メーカー名 | NIKON CORPORATION |
機種名 | D800 |
ソフトウェア | Capture One 6 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 70mm |
露出制御モード | 絞り優先 |
シャッタースピード | 1/640sec. |
絞り値 | F6.3 |
露出補正値 | -0.3 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 1600 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 3604x5400 (14,253KB) |
撮影日時 | 2012-04-26 12:01:10 +0900 |
写真のパラドックス/浜辺の遺構
電子ビューファインダー(EVF)よりも、まだ背面液晶が写真撮影としては健全ですね。
ただ日中の日射がきつい場合、液晶では構図すら決められない場合があります。
画面に写るのは自分が反射した姿ばかりで、そういう場合は外付け光学ファインダー
が欲しいのですが、この光学ファインダーは水平をとるのが苦手だったりとか正確な
構図すらも難しいかったりします。
それで、むしろスポーツファインダーが使いやすいのじゃないかなって考えています。
スポーツファインダー、画像検索で色々と出てきますよ。自作もできますね。
肝はAFの中心点が存在することです。
カメラのファインダーの定義はなんだろうかと考えると、その前にまずレンズとは何か
というと、それはカメラの口(くち)であるとすれば、ファインダーは口とは違う別系統
での眼であるということです。
EVFは背面液晶は、口がそのまま眼だとする考え方です。口と眼が同系統になって
しまっていますね。
レンズは口であり、そこから写真の基である光という栄養素を取り込んで写真を形成
するんですが、ファインダーはそれとは違うものでないと意味がズレてきます。
光学一眼レフレックスは、レンズという口から光軸を曲げて眼のほうに向けた極めて
高度なファインダーであって、多分、もともと2眼レフから進歩発展したのでしょうけど、
クイックリターンミラーの発明から、カメラ技術の王道を歩むようになりました。
とにかく、ファインダーという眼はセンサーという口と同じイコールであってはならない
という定義などは本当はないのですが、現時点の技術力では電子ファインダーは
光学ファインダーには敵いません。百年経っても光学ファインダーを負かすことはでき
ないでしょう。
それももうひとつ、口と眼が全く同じでは、撮影者は現実の被写体を見ながら撮影する
のではなく、既に写された写真を見ながら写真を撮るという(!?)、摩訶不思議な
事態に陥ってしまうという点です。
これはかなり哲学的な命題であって、得ようとするものが既に得られていて、その
獲得してしまったモノを見ながら、さらにモノを得ようとする不思議なループ行為になる
からです。それはどういうことかと別の喩えで言うと・・
レンズは口(くち)であると言いましたが、正しくはセンサーが口です。
そのセンサーから光という食物を取り入れて栄養分としますね。それが写真です。
それで栄養分と同時に排泄物がでます。栄養分は高度な画像であり、排泄物は低品位
な画像と言うべきでしょうか。それでカメラに付いている液晶とかEVFはどちらかと言えば
排泄物になるわけですよ。(^^;
我々はその排泄物(副産物と言いましょう)を摂取して、写真を撮っていることになるんです。
これは自家中毒とでも言うべきですね。
zzrさんがレリーズを切るときは液晶ではなく現実の光景を見ながら・・・と言うのは、
現実の光景=新鮮な食物、を裸眼で見ながら撮影をするという意味で、EVFや液晶を
始終見ながら(現実光景は見ずに)撮影をするのは、既に撮られている副産物を再摂取
しているに過ぎないという話になるんです。
このとてつもないパラドックスに気づいているカメラ技術者はいるのだろうかと問えば、
たぶんニコンやキヤノンの技術者の中には居るだろうと想像しています。
ですから数百年が経って優秀な光テクノロジーを使った光学式のEVFが出たとします。
それは今の光学式ファインダーと品質は変わらないわけでしょう。しかしなから、それでも
この写真のパラドックスから逃れることはできないのです。
つまりファインダーという眼の器官と、センサーという口の器官は全く別ものにしないと、
写真という仕組みが根底から崩れてしまうわけです。
そんなわけで、背面液晶やEVFのカメラを使う場合は、画面と同時に裸眼でも被写体
という現実の光景を見ていないと写真の哲学が崩壊していきます。
EVFの場合、右目で画面、左目の裸眼で現実光景を見るっていう具合になりますか。
なんだ、今の一眼レフと同じやりかたじゃんって。ね(笑)。
