『写真は芸術表現なのか?それとも…』
Exif情報
メーカー名 PENTAX
機種名 K-5 II s
ソフトウェア Capture One 9 Windows
レンズ
焦点距離 45mm
露出制御モード ノーマルプログラム
シャッタースピード 1/200sec.
絞り値 F5.0
露出補正値 -0.7
測光モード 分割測光
ISO感度 80
ホワイトバランス
フラッシュ なし
サイズ 4096x2713 (6.03MB)
撮影日時 2013-03-19 23:20:07 +0900

1   kusanagi   2025/6/3 22:55

『写真は芸術表現なのか?それとも…』
写真は芸術であるとか、表現のツールであるとか、そういう考え方をなされている人はとても多いの
ではないかと思います。
しかしそういう思い込みがあると、場合によると写真というのが自分の心の重荷になることがあるので
はないですか。
私は写真とは最初から記録であると思っていて、芸術のひとつだとは全く考えていません。ただ撮影時に
少しでもカッコよく記録できればそれに越したことはないね、というぐらいです。

シッポ座さんのお父さんか撮られた写真はあくまで記録です。そりゃあ妻や子供たちが綺麗に撮れて
いればそれに越したことはない、というのはあるでしょう。しかし芸術的に表現をしようとして撮影を
されたことは一度もないと言えます。
撮影時に心の何で考えたことは、子供たちが元気ですくすく育ってほしい。女房も達者でいてほしい
という純粋な願いだけだったろうと思います。

最近はインスタグラム等のSNSで、すんごく綺麗に写真しないと駄目、だなんていう風潮があります。
そういう綺麗過ぎる画像を見て、鑑賞者がコンプレックスをもってしまうことがあるそうです。
写真投稿のために見栄を張り無理をして衣服を買ったり旅行したりして、自分の承認要求を満たす
というのもあるようです。
スマホにしてもキレイキレイモードがあって、自分なのに別人の自分が撮れる?というようなことも。
それから過剰に肖像権とか個人情報を振りかざすというのも写真を狭めていて、それで写真と言えば
自分と仲間だけの自分撮りや、写真は観光地でしか撮ってはいけないもの、とかも。
私のように何処でもスナップ写真を撮っていると、怪しいやつ、不審なやつと見られているようです。
これはら明らかに行き過ぎで、写真が人を不幸にしているわけですね。写真はもっと自由であるべき
なのに。

写真が芸術的な表現であるというのは、最初にそういう風に考えた人がいて、特に従来の絵画との関連で、
そんな具合になっちゃったのだろうと思っています。
写真が芸術であり、綺麗に上手く撮らないといけないという風潮は、本当は大嘘でありフェイクなん
ですが、一旦そう思い込むと人間というのはなかなかその思考を脱出することができなくなるようです。
一種の洗脳であり、これを子供のときから、また写真を始めたときから受けた人間は、その思考法から
自由になることができなくなるのです。

私が写真を始めた1960~70年代は、写真とは芸術なんかではなく、飽くまでも記録であり、キレイ過ぎる
写真はリアルではないと返って排斥される時代でした。
ですから私は記録以外の写真を撮ったことがありません。カメラという道具は記録するためのもので
あって、けっして表現することを押し付けてくるものではありませんでした。
写真が表現だ芸術だという風潮に変わったのは多分、1980年代以降でしょうか。その時代、私は既に
写真から遠ざかっていたので実際はよくは知らないのですが。

私はカメラやレンズのコレクターでもあるので(要するにガラクタ集め趣味のこと)、カメラ機材が
増えても気になりません。パソコンもコレクションしてますしね。本もそうでした。(笑)
カメラが芸術表現の為のツールであり、モノとしてのカメラが無言でお前は表現せよ、と訴えてくる
のならば、私はとっくに発狂しているでしょう。アゲー・サゲー氏が言うように病気であるというわけ。(笑)
ちなみにアゲサゲ氏は写真は芸術であるから点数が付けられると信じて疑わない人物です。他人の
私的な記録に点数を付けられてもねえ。勘違い馬鹿というのは昨今多すぎる気がしてます。

