メーカー名 | |
機種名 | |
ソフトウェア | Digital Photo Professional |
レンズ | |
焦点距離 | |
露出制御モード | |
シャッタースピード | |
絞り値 | |
露出補正値 | |
測光モード | |
ISO感度 | |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | |
サイズ | 1814x2721 (3.23MB) |
撮影日時 |
老人主体の写真展を鑑賞してきました。若者写真事情を考えると同時に、老人写真事情というのも考えてみましょう。ちなみに両者は断絶したものではなく、ある程度は連続体を構成しています。
・老人写真趣味としての「サロン型写真趣味」(芸術写真という意味ではなく)の存在
・撮影(個人あるいは撮影会)→大判プリント・額装(額装まで主宰者が一括作業することもある)→展示会場設営→会場をサロンとして各種茶話(思い出話、自慢話、情報交換等)を楽しむ・・・というサイクルを毎年楽しむ
・少しずつ衰退している
・衰退理由は、コロナ禍で開催が中断し再開が困難、参加者の高齢化など担い手の不足
・これほど高齢者が増えているのに、高齢者主体の写真教室、写真クラブの会員は減少している
・2000年代のデジカメブーム、団塊世代の大量退職者の趣味サロンデビューといったボリューム層が徐々に消えていっている?
・そろそろバブル層が「高齢者デビュー」に達しつつあるが、この世代から下は、団塊世代から上のように無趣味を誇るような企業戦士気風が薄く、退職前から余暇・趣味活動に余念がないため、退職後の余暇を考える傾向にないかもしれない(かといってスパッと線引きできる境界線もないと思う)
・バブル世代以下がサロン(茶論)的活動を嫌うものではない、サロン的写真活動はオタクの行動形態とおおいにかぶる(額装写真を前に語らうのも機材を並べて語らうのもいずれ劣らぬオタク趣味。オタクはオタクを呼ぶがオタクはオタクに反発する爆笑!)
・サロン的写真趣味とは異なる「放し飼い型写真展」にも出くわす
・サロンスペースを想定しない、常駐当番のいない、放牧型の展示がそれで、彼らは承認欲求ではなく表現欲求のみに従っているのかもしれない(それを偽装したぢつは承認欲求まみれの展示も一方では存在する、ただし承認欲求のない撮影者はこの世に一人も存在しない)
・写真表現や撮影技術はそれぞれであるが、どちらの展示でも心引かれるものは散見するため、あくまで分類上の違いであり、写真そのものに明確な違いはない。
・・・・サロン写真、という表現は「芸術志向の強い写真」という文脈で使われることがあるようですが、ここでは、「額装した写真を前に茶飲み話を楽しむような写真スタイル」を指しています。
40代以下の人々がそれをしないわけでもないです。また、20代もぢつは「額装なんてコスパもタイパも悪い」なんて言いません。重点の置き方はわかりませんが、10代の人々の額装写真展もよく見かけます。
アナログ → デジタル → アナログの反動振り子現象の一環で、質量と手触りのある写真としての額装写真が若者にブームとなる時期もくると考えています。
余談ですが、20代に聞いてみると、「タイパ」は彼らが言い出したものぢやないのだそうで、「うだうだと無駄な時間が流れる会議や上司の自慢話を聞かされる飲み会を嫌って断った結果、その上司層が若い人々はタイムパフォーマンスを重視するから仕方ない、と言い訳に使ったのであろう」との見解がありました。
その上司層は、かつて「新人類」と言われた世代であろうが、そのワードもまたその上司層が造り出したものであります。
そもそも「時は金なり」「光陰矢の如し」とか、昔からタイパに類したことわざは存在するし、人類の進歩は時間を克服する戦いでもあったのです。医療=長寿命、家電・即席食品・代行サービス・宅配=消費可能な時間の拡大、高速交通機関=生存時間のうちに移動できる範囲の拡大、デジタルカメラ=写真アウトプットの即時消費・・・というように。
SF上の概念でしかありませんが、何らかのテクノロジーにより、人間のクロックを高速化することで、有限の時間から無限の時間を取り出すというものがあるそうです。移動時間中に仕事や趣味を楽しむ環境づくりというのもこれに近い考え方で、ラップトップパソコンやウォークマンなどもこのカテゴリーに入ってきます。
老人と若者では時間の流れる感覚が違うのでしょうが、セイコーが発表している時間白書では、若者は将来に対する不安を持っていて、これは単なる社会不安というより、自分が若さを喪失していくことに対しての不安があるようです。若いうちの時間を無駄に過ごしたくないという焦りが、本当の意味での「タイパ」なのかもしれませんな。
https://www.seiko.co.jp/timewhitepaper/2023/
この時間白書では、年齢に対するステレオタイプ的な考え方に対する反発の意見も見られます。要するに老人写真も「遠い日の花火ではない」ということで、別に老人ポートレートも、老人ポートレート写真家もじゃんじゃん出てきてほしいものであります。
老人は、今と同時に今に至る過去からの時間を楽しむ観点で写真に向き合うのですが、そうした老人写真家は被写体としてもとても魅力的であり、彼らの背中には重厚長大な物語を感じるところです。ちゃんちゃんすちゃらかちゃんちゃん。