まあ、言葉の遊びのように思われるかも知れませんが、これ、現実にもきっと反映されて
いるだろうと思っています。やはり光学一眼レフを持たなければユーザーの写真への
モチベーションというものは下がります。
コンデジやミラーレスのカメラだけでは、我々は写真を続けていくことが出来ないだろう
と思っています。だからシグマdpのLCDビューファインダーでもって光学一眼レフのSDの
代替にはならないだろうということです。
それからセンサーを通した高画質の画像が写真であるというのも、本当を言えば
疑わしいところがあるのかも知れません。その画像を紙媒体に印刷すればれっきとした
写真になるだろうと言えますが、パソコンのモニターに写るだけの画像は果たして写真
なのかどうか、それも副産物ではないのか?と。私には自信がありませんね。(^^;
※オリンパスのセンサーサイズは、大体ニコンのフルサイズの1/4面積ですか。
E-30が1200万画素ですから4倍すれば4800万画素。一方D800は3500万画素。
オリンパスはピクセル等倍で解像には程遠く(レンズが安物12-60ミリのせいもあり)、
ニコンは何とか解像出来ているのかな。(35-70F2.8)
オリンパスはミラーレスとしなければレンズの確実な解像はできなかったわけであり、
その意味では光学ファインダーを捨ててミラーレスEVFにしたのは正しいと思います。
しかしEVFカメラ、背面液晶のコンデジは、その使い方を誤れば楽しくないカメラと成り果て
ます。要はユーザーの自覚と使い方次第ですか。
フイルムカメラの時代。あの時代はフィルムが高価であって、さほどの撮影量をして
いたわけではなく、それでも撮影は楽しかったことを思い出します。それはファインダー
を見ているだけで楽しく、実際にはレリーズを押して撮影をしなくても我々は幸福で
あったことを思い出すのです。
デジタルカメラの時代となって、我々は膨大な量の撮影をしているわけですが、
あのフィルム時代の、写真の有意義さ、モチベーションの高さを思うと、何かを、この
デジタル時代になって忘れてしまったのかも知れないと思っています。
‥~排泄物(笑)ひどいなあ
私はこう思っています。
小さな絵の具(チューブ)一本が千円で買えないような高級絵の具も
百円足らずで買えちゃう鉛筆や木炭も同じ画材仲間と。
新品が数千円ほどのコンデジも、ウン百万円で揃えた機材も、写真仲間なんだと。
鉛筆画や木炭画は、高級な油絵の具では描けないです。
粗雑なJPEG画質は安価なデジカメ特有のもの。好いじゃないですか格好いいと思います。
鉛筆やマーカー、クレヨンも木炭は好いものと思います。カメラも同様です。
海底の砂地模様なんてこちらでは絶対に撮れません。
仙台とか、太平洋側だとできるのかな。。
D800でのお写真ですね。
私のD800、DP同様要修理状態です^^;
パラドックス・・・
正しいと思われる事象・・正しいと思われる推論・・まったくかけはなれた結論
この、工程で分析すれば
光学ァインダーからの展開が、わかりません。
そもそも・・人間の視覚・目は、天地左右逆像のデータを網膜でとらえており
それを、脳が反転しており、レフレックスの光学ファインダーも同じで、
EVFも、光学ファインダーも、全く異なる結論・・パラドックスに行き着いているのでは、と考えます。
sさん
カメラ背面の液晶画面、EVFファインダーの画像は、あくまで一時的な撮影の為の構図や具合
を見るためのもので、それは写真画像とは言えません。
コンデジやミラーレスカメラの写真画像は、あくまで撮影してパンコンに取り込み、それをモニター
やプリンターで見るのが本当の画像です。
ですから、そういう簡易画像を見てそれが写真だと混同する方はおられないだろうと思いますけど、
往々にして我々は混同をするものです。
撮影時のファインダー画面、撮影後の確認のカメラ液晶画像、パソコンで見る画像、モバイルで
見る画像。これには全て画質だけでなく、その意味が違っています。
カメラ背面の液晶画面やEVFファインダーの画質がだんだんと良くなるにつれ、これまで明確に
分けて考えていたユーザーも混乱しがちですね。(^^; 最近は撮影時のファインダー画像を
パソコンのモニターで見られるものもありますし。
sさんも言っておられたように、最高のファインダーは肉眼です。そのユーザーの裸眼を鍛えるため
にもコンデジで撮影されるのは重要な意義があります。
zzrさん
砂浜の洗濯板模様は内海(ないかい)独特のものでしょう。波があれば湖でもできますね。
しかし海の荒い外海に面したところではできないでしょう。
遠浅で浜の砂質が粒子の細かい粘土状だとこういう模様ができます。外海はまず粘土状の
砂地が形成されませんし(海流で流される)、また波が荒く穏やかではないので。
しかし日本海でも探せば、川の河口の遠浅のところではできるかもしれません。
