メーカー名 | PENTAX |
機種名 | K-5 II s |
ソフトウェア | Utility 5 Ver.5.10.0 |
レンズ | |
焦点距離 | 17mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/125sec. |
絞り値 | F5.6 |
露出補正値 | -0.7 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 100 |
ホワイトバランス | オート |
フラッシュ | なし |
サイズ | 3000x1987 (3.97MB) |
撮影日時 | 2013-04-10 02:23:17 +0900 |
今私が撮影に取り組んでいる高知県室戸半島の、海岸段丘の台地の俯瞰写真です。掲示看板を撮影。
これは室戸市ですが、田野町/安田町に跨る大野台地はもっとスケールが大きいです。
https://www.47news.jp/4780923.html
長野県などに行きますと、これが河川の河岸段丘になりますね。
普通の海岸部の沖積平野と違い、完全な水平平面ではないのですが、そこは台地なので多少の傾斜はある
ものの、広大な農地が広がっている様は、ちょっと異世界ですね。遠望して太平洋が見えますし。
室戸半島は地震の度に隆起を繰り返すようで、台地の部分はかつては海岸線だったところです。それが
証拠に、田畑の石垣に丸石(河口部や海岸部でしか生成されない)が積まれていて、なんと山の中で丸石が。
という具合で不思議感がいっぱいです。(笑)
普通、車で室戸岬まで走らせると55号線を(画面右下)走るんですが、この段丘の台地は全く見えなくて、
海の反対側は峻険な山が連続しているようにしか見えません。県外の観光客はその山の上に農耕地がある
などとは想像もできないでしょうね。
台地に上がるには海岸線の道から登るわけですが途中は鬱蒼とした原生林です。このまま行っても大丈夫
かなって不安になりますが突然開けて農地が広がっている様は、感くるっちゃうという具合。
山の中の台地だと、水は?という気持ちになりますが、背後にもっと高い山が控えていますので問題は
なく、植えられたばかりの水田に滔滔と水が流れていました。
田地の土は独特の赤い土で、これは地質学的には古代三紀から中新世の付加体というもので、太平洋の海底
で堆積されたものが陸地としてくっ付いたものです。花崗土と違いきめ細かくて保水性はよさそうです。
ミネラル栄養分もあると思います。
私がする写真は、こんな具合で写真の為の写真ではなく、自分に関心がある対象を見てみたい、行ってみたい
という延長線上に記録としての写真があるわけで、芸術とか表現などとは何も関係はありません。
この海岸段丘の台地は、高知県の海岸部の散策でたまたま見つけてしまったもので偶然の産物なのですが、
最初は南海トラフの津波被害はどうなるの?から始まった高知行きからです。津波非難タワーを散策し、
ついで室戸市にある地震のたびに起こる隆起現象に関心が移り、そしてその隆起が地形をも形作っている
台地にたどり着いたというわけです。
ところで、なぜ写真が芸術や表現であってはまずいのでしょうか。
その疑問が湧いてきませんか。自分は芸術などに興味があるから是非に写真でそれを試してみたいと
いう方もおられると思います。
しかし写真は原理的に大変リアルなもので光学的な道具を使ってやります。その構造は人間の目の仕組み
とさほど違わない構造になっています。ほぼ同じと言っていいです。それでそういうリアルなものに
過剰な追加物を入れると、人間は正常な判断とか価値観がくるって来るのではないかと思うのです。
これは脳の基本的な機能を根本から揺るがす可能性があります。そこらあたりは大変難しいのですが、
結果として写真に過剰な芸術的装飾を付加すると、そういう人間は邪悪に染まる可能性が高いです。
自ら悪を具現するか、もしくは他の悪人に感化されるようになるわけです。そういう病的な結果になって
しまう気がしています。簡単に言うとその人の運が悪くなってしまうし能力も落ちます。
ですからこの問題は、写真人が自らの写真を云々という事態に留まらず、メディアやネット上で流れる
画像や映像が、過剰に画像処理されたり、AIで作成されたものが多くなると、一般の鑑賞者視聴者にも
大きな悪影響を与える可能性が非常に高くなるということです。
