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Exif情報
メーカー名 SONY
機種名 α7S
ソフトウェア Capture One 8 Windows
レンズ
焦点距離 200mm
露出制御モード シャッター速度優先
シャッタースピード 1/200sec.
絞り値 F2.8
露出補正値 -1.0
測光モード 分割測光
ISO感度 1000
ホワイトバランス
フラッシュ なし
サイズ 2200x1143 (1,433KB)
撮影日時 2017-01-16 03:28:35 +0900

1   kusanagi   2018/10/11 21:00

●東北の、例えば蔵王などは雲海の見える高所にまで容易に車で登ることができます。
考えてみますと、そういうなだらかで、しかも高山であるっていう山は、これが日本の山の標準だとは
言えないところがありそうです。もちろん四国でも、剣山とか瓶ヶ森とかのラインはこんな感じなんで
すが、そこにたどり着くのは大変でありしかもそんなにはないんですね。
ところで、最近はちょっと日本の山の山容とでも言いますか、山の形態などが、何かしら人間に与える
影響について考えるところがあるんです。

例えば四国でも、瀬戸内側の、中央構造線以北の山は、香川が典型的なのですが山は低くて傾斜
も緩くてなだらかな山の形をしているんです。中国地方もだいたいそうです。
同じ四国でも南側は峻険です。高知も徳島も、そして和歌山も、山が若くて切り立っていますね。
そして複雑な褶曲山脈地帯であるわけですが、その山の中に入りますと視界が悪くて息苦しい感じが
常につきまといます。
谷にいると空が狭くてね。日はすぐに暮れるしで。もちろん尾根に登ると見晴らしは良いわけですけど
今度は向かい側に見える集落に行こうと思えば、また谷を下って登ってと大変なんです。もちろん道は
舗装はされていますけど狭くてくねくねと曲がりしかも急斜面ですし。

こういう視界の悪さ、そして移動には大変不便というのが褶曲山脈地帯の大きな特徴です。
四国にいると、一方ではなだらかな瀬戸内の見晴しのよい平野の地域と、それから峻険な山脈地帯と
その2つがあるのだということがよく分かるのです。
瀬戸内側でも凄いところがあって、愛媛の四国中央市ですが南側は衝立のような1千メートル以上の
連山(中央構造線)があって北側は瀬戸内です。平野部は僅かであってその東西に細長いところに
みんな住んでいるんですね。南側の高い連山の圧迫感は相当なもので、しかも北側は海なので移動
にも制限があるんです。(そう言えば神戸もそうですね。六甲山は1千メートルですし)

●話は変わりますが、香川には東北ファンの人が多いんです。東北を旅行したりとかする人が多いん
ですよ。リピーターになりますし。
どうしてかなって不思議に思っていたんですが、自分でも東北の地を見てよく分かったことがあります。
それは広さと高さの規模こそ大きく違えても、平野と山の形がよく似ているんです。
山はなだらかで傾斜がゆるいということ。平野部も大きいし。そして山が峻険な連山になっていない
ということです。(そういうのは九州も北海道もそうですね)

しかしながら日本の中には複雑な褶曲山脈地帯というのがあります。なんといっても本州の中部の
山岳地帯。そしてフォッサマグナ地帯です。さっき言った南四国から紀伊半島にかけてもそうです。
こういうところは、そういうところに住んでいない人間からすれば驚きの山岳地帯なんですよ。
講談社ブルーバックス『フォッサマグナ』藤岡換太郎著というのがあります。
内容はかなり難しい本ですが良く売れているそうです。この藤岡氏は他にも海や山や川の地学の本
を多数だしています。
この本の中で、明治の始め、ドイツ人ナウマンが始めて日本のフォッサマグナ地帯を見て驚愕した
そうです。平らな地帯からいきなり数千メートルの衝立のような連山を見たからですね。こういうのは
世界のどこにもない、驚きだというわけです。
確かにこの掲示板でも、そういうアルプスの駿立した光景を見せてくれる人がいて私などはいつも圧倒
されています。
「空から見た日本」
https://www.youtube.com/watch?v=dxuE5JqTO-I&t=151s

●とにかく同じ山と名が付いていても、山には様々な形態があるということです。
そしてね、私は考えるのですが、人間には『視界』と『移動性』というものが人間形成に於いて重要な
役割を果たしているのではないかと思うのです。(視界は視力と言ってもいいですかね)
東北でもこちら香川でもそうですが、山はなだらかですし平野部もあるということで、非常に視界も
移動性も良いんです。すこし高いところに登れば数十キロ先まで見渡せます。そして移動を妨げる
駿立した山々がありませんので移動も楽なんです。

ちなみに人間は、例えば完全な平らな平野にいるとしますと、その視界は僅か数キロに過ぎません。
それで少し高いところに登ればぐっと視界は開けます。これは水平線と同じで地球が丸いから起こる
現象です。
それで山のない大陸の大平原に住んでいる人々は、ある日突然に騎馬の盗賊に襲われる危険性が
あるんですね。平らな平原は視界性が乏しい、かつ移動性は最大なのて襲撃を受けやすいんです。
平原ですから隠れる場所もありません。日本ではこういうのはないですが中国にはよくあります。

そんな感じて人間には『視界』と『移動性』というものは大変大事なことで、これが乏しいと物事をあまり
よく見ることができなくなるし、移動の自由をあまり感じられなくなるというところがありますね。
ところで写真には写実と抽象(芸術とかアート)の2つがあるように思えます。そういう具合に大別すれ
ばということです。
この写実派と抽象派ですが、『視界』と『移動性』と深く関係しているのじゃないかなって思うんですね。
視界・移動性の優れた能力を持っている人は写実派の写真を撮るというような。反対に視界移動性
の能力が乏しい人は抽象派に走るというような気がします。
(同じ人物の画家でも若い時は写実画であり、歳を取ると抽象になるのは眼も体力も衰えるからです。
そういう抽象画が幼児の絵に似てくるのは、幼児も眼も体力もないからですね。)

よく物事が見える人はわざわざ写真を抽象化する必用はないと考えるのですし、よく見えない人は
抽象こそが写真だろうと思うのでしょう。
まあこの2つがあってこそ、写真の文化というものは豊かになるんですしね。そのどちらが優れている
とかそういうことを言っているのではありません。

