メーカー名 | Canon |
機種名 | EOS 5D Mark III |
ソフトウェア | Capture One 9 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 50mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/256sec. |
絞り値 | F7.0 |
露出補正値 | +0.0 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 100 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 2048x1365 (3.61MB) |
撮影日時 | 2023-04-23 18:57:57 +0900 |
昔の写真論というのは、各作家ごとにキャラクター展開されていてそれぞれに個別に奥深く掘り下げ
られていました。論評に作家性というのがありそれは小説家のそれと同等なものだったように思います。
しかしそういうのは活字文化的な大昔の話です。デジタルの現代では写真は何よりも人よりまずモノと
いう画像であって、まずは無個性の画像論から出発という気がしていますし、いやそれどころか
それ以前の人間としての正気性を保ってるのかどうかのレベルにまで落ち込んでいるという気がします。
それは写真論という以前の、この時代の高度情報化社会の根幹をなすデジタル技術とは何か、ネット
ワークとは、という大前提からの問い掛けがあるという気がします。つまりこれは写真という以前の、
根本的なデジタルな現代技術論の大問題だろうということになります。
この根底にある大問題の問いかけを今の人は教育も受けず、四苦八苦な経験をしておらず、いきなり
大海原に放りだされて溺れかかっている様のようです。
過去の写真と同じような感覚で漠然と写真をとらえていて、結果として大きく惨敗をしているというように
思います。
1990年代くらいから始ったと思われる高度情報化技術社会は、社会の階層を大きく二分したと思って
ます。それを理解して扱える人たちと、何も分からずに技術に翻弄支配される人たちです。この状況は
次第に加速し、AI時代突入の現在ともなると絶望的なまでの格差となりつつあるようです。
その行き着く先はどういうものなのか。
占星術的には古代ローマ史のような新古代史の再復活であるわけですが(歴史は巨視的に見て2千
年毎に繰り返す)、とにかく現代のデジタル技術を理解しないものは捨て置かれるということです。
輝かしい近代の時代のような、国民が全て同等に、一人残らず学んで引き上げられるという(国民皆兵)、
もしくは個々人も刻苦勉励の自助努力もして頑張る、というのではなく、出来ないものは効率的に切り
捨てられることが起きるということでしょう。すでに現にそれは教育界で起きつつありますね。
ところで、デジタル技術とは何か。私が考えるにそれは電気や電子、最近は量子の分野にまで踏み
込んでいますが、簡単に言えば、コンピューターやネットワークとは家電製品であるということです。(笑)
私が子供の頃にバラして遊んだ電気製品とさほど変わらないものです。しかしそう思える人間は少な
いですね。ほとんどの人にとってそれはブラックボックスであって、なんというか人が犯してはいけない
禁忌のタブーの領域となってしまっています。
よくコンピューターを語るのに、ゼロと1が云々という人がいます。2進法は数学論なのでコンピューター
の本質ではない話なんですがこれで躓きコンピューターが嫌いになったとか、コンピューターは非人間的
だとかいう方々がいますね。そういう抽象論から始める教育法が拙いのですけど、そもそも未知のモノ
を知るには、考える前になんでもかんでもやってみよう、壊しても構わないという好奇心が必要なので
あって、そういうセンスがある人しか高度情報化社会に入れない現実があります。
1960年代までの黒白フィルム写真文化は、それは完成された近代の文化の産物であり、電気も電子
も使っていませんでした。カメラは完全メカニカルであり金属の光沢であり誰もが信頼できる感覚をもて
ました。
それが現代のデジタルカメラは、コンピューターそのものであり私がいうところの電化製品となりました。
つまりブラックボックスの塊であって、人々が恐れ敬うブラックボックスと化しているのがカメラです。
そういう時代の差のカメラがもたらす写真が、同等に論じて扱えるはずがないわけです。フィルム写真
時代とデジタル写真時代とはまったくの別物であるという現実があります。
この事実を深く理解しないと現在の写真は理解できません。写真を撮り作ることだけでなく、写真の
鑑賞や伝達の方式もデジタル化され昔のそれとは隔絶化されています。多くの人々がこの変化につ
ていけず置いてきぼりになっていますね。
電気や電子というものは子供のときに教育体験さえすればさほどに難しいものではありません。コン
ピューターのそれも原理は簡単なものです。小学生でもプログラミングはできますから。
しかしこの教育を日本は怠ってきました。日本だけでなく世界中も同じようなものです。それでそういう
センスがある人間しか今のデジタル技術は理解できずでこれも社会の分断に悪影響を及ぼしています。
簡単に言うと、機械や化学は眼に見えるけれど電気は眼に見えないということ。(笑) 冗談のようで
すけどこれは本当です。子供の頃に電気製品をばらしてビリビリとし、電池を舐めてはしょっぱいね、
とか体験した人間は電気が見えますが、普通の子供はそういうことを親がさせません。そのお陰なのか、
私は電磁波を感じることができます。放射能も感じることができたので(福島に足を運びました)、やはり
幼児期の環境は大切だと思いましたね。(笑)
カメラの発する電磁波は格好の実験財でして、そのカメラを使っていて頭痛がするカメラは計測器で
計っていても数値が高いので私の電磁波感受能力は本物だということでしょう。
冗談はともかく、現在のデジタル写真は過去のものとは違うものになっているという認識が必要だと
いうことです。この事実にほとんどの人たちが気づいていません。
写真がデジタル化されるようになって、私の知り合いの何人かはそれを機に写真を辞めました。これは
懸命な判断だったと言えるかもしれません。しかしその反対に黒白自家現像から写真をやっていた
人は年齢に関わらずデジタルにスムーズに移行したこともあって、どうやらデジタルに向かなかった人
はカラー写真(現像プリントは人様にお任せ)から写真を始めた人達だったかも知れません。