佐賀県有田町にて
Exif情報
メーカー名 Canon
機種名 EOS-1Ds Mark III
ソフトウェア Photoshop Lightroom 5.7 (Windows)
レンズ EF24-105mm f/4L IS USM
焦点距離 24mm
露出制御モード
シャッタースピード 1/1250sec.
絞り値 F8.0
露出補正値 +0.7
測光モード
ISO感度 200
ホワイトバランス
フラッシュ なし
サイズ 2333x3500 (5,335KB)
撮影日時 2016-09-23 08:24:52 +0900

1   奈良の裏街道   2016/9/24 01:04

こんばんは。
陶器の里、佐賀県有田町は彼岸花の盛りでした。
町に溶け込む様に立つ赤レンガ造りの煙突が柔らかなひさしに映え
寄り添うように咲く彼岸花の光景が素晴らしかった。
のですが・・・、電柱と電線が雰囲気をぶち壊しておりましたぁ~。(^^ゞ

2   kusanagi   2016/9/25 00:01

あっこれ、上手いですね。今節では最高の彼岸花っていう気がします。
彼岸花をわざわざ撮ったというよりも、風景を描写してその中に花も入れたという仕込み絵みたいな
ものです。

裏街道さんは縦位置写真が上手です。というか、風景を撮っては持ち前のセンスが光るんですね。
それはなぜかというと、立体感覚とか遠近感覚が人一倍優れているからでしょう。
3次元の視感覚が飛び抜けて優れていて、そういう人は本質的に絵画とか写真に向きます。

この写真も地形のウネリが上手く捉えられていて無駄のない効果的な構図になっています。
光もよく読まれていますし、雲までもが遠近感を誘っているかのようで、そういうのを一瞬に視野に
捉えて脳内で演算して写真に構図として表現できるという素晴らしい頭脳を持っているわけですよ。
非常に多様な要素を瞬時に読みきって表現できるというのは実は稀有な才能なんですね。

こういう立体感感覚とか遠近感覚というのは何も大自然のランドスケープだけではなくて、
昆虫などの世界の描写でも同じことが言えそうです。
m3さんのシジミチョウの写真を見ていると、その蝶の世界の空間に深く引き込まれてしまいます。
蝶そのものもきっちり撮らなければならないという制約の中で、ああいう素晴らしい構図がとれる
というのは並大抵のことではないですね。

電線や電柱が写真の雰囲気をぶち壊してしまうというのは考えすぎです。
そういう考えは、自分の頭のなかの写真(意識)のセオリーが間違っているというしかありません。
そもそも自分が思い込んだ絵材だけで、写真としての絵を組み立てるというのは初心者のやる
ことです。
プロ写真家も電線を外しますが、それは写真の掲載されている出版物の読者がそもそも写真の
初心者であって、それに合わせているだけなのです。具体的に言えばそういう写真は編集者が
ダメといいます。

初心者の写真を見ていると、自分が見たい部材として被写体が写真に入っているだけで満足
するでしょう? 写真そのものが傾いていてもピントが外れていても気にしません。
それから写真に自分の関心のモノが入っていても、それをより深く注視することはありません。
それは例えば「花」というキーワードで脳内意識領域が発火して、そのキーワードに相当するものが
ファインダー内に収められていさいすればOKであるからです。この花がどんな状態なのか、自分の
考えていて花とどう違うのか。そういうことは考えません。
同様に観光写真とかの風景も、その観光地の象徴する建物とか景色が捉えられていればよいの
です。そしてその写真を撮ったことで自分は○○の地へ行ったんだという満足感が脳内で充足する
んですね。

そういうのは実はものごとを視る力に直結しているんですね。初心者は目前の光景を漫然としてしか
見ていません。見ているようでいて見ていない。
写真の初心者でも、本当に視る力があるものは初めてカメラを持たしても写真が上手いです。
写真の下手な人はこの視る力というものが希薄であり虚弱なのです。その分を補うとして、言葉で
自分を表そうとします。
言葉とはワードでして、私が今綴っているのは文章であってワードとは違います。センテンスですね。
この言葉というのは脳内でシンボライズされていて、それに変更を加えるというのは難儀ですね。
しかしセンテンスの中では言葉は縦横無尽自在にその意味を变化することが可能です。
つまり、写真は言葉たけではダメで、文章という考え方を持ってこないと高度な写真となり得ないと
いうことです。ですから、「写真を読む」、という言い回しが可能なんですね。