AIで生成された画像が人の脳内の記憶に蓄積されるというのは、これは考えてみればとても怖いことです。
もちろん芸術や表現が絵画で行われるのならば問題がないでしょう。(しかし幼児や子供には不自然な
抽象画はいけないかもしれない) しかしそれが、その芸術表現が元よりリアルを前提した写真において
行われることが問題なんですね。これからAI画像が一般化して広く流れるようになると、世の中全体が
不本意なことになる可能性が高いと私は危惧しているのです。
SNSのキラキラ写真ですら、若い少女がコンプレックスに包まれ気落ちして自殺するということもある
わけで、この問題はもっともっと注意深く考慮されるべきだと考えています。
ちなみに私は学生時代、絵画やデザインをやっていました。皆さん方よりも絵を描くことを知ってると
思います。それで私は写真を始めて、当初より写真が芸術だとか表現だとかは一切考えたことがありません。
写真は記録という一辺倒でやってきました。表現をやりたければ絵を描けばいいんです。
とにかく写真で芸風を装うのは、皆さんが思っている以上に危険なことがある。そういうことをちょっと
追加しておきます。
写真の怖さ、というのがあるわけですね。この問題は70年代には真剣に写真論として取り上げられた
ことがあります。写真がモノクロフイルム全盛時代だったころです。
当時、黒白写真という時代の中で、写真の有様に反旗を翻した一群の若い人達がいて、ある意味では
表現手法といえるものを写真に取り入れようとしたことがありました。
当然に当時の風潮からは大反発を食いました。コンポラ写真といって多くはアレ・ブレ・ボケの作風
だったのですが、これは写真をある意味、逆説的に絵画化する試みだったのかも知れません。
でも今から考えれば、黒白であり明らかに現実とは異なるものだったので、さらにカメラ雑誌だけの
発表だったので、一般的には悪影響は与えていなかったと思います。当時の若い写真家の間だけで
行われただけですね。そういう私も当時は若かったので影響を受けていたわけですが、表現と言っても
綺麗すぎる写真をわざと汚くするものだったので現在とは間逆でしたね。当時の緻密で綺麗でリアル
という写真こそが、すまし顔過ぎて絵画的だ、返ってリアルではないじゃないかという反発心から
起きた運動です。
しかし今の現在のデジタル写真によるキレイ過ぎる画像処理過多やAI画像は事情が大いに異なります。
今は一般の人々を直撃し、若い成長期の判断力のない人達をも巻き込んでいます。
このコンポラ写真、コンテンポラリー写真の日本版ですが、昨今事情では若い一般の人達の間で、
チェキなどの簡易プリントカメラが流行ったり、古いコンデジの作風が良いということでブームに
なったりするのと同じなのではないのかなっていう気がしています。
デジタル時代のコンポラ写真という意味で捉えると大変に興味深い現象です。少し前に流行った
若い人達のフイルムカメラ回帰もそうだったのでしょう。今も昔も若い人は時代に敏感で且つ率直
ですから、時代の嘘を見抜くんでしょうね。
そういえば今の時代の、老齢なアマチュア写真人がやたら画像処理過多の表現写真をしたがるのは、
認知症世代特有の現象と言えなくはないです。これは逆バージョンですかね。(笑)
「写真よさようなら」森山大道
https://www.shashasha.co/jp/book/farewell-photography-2
https://www.sankei.com/article/20170828-K3VCQMHRHFLMJCO2DF2RQ4B4FI/
1970年代初期にコンポラ写真は流行ったのですが、戦後からはじまった写真ブームはひとまずここで
頂点に達しました。それは黒白写真の時代が写真文化として極まったということを意味します。
そして1970年代後半から80年代以降となると今度は完全にカラー写真の時代になります。
カラー写真は黒白写真と違い、基本、メーカーの現像所で現像と印刷をします。黒白の場合は撮影者が
現像とプリントもするのが一般的でしたから随分と違いました。写真の成り立ちが違ってくると写真文化
もリセットされます。今現在のアマチュア写真家で古株の方はこの時期に写真を始めたと思います。
カメラも変わっていきましたね。黒白時代はメカニカルカメラでしたが、カラー写真時代はAFになり
モータードライブ装備のカメラになりました。京セラコンタックスなどはMFでしたがMDでした。
写真はカラー情報を獲得し新たな出発をしました。ただフイルムカラー写真は個人が自分で現像や