D800、不調ですか。でもニコンもシグマも修理をすれば良くなります。
ちょっと驚いています。ファインダー理論からの写真論に関して、まさかコメントがあるだろう
なんて予想もしていなかったからです。
この問題は純粋哲学論を含んでいますので、自分で言うのもなんですがおもいっきり高度な
話になっています。
正直言ってもう一度再理論を展開せよと言われれば我ながら・・・難しすぎるって頭をかかえて
しまいます。
それで敢えて比喩混じりに言えば・・・、
例えばファインダーが一切無カメラを想像してくださいな。(実際、そういうカメラはありましたし、
シグマDPでも液晶をブラックにすればそうなります。)
その場合、レンズを大体の方向に向けて、このレンズは28ミリだから画角はこんなものかと
想像しながら被写体に向けてシャッターを押しますね。
どんなものが写っているのかは、その時に想像した頭の中の眼の記憶だけです。
その撮影の時に我々はカメラを見てレリーズを押すのではありません。カメラを確り保持できて
いるかどうかの確認はしますが、主に見ているのは現実の被写体という光景です。裸眼という
自分の肉眼で確認をするんです。
デジイチでもノーファインダー撮影ではそうなります。
この時に自分の目で確認をした脳内記憶と、実際にカメラが捉えた写真画像とは、それらは
違うものであるということは理解できると思います。その違いとは画像の内容のことではなくて、
明らかに系統が違うという点です。
裸眼→脳内記憶と、レンズ・センサーがイコールで捉えた画像とは、そのルートが全然違うって
いうことです。光のルートも違うし、我々の意識としても違います。
その裸眼と脳内記憶の中に多少の光学系パーツを挟んだのが、光学ファインダー系なんです。
簡単なのは後付の小さな光学ファインダー(dpようのものも出ています)から、高精度なものは
一眼レフレックス光学ファインダーです。
ところが、コンデジの液晶やミラーレスのEVFは、カメラのセンサーが捉えた光を電子的な別系統
に引き込んでモニターに写しだしているんです。もちろん実際に撮影したデータをそのまま写し
だしているのではありません。副次的に間引きされた簡易な電子データを送っているだけです。
しかし原理的には、撮影された画像を撮影時に見ているということになりませんか?
レリーズを押す以前の画像を捕らえて記録するというカメラがありましたね。リコーだったかな。
これなんかは動画の技術を利用していたんでしょうけど考えれば不思議なカメラです。
これらは全て、カメラのセンサーが一人頑張って画像記録もファインダー画面も、作り出していて
ユーザーに見せているわけです。つまりユーザーが見る手段としてはセンサーだけしかないんです。
デジイチの話をしますと、レンズ内を通った光が、直進すればセンサーに捕らえられますが、
それをミラーとプリズムによって曲げてユーザーの裸眼に光を引き込むという役割をしていますね。
ですからデジイチのファインダーで見る画像は光学式のものであり、実際のセンサーが捉えた
電子画像とは別のものです。ですからうっかり露出設定を間違っていても光学ファインダーからは
その間違いを知ることはできません。
ここのところが大事なんですね。デジイチは、ファインダーの光の系統と、センサーが捕らえる
写真画像の系統とは別にしているという点です。
これがコンデジやミラーレスだと同系統になるんです。
それで厳密に理論的に言えば、写真撮影とは現実に起こり得たものを人間が気づいてそれを
カメラで撮って写真とする。そういう行為が写真だと思うのですね。
その人間の気付きというのは、あくまで裸眼で実際のこの眼なんです。
ところがコンデジやミラーレスカメラは、既にセンサーが映し出しているものをわざわざ二重に
撮影をしてしまうっていうことになります。たとえて言えばテレビの画面をカメラで撮るのに似ていま
せんか? 捕らえられた映像を再度撮って写真とする。これを写真のパラドックスだというわけです。
一般の方だと、こんな話をしても無駄なんですが、そう、実用としては光学ファインダーも電子ビュー
ファインダーも変わりないからです。しかし写真を厳密に考えているマニアにしてみれば数十分の
1秒の違いでも気になるわけじゃないですか。(いや、単にタイムラグの問題じゃないんです)
写真のプロセスとしては、まず裸眼で物事の察知を得、それから自分の意思でレリーズを押して
写真として定着する。これは絶対に譲れない写真のプロセスであり定義のようなものです。
あくまでもカメラマンの意思と判断で持って撮るか撮らないか、そういう判断をするんですが、
その判断の基準になるのが大切なファインダーなんですね。(もちろん裸眼・肉眼もそうです)
そのファインダーが既に撮られている、いや、これから撮る画像そのものであったとするならば、
我々は何だか誤魔化されているような気がしませんか?
