メーカー名 | SONY |
機種名 | α7R |
ソフトウェア | Capture One 8 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 24mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/60sec. |
絞り値 | F4.0 |
露出補正値 | -0.3 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 800 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 1335x2000 (1.62MB) |
撮影日時 | 2013-01-03 06:11:46 +0900 |
写真は自己存在の確認というお話をしましたが、写真はまた自己を写真の画面に写し込むと
いう表現ツールでもありますね。自分が撮る写真には自分は写らないのではないか。という
素朴な問いは的外れです。ここに写真を投稿させている方々の写真群を群生として見た時、
そこに撮影された人のお姿が映っているのが分かります。中にはそれが見えない場合もあり
ますが、そういうのは他者の写真を模倣しているだけの人で、ご自分がないというわけですね。
そちらの方はコメントで分かります。
写真を模倣するのは写真を知らず、デジタル写真という画像だけしか知らない人達でしょう。
普通の人はそうではありません。しかしデジタル時代の写真は写真としてはきわめて薄くて、
自己を込め難いところがあります。
フィルム写真時代と比べればデジタル写真は100倍撮れます。といういことは写真の濃度として
1/100だということでしょうね。これから写真を始めようかという若い人達には、是非ともフィルム
写真から入ってもらいたいものだと願っています。今ならまだフィルム写真をすることは可能だ
からです。
極めて優秀な方はデジタル写真からでも写真に入ることができます。紙の本と鉛筆がなくても
デジタルツールだけで自分の学力を高められる人達ですからね。しかしそういう人達は稀です。
普通の人達には眼に見える手で触れる、物質化したものがなければ物事の本質の理解には
程遠いからです。
出来るのならばメカニカルカメラを手に入れて、フイルムを詰めて巻き上げレバーを巻き、フイルム
を送りつつシャッターチャージをして写真を撮ってみましょう。ピントは自動とはいきませんし露出
も自動ではないかもしれません。ひとつひとつ確実に操作をして写真を大切にしてやっていくと
誰でも写真の大切さ真実さというものが判ろうかというものです。
フイルム写真の経験がある方、それが若い時分のときであれば、大変貴重な経験をされたと
いうことで恵まれていたということになります。しかし現代ではもうそのような写真の体験を積む
ことはほとんど出来なくなっています。
それでデジタル写真とは写真を撮るということではあまり意味をなさなくなってしまい、その意味
を別のところに見出さなくてはなりません。デジタル写真では写真はやれないけれど、それでも
カメラという物質化した形があり、それを持って自分の好きなところにいけるという楽しみですね。
スマホではなく、あくまで写真機というカメラを持って外へ出かけて、自分を写真空間の中に
解き放つというわけです。突き詰めれば写真と歩きです。野や山をあるこうが街中であろうが、
とにかく歩くことによって、写真は撮れなくても写真のフィールドに自分を置くことができます。
デジタル写真時代に於いては、それが唯一の写真行為の目的ではないですかね。
ですから撮った画像などはどうでもよいのですし、その画像が写真になる確率は百分の1でしか
なくても、その空間を歩くことの行為自体でもって現在の写真は完結するということです。
フイルムや記録メディアの入っていないカメラで歩くことはできません。それはカメラではない
からですね。(笑) でもメディアを詰めてバッテリーもOKで、そのカメラを手に我々は写真空間
に飛び出すことができるのです。カメラを手に家を出た瞬間の歩きから写真が始まります。
ファインダーを見ようがシャッターボタンを押さなかろうが、既に写真空間は始まり突入して
います。カメラを手に歩いただけの空間が全て写真なのであってもそれが現在の我々の写真
の全てとなります。
今の私の写真はそのような考えでもってやっています。帰宅してみれば確かにメディアには
画像が記録されています。しかしそれは本当の獲物ではありませんね。釣りに於いて釣り上
げた獲物をリリースするのに似て、カメラをもって歩いたという行為自体が真の獲得物なのです
から。
追伸
写真とは画像である。という心の囚われの気持(固定観念)が多くあるというのは不幸なことですね。
フイルム写真時代と現在のデジタル時代写真とは本質的に違います。それが分からない人が
多いように思います。写真を模倣として始めた人は特にその気づきに疎くなります。
考えてみますと私が若い時に写真を始めた時にもプリントに拘らなかったことを思い出します。
ヒシコピー(菱コピーか)という今で言うところのコピー用紙に写真を焼いて先般諸君から驚かれた
ことがありました。写真は正当な印画紙に焼くのが固定観念だったのを最初から打ち砕いたという
わけです。
何々は何々であるという観念は人を不自由にします。模倣に囚われすぎると残念な人になります。
高齢者、そして地方在住の人(自動車を使う)もそうですが、歩きは極めて大事です。歩く人に病気
は忍び寄りません。それでカメラや写真は歩く為の道具として捉えると有意義なことになるの
です。今、写真の意義はそれしかないのではないかとすら思います。