●さらに話は大きく変わります。
これは写真の話ではなく、掲示板の話なんですが、よく平気で虚妄のコメントをなされる方が稀に
います。これはどうしてそんなことをするのか以前から不思議でしようがなかったのですが、(それを
その人の生まれつきの人間性に求めるのは容易です)、それはどうも、『視界』と『移動性』と深く関係
しているのではないかと思えてきたのです。
つまり視界も移動性も悪いところで住んでいたり人間形成の時期を過ごしてきた人は、そういう嘘を
ついても相手にバレないだろうという自信があるみたいです。自分自身の視界移動性と悪さと同じ
レベルで相手もそうだろうって考えるみたいですね。
しかし視界移動性の優れたところに住んでいる人間にとってはその程度の虚言は丸見えなんです。

平気で嘘を付く人は大都会の人に多いようです。しかしながら都会に住んでいても皆が嘘をつくという
のは無論当たりません。そうは言いながらも、他人がついた嘘を見破れないというのは都会人には
ありそうな気がします。また気付いていても気が付かないフリをする。真実を黙殺するんですね。
ここでの問題は作り話の蒙昧が悪いと言っているのではなくて、そういう虚言を見抜けない、もしくは
許してしまうという人達がいるということが大変興味深い現象だと私は言っているんですね。

ではなぜそういう嘘が見えない、見ないふりをする人達がいるのだろう?というのは、これもまた
『視界』と『移動性』に関わる問題なんではないでしょうか。
この視界移動性は、冒頭に述べたような自然の山のことばかりでそうなるとは限りません。現代に
おいては大都会の巨大な人工物が『視界』と『移動性』を大いに妨げていると思うからです。
現代の大都会は特に東京は3次元的な様相を見せています。ビルは山であり巨大な岩であり大木の
森林です。そういう場所で幼年期の人間性を形成していきますと、本質的に、『視界』と『移動性』の
乏しい人間性能になってしまうのではありますまいか。

この嘘をつく人を容易に見破ってしまうのが地方の人間です。とりわけ地方でも地形的に『視界』と
『移動性』の良いところでいる人達です。
そしてこの、『視界』と『移動性』の問題は、それが良い場合は写実派の写真になり、よくなければ
抽象派の写真になるということでもあります。
写実的写真とは、撮影にあまりテクニックを弄せずに素直にやっていこう、ということですね。絵画と
違い写真はそのままで写実ですから。他方の抽象派は、ハイアマチュアに多いのですが凝った撮影
テクニック(構図やフレーミングなど)を多用します。
それで中部山岳やフォッサマグナ地帯の写真家は、非常に凝った写真を見せてくれるところがあり、
その高度なテクニックに感心をしています。しかし関心はするけどそれだけです。

他方で『視界』と『移動性』のよい地方で撮影される方は、見たまんまの素直な写真を撮られる方が
多いようです。もちろん見たまんまと言っても被写体によってはその見たままにするのに高度な
テクニックを多用している場合があるのでして、けっして手抜きというのではありません。またそういう
地方の方は抽象的な雰囲気の写真を撮られても描写がストレートなんですね。

この、『視界』と『移動性』のことは、自然と人工物とを区分けせずに同等に扱っています。ですから
大都会と言っても立体化する以前の、だらだらと平面的に伸びた市街地は無視しています。
大昔の東京とか、現代でも地方都市などは平面的な市街地であり、そういうのは農地や疎林とあまり
変わらないでしょう。私が問題としているのは、立体化した大都会は自然の山岳地帯と同じような
様相を呈してくるんじゃないかなっていうことですね。

四国の徳島の山岳地帯では平さんとか○平さんとかいう人達が多いんですね。これは源平の合戦
で落ち延びた平氏の末裔と言われています。ほんとかどうかは分かりませんが、落ち武者が山中
深く隠れて住むというのはあり得そうです。
四国山地の山深く入ってしまうともう追手は追えないというか諦めざるをえません。追えないと同時に
向こうの落ち武者も再び打ってでるということも出来ません。それは山中では『視界』と『移動性』が
失われるからです。
彼らが歴史に登場することは二度となかったわけです。

もしかすれば立体化した大都市は危ういのではありますまいか。東京に良い視界と身体レベルの
移動性を取り戻さなければ日本の舵取りは難しくなる。どうもそういう気がしてならないわけです。
せめて政治の中枢だけは、栃木か茨木あたりに移動するのが正解のように思えるのですね。そして
企業は本社機能を地方都市に移すべきです。
アメリカがニューヨークとワシントンを役割を分けているのには意味があるのです。そういえば中国も
第2の北京を増築しているそうです。

立体化都市が人間性に及ぼす影響、とかでネット検索を掛けても何もでませんでした。都市における
緑の効用とか頓珍漢なものしか出ません。まだそういう視点を持った研究者はいないようです。
この大都市や地方を『視界性』と『移動性』という視点で考察しているのは、私が最初のようです。
広い意味での写真論になるんですが、それだけに収まらずで文明論にまで波及することができます。
私の予感では3次元立体化都市はいわば現代における戦艦大和・武蔵ですかね。

とにかく少なくとも写真に於いては、この『視界』と『移動性』というのは写真の撮り方や作風にあらわ
れて来ますし、それだげてなく、写真は真実を表すという本質論の問題にも大きく関わってきます。
この問題は場合によっては写真の土台骨を揺るがすことになるんですね。
そのことに気づいていない人が多いんじゃないでしょうか。

追加・・東北の場合ですが、地形的に見て『視界』と『移動性』はとても良いわけですが、実は例外が
ありますね。それは積雪の期間です。1年の1/4は雪によって視界は妨げられ移動性も著しく制限
されます。
四国では中央構造線を超えて南側に行けば『視界』と『移動性』の制限区に突入するわけで、狭い
地域の中で2つの顔を見ることができますが、東北の雪国では全く同一の場所で季節によった2つの
体験ができるということになります。これはちょっとおもしろい現象のような気がします。両方の世界
を見ることができるというのは意義があります。

またこの『視界』と『移動性』論を世界的に拡大してみることも可能ですね。残念ながら私にはその見聞
がありませんのでなんとも申し上げることができません。ひとつだけ気づいたのは英国の地形です。
英国の写真を上げてくれる方の写真をみて、『視界』と『移動性』が非常に良い国なのではないかと
感じました。

●歴史家の秦郁彦氏が書いていたのですが、(氏は旧日本軍研究の第一人者です)、かつての謀略
や残虐行為を行ったA級戦犯の人達に聞き取り調査をしていて、彼らの多くは知性も高いし人柄も悪く
ないのですが、それが集団の組織となると、なぜあのような愚劣な行為をしてしまうのか。それが最後
まで分からなかったといいます。
碩学の老研究者にしてこの言葉を吐かせるという人間の不思議さ。
しかしながら、ここにも『視界』と『移動性』論を持ち込むと気持ち、分かりかけてくるような気がするの
です。

