メーカー名 | RICOH IMAGING COMPANY, LTD. |
機種名 | PENTAX K-3 Mark III Monochrome |
ソフトウェア | Photoshop Lightroom 4.4 (Windows) |
レンズ | Sigma or Tamron Lens |
焦点距離 | 17mm |
露出制御モード | 絞り優先 |
シャッタースピード | 1/640sec. |
絞り値 | F6.3 |
露出補正値 | -0.7 |
測光モード | 中央重点測光 |
ISO感度 | 200 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 6192x4128 (14.7MB) |
撮影日時 | 2023-05-18 22:37:35 +0900 |
②
前号で、私の黒白写真は自分回帰の写真行為なのではないかと記しました。
なるほど、それはある意味で当たっているでしょう。しかしデジタルな黒白写真はぞれだけではないと
思っています。黒白写真は私の機材愛というか機材への欲望を徹底的に低下せしめる働きがあるよう
だからからです。
こんなことは写真を初めて初めての体験です。これまで色んな機材、カメラやレンズ、三脚からPCや
ソフトや、とにかく写真に関する何でもの機材漁りに向かっていたものが、それらを全否定するように
なったからですね。否定というか、感心が失せてしまったわけです。これまでの何らかの魔力というも
のが一挙に消失してしまったという感じです。
返すがえす、これは驚きです。率直に言って今や自分が使うカメラは1台だけでいいです。ペンタK3M3
モノクローム1台でいいですし、それがダメなら黒白化したイオス5の1台で満足なんです。
レンズも実用として必要な数本で十分。
そういう最低限の、しかしそれでいて十分に事足りる必要最低限の機材でいいんだとなるわけです。
これまでこういう経験をしたことはありませんでした。機材は放って置いても自然に増えるものとしか
自覚してなかったですから。
こういうのはやっぱり、黒白写真がもたらした効果だろうとしか考えられないんですね。
ここがやはり重要です。
実はかつてのフイルム黒白写真をやっていた当時も、カメラ遍歴は多少ありましたが基本的にカメラが
1台か2台。レンズも数本の所持でしかありませんでした。そういうことで黒白写真というのはフイルムも
デジタルでも共通して、機材愛や物欲に関してはストイックであると見られることです。
カラー写真のように豊満潤沢、飽食世界ではないということです。ここがカラー写真と黒白写真の決定的
な相違だろうと考えられます。
カラー写真をやっていても機材にあまり関心がない人もおられます。しかしそういう人は被写体に対して
飽くなき欲望を発揮するようです。色んなところへ行って写真を撮り続けていたいという。どちらにせよ、
無駄にお金を使うということでは、これは同じですよね。
言葉を代えて言えば、つまりはそれは消費意欲です。黒白写真はその消費の意欲を減退させる働きが
あるようです。
消費への欲望、物欲、そういうものを黒白写真は減退する方向に向かうのだろうということ。つまり、
カラー写真とは「色」です。色気ですね。写真から色気を取り除けば、留まることを知らない欲望が自然
と削ぎ落とされるというのではないですか。これは決定的なような気がしてます。
カラー写真やデジタル写真は、以前から比喩的に感じていたのですが、浦島太郎の龍宮城であるという
こと。そこですね。太郎がどっぷりと浸かった煌びやかな竜宮物語の世界に嵌ってしまうこと。それが
カラー写真でありデジタル写真であるということ、なんではないですか。
そして太郎が、夢中になっていた乙姫様や鯛や平目の舞い踊りに見飽きて、帰りたいと願い再び以前
いた村に戻ったとき、太郎は玉手箱を開けてやっと現実に戻るわけです。あら不思議、そこには白髪の
老人がいただけの姿になるわけです。
亀に連れられて龍宮城に行き毎日毎夜夢のような世界を見ていたのが、玉手箱を開ければそれらは
スッと消えて、別の現実の世界が待っていたとなるわけてす。
此処で言うところの、亀も玉手箱も、きっとそういうアイテムは実は同じカメラであり写真なわけです。
浦島太郎の物語は日本全国にあって、それどころか世界中にあるようです。我が県にもあります。(笑)
そこに写真というものの二重性、相反する対価の価値観が潜んでいるといってもいいんではないですか。
それこそが写真というものの真の姿かもしれないです。
浦島太郎の物語は、実は人の人生の物語そのものだと捉えることができます。ハレとケの二重世界でも
ありますから。そこには竜宮の夢心地もあるだろうし、冷め切った現実の世界もあるんだということ。
大げさに言えばそれは生と死の対比でもあります。
デジタル黒白写真は月光写真であるという感覚もありますね。満月下で見る世界は黒白世界です。色彩
は感じられずにモノトーンの世界があるだけ。太陽の日中世界はエネルギッシュで色香に溢れています。
かたや月光の光は密やかです。
もう自分も年齢的に緩やかに写真をやっていく時期になったと感じています。そういう時に黒白写真に
再び回帰したのではということですかね。
そしてもうひとつあろうかと感じています。カラーという旺盛な消費欲が他のものに変わっていくのでは
ないかという期待です。消費には色んな意味があります。経済的に言えば生産と消費は対になっていて
GDPとかの経済指標の要素です。そして言葉で生産的、消費的と言われるように、消費とは受動的な
意味合いも含んでいるように見られています。
黒白写真は画像的に言えば最低限の写真であり低成長化での消費行動のようなものです。ぎりぎりもう
これ以上削ぎ落としのないような写真世界。今流行りで言えばエスディージーズでしょう。それでいて撮影
に関して言えばカラーも黒白も同じです。
黒白写真になったからと言って、私が主体とする撮影に関しては何の違いはみられません。
私が黒白写真でいい、という背景には、撮影自体は何の影響も受けず変化も見られないからですね。
ただ結果としての画像が違うだけです。
撮影は生産行為。そして得られた画像は消費行為。こう考えれば生産自体は落とさずに消費だけを落と
すことができるというわけです。つまり生産したエネルギーが全て画像として消費されるというわけでは
なくなってくるということ。
生産と消費は釣り合っているとすると、生産で得られたエネルギーは全て画像の消費されるのではなく、
もっと別のものに変換されて、出来れば再生産への投資に回したい。そういう願いがあるんですね。
考えてみればこれまでは無駄に金銭も時間も労力も消費していたということも言えますね。撮影自体も
無駄が多かったかもしれません。ましてやカラーとして画像に泡として消えてしまったエネルギーや物質
は無駄だったかも知れないです。こういうことをこれからは考え直すことができるかもしれません。
黒白写真が低消費であるというのは確かでしょう。フイルム時代であれば即金額に関わりましたから。
デジタル時代でも機材欲としてガラッと違ってきてます。私が注目するのはそこなんですね。
私が黒白写真をするに当たって、かつてのフイルム黒白の経験がものを言っていると思います。初めて
黒白写真をするのではない。これは二度目であるということ。そういうことでは老練です。気構えができて
いるということかも分かりませんが。
太郎の物語では玉手箱を空けてからの人生が描かれていません。あれから太郎はどうしたのでしょうか。
ちょっと気になりますよね。(笑) 私が物語りの続きを書くとすれば、タイムスリップした世界で老人に
なった太郎。・・・そこでやっと太郎は深い眠りの夢から覚めて、胡蝶の夢と知ったということになるのです。