この掲示板では写真を真面目にやればやるほど行き詰ってしまう投稿者がいるわけですが、何度も
いうようにそれは、写真は芸術で表現であるから、そうしないと自分の心が苦しいというようになって
くるわけですね。
私がいうところの、写真は記録、というのは紙とペンのようなもので平易なメモ書きであるということ
ですよ。だから写真は画像ではなく歩きだ、何ていうことも平気で言うわけですね。
こういうように私が言うと、それは写真に対する冒涜だ。と本気で怒り出す人間がいます。
宗教と同じで洗脳を受けるということは、厄介なことなんですね。日本人の美意識は宗教的なまでに
強力化されていて、それが今、民族的なまでに足かせとなって日本人を滅ぼしつつあると私は看破する
わけですが、洗脳されて固まった頭を持っている人間にとっては、私は宗教的な異端者であるのてしょう。
私が特別に掲示板で攻撃されるのは、そういう理由があるわけです。

俳句とか短歌というのがありますね。あれも最初は平易な言葉で書く単なるメモ書きだったわけです。
それが誰かが芸術なんぞに高めて(人としては低めてかもしれない)しまったので話がややこしくなった
わけです。日本人は凝り性で生真面目なので、何でもかんでも芸術にしたがる悪い癖がありますね。
茶道とか生け花、書道なんていうのもそうです。作法とか美意識とか、そんなの詰まらんことでは
ないですか。とくにいけないのは一旦確立された作法や思考法を永遠に変えたがらない日本人の
特質です。改革を嫌うので大勢と自分の考え方が違ってくると止めるしか選択肢がなくなるのです。
全てかゼロか、なんですね。硬直的です。

とにかく写真は表現芸だ、という思い込みは人の脳内にこびり付くわけで、これが写真そのものを
駄目にしているところがあります。写真は綺麗でなければならないとばかり、やたら画像処理をし過ぎ
てみたり、メーカーすらもAI的補正を掛けたりするわけです。
最近、若い人の間で古いコンデジが人気のようです。画質は荒いのですがスマホのように自動補正が
掛かっていないので絵が自然だ、という訳です。それが本来の記録としての写真であるわけで、
誤った写真の洗脳を受けていない、若くて率直な人はちゃんと的を着いているわけですね。若い人は
何時だって柔軟な考え方をする人が現れます。しかし多くの知力のとぼしい若い人は間違った写真の虜に
なってしまうのです。

もう何度も書いたのですけど、私がモノクロ写真を本格的に初めて、機材の浪費壁が止みました。
写真に色彩というキラキラ感がなくなるとカメラもレンズもみな同じって感じになるので、色々と試して
みたりする必要がなくなるのです。
モノクロカメラを買って2年ほど。もうすっかり浪費壁もなくなったのでそろそろカラーでも撮って
みようかと思っています。写真はモノクロで十分完結するのであり、写真の本質は色彩ではないという
ことが分かりました。それさえ分かれば目的は達成したわけです。

しかし当初は、モノクロカメラを手にしたとは言え、最初は自分をモノクロ化するのは大変でした。
しばらくはモノクロカメラしか手にしませんでした。普通のカラーカメラでもモノクロは撮影できる
わけですが、カラー情報を内在しているため、JPEG+RAWで撮影して、PCではそれを別フォルダ保存して
モニターで見るのはJPEGフォルダのみ、ということをしてました。
それぼと苦労を重ねて自分自身をモノクロ写真向きにしたわけですが、その結果として自然と機材に
対する無駄な欲望というものが無くなったわけですね。
カラー写真という、頭にこびり付いた積年の垢を削り取るのは実に大変だったということです。

写真は芸術で表現だ、というのは私に言わせれば、そういうこびり付いた垢や焦げのようなものでして、
これを取り去るのは大変だろうと思ってます。しかも私のモノクロのケースとはもうひとつ次元が違う
わけですね。
シッポ座さんが思い切って手持ちの機材を処分した、というのは大いにうなづける話です。
たぶんそうしないと、こびり付いた脳内の思い込みをクリアにすることは出来ないと思いますね。
本当に写真が好きならば、将来また写真を始めるわけで、とにかく今は写真から離れてみる、という
のはベストな選択肢だろうと考えます。

お父さんの撮った写真等は大変に参考になろうかと思います。純粋に記録として撮られた写真なので
学ぶべきことは多いと思いますね。家族写真というのは写真の原点というところがあります。家族の
記録ということ以外を考えていないからです。
写真は記録である。リアルな事実や真実の記録であるという当たり前のことが忘れられて久しいです。
この真実を取り返さないと写真をすることが苦しくなるだけです。なんだ、記録だけだったのかと分かる
と写真は気楽に続けられます。

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