プリントができません。それで黒白時代のような言わば画像処理ができないわけで、カメラマンは
撮影オンリーとレンズ選択で自己表現を楽しんでいたというわけです。
当時のフイルムカラー時代の熟成期にはライカカメラがブームになったのではないですかね。
田中長徳氏などか盛んにライカの撮影に際してのオタク感覚を言っていたような記憶があります。
私は90年代末にPCデジタルスキャナでもって写真を再開しました。ほぼ20年ぶりの写真復活でした。
その時代が、2000年代に入ってデジタルカメラの時代になってきたわけですね。
当初はコンデジでしだか一眼レフもデジタル化の時代になりました。ニコンとキヤノンがデジタル化
の先端を開き、それからは怒涛のごとく写真もカメラもデジタル化まっしぐらでした。この時期に
私はその時代の先端を走っていたようです。すでに私は90年代にPCオタクでしたから画像処理などは
できて、もちろんデジタルカメラもコンピューターですから。
この時期、多くのフイルムカメラマンがコンデジやデジイチになったわけです。写真屋さんが対策
におおわらわになった時代です。フイルムカメラマンが当初はデジタルカメラを敵視していたのですが
やがて皆がデジタル化して、もうカメラマン全員がデジタル赤信号を渡りだしたわけです。デジタルカメラ
全盛の時代です。
そして2010年代からスマートフォンが登場します。高性能カメラが付随しているのでコンデジがまず
廃れます。やがてデジイチ並みの高画質にもなります。合わせてデジイチの光学一眼レフからミラーレス
のタイプに移ります。これは対スマホ戦略という意味も多少あったように思えます。
スマホの画質が高性能になったのは内部の画像処理が巧みになったのも一因です。カメラマン自身も
画像処理技術を磨いていった時代です。
つまりデジタル写真の2000年以降は、カラー写真でありながら写真屋という業者に出さずに、自分で
現像や画像処理やプリントが出来る時代になったわけです。これは言うなれば、かつての黒白フイルム
時代が再びやってきたというを意味します。当時の黒白フイルムの自家現像が基本でしたから。
私は2000年代に入り直ぐにデジイチを手にし、PCで自家処理ができましたから、これは革命的な変革
で写真文化は大きく変わるだろうと気がつきました。デジカメやデジイチが登場する以前から、PCの
スキャナで写真が出来ていたので、この状況の変化に気づくのは早かったわけです。
今にしておもえば確かにそのとおりになりました。むしろやり過ぎるぐらいになったわけで、その弊害が
今の写真界を覆っているという現状です。
そして現在、画像処理の極めつけと言うべき生成AI画像の登場です。もうメーカー自身が画像処理の
ツールは当たり前という時代になり、スマホ写真は自動で画像処理した写真しか得られなくなりました。
本格的な生成AI写真時代はこれからでしょうけど、多くの一般の人が利用するのは明らかです。
現在はこういう写真時代を生きているわけです。
そして再び「写真よさようなら」の反旗が出てくるということです。
デジタルAI時代の写真とは一億総認知症時代であり、写真が人間に対して害を加えるような時代に
なっていくわけです。そうなってると、もう作られた写真などは見たくないという見識者が多くなる
でしょう。国によってはAI画像は禁止、というのも出てくるかも知れません。オーストラリアで若年期
のSNS禁止というのと同じですね。
私は皆さんよりも速くデジタル写真を始めましたので、このデジタル写真の弊害に気づくのは早かった
と思います。デジイチをミラーレスに変えた時期から分かりだして、写真は撮影はするものの、自分
の写真を見ることは止めにしました。撮りっぱなし戦術で、撮影は歩き運動になるからやっていました
が、それだともはや写真は辞めてしまっているのと同じ状況でした。
私はいち早く、デジタル写真よさようなら、をやっていたのでしょう。そして最後の難関であった
機材依存を黒白デジタルで突破したというわけです。
写真の歴史50年余をかいつまんで書きました。(笑)少しは参考になったでしょうか。
つまり時代というのは繰り返すわけですね。シッポ座さんが現在の状況で、写真にさようならを
告げるのはマトモな人間ならば当たり前の行動だということです。すでにこの掲示板でも以前から
離れていった人が多くいます。
こういう時代において、今なお写真を続けられるのは、写真は記録だと明確に理解している人と、
