | 24mm |
露出制御モード | 絞り優先 |
シャッタースピード | 1/512sec. |
絞り値 | F9.9 |
露出補正値 | -0.3 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 200 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 4631x3194 (1,359KB) |
撮影日時 | 2016-08-15 11:58:43 +0900 |
盛岡郊外、岩手短角牛の放牧場です。
放牧・・・たしかに牛舎から解き放って自由に草を食ませ、運動させて解放といえば解放ですが、これも美味しい肉を得るための飼育の一環。霜降り肉を得るために牛舎で配合飼料を腹いっぱい食べさせられている牛よりはストレスが少ないとは思うんだけど・・・
写真は開放感ですが、牛さんが感じているのは解放感ってことですか。
動物の放牧の風景はいいものですが、家畜の問題は難しいですねえ、考えて結論が出るものでもないです。
ちょうど今のシーズンはLambing season(ラミングシーズン)といって、生まれたばかりの子羊たちがおっぱいを飲んでいる可愛らしい姿があちらこちらで見られます。
しかし、春はラム(子羊肉)のシーズンでもあり、それらはこの冬に生まれた生後数ヶ月の子羊の肉らしいです。。。
ラムやヴィールなどの子供の肉を食べるのはやはり罪悪感がありますね。
生まれた動物を皆大きくすることは資源の制約上不可能なので、ある程度間引きをするのはやむを得ないのでしょうが。。
しかし、ある程度生きたあとなら、問題はむしろ、Animal welfare(直訳すれば「動物福祉」)といって、生きていたときに幸せであったかどうかが問われるようです。
こういった家畜の皆さんは、人間が家畜として飼育していなければ存在していないわけですので、殺すために産ませて育てるのがいいのか、殺すくらいなら極端な話絶滅させたほうがいいのか、非常に難しい問題です。
その問題はひとまず棚に上げるとして、幸せに生きていた指標として、地鶏、地豚?、地牛?など、主に野外で育てられた肉を食べるようにしたいものです。
なお、羊は野外でないと飼育できないそうです。
>家畜の問題は難しい・・考えて結論が出るものでもない・・
そうですね。人が生きるということは、植物にせよ動物にせよ、必ず他の生き物=命を食さないと生きていけないわけで・・・
洋の東西、宗教を問わず、食事の前に手を合わせて祈り感謝する姿を見るとホッとします。のどかに草を食む牛や羊を見る時の私の気持ちも正に感謝です。
人類の祖先が霊長類から分化して以来数百万年は、植物採取・狩猟・漁労による自然の惠だけで細々と生きてきたのが、農耕とくに麦づくりと米作りを編み出したことによって、人類はたった1万年ほどの間に爆発的に人口を増やしました。同じ頃、捕まえた動物を家畜として殖やす牧畜も始まったようです。長らく家族単位で暮らしていた人類は、村落共同体からやがて国家を形成し、果ては戦争までして資源(究極は食料)を奪い合う経験をしてきました。
ピルグリム・ファーザーズが米国東部のプリマスに入植した1620年の冬、厳しい食糧難を先住ワンパノアグ族に助けてもらい、翌年収穫を得たピルグリム・ファーザーズがワンパンパグ族を招いて共に神の惠に感謝して食事会を開いたのが、米国・カナダの祝日になっているThanks Givinng Day(感謝祭)由来だそうです。