私もあの先の大戦の著作を読むときがあるのですが、正直申して、いつも最後まで読み切ることが
できないのでいるのです。あまりにも酷すぎて読むに耐えられないところがあるんです。満蒙開拓団の
悲劇を調べるのは苦痛でありいつも挫折してしまうんです。
その苦痛というのは直接的な惨劇の事実ではなくて、そもそもあの悲劇を起こした官僚や軍人の蒙昧
さに私の精神が耐えられなくなるんです。どうしてこの程度のことが見えないのだ?こんな大切なこと
をなぜ無視してしまうのだ?という無能の馬鹿さ加減に苛立ちがつのるばかりになるのです。

このフォトXP掲示板を見ていて、あーなるほど、世の中にはこういう人間がいるのだと。そういうことが
薄々分かりかけて来たような気がします。それも現在進行形で。
『視界』と『移動性』のよくない人間というのは、個人的には優秀でよい人かも知れませんが、歴史的に
は彼らは決定的な過ちを犯すタイプなのだということです。

もちろん当時の軍人や官僚が全て蒙昧であって『視界』と『移動性』の能力が欠けていたというわけて
はありません。当時の組織というのが『視界』と『移動性』を大いに妨げていたということだと思います。
旧軍は視界性もよくなく人的な移動性にも大いに欠けていたということですね。
石原莞爾という軍人がいました。山形県出身の天才的な人物だったんですが、彼は当時の世界の
世の中を透徹して見えていた人物ですね。満州事変を起こした張本人と言われていますが、もし彼の
采配通りに物事が動いていればああいう結果にはならなかったのではないと思う時があります。
石原の失敗は、世の中は『視界』と『移動性』の悪い人間の方が多いのだということに気が付かなかっ
たことにありそうです。
石原は戦犯には問われていないのですが、手違いがどうだとか言われていますが、おそらく連合軍も
石原を裁けなかったというのが本当だろうと思ってます。

それから『視界』と『移動性』論には地域性だけでなく時代性というのもあります。
秦郁彦氏が旧軍に深く疑問を呈したのは、氏が『視界』と『移動性』のクリアな時代に思春期を迎えて
いたからですね。しかし『視界』と『移動性』が曇る時代もあるのだということを忘れてはなりません。
軍がおかしくなったのはそういう曇の時代でした。ついでを言うと今もまた再び曇りの時代が来ている
ということなんですね。
今の現在も『視界』と『移動性』の良くない時代だとすれば、こういう時代における写真傾向というのも、
まずは期待ができかねますね。蒙昧な虚偽の写真こそが今風なのであるということになりそうです。

※この私なりの写真論は下手に読まれないためにわざと多重性の展開をしています。字面を追っても
まず理解できないのが普通です。読んで頂く必用はないのですが、現時点の時代の記録として書いた
までです。

※この投稿写真は肖像権の問題を鑑み、ギタリストのギターだけを切り取っています。
退屈な野山の写真ばかり続きましたので、たまにはこういうのもいいかと。(^^ゞ
私はもうこういう写真は撮りませんが、頼まれ事で仕方なく撮影をしたまでです。
正直申して私はもう写真をやっていません。写真と見えるのは実用としての記録画ばかりです。
それから写真はしていなくても、カメラは続けています。写真とカメラは別のものであるという認識が
私にはあります。ついでに言うと本当にカメラに関心があるものはブランドとは無縁です。
ブランドを追ったり自慢をしたりするのはあまり機材に対する関心がない人間のすることです。
分かりやすく車で説明すると、車というメカに関心のあるものは自分の車を改造したりよく走らせたり
しますが、ブランドばかりに眼が向いている人間は高級車を買うことに関心があるだけです。それを
ひらひらと乗り回して人に見せることが快楽だったりします。
しかし普通の正常な感覚としては車は実用の道具であり、どこそこに行くために車を利用するばかり
です。

2   kusanagi   2018/10/15 23:18

前回では写真に於いてストレートな表現をする場合と、それから凝った表現をするという
その2つの相違を、撮影者の住む地域性という、『視界』と『移動性』という観点から考察
して行きました。
それで今度は、この写真の2大潮流である系譜を、時代性と機材の発展の面から考て
みたいと思います。
少し整理をしましょう。

アマチュア(ピュアアマチュア)・ストレートに表現・リアルな表現・クリアな眼力・自由な
発想の被写体・画質は写真の本質ではないと考える・中級機メイン・撮影量は多くて撮影
は速い・撮影者は若い人が多い

ハイアマチュア・凝った表現・バーチャルな表現・欺瞞の混入・形骸化した被写体を狙う・
画質にこだわり・高級カメラやブランドレンズ・撮影量は少なめで撮影が遅い・高齢の方が
多い

私はこの相違は、アマチュア(ピュアアマチュア)とハイアマチュアとの決定的な相違では
ないかと考えています。
ピュアアマチュアとは主にデジタル時代から興隆を迎えたと言いますか、でも本当は大昔
からあった撮り方であるんですが、もう一方のハイアマチュアは、特にカラーフィルム時代
において特に盛んだった撮り方です。(でも写真の歴史から言えば戦前からありました)

この2つの潮流は大袈裟でなく写真の2大潮流とも言って良いものです。
ストレート表現か、それとも凝った表現としてしまうか。
簡単にいえばそれだけなんですがね。でもこの2つは本質的に違う写真の行き方になるん
じゃないかなって思ってます。
この2つの違いを、既に述べた『視界』と『移動性』の視点から求めることも出来ますが、
もう一つの考え方をすることも出来るんです。

それはカメラの技術革新の歴史と重ねあわせられるからです。
戦後に於いては、アマチュア的ストレート写真が主流になりました。黒白35ミリライカ版の
時代ですね。
カメラは日本製の小型カメラが全世界を席巻しました。この時代カメラは輸出産業として
大いに外貨を稼いでくれましたね。
すこし遡って戦前の時代は中版カメラが主流でした。スプリング式や2眼レフカメラなど。
当時はハイアマチュア写真が盛んだった時代でもありました。
この2つは黒白写真ですがフィルムそのものが違います。35ミリライカ版は数多く撮れ、
安く付くんです。

戦後のストレート写真は、35ミリライカ版フィルムが、それまでのブローニィフィルムよりも
低コストだったからこそ可能だったわけですね。実はショット数を稼げれば、カメラマンは
自然とストレート写真に向くということが言えるかもしれません。
戦時中、日本軍は高精度のしかし連発のできない銃をを使用していましたが、米軍は
連射ができる自動小銃を使いました。日本軍は銃弾という物資が乏しかったので正確に
標準を定めて一発必中で撃っていたんです。かたや物量の豊富な米軍は銃弾をばらまく
ことができました。
この差が、ストレート写真とハイアマチュア写真の違いとなります。

