メーカー名 | PENTAX |
機種名 | K-5 II s |
ソフトウェア | Capture One 8 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 40mm |
露出制御モード | 絞り優先 |
シャッタースピード | 1/1250sec. |
絞り値 | F4.0 |
露出補正値 | -0.7 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 100 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 4096x2713 (4.62MB) |
撮影日時 | 2012-03-19 22:33:46 +0900 |
ペンタックス板・続3
ボケ多様の写真、もしくは無地部面積の多い写真などは写真ではなく、CGと同列のグラフィックアート
であると申しましたが、見方を変えれば、脱写真であるということです。
そしてこれには物凄い利点があります。それは特に昨今の高画素カメラの時代では際立っていて、
意図的に情報過剰の弊害を防いでくれるということです。絵としてはとてもシンプルです。何が写って
いるかを考える暇さえ与えないほどの情報の少なさが特徴ですね。もう一瞬で、これはこの絵であると
分かってしまいます。もはや考えるまでもなく見るまでもないというわけです。
それでこういうボケ写真や無地写真は、情報過剰に疲れた人達の多い現代では特に求められている
画像なんだろうと言えますね。時代の要求にマッチしています。
https://photoxp.jp/pictures/225904
こういうのもボケ写真のひとつなのですが、要するに意図的な情報削除であるわけです。
この情報削除という指向自体が脱写真そのものの考え方です。とにかく現在のカメラや写真は写り過ぎ
るというわけで、その反作用として出現したのが、ここでいうところのボケ写真、無地写真の存在意義
なんだろうということですね。ですから、脱写真なのです。
過多情報化し過ぎた現在写真に対して、これまたその反作用として意義があるということで、私が選択
したのが黒白写真でした。色情報をすっぽりと削除することで、その要求を実現したわけですが、
この黒白写真はあくまでもレガシーな手法です。
黒白写真は写真の領域に留まっているということで脱写真ではありません。しかしボケ写真や無地写真
は、写真の領域を突破して脱写真になったと私は考えます。
写真か写真でないかは、それは現実的であるかないか。それが決めるでしょう。黒白写真はあくまでも
写真として、この現実世界に留まっていて、つまり写真の領域に収まっているのですが、脱写真はグラ
フィックアートとすることで、空想世界、虚空世界、今で言うところのバーチャルな世界となっているよう
です。
そこのところが決定的に違うところです。
そういう風に考えると、ボケ・無地写真とは、作者にとっては意図せずして時代の最先端の画像を実現
させたものだ、ということかも知れませんね。
私は古いオーソドックスな人間ですから、そういう時代の最先端の画像を自分に取り込むということは
恐ろしくてできません。写真という概念の頚木から外れることができないということで古過ぎる人間かも
しれません。
私が黒白写真を選んだのは、それがコンピューターもネットもない時代の産物だからです。最新でも
1960~70年代の技術です。そういうものに回帰をするということで黒白写真を選びました。
そういう絶対的に安心できる写真技術なのですが、この古さが私には安心感となっています。
デジタル写真の実現した、圧倒的な解像力とシャープさ、ゆえに情報量が多すぎる結果となり、その
過剰情報に溺れることから逃れるために、古い技術である黒白写真になったわけです。
ボケ写真・無地写真も、黒白写真と同じように過剰情報から逃れるということでは共通するのですが、
私は後ろに下がり、彼らは前に進んだわけです。その選択と決断が真反対となりました。
実はもう私としては、アイフォーンなどのスマホ写真でもう充分ではないかと考えています。クラウドに
写真を保存するのはちょっと気に入らないところはありますが、そこを省けばカラー写真はスマホで
良いんじゃないかっていうことです。
スマホ写真の良いところは、全ピント写真(パンフォーカス)が得られるというところです。センサーが
1インチくらいですからボケ写真なんかは得意ではありません。しかしそこが安心できるということです。
正直言って、ボケ写真・無地写真は、写真の持つ属性の力学として、本当にそんな写真を撮っていて、
大丈夫なのな?という不安感があります。
もしかして人間として大丈夫なのか、という薄気味悪さがあるんです。これは理屈ではなく私の予感です。
その点はスマホ写真は、さらにはドローン(MTさんのような)ですら、写真として安心感があります。
センサーサイズって、フォーサーズがそうですが、小さいほうが安心感があります。
※投稿した写真は、20ミリですのでフルフレームでは30ミリとなります。やや広角というレンズです。
私としては前出の40ミリよりも圧倒的に、この広角側描写が好きです。30ミリとなりますと、小石に
ピントを合わせながらも、水平線も画面に入れることができました。
レンズミリ数もボケも人の好き好みだと言ってしまえばそれまでです。それ以上、議論は進みません。
結局は撮影者の世界観に尽きると思うのですが、その世界感に、より多くの人達の賛同しが得られる
のかどうか、それが広い意味で写真としての結果となります。
その世界観に広がりがあるのかどうか。それとも詰まっているのかどうか。
ボケ写真は袋小路に入ってしまった写真なのではないかと思えてきます。自ら世界を閉ざしているの
ではないかと。
写真は平面の2次元の表現とも言いますが、現実は3次元であり、可能な限り写真は3次元的な広がり
を持つべきだと思っています。けっして2次元世界に閉じ込めるべきではありません。
その写真を他人が観て、現実の空間を想像できないと写真としての価値が削がれているということに
なります。
ボケ写真には空間の閉塞感がつきまといます。無理に2次元の世界に閉じ込められているという気分に
させられますね。
ボケ写真も、無地空間写真も、そして抽象的CGアート(一頃騒がれましたが今はすっかり廃れました)
もそうですが、たいへん窮屈な画像世界となるようです。やはり現実の光景には敵わないということ
なのではないですかね。
それにしても、なぜ人は敢えてボケ写真を求めるのか。そもそも現実にはありえないボケ世界ですが、
そこに人工的な作り物への奇妙な安心感?があるからですか。私にはもの凄く無理をしているような
気がしてならないのですが。
とにかく私にはボケ写真というものが分かりません。理解しがたいものとしてこの世にあるわけですが、
これを好む人もいるのも事実です。