空間を感じる
Exif情報
メーカー名 RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
機種名 PENTAX K-3 Mark III Monochrome
ソフトウェア Utility 5 Ver.5.10.0
レンズ
焦点距離 19mm
露出制御モード ノーマルプログラム
シャッタースピード 1/40sec.
絞り値 F2.8
露出補正値 -0.7
測光モード 分割測光
ISO感度 1250
ホワイトバランス
フラッシュ なし
サイズ 2048x1365 (1.52MB)
撮影日時 2024-06-29 00:55:13 +0900

1   kusanagi   2024/12/21 00:17

前回のコメントは、写真なるものを、撮影する側ではなく鑑賞者側からの視点で考察してみました。
そういう視点はそもそも私本来の得意ものではないのですが、しかし主に他者の写真を鑑賞する
立場の人もいるだろうということで書いたまでです。

私の立ち居地はあくまで撮影する側なんですね。それで私がカメラを持って撮影に望むとき、最も
大切にするのは、その場の空間の佇まいというものを確りと味わうということです。
その空間、2次元にしろ3次元にしろ、自分を包む空間というものがあるわけですね。その空間に
親しみ、深く味わい、可能ならば写真として表現をしたいっていうことです。

特別に、あるモノを撮りたいというのではなく、あくまでも空間の雰囲気を知りたいわけです。発見
したいと言ってもいいかもしれません。そもそも、モノにしても、その空間というものがあるから存在
できるのであり、モノとは空間の醸し出す抽出物であるとの認識が私にはあります。
ですからモノを撮っていて実はモノを撮っているのではないのです。また人を撮っていても人では
なく、人を包む次元を撮りたいと思っているのです。

神社というのは面白くて、その本質は空間そのものという気がしています。神社には色いろなアイテム
があるわけですが、本当はそういうものはどうでもいいことなんです。鳥居があり灯篭が狛犬がいたり
そして建築がありますね。古木や巨樹もありますし、磐倉もそう。
しかしそれは神社や古神道の本質ではないわけです。本当に存在しているのは敢えて言えばその場の
結界ですか。結界という約束事の空間がその本質なんだろうということです。

ですから私の写真に於いても、そういう空間や次元、結界のようなものを眼前に見出し、それを知り、
追求して、我がものとしたい。そういうことだろうと考えています。
写真で撮れるのは光の明暗度とそれから類推できるモノの形だけです。しかし撮影の場では、光だけ
でなく、風も、温度湿度も、冷気や匂いも、さらに電磁場も感じることができます。そういうもろもろの気を
感じることが、私の撮影における最大の楽しみであるわけです。
そういう気だけでなく、歴史物であれば時間の流れ、時の積み重ねも知ることになるわけです。

最近、県下で美味い米は何処にあるのか。と考え、いろいろと行って見たりして感じたことは、やはり
地力が豊かで且つ気温が良くて、そして水が豊富であるところがベストだと感じました。無論、有機農法
で作るのが必要なのですが、それだけでは足りずで、地場の地力がないところでは限界があるなって
いうことですかね。
各地の道の駅で、その場所で採れた玄米などを買い食し、また田地や用水や池なども散策してみて、
トータルとして美味い米が採れるのは、県下では土器川という1級河川の地域であるのが分かりました。
この土器川、昔は吉野川が流れていたところで、狭い県下では分不相応の川幅を持ち、その川が造った
平野も大きいです。

そういう河川と平野も、言わば空間なんですね。その空間を知ることが、実際に食して美味い米に巡り
合うことに繋がるわけです。その空間とは地理的には2次元で、現地に行けば3次元であり、遠く思いを
馳せれば地質時代という4次元の空間になるわけです。
そういう空間を発見し、実利的にも食べて栄養とすることができるわけです。空間とは単なる気持ちの
感じ方だけではないんですね。思考することができ、モノとして栄養物とすることもできる。
そういうトータリティのある空間を、写真撮影において感じとれればなあと思っています。