すでに脳みそが壊れてしまった人だけです。この2つに分けられるでしょう。
デジタル写真、当初の00年代はまだフイルム時代の延長でして、ただカラーフイルムをデジタル素子
に変えただげでした。それが本格的にデジタル時代になっていったのはミラーレスカメラやスマホの
登場の時期からですね。格段に画質は鮮明になり電子シャッターが登場し、同時に画像処理ソフト技術
も向上しました。そして今現在はデジタル写真の頂点を極めた時代であると言えます。
これから生成AI写真が本格化するわけですが、本当に一般の人々に受け入れられるかどうかは不明と
いうところがあるでしょう。いやそもそも、人工知能というもの自体がこれからの次の時代に覇権を
握るかどうかも分からないところがあります。プロフェッショナルの間では有効でしょうが、一般では
拒否反応が起きる可能性があります。
その弊害が大きすぎれば人々はAIを拒絶する可能性も高いわけです。ユーチューブなどでは生成AIの
画像が多く使われるようになりましたが、作られる画像のワンパターン性にうんざりするところが
あり、もう私はそういう画像は眼をそむけて見なくなりました。
生成AI画像が写真足りうるか、と言えばもちろん写真ではありません。肝心の撮影が抜けているから
です。写真としてはあくまでも画像処理の強力版という立ち居地です。
私はAI画像は、拒否をする人と、そのまま受けいれる人の2つに人々が分かれるのではないかと思い
ます。知力の乏しい人はAI画像で満足をするわけです。およそリアリティに乏しく、そしてフェイク
な画像です。スマホ向け動画でもAI動画がありますね。キレイすぎるし女子フィギアスケートの動画
ですが、人間として、もしくは物理的にありえない動きをしてます。しかしそういう動画を本物として
疑わない人も多く出てくるわけです。何度も書きますがこういう偽の画像や映像を脳内に記憶として
溜め込むことは極めて危険だと思います。
こういう時代において、敢えて自らが写真をする意味はあるのか。と問えば勿論あるわけです。
今の時代の一般的な人の写真というのは、これはもう膨大な量を多くの人達が撮影をしているわけ
ですし、しかもそれがインターネットにも多く載せられています。
しかし今の時代、写真は極めてプライベートに収斂してしまって、若い人の写真観というのは、
写真の対象ははあくまで自分だけ、その仲間だけという範囲を超えなくなりました。写真に社会性
が失われたのです。昔の家族写真もそうだったわけですけど、もっと範囲が狭くなっています。
自撮りなんていうのが象徴的。自分と仲間とそれしか写っていないのです。撮影地は観光地だけ。
実際に若い人のハイアマチュア的に写真に関心のある人の写真を見せてもらってもそうなんです。
めっちゃトリミング(いやフレーミング)してます。
年配のアマチュア人の自分は野鳥だけ、鉄道だけとかで自らの関心を狭めています。たしかに肖像権
とか個人情報とか言い出してややこしくなると気後れするのは分かりますが。
こうなってると一般的にこの世界を記録する人が居なくなるわけですね。膨大な画像はあふれ出て
いるけど、本当の写真は少なくなった。実に逆説的な時代になっています。
かえって時代の光景が見えなくなった時代です。画像は溢れているけど写真としては低下している
というわけです。
昔のフイルム時代の写真をスキャンニングして復活させるというのは興味深いです。私も半世紀前
の写真のストックがあります。フイルムにして数百本は眠っていると思います。スキャナで読み込む
のは面倒なのでミラーレスカメラで接写撮影は出来ないかなって考えてます。
若い人は知り合いの高齢者の方の写真を説得して譲り受けるという手もあります。写真は文化財でも
あるので死亡して失われてしまうのは惜しいです。
今では古いモノクロ写真もAIでカラー化ができ新鮮となります。生成AIはプロが使うと生きるツール
なんですね。何でもかんでもAIは危険、というわけではありません。
そういう温故知新から新たな写真世界が見えてくるというのもあるのではないですか。
こんな感じで長々と記しましたが、私としてはこれまてどおり、歩きの撮影を続けるばかりです。
写真とは記録、写真で歩き、それを続けるだけなのです。
今回は私が運よく半世紀にわたる写真の歴史を知っていたことが幸いかなって感じています。
写真よさようなら、は過去にもあったということで、けっして今が特別の時代ではないということ
です。