美しい農村風景のなかで人工物があれば興ざめをするかも知れませんが、それは写真を言葉、
この場合では、電線、電柱、という在り来りの言葉の毒素に左右されているからですね。
言葉だけしか理解できない写真の読者にはそれは不快かもしれませんが、写真をより高度に読む
ことができる読者にとっては電線電柱は毒素になり得ず、無視もできるし、また逆に薬物にもなり得る
ものです。

ちよっと難しいことを書き過ぎたかもしれませんが、この場を借りて、なぜ写真の初心者とベテラン
は違うのか。ベテランにとって初心者の写真はなぜ不快に感じるのか。そういうことも考えて欲しか
ったからです。
ネット初心者はまた、言葉しか知りません。しかも数少ない語彙。それで文章というものを読むことも
書くこともできかねます。
しかし出来なくても言葉の羅列でネットに参加できますね。今はそういう時代ですがその時代はある
意味で世界の劣化現象なのであって、それをそのまま突き進めていけば世界の構造は砂のように
崩れさっていきます。

私ごとを言えば、写真の黒白時代の最後の世代の人間だろうと思っています。私より年齢が上の人は
この板にも多くおられるようですが、私が特異なのは、十歳代に写真に目覚めてから黒白写真しか
せず、たまにリバーサルフィルムくらいで、写真を白黒写真の文化として捉えていたことです。
つまりカラー写真はやっていないんです。カラー写真が全盛になっても見向きもせずで、黒白写真現像
が家庭事情で自分で出来なくなってからは写真そのものをやめました。
写真を復活したのはデジタル化になってからです。その当初も白黒写真でありリバーサルであり、
フィルムをPCスキャンしてやってました。

そして、そもそも白黒写真というのは、今のデジタルとかフィルムカラー写真とはまったく違う文化の
背景を背負っていたんですよ。例えば当時の写真の文化では写真評論家という方々が必要だった
のです。
白黒写真というのは相当に慣れないと写真として成り立たなかったというか、写真を読む技術とか
無論写真を撮るテクニックは持てなかったんです。また写真と社会との接点とも言うべき写真論も
盛んでした。
今でも画像として黒白写真をたまにする人がいますが、それは単なるファッションですね。自分の撮る
写真が全て黒白であるのとはその重さがぜんぜん違います。

その写真評論家という活字文化の職種が完全に無くなったのは写真がカラー化してからです。
カラー写真というのは人が見る光景と同じですから、もはや写真を読んだりする必要性を感じなく
なったのでしょう。今は写真の評論は大学教授がやってるのかな。
写真がカラーになりますと、写真の文化には商業主義が押し寄せて来ました。
おそらく多くの写真趣味の方々は、その写真の商業主義の時代に写真を始めた人達でしょう。
写真店は写真愛好家を育てて写真を撮ってくれる、言い換えれば、フィルムやプリントを使ってくれる
お客を大事にします。またカメラもどんどんと買って欲しいですしね。

そうなってくるとそういう写真愛好家には対しては商売として接するというか、なんでもいいから
どんどん撮ってね、カメラも新しいのが入ったよ、買ってね。となるわけです。写真愛好家自身も、俺は
客だぞ。大事にしろ。と偉そぶるようになるのはこれは人間の性のようなものです。
そういう時代が長く続いたのでしょうね。もっともその時代、私は完全に写真とは無関係でしたが。

その写真の商業主義の文化(文化と言えるのかどうか)を未だに引きずっているのか現在のデジタル
写真の写真ですね。この掲示板もそういう人達がメインです。完全にデジタルカメラから写真を始めた
人達はまだ少数派ですね。
これが完全にデジタル世代が主流になってくるとまた違ってくるのでしようが、今はそういうようには
なっていません。

とにかく、さらーと写真の歴史のようなものを見てきましたが、とにかく白黒写真の時代というのは、
今の時代と違い、写真の社会的な文化的な地位は高かったですね。文化人と言われる人はなべて
写真に対しての造詣がありました。
私が写真を始めたのは学校の写真部からですが、叔父が写真好きだったという影響もあったので
しょう。
当時、写真部から写真を始めますと、徹底的にこの写真の文化というか、読み方とか社会的な意味
というものを教えこまれます。新人が写真を初めてもシゴキというか体育会系のなりでおよそ写真を
褒めてくれるなんていうことは絶対ありません。徹底的にしごかれるんですよ。
しかし自分の写真は下手で、先輩や先生や顧問の方の写真は素晴らしいというのは分かりますから、
それは何がよくて何が悪いのか、そういうことを自分で考えるようになるんです。と言うか、そういう
ことを自分で考えるようにするために態としごかれるんですね。

