1 GG 2016/6/1 12:23 唐門と称する建物は結構目にしてきましたがこちら醍醐寺の唐門も国宝と言われるだけあってご立派でした。京都醍醐寺は初見参です。
唐門と称する建物は結構目にしてきましたがこちら醍醐寺の唐門も国宝と言われるだけあってご立派でした。京都醍醐寺は初見参です。
2 taketyh1040 2016/6/1 12:56 こんにちは。私は、この門ほど強烈な印象を受けたモノはありませんでしたね〜。本来なら、天皇家の菊のご紋を中に配するべきところを、豊臣家の紋を中心にして、両脇に菊のご紋。いかに権力があったのか、また、見せつけたのか、恐るべしでしたね〜。私の記憶では、それなりに時代を経た古びた印象でしたが、近年、修復されたのですね〜。
こんにちは。私は、この門ほど強烈な印象を受けたモノはありませんでしたね〜。本来なら、天皇家の菊のご紋を中に配するべきところを、豊臣家の紋を中心にして、両脇に菊のご紋。いかに権力があったのか、また、見せつけたのか、恐るべしでしたね〜。私の記憶では、それなりに時代を経た古びた印象でしたが、近年、修復されたのですね〜。
3 GG 2016/6/3 20:54 taketyh1040さん、こんばんは。ちょうど6年前、1年半をかけて修復されたようでこの金ピカには目を見張りました。まさに権力の象徴とも言うべきですね。懐にも元気をもらえました(笑)
taketyh1040さん、こんばんは。ちょうど6年前、1年半をかけて修復されたようでこの金ピカには目を見張りました。まさに権力の象徴とも言うべきですね。懐にも元気をもらえました(笑)
4 GEM 2016/6/3 22:25 こんばんは京都御所、二条城などの唐門も見事でしたがここの唐門シンプルながらも この上品な豪華さは一見の価値がありそうですね。
こんばんは京都御所、二条城などの唐門も見事でしたがここの唐門シンプルながらも この上品な豪華さは一見の価値がありそうですね。
5 GG 2016/6/3 23:39 こんばんは。まさにシンプル・イズ・ベストの見本のような造りに魅入ってしまいましたBR光学素子入りのレンズに満足してますよ
こんばんは。まさにシンプル・イズ・ベストの見本のような造りに魅入ってしまいましたBR光学素子入りのレンズに満足してますよ
6 読者 2016/6/5 08:23 皇室・皇族の菊紋は花びらが16枚ある十六八重表菊でして、この写真の菊は一般的な十二菊ですね。よってこの菊の紋章は天皇家の紋章とは違うと思います。だいたい菊のデザインそのものが違うので、これを皇室の紋章と考える人はいないのではないでしょうか。真ん中の桐の紋は豊臣家の紋章と見て間違いないでしょうが両側の菊の紋章はもしかすれば想像ですが醍醐寺の紋章のようなものではありませんか?なおこの唐門は朝廷の使者を迎えた時にしか開かれなかったようです。それから中央に配置した紋章が格上とするのかどうかは分かりませんね。門は使者を迎える時は真ん中の扉は開いています。それで外から見えるのは両側の紋章ですから。ちょっと気になるコメントがありましたので書かせてもらいましたが他意はありません。それよりも少し残念な気がしたのは、GGさんもGEMさんもおそらく誤認を知っていながらそれを指摘しなかったことです。恥をかかせてはいけないという思いやりということかも知れませんが、写真は真実を目指すという地平からは遠いものだなあという気がしました。もうそういうものは死語なのかもしれません。また同類はお互いに切磋琢磨するという姿勢からも違うものを感じました。もちろん博学の花鳥風月氏ならば当然このことは分かっているでしょう。しかし彼こそはこの思いやりの徒の代表選手のようなものですですから。だんだんとお互いには基本的には無関心という、花鳥風月氏のペースに染まってしまっているレンズテスト板のような気がしてまりませぬ。
皇室・皇族の菊紋は花びらが16枚ある十六八重表菊でして、この写真の菊は一般的な十二菊ですね。よってこの菊の紋章は天皇家の紋章とは違うと思います。だいたい菊のデザインそのものが違うので、これを皇室の紋章と考える人はいないのではないでしょうか。真ん中の桐の紋は豊臣家の紋章と見て間違いないでしょうが両側の菊の紋章はもしかすれば想像ですが醍醐寺の紋章のようなものではありませんか?なおこの唐門は朝廷の使者を迎えた時にしか開かれなかったようです。それから中央に配置した紋章が格上とするのかどうかは分かりませんね。門は使者を迎える時は真ん中の扉は開いています。それで外から見えるのは両側の紋章ですから。ちょっと気になるコメントがありましたので書かせてもらいましたが他意はありません。それよりも少し残念な気がしたのは、GGさんもGEMさんもおそらく誤認を知っていながらそれを指摘しなかったことです。恥をかかせてはいけないという思いやりということかも知れませんが、写真は真実を目指すという地平からは遠いものだなあという気がしました。もうそういうものは死語なのかもしれません。また同類はお互いに切磋琢磨するという姿勢からも違うものを感じました。もちろん博学の花鳥風月氏ならば当然このことは分かっているでしょう。しかし彼こそはこの思いやりの徒の代表選手のようなものですですから。だんだんとお互いには基本的には無関心という、花鳥風月氏のペースに染まってしまっているレンズテスト板のような気がしてまりませぬ。
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