この疑問符ことそ、哲学的な問題提起であるということなんです。
私がファインダーはセンサーの系統とは別にすべきだと言っているのはそういうことなんです。
写真を撮りたい、写真へのモチベーションという大切なこころの問題があるんですが、その心の
有り様を、このファインダー問題は直撃しているんです。
我々写真マニアは他人様の写真を模倣しようとは思わないですよね。自分がこの眼で発見し、
気付き、新しく創造できるような写真を目指しているわけです。その為には瞬時とは言え、
自分の眼でみたものを写真としたい。自分の眼で判断し確信したものを写真とする、それ以外の
何物も写真とはしないと思っているわけでしょう。
写真を撮るとはそういうことではないでしょうか。
技術的には1系統のEVFで見る画像を、裸眼で見る現実に限りなく、時間的にも画質的にも
近づけることはできます。
しかし、目で見て判断し、それからレリーズを押して写真とするというプロセスは2系統の仕組み
になっているからこそ意味があるんですね。1系統だと確実に自家中毒を起こします。人間の
脳内の判断基準は系統とプロセスを大事にしますから。
目で見て、脳が判断し、そして手でレリーズを押す。この写真の原理を覆すと人間の写真行為
は崩壊します。
結論としては、液晶やEVFだけに頼っていては、写真を撮る際に大切な、ユーザーの自己判断
というもの、意思というものをスポイルしてしまう可能性があります。
デジタル時代では忘れがちですが、フィルム時代ではレリーズ1回が百円くらいしたわけで、
レリーズを押すということに緊張感がありました。押そうと思って寸前で止めたってこともあり
ましたね。ここだって感じたら瞬時に押したし、すぐさまレバーを巻いて次のレリーズも、と。
それらの判断の全ては、ひとえにファインダーにかかっていたわけです。
だからファインダーの良いカメラは人気でした。ライカM型とかニコンとかキヤノンとか。
デジイチで立派な光学ファインダーが付いているのに野外スナップでわざわざライブビューモード
にして撮影している人がいます。あれは不思議ですね。(^^;
SF話として、数百年後にはカメラマンは既にカメラというモノを持たずに写真を撮ることができる
時代になっています。カメラマンは意識せずとも物事に眼を向けるだけで脳内に埋め込まれた
チップと高精度な人工眼球でもって写真が連続的に撮られている。
帰宅してパソコンの前に座っただけでデータは取り込まれ、モニターからは自由自在な画像を
写しだしてくれる。ズームアップもパノラマも動画も何でも。しかし殆どの画像は自分の記憶には
ないものばかり。
自分の撮影意志とは関係のないものばかり。これが本当の写真なのだろうかと考えこむ。
写真とは切り取りの芸術だと言われますが、今の時代では加えて、写真を撮る人間の意思と
判断力も必要だということになります。
例えば、写真趣味を止めよう、休止しようというのもカメラマンのひとつの意思ですし、カメラや
レンズを買うのを止めるというのも判断力です。
今の時代、デジタルになってから、何となくズルズルと写真をやっているのかやらされている
のか分からなくなっているのが現実ですね。そういう人間の意思を取り戻さなければならなく
なっているのじゃないでしょうか。
依存症とかレンズ沼とかの甘い言葉で片付けるのじゃなくて、本当は写真に対する人間の意思
が何かによって大きくスポイルされている、そう考えるべきだと思っています。
そういう写真の危機が音をたてず静かに訪れていると見るべきで、写真の根幹を揺るがせない
ほどの何かが今進行しているように思うんですね。なんというんですかね、画像の中に人間が
取り込まれてその一部になってしまっているような。写真やカメラは人間の下僕でなければ
ならないのにその一部のパーツに組み込まれてしまったような違和感です。