写真を撮影する側からすれば、出来上がった写真の画像はほとんど意味がありません。
写真を人様に見せる必要すらなく、自分が撮った写真を見る必要もないのかもしれません。あくまでも
現地の空間を味わうのが一番であり、撮影は2の次。撮影をしていればその結果はその場で分かります。
(背面モニターを見て、なんていう意味ではない) 
撮影行為はあくまでストーリーであって本質ではないですから。画像はあってもなくてもいいんです。
そういう撮影至上主義、撮影資本主義というのが求める全てなのであって、写真は全て撮影の場で、
その空間で完結するものなのです。

瀬戸の島で、20キロ近く、まる1日掛けて歩き撮影をしたことがあります。そうすると最後には疲れで
朦朧としてくるわけですが、そこで眼前に出会う光景というのは、空間というものを通り越して、自己の
内面にも及んでくるということが分かります。空間というものは外部にあるだけでなく、自分の内部にも
あるのだということです。外次元、内次元と言ってもいいわけです。
そういうものは画像としては表わすことができません。しかし内面的には存在はしているわけです。
ですから写真というものは、画像が全てというわけではないんですね。

写真とは極めて孤独で、自己中心的な行為です。自分というものがなければ写真はできません。人は
何かしらの写真の哲学をもって臨んでいると思います。人真似の哲学というのはないんですけどね。
その自分の考え方に沿って、写真をしているわけでして、考えてみればこれほどに贅沢なことはそんなに
あるものではないです。
日本人の多くの人は自分が無いといわれています。自分は自分以外の何かであるということですか。
しかし、写真をしようと思えば、自分というものを強く持たなければできません。
それは我がまま、とか自分勝手本位というのとは違います。それは子どもですから。そういうのではなく
自分1人で写真ができる成立するというのが、本当の自意識のある写真行為ということになります。

まず自分がなければ写真はできない。
それに加えて自由な時間と金銭も必要だというわけです。ただ嬉しいことにデジタル時代では最初の
投資だけで、後は低ランニングコストで写真ができるようになったことは喜ばしいことです。フイルム時代
はそうではなかったですからね。
健康な身体も写真には必要です。写真とは歩きなので歩ける体力と健康が最低限の条件になります。
私も含めて高齢者にとっては、これが最大の難関になりそうです。

写真をしていくことは、つまり撮影をしてくことなんですが、それをやればやるほど自分を強くすることが
できるのではないかと思っています。それは自分の空間を作り上げることなのではないかなって感じる
ことがあります。それを自意識とでも言っていいのかも知れませんが。
多くの人達は、家族のため子どものため、会社や社会の為に生きていたのではないですか。自分を
捨て置いて他者のために、金のために生きてきた。そこに本当の自意識はありません。
写真を撮っても家族写真であったり、アマチュア写真ては、写真を撮って人に褒めてもらったり喜んで
もらったりすることを目的とする。それは本当の写真ではありませんね。利他主義の延長線上にある
ものです。

そうではなく、本当に自分だけの、自分ファーストの写真を撮りたい。そこにこそ写真の本当の真髄と
いうものがあるような気がします。相棒は手に持つカメラのみです。
私が若い頃、カメラを持って写真をしている人を見てカッコイイなって思ったのは、その人が手に持って
いるカメラがスマートでかっこいいからだったわけで、それ以上でもそれ以下でもなかったわけです。
写真展を見て、雑誌の写真を見て、写真って良いなっていうよりも、まず撮影する人の姿が良いなって
感じたからこそ、私は今も写真をしているわけです。

余談ながら私が使っているカメラは全てカスタマイズされいます。それでよく人からカッコイイとか言われ
ますし、撮影していて、良い趣味だねって言われます。今はもう素直に褒め言葉を受け取っていますが
それは私が今もカメラはカッコイイという原点に忠実だからなのかも知れません。
私の写真の相棒・親友は今もカメラだけなのです。

2   xp   2024/12/21 01:32

kさんデジカメとワクチンに侵されて完全に病気ですね〜

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