さらに時代は進んで70年代位から写真はカラー化しました。これは高コストです。また
この時代がデジタルが登場するまで続いたということでもあります。その途中にカメラは
自動化が大いに進みましたが、カメラがオート化して撮りやすくなっても、フィルムが高価
でしたので、写真撮影が低コストですむというわけにはいかなかったのです。
それでカラーフィルム時代は、ハイアマチュア全盛時代だったと言えるでしょう。

それからもうひとつ技術的に指摘しておきたいのですが、このカラーフィルムのハイアマチュア
時代に、一眼レフのファインダースクリーン(フォーカシングスクリーン)が技術革新によって
著しく良くなりました。
それともうひとつ、AFレンズの登場により、カメラのファインダースクリーンは、ほぼ素通しと
いっても良いほどに明るく見やすくなったことです。
これはマニュアルでピントを合わせるのには不便でしたがAFならば素通しファインダーの方が
使いやすいんですね。
そして何よりも素通しファインダーは、ライカM型のファインダーと同じで長時間ファインダーを
見ていても眼が疲れないということです。これは特筆すべきです。

この優れた光学ファインダーを得たことが、写真におけるハイアマチュアの興隆と深く関わって
いるということが言えると思うのです。
そういう私も以前は、この光学ファインダーに強く執着したものです。写真とはカメラとは、
この光学ファインダーそのものであるとすら考えていました。

そのファインダーはとりあえず置いといて、写真のランニングコストの面では、カラーフィルム
時代からデジタル時代に突入すると、こんどは劇的に低コストで写真を撮れるようになりました。
プリントは別として写真の現像はタダですし、それをモニターで見る分にはお金はかからない
という時代です。
これに多くの人達が嵌まり、かつ新しく写真趣味に参入する人達が相次いだわけです。
写真人口は最大限になり、それどころかモバイルやスマホにまでカメラが付くようになり、そして
写真自体がプリント鑑賞ではなくて、インターネットを通じてモニターで鑑賞するという時代に
なってしまったんですね。

これほどの大革新がこの20年間の内に立て続けに起きてしまったわけです。
この低コスト化、いくらでもシャッターを切れるという時代になり、写真はハイアマチュアの時代
から再びアマチュアのストレート写真に戻りました。
しかしながらハイアマチュアが息絶えたかというとそうではありません。依然として高級だと
思わている分野ではハイアマチュア写真が盛んですね。このフォトXP掲示板をみても、ストレート
写真とハイアマチュア写真の割合は半々とは言えないまでも、ハイアマチュア写真の残存率は
高いです。

ではなぜ、このデジタル低コスト時代においてもストレート写真が完全に占めないのか。
ハイアマチュア写真が未だに残存しているのか。といえば、それには2つの理由が考えられる
のです。
まずひとつは電磁波問題です。ストレート写真は数多いショット数が前提ですが、カメラを作動
させる毎に顔面における電磁波被爆は辛いものがあるということです。出来る限りショット数を
控えるのが望ましいのです。それだとハイアマチュア有利写真です。
もうひとつは、テジイチにおいての優れた光学ファインダーの存在です。これに変わるものが
なかなかなかったからですね。

光学ファインダーの代わりをするのはEVFなんですが、やはりこれには限界があると言わざるを
得ません。現在の最新のEVFにおいてもそうなのてすから、これは原理的なものであり、
解決は難しいと言わざるを得ません。
しかし考えてみましょう。カメラが優れた光学ファインダーを持つようになったのはカメラの歴史
から言えばそんなに古いことではないんです。
昔の光学ファインダーは、今のカメラの背面液晶ビューとさほど変わらないくらいの品質でした。

ですからこれからのカメラは背面液晶で撮影をするっていうスタイルになるだろうということ
ですかね。頭を切り替えて光学ファインダーもEVFも捨てて、自分は背面液晶で写真を撮るって
決意すれば何ら問題はなくなります。(笑)
そういう場合の写真は、間違いなくハイアマチュア写真ではなくストレート写真になります。
この背面液晶のストレート写真に自分の考えを変換すれば、まず頭部への電磁波は避けられる
ということになります。これは断然優位ですね。
ストレート写真では凝ったフレーミングは難しいかも知れませんが数多くショットをして撮影後に
選択するというデジタル本来の手法が使えますから。

しかしながらここでちょっと問題があるんです。
それは老眼ですね。(笑) 老眼の場合、遠くの被写体はよく見えるのですが、手元の背面液晶
はボケてくるんです。それでカメラを手元からうんと伸ばして撮影という無様なことになるんですが、
これも考え方次第でね。ファインダーなんて適当でいいじゃないかって、さらに自分の頭を切り
替えるとこの問題もさほどのことではなくなるんです。(笑)

ファインダーよりももっと被写体こそよく見ろっていうことであるわけで、被写体はよく見えている
のだし、ファインダーのフレーミングは単なるアタリくらいに考えれば、撮影はなんら問題はない。
そういうような自分の考え方の切り替えが求められるんです。

厳しく言えば、このファインダーを捨てよっていうことが、これからの時代の写真術のキーワード
になるんでしょう。
どうしてもファインダーを捨てられない人は、これまでどおり光学ファインダーカメラを使うか、
無理してEVFを使うか、ということになります。

ところでなぜカメラは光学ファインダーを捨てて、EVFを搭載したミラーレスカメラになるかというと、
それはこれまでのデジタル一眼レフがカラーフィルム時代からの踏襲モデルだったからですね。
デジイチは本物のデジタルカメラではなかったわけで、デジイチというのは過度期のモデルにしか
過ぎませんでした。
とにかくミラーとか機械式シャッターとかいうのは古い時代のものなんですね。
具体的に言えば、ミラーとシャッターが存在していれば、カメラの電磁波を取り去ることが技術的に
困難だからです。そういのが大本の技術的な潮流にあるんです。

これからはかつての、フィルムカメラが淘汰されてデジタルカメラになったように、光学ファインダー
カメラが完全にミラーレス・シャッターレス(電子シャッター)カメラにとって変わられるようになります。
これはもう間違いのないことですね。

さて、そういう時代に於いて、ハイアマチュア写真は生き残れるのか。
と問うと甚だ難しいことかと考えます。ハイアマチュア的な写真を撮る方はかなり少なくなると考え
られます。もちろんハイアマチュア写真しか撮れなくなっている古い人はそのまま続けるでしょう。
ミラーレスカメラでもデジイチと同じようなスタイルで撮影している人を見かけますが、一つ覚えを
すると頭を切り替えられないというのが人間です。

