メーカー名 | Canon |
機種名 | EOS-1D Mark III |
ソフトウェア | Capture One 7 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 17mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/166sec. |
絞り値 | F9.1 |
露出補正値 | -0.3 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 100 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 2048x1365 (1,596KB) |
撮影日時 | 2018-06-10 02:39:02 +0900 |
ついでながら、近畿地方だと大型古墳(環濠型の巨大な前方後円墳)がありますので、もし私が
大阪にでも住んでいれば絶対に古墳周回をするでしょう。最近読んだ本で大型の古墳は、当時の
市場であり船着場であり旅館であり歓楽街でもあったという話です。今で言えばビジネスセンターや
マーケットタウンであり飲み屋街であり、また城下町でもあったということでしょうか。無論、古代の
話ですが。
歓楽街、飲屋街ですか。想像すると楽しいですね。
今まで古墳は大きな墓ていどの認識でした。
九州に行った時に沢山見た気がします。
土盛り位のから形の整った大型のものまで色々なんですね。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/
三内丸山遺跡も、そういう古代のビジネスセンターであり巨大市場のようなものだったと思っています。
望楼がありますね。これは海を見て港に入ってくる船を発見する塔です。それで半鐘を鳴らして
皆に知らせて、やおら接待の準備をします。お湯を沸かしたり飯を炊いたり女は化粧をしたりとか。(^^
当時の交易は物々交換ですからこちらの品物も用意しておきます。
大きな長屋の建物は祭祀の場ではなくてあくまでも品物を並べたり、商人や船乗りの接待場や宿泊場
だったろうと思います。交易船は小型の半ば手漕ぎのレベルですが群団でくるんですね。何十人、百
何十人のレベルでしょう。
古墳時代の当時、日本が一番に欲しいものは鉄製品なんですね。古代、日本は鉄鉱石を産しません
でしたから、鍛冶はあっても製鉄をする技術が長らくありませんでした。たしか6~7世紀になってやっと
砂鉄から製鉄ができるようになったくらいです。
それまでは日本は朝鮮半島から鉄を輸入していたんですね。その交易の場が大型の古墳であっただ
ろうという説が出てきています。
もっとも三内丸山遺跡は5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡なので鉄は交易品ではなかった
のですけど、鉄以前に代わるものとしては石器の原材料である黒曜石ですね。それから翡翠とか
でしょう。黒曜石は産地が限定されていて、それが有力な交易品になるんです。
こういう基幹産業としての黒曜石とか鉄とか、もしくは贅沢品としては翡翠とか金銀銅とかは、どうして
もなくてはならないものですから、交易品や輸出入品として大きな価値を持っていたのですね。他にも
高価な食材、昆布とかの海産物、椎茸、薬草とか文物とかは交易品としての価値を持っていて半島や
大陸とかの交易品に使われていたんです。
古代では、人間、つまり兵士も輸出品のひとつでした。半島は戦争ばかりしていましたから兵士として
出稼ぎをしていたんです。(現在でも出稼ぎは交易品の重要なひとつですね)
とにかく今でも昔でも海外との商売というのは儲かるんです。べらぼうに儲かります。(笑)
ですから各地の巨大な遺跡というのは、まずそういう交易の場として栄えた証であるというふうに考え
で良いんじゃないかって思います。いまでも東京や大阪は国内だけでなく海外からの価値あるものが
集まる場であるから栄えているんでしょう。
ちなみに幕末で倒幕の実力を持っていた薩長土肥。これは海外貿易をしていた藩なんですね。
薩摩は琉球で大陸と。長州は対馬で半島と。佐賀藩は天領・長崎の実質的な保護者でしたし、土佐は
貿易はなかったろうと思いますがジョン万次郎などの人材をだしました。
古墳は最初のころはやはり墓地だったんですね。百済系の円墳と高句麗系の四角い古墳。その2つ
が合わさって日本で前方後円墳となり大型化しました。まあ今で言う高層ビルみたいなもので遠くから
も目立ちます。そういう大きな平野にある大型古墳を中心にして必然的に人々が集まるようになり、
船を入れる川もできて交易の市場となったようです。
古墳そのものというよりも巨体古墳を中心とした街や港ができて、それが交易の場となったのじゃない
かなって理解しているんですけどね。
東北には古墳は少ないですね。古墳時代がなかったのかもしれません。香川にも前方後円墳はあり
ますが周囲に堀をめぐらせた環濠古墳はありません。せいぜい先進の畿内を真似て作ったという
レベルです。
古墳が廃れて次に出てきたのが寺社です。仏教が入ってきて畿内には大きな寺院が出来てきます。
まあこれも大陸や半島のモノマネでして、とにかく当時の日本列島は田舎でしたから先進地域のモノ
真似に終始していてたんです。東北に大々的に巨大建築が入ったのはこの仏教の寺院ですね。
特に平泉の奥州藤原です。同時に各地の神道の社もできました。それまでは建物がなかったのです。
この頃になると当然日本でも製鉄ができて、それが文明の原動力となります。各地の鉱山も開発され
て金銀銅が輸出品目となります。とくに東北はそれが凄かったんです。この金銀がなければ奥州藤原
の繁栄はありませんでした。藤原氏は青森から船を出して博多を中継して半島大陸と貿易をしていた
ようですから。
そうそう、日本が「倭」と言われていたころは、大和政権以前ですね。そのころは日本海側が先進地
でした。北九州から敦賀までの日本海側に、半島からの鉄が運ばれてきていたようです。
そういう倭人のひとつの邪馬台国(卑弥呼の)は、そういうふうに考えれば畿内ではなく、日本海側に
あったということになりますね。畿内に大和朝廷として出来上がった政権は、半島からの亡命勢力と
日本側とが組んだ比較的新しい政権のように思えますね。
当時の朝鮮半島は政変や戦争続きで、半島の任那、百済、新羅、高句麗から数多くの移住者が日本
列島にやってきたようですから。
邪馬台国と大和朝廷を同一視する日本書紀は後知恵の捏造史観という気がしています。
近世の不甲斐ない李氏朝鮮をみていると信じられないのですが、古代の朝鮮半島は先進地域であっ
たわけで、何よりも豊富に鉄資源を産していて、高句麗の軍事力(騎馬民族です)もすごいものがあり
ました。漢字も仏教もほぼ半島経由で日本に入りました。
半島や大陸と日本の力関係が逆転しだしたのは日本に武士政権が出だしたころですね。鎌倉幕府は
元と高麗の侵略を跳ね返しましたし、秀吉は半島に侵攻すらしましたし、明治になってからの大攻勢
は誰もが知るところです。
とは言え、これからもいつまでも日本が強いかというとそうともいえませんね。日本には尚武の精神と
いうものが次第に廃れてきています。サムライも武士もいなくなりつつありますから。
まあそう簡単に大陸の属国になるわけではないんですが、大きな時代の流れは大陸に有利に働いて
いるというのは言えます。
私はこれからは21世紀からは、新古代の時代が始まる、既に始まっていると思っています。古代という
のは基本的に専制政治なんですね。自主独立のサムライの時代でも近代民主主義でもないです。
何も考えない民人(ピープル)がワーッと一気に突っ走ってしまうのが古代という時代です。そういうこと
では大陸は有利でしょう。
まあ、1000年経って30世紀になれば日本は再びサムライが生きる時代、というよりも既にサムライで
はなくて別のタイプの人達(エンジニーィア)が日本を盛んにするだろうと思うのですが、それは随分と
先の話なんですよね。(笑)