ですから私が写真を初めて良かったなあって思うのは、教えてくれるんではなくて自分で考えるという、
そういう自助努力の習慣が身についたことなんです。
カメラがなければ先輩が貸してくれる。しかし写真のテクニックとか写真が上手くなることはほとんど
教えてくれません。上手くなりたければ自分で盗めっていう感じでした。
また写真評論家や写真集なんてのも多く読みましたね。これも貸してくれたり自分で買ったりで。
ちなみに当時はカメラの貸し借りとかは普通で、私も後輩に貸したりあげたりしたカメラは多いです。
あの時期、当時のカメラのほとんどは使いましたから。先輩や顧問には写真館とか写真屋さんの
プロもいましたからそこでアルバイトもしたりカメラも貸してくれたりで技術はそこで覚えたのかな。

余談が過ぎましたが、周囲から徹底的に、自分が写真をやっていくならば、自分で見て考え、自分で
発見し自分でやり抜け、っていうことを骨の髄まで教えこまれたことは、後々の自分の人生にとって
大きな財産となりましたね。
とにかく当時の写真の文化というのは、それほどに高くて裾野が広くて、一人の青年の生き方までも
変えてしまうほどのものでした。

どうでしょうか。今の写真の時代とはぜんぜん違うでしょう?(^^;
私は今、こういうデジタルやネットの時代に写真をやっているんですが、そのこころの本心は昔の
黒白写真の文化を引きずっているというか、やはり無くしてはならないものだと考えているんです。
カラー写真の商業主義の時代は見向きもしなかったですし、デジタル時代になれば多少は可能性は
あるのかということで、今このようにして書いているわけですが、それでもかつての時代とはまるで
違うわなって正直、思います。

写真というのは徒弟的なところがあって、やはり現在でも写真に本当の意識が芽生えるのは写真学校
とかそういう正式な教育を受けてでないと難しいところがあります。自己流でネットなどで写真を学ぶ
っていうのは有り得そうでありえないですかねぇ。
現在、写真の専門学校とか、高校大学の写真部の学生ってほとんどは女性なんですよ。本当に
真剣に写真を学びたいやってみたいという人間は女性です。もちろん男性もいますが少ないですね。

しかし写真というものを通じて、ネットでもいいから色んなことを情報交換し切磋琢磨して学ぶっていう
のはけっして無駄なことではありません。
誰でもいつでも年齢を性別を問わず初められるのが写真であるわけですから。

話がえらく脱線してしまいましたが、写真の当初は自分で現像しプリントしていたものから、商業主義
の他人任せの時代になり、さらにはデジタルとネットでさらに簡単になってしまい、今我々の写真と
いうものは、果たしてどこにいるのだろうと迷走しないためにも、写真の原点をもう一度見なおして
もらいたいとという願いがあるんです。というか、私自身、もう一度振り返ってみたかったんですね。
写真が軽くなればなるほど、実は我々自身、自分自身を見失います。そんなんならば写真などしない
ほうがいいんです。たとえ写真をやめてしまっても、写真の本当のこころを知っているものはその写真
のこころを活かした生き方をすることができます。こちらのほうがもっと大事かな。
写真に対して画像以外の何も持たなった人間は、写真をやめればただ白紙に戻るだけです。

3   中井PAの裏街道   2016/9/25 08:23

kusanagiさん、おはようございます。
デジタル一眼に変えてから花のアップ写真写真を主に撮っていた様に思います。
私の大好きな梅、チューリップやバラといった花々は探すのが簡単でしたから。(笑)
で、ここに投稿をはじめてしばらくするとその撮り方に疑問を感じ風景を撮る様になったと感じます。
この様な写真を撮ろうとするとチャンスがメチャ減りますね。
まず咲く時期と私がその場所へ出かける時期が一致しなければいけません。
出会えるチャンスは滅多になく、さらに出会えても時間がないとか駐車スペースが無いとか・・・。
まぁ、気長に楽しむしかありませんね。^^

白黒の写真で魅せられる写真家が本当の意味で写力があると思います。
私にも『こんな写真を撮れる様になりたい』と思わせる写真家さんは何人かおられます。
まぁ、気長に楽しみます。

4   kusanagi   2016/9/26 00:49

今あるその場の光景を写し止めるという発想では如何でしょうか。
わざわざ自分の得たいという場所や被写体を求めての撮影ではなく、いま眼前に広がる光景の
中で自分の発想を発揮される方がより自然です。発想の転換とでも言えるべきものです。
料理で言えば何々を作りたいから食材を買ってくるのじゃなく、冷蔵庫に入ってる材料で料理を
考えるというやり方。
出来上がった料理としてはどちらも同じように美味しいはずです。

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