それよりも期待できるのは、カメラのAI化でハイアマチュア風構図をカメラが自動的に撮ってくれる
時代になるかもしれません。当然にそれはパソコン・ソフトのAIトリミングに置いてもですね。
ハイアマチュア写真風モードとして、カメラやソフトの中に取り込まれるようになるはずです。
事実スマホでもボケ表現がソフト的にできるようになりました。大体に於いてハイアマチュアの
テクニックというのは被写体も決まりきってるし、表現が形骸化していますのでAIソフト化しやすい
んです。

超高画素カメラでストレートに多数ショットで(動画)撮影をしておいて、AIハイアマチュア風作品化
とボタンを押せば、パソコンやカメラは自動的に最適なショットの撰択やトリミング、画像処理を
してくれるわけです。その技量に於いてはとうてい人間が敵うものではありません。

これからの写真。本当を言うと、ストレート写真でもハイアマチュア写真でもなくて、機械には
できないことを、人間にだけできることをやっていかなければならないだろうということです。
端的に言えば、被写体の新開拓。それしかないように思います。
もうひとつは高度に機械化し過ぎてしてしまったカメラや写真を逆手にとってしまうこと。
ファインダーを捨てよ、とか、ピントを捨てよってことですかね。実際に私はすでにファインダーは
捨てていますし、ピントも広角レンズでは目視でやってます。これだと恐ろしく自由な撮影ができる
んですね。

被写体の新分野の開拓はこれからですが、誰も注目していないようなところや物事に注視して
行くべしと考えています。他人と同じような撮影をすることはそれは機械にも出来ることです。
写真自体も既にもう古い、という考え方が大事だと思ってます。写真以外のことに注力してその
手段として写真を使うっていうこと。それが翻って新しい写真の開拓になるんじゃないかなって
いうこと。こういうのは機械にない発想ですから。

3   kusanagi   2018/10/19 22:40

『視界』と『移動性』論をさらに煮詰めていきたいなあって考えてます。
この『視界』と『移動性』。ではこれが優れている、劣っているという人の写真とはどういうもの
なのでしょか。
それをちょっと、思いつくままに。今回は気楽に書きます。

①やはり『ピント』は遠い方がよさそうです。無限遠ですかね。(笑)
遠くのものを撮るというのは、それだけ視点が遠くにあるということですか。
そしてピントとしては、画面におけるピント幅が広いのがよさそうです。理想は全ピント。(笑)
被写界深度というピント幅をおおきくしようと思えば自然と遠景写真になります。
●その反対はボケ写真。ボケを多用する人は物事をクリアに見たくないという心理が働いて
いるのでしょうか?日本人には無意識的にそういう人が多いように感じられます。

②視界の良さとしては、やはり『広角レンズ』の使用でしょうか。より広く多くのものを取り入れる
となると広角レンズとなります。しかし広角レンズでも接近して撮影すれば視野は狭いですね。
他方望遠レンズ(超望遠レンズ)だと視角度は狭いのですが遠くのものを狙えたりもします。
そんなわけでレンズ画角はなんとも言えないところがありそうです。
●ただ広角レンズは足で稼がなければならないレンズです。移動性力がないと上手く使えません。
この広角レンズは歩いて動きまわらないと良い構図が得られません。運動になるレンズですね。
その反対に望遠レンズはちょっと不精になるところがありそうです。
●それと、視界に関連したことですが、撮影する位置の高さ、というのも意味があります。
山や丘に登って少し高いところから撮影すれば広い視界や視野が得られます。
そこまでいかなくとも背の高い人が撮影する光景と、低い人の撮影する光景とは違うのです。
それは視野だけでなく、通常の眼の視野がすでに違っているということであります。背の高い人は
視界性には有利です。僅か数十センチですけど。
そこで最近は面白い傾向が出てくるんです。それはミラーレスカメラのモニターで撮影する場合、
知らず知らずのうちにカメラを高い位置で撮影している自分に気づくんですね。(笑)
これまでのファインダーを見ての撮影ではあり得なかった視界性がミラーレスカメラでは得られる
ということになり、これはたいへん興味深い現象です。

③『高画質』。そしてクリアであり曇っていないこと。シャープであり高コントラストであること。
APSよりもフルサイズ、さらには中判となります。もしくは常に一段上の画質を提供してくれる
シグマカメラの使用。
●高画素数はあまり関係ないだろうと考えます。なぜならば低画素でもショット数を多くすれば
結果的に高画素撮影と同じことになるからです。これは写真としての作品のことを申しているの
ではありません。撮影に於ける情報量のことを言っています。ショット数が多くなりますと最終的
には動画になります。

こんなところでしょうか。他にも色々とありそうですがね。
ところで私自身としては、比較的に『視界』と『移動性』がよいタイプだろうと思っているのですが、
その私が一番苦手なレンズが中望遠レンズなんです。単焦点85ミリ100ミリ135ミリ200ミリという
レンズは所持はしていますが出番がありません。
もっとも24-70ミリ標準ズームの場合はよく70ミリ側でも使いますし、また以前は70-200ミリズーム
もよく使いました。以前は人物スナップショットをよく撮影していたので定番レンズでしたね。

しかし人物を撮らなくなった最近は準望遠レンズは出番がありません。現在はもっぱら広角レンズ
ばかりの使用です。
参考までに書きますと、70ミリレンズはファインダーの眼と、同時に見る裸眼の眼の視角度が同じ
になり、両眼視ができながら撮影できるという利点があります。これは広視野を必要とする
スナップショット撮影では大変に有利なんですね。私はこれを多用しました。

静物撮影で準望遠レンズをよく使用される方は、おそらくボケ表現を狙っているものと思われます。
それでこの日本人独特とも言えそうなボケ表現の写真ですが、『視界』と『移動性』という観点
からはマイナスに働くのだろうか?と考えてます。
ボケは飽くまでも写真の為の独自の表現でり、人間の眼では通常は得られません。それで極めて
絵画的な表現手法となるのでしょう。それはそれで宜しいわけであって、とにかくここで取り上げて
いる『視界』と『移動性』の論議からは論外としましょう。

ボケ表現や近接撮影の為にマクロ中望遠レンズを使うからと言って、その方が『視界』と『移動性』
の能力が劣るというわけではけっしてなくて、ボケは近接撮影やマクロ撮影をする場合には当然に
付帯する現象であるからです。
ほんというとマクロ撮影でも、出来ることならば全ピントのクリアな表現をしたいと願っているかも
知れずで、やがては技術の発展でボケのないマクロ撮影ができれば、これほど面白いものはない
だろうなって私などは思っています。

●画質に関して付け加えておきますと、いわゆる舶来ブランドレンズはけっして高画質というわけでは
ありません。それでも舶来ブランドレンズを使う方がいるのは、その描写の味わいとでもいいますか、
国産レンズとは違う雰囲気の色合いの画質を楽しみたいからであるわけで、画質とは関係のないこと
なのだと強調しておきたいとおもいます。
とにかくこのフォトXP掲示板において、舶来ブランドの価値は最低限にまで下落してしまいました。
たった一人の人間が掻き回してしまったが為に、舶来ブランド、イコール、忌諱されるものとなって
しまいましたね。
しかし一人でもそういう人間がいるということで、舶来ブランドを使う人は、『視界』と『移動性』が劣る
というイメージが抜き去らなくなってしまったのです。

私などはライカはともかくツァイスレンズの色合いは好きなんですね。ちょっとフランス絵画的な
華やかな雰囲気があるしで。このツァイス的な雰囲気は日本産のレンズではペンタックスとかフジ
とかに通じるところがあるようです。それで最近は舶来嗜好派はフジのカメラにだいぶ流れている
みたいですね。
フジとペンタックス。この両メーカーに共通するのは中判カメラを出していることです。

『視界』と『移動性』とはたとえてみれば、「風」ではないかなって感じるところがあります。
光というのは四方が塀に囲まれていても天井さえ空いていれば光がさします。しかし風は四方とも
開放空間でないと吹いてこないのです。移動性も同様です。
光がないと写真は撮れませんが、風はなくとも写真は撮れるのです。そして実際に吹いている風を
写真に留めることは至難です。
この『視界』と『移動性』はたいへんに難しい概念でして、これを説明しても他者に伝えることは
困難だろうと思います。

世の中には頭の良い人は大勢います。知能指数の高い人、高学力の人、博学な人とか。
しかしながら、『視界』と『移動性』はそういうものとは関係がありません。むしろ頭ではなくて身体的
なものなんだろうと思います。
特に幼少年期の住まっていた環境に深く関わりがあるだろうと考えています。

唐突ですが、今年春、高名な元特捜部検事の弁護士(78歳)が最新のレクサスに乗って暴走し、
歩行者を押しつぶして死亡せしめたという事故がありました。ブレーキとアクセルを踏み間違えたん
ですね。頭脳も体力も優れた人でしたが歳には勝てない・・となるわけです。
ところがそうではありません。私り知り合いの社長は82歳ですが深夜高速を180キロで飛ばしても
問題がない人なんですね。
弁護士は歳をとってから免許をとりました。かたや社長は18歳からスポーツカーを乗り継いでいるん
です。改造もやってました。二人とも今は高級車を乗り回しています(いました)が、経験値が全く
違うんです。

実は私も一度、ブレーキとアクセルを間違えたことがあります。正確に言えば間違いではなくて、
発進しようとしてアクセルを踏んだ瞬間に、人に呼び止められて発進せずにアクセルは空ぶかしに
なったということなんです。なぜならば瞬時にシフトレバーをニュートラルにしたからです。
アクセルを戻す暇なく、ブレーキに踏みかえる時間もなく発進をせずに済むにはニュートラルにする
しか方法はないですね。
こういうのが瞬時に出来るのは若い時から車の運転をしているからですし、高齢になってから運転
をしだした人にはまず無理だろうということなんです。

これがマニュアルミッションの車でしたら、発進時はアクセルとクラッチを踏みながら、そっと発進を
しますし、咄嗟の場合は即座に今踏んでいるクラッチをさらに深く踏めば動力は伝わらず車は動きま
せん。いかにマニュアルミッションが安全か、ということです。
そしてオートマの場合はニュートラルにする癖を着けておくということなんですね。とにかく暴走時は
ブレーキよりも先に動力を切るということ。
こういうのはまさに身体感覚なんでして、頭がどうのこうの体力が年齢がどうのというのではない
わけです。

ブレーキとアクセルの踏み間違いというのは、車にはアクセルとブレーキしかないと勘違いをして
いる人に起きることなんです。アクセルをブレーキだと思い込んで必死でアクセルを踏んでいる。
しかし車は予想に反して猛スピードで加速をしている。それがおかしいと感じるならばシフトレバー
を解除してニュートラルにしなければ。
それは車の運転の初歩の初歩でしょう。高速で走っている場合だとニュートラルや極端なシフトダウン
は受け付けない場合がありますが、発進時にはニュートラルに出来るんです。
もし車のアクセル系が壊れてアクセル全開で暴走すれば、パワーのある車はいくらブレーキを踏ん
でも車は止まりません。動力伝達系を切るしか方法がないのです。
そして車をブラックボックスとして無理解のまま使うのではなくて、仕組みをよく理解しておくことが
肝心なんです。

『視界』と『移動性』というのも、そういう若い時からの身体感覚そのものなんです。そしてモノを見る
ということは、そして写真を撮るということは、これらはどういうことなのか。その仕組みをよく理解して
おくことが大切だということです。
無自覚のままに写真を撮ってはいけないのです。何も分からないのにコンピューターやネットをする
べきではないんです。
くだんの弁護士は自分は車の運転が上手いって言っていたそうですね。しかしそれは高性能車に
乗っていたからです。車の性能と自分の技量を勘違いしていたということです。
写真機材もそうですよ。
「20代女性と早朝ゴルフで「暴走ひき殺し」超有名弁護士・78歳の転落」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54650

4   kusanagi   2018/10/20 22:23

「ペダルの踏み間違いに関する考察」
https://autoprove.net/not_featured_in_mag/102715/
>平日の朝、Aさん(35歳)は、・・・オートマチック車のクリープ現象を利用して車を低速で前進
させた。その時、・・・Aさんは慌ててブレーキを踏んだつもりだったが、間違ってアクセルペダルを
踏み込んでしまった。Aさんの車は急発進し、Bさんの自転車と衝突・・・

・・・これって私が、咄嗟の事態でブレーキを踏まなくちゃて頭で思いながら、発進しようとして右足を
アクセルに乗せたままの状態のままで、実際は(ブレーキのつもりで)アクセルを踏んでいたという
のと同じケースです。
発進しようとしてアクセルを踏もうとまさに行動しようとして、突然に脳からはブレーキを踏めって
いう命令が来た。こういう場合はもう足に行った命令は取り消すことが出来ないんですね。
そこで命令系の混乱が起きてアクセルをブレーキとして踏んでしまったんです。
しかし私とこのAさんが決定的に違うのは、私のもう一つの頭では、「違うぞ、それはブレーキでは
なくてアクセルだ!」と認識していて、新たな脳の命令を発して素早く瞬時にシフトレバーをニュートラル
にしたことなんです。

この既に発した古い命令は取り消せない。しかし別の新たな系統の違う命令(シフトレバーの左手に)
を出して、事前の行動をキャンセルすることができる。その為の知識や訓練を積んでおくことが大事
だっていうことですね。(こういうのは武術では常識の類になりますか)

「何故運転者は事故に至るまでアクセルを踏み続けるのか」
http://ono-fumimachigai.com/causation/
>何故右足を突っ張ってしまうのかについて、急加速に対する防御姿勢を取るのではないかと
考えられる。
・・・これも反射行動ですね。大いに有り得るでしょう。

「アクセルとブレーキの右足同時踏み、どうなる?」
http://ono-fumimachigai.com/traffic-accident/car-crash/6452/
・・・殆どの車のブレーキシステムは真空サーボやマスターバックですからアクセル全開ではブレーキは
効かないんです。

実はこれに関しては、「左足ブレーキ操作」の問題と関わってくるんです。AT車の場合で右足アクセル、
左足ブレーキをするドライバーが玉にいます。私もMT車で少しはやりますから。
しかし左足ブレーキの欠点は、ブレーキを踏むときに両足が浮いてしまっているので身体が不安定に
なることなんですね。さらには思いっきりの強いブレーキを利かすことができないかも知れません。
事故直前にはぶつからないないように強いブレーキを踏まなければならないのですが左足ブレーキでは
出来ないかと思います。
さらにブレーキを強く踏むと同時にアクセルも強く踏む可能性があるんですよ。
ともあれ、「左足ブレーキ操作」は使っている車のペダル配置にもよります。左足ブレーキがしやすい
配置ならばさほどは問題がないかもしれませんが。

「最新レクサスLS500のペダル配置」
https://www.autocar.jp/wp-content/uploads/2018/07/RT_LS_180706_13.jpg
件の弁護士が踏み間違えた車のペダル配置です。巨体の車に似合わず足元は狭いですね。そして
アクセルペダルはオルガン式ですが巨大なので、足裏の感覚ではブレーキペタルと間違いやすくない
ですか? そして真ん中のブレーキペタルは小さめです。左のフットレストは大きすぎる気がしますし、
とにかく全てのペダル配置が窮屈に感じられるのは気のせいでしょうか。
アクセルを踏む右足を休ませる場所がありません。信号待ち時間に右足を伸ばしたい場合に、アクセル
ペダルの右側に空間が欲しいですね。左のフットレストは良し悪しですね。これがある為に左足を伸ば
してリラックスすることができなくなりますから。
さらに言えば巨大な壁のようなインパネと、圧迫感のあるコンソールボックスはドライバーを押し潰す
ような威圧感がありますね。
https://autoc-one.jp/word/1379467/photo/0003.html
比較のためにBMWのペダル配置ですが余裕があるような感じです。パネル類も圧迫感がないですね。
日産 フーガ 370GT・・ペタル配置は余裕です。
https://autoc-one.jp/nissan/fuga/newmodel-417663/photo/0030.html

またまた喫茶店に置いてあるカー雑誌でレクサスの室内写真を見て、あれっ?と思ったのがこのペタル
配置の写真だったわけです。LS500はティラノザウルスのような巨体をもつ車なのですが、その運転席
の足元の小ささに驚いたというわけです。これではティラノザウルスの前足ではないかと。(笑)

レクサス弁護士。色々と調べると多少は同情的な気分もしています。しかし私だったらいくら金が余って
いてもレクサスなんかは買いません。偽ブランドを買ってどうするのだと。

5   kusanagi   2018/10/24 23:41

レクサスLS室内
http://suzaku-umenoya.hatenablog.com/entry/2018/02/20/183246
クラウン室内
https://motor-fan.jp/article/10005525
これのアクセルとブレーキのペダル配置や大きさや傾きを見て欲しいのですが、ほんの僅か
なんですが、明らかにレイアウトや形状が違うように思います。
写真で見てもレクサスだったら私も踏み間違いをしそうな感じがします。というか同時に2つを踏み
そうな感じがします。しかしクラウンだとまず踏み間違いはないだろうということですね。

それからダッシュボードの形状を見ても運転しやすく感じるのはクラウンです。シフトレバーの感じ
を見てもクラウンが良いです。
レクサスLSとクラウンは値段が2倍は違います。むろんレクサスが高いのです。
トヨタ車の本当のブランドはクラウンです。海外には輸出していないので世界的なブランドとはなって
いませんが、本当の意味での伝統のあるブランドは間違いなくクラウンですね。

弁護士はなぜクラウンではなくてレクサスにしたのでしょうか。
答えは簡単です。車というものを知らなかったからでしょう。無知の過ちだったんですね。ものごとを
表面だけしか、金額とか名前とか、その程度で決めてしまったのでしょう。
それからレクサスはアメリカのブランドです。レクサスはサクセスに名前が似ているでしょう?
トヨタは既に登録されていたレクサスというネームを高額で買い取った経緯があります。米国では
サクセスストーリィとかアメリカンドリームとかの言葉に弱いんです。
しかしそれはアメリカでの話です。問題はその舶来ブランドを日本に持ってきて、そのまま舶来信仰
の強い日本人も受けたということなんですね。

特捜部長とか検事長とかの肩書を持っていた人間がその程度の人物であったということ。そうでは
なくて立派な経歴や肩書を持っている人間こそ、物事の表面だけでしか見ていなかったという事実。
そういうことをこの事故は物語っているということですね。

写真においても、やはりカメラやレンズというもののブランド信仰というものがあります。自分はそういう
ものはない、と思っている人でも必ずあります。そういう私にもブランド信仰、舶来信仰というものが
あるはずなんです。
そういう信仰を砕いていかないと本当のよい写真というものは生まれてきません。いや、良い写真
とかそんなものはどうでもよいのですが、ブランド信仰に頼っているかぎり写真行為としては不健全
であるということです。ですから積極的に信仰を貶めていかなければならないのです。

その為にはどうすればよいのか。無銘のブランドではないレンズを使うこと。それから無銘レンズと
ブランドレンズの違いを詳細に知って理解すること。そういうことを地道にやっていくしか方法はない
ということです。
車のペダルレイアウトとかダッシュボードとかは、大メーカーが作っているのだからどれをとっても
大丈夫だろうって皆思っているはずです。しかしその僅かな違いを見つけることはとても大切なこと
なんですね。なぜならばそれが事故に繋がるからです。取り返しの付かないことになるからです。

カメラやレンズなんかは事故とはならないから大丈夫だろうって考えているでしょう? それは違うん
です。そういうのもただ無知なだけなんですから。

6   kusanagi   2018/10/27 23:11

車のアクセルペダルとブレーキの踏み間違いで暴走するというのは、その方がどんな人であろうと
起こりうるものなのです。踏み間違い自体は年齢もあまり関係なくて若い人でも起こっています。
ただ高齢になると認識力と反射神経の問題でことが重大になるという違いはあります。

アクセルとブレーキの間違いは私でもあったことなので、この問題はよくよく考えることにしていま
すが多少は結論らしきものが出たかなって考えています。
踏み間違い自体は、2つのペタルが接近し過ぎていることから起こるだろうということ。そのペタルの
形状とか、高さとか奥行きとかそういうのもあります。またドライバーが履く靴でも違ってきます。
硬底の靴だとペタルの違いが分かりにくいですしね。

踏み間違えて自分はブレーキを踏んでいるとして、さらに強くブレーキ(実はアクセル)を踏むのは
パニック心理だけでなく、急加速による恐怖心とか体の硬直というのも考えられます。
車の急加速とか急減速、急ハンドルとか、そういう荒っぽい運転をしたことがないというドライバーが
ほとんどだと思うのですが、これはぜひ一度は試してみるのが良いかなって考えてます。

とくに高齢になると、右足の疲労ということも大いに考えられます。走行中のアクセルも右足、そして
停車時のブレーキも右足でしょう?右足ばかり酷使しているんです。信号待ちの時、殆どのドライバー
はブレーキペタルを踏んだままにしていますね。
右足を休ませなければ、と思います。それで私の場合は信号待ちの停車時は背後の車が接近して
停車すれば直ぐにブレーキペダルは離します。そして右足を休ませますね。

ブレーキペダルから右足を放しても私の車は前進しません。なぜならば停車する寸前でシフトレバー
はニュートラルにしているからなんですね。だいたい時速20キロ以下だとAT車でもMT車でもニュート
ラルにして、車は空走状態になるようにしています。
この空走状態というのを自動車教習所の人は嫌がります。しかし間違っているのは教習所の人なん
ですね。20キロ以下ではもし追突してもさほどのことはなく、またその徐行状態ではブレーキペダル
だけでなくパーキングブレーキでも止まります。

さあてと、ここでちょっと問題は難しくなるんですが、車というのは実は、そのストッピングパワーには
2種の系統があるんです。
ひとつは誰でも知っているブレーキペダルを踏むということ。車輪の回転を止めます。
そしてもうひとつは、動力系を切ることなんです。動力系をカットするというのは、クラッチとニュートラル
です。クラッチはMT車にしかありませんが、ニュートラルはMT車にもAT車にもあります。

MT車ですが、信号停止時にずっとクラッチとブレーキを踏んでいるからシンドイという人がいます。
そりゃあそうでしょう。(笑) しかしMT車でもニュートラルにしておけばクラッチは踏まなくても良いん
ですよ。こういことも知らない人がいます。
もっと言いますと、MT車の場合、加速してチェンジアップをしていく時はクラッチを踏んでシフトをして
行きますが、ゆっくり速度を落としたり停車をするときには実はクラッチを踏まなくともニュートラルに
できるんです。ただしスポーツカーのような高出力車の場合はクラッチが強力なのでそういうルーズな
ことはできません。
そんな具合で私の場合はMT車でも楽な運転をしているんですね。

MT車を長く乗っていると、常にニュートラルにするという癖が着きます。ニュートラルは動力系を切って
いる状態なのでそのままだと車は自然に止まりますし、また軽い動作でブレーキやパーキングブレー
キで停車することが可能です。
ニュートラルという動力系のカットはストッピングパワーというほどのものではありませんが、しかし
ブレーキペダルとは全く別系統の車を止める手段であるということは強く認識して欲しいものです。

車を走らせるのはアクセル。これは間違いないですが、車を止めるのはブレーキだけではないという
ことを良く知らなければなりませんね。
車を停めるという動作には、この2つの系統のストッピング動作を同時にしておかないと危険なんです。
教習所で教えるのはたったひとつ、ブレーキペダルだけです。でもこれは間違いです。
なぜならばMT車の場合は、この2つを同時にやらなければ車は正常には止まりません。それと同じ
ようにAT車でもかならず2つのストッピング系統を使用しなければならないんです。つまりATでも
ブレーキペダルだけでなく、停車時にはシフトレバーをニュートラルにするということ。これがすごく大事
なんですよ。

ここまで書くと殆どの人は、何がなにやら頭がこんがらがって理解できなくなりますね。(笑)
それは車が止まるというのは車輪の回転を止めるというブレーキしか頭にないからです。もちろん
普通の走行にはブレーキペダルだけでも良いかも知れませんが、もしもの場合の、つまり強力に
アクセル踏んでいる時にはブレーキペダルだけで車をとめることは出来ないからです。
ちなみに実験してみませんか?右足でアクセルを強く踏み込み、同時に左足でブレーキを踏んで
車が止まるかどうか。これは止まりませんから。
ましてやブレーキと勘違いをしてアクセルを目一杯に踏んでいる状態では車は急加速をし続けていく
ということなんです。ゼロから時速100キロまでほんの数秒で達します。もう何かをやっている暇など
ありません。

そしてこの場合に、ブレーキを踏むときには同時にニュートラルにしておくという停車時の癖が着いて
おりますと、つまりブレーキを目いっぱいに踏んでいるのに車は止まらない。それどころか加速して
いるという場合、ブレーキだからニュートラルだ!という癖が車の動力系を切ることになり、車は加速
しなくなるんです。
これも一度実験をしておきましょう。目一杯アクセルを踏んで急加速。その途中でDレンジからNレンジ
にシフトしましょう。車の速度は落ちてエンジンは盛大に空ぶかしをします。
ただし速度が上がり過ぎるとNレンジには入りません。これはミッションの保護の為の回路が働くから
です。ですから速度が上がる前に素早くニュートラルにする必用があるんです。瞬間的にやらないと
いけませんね。加速のよい高性能車は特に素早くやらないと手遅れとなります。

これがMT車ならばどんなにスピードが出ていてもニュートラルに出来ます。またMT車の場合はシフト
ダウンすることでブレーキを使わずに速度を落とすことも出来るんです。ですからMT車では、もし下り
坂でブレーキが壊れたとしても安全に走行して停止できるんでね。

付け加えると、MT車でもAT車でもパーキングブレーキがレバー式サイドブレーキの場合、走行時にも
使えます。フットブレーキのように強くはありませんが、徐々に速度を落とせます。サイドブレーキを
使ったスピンターンなんてのも出来ます。
ところが最近の車のパーキングブレーキは、フット式とかスイッチ式とかでほんとに停車時にしか使う
ことができなくなり、車のストッピングパワーのひとつを失ったとも言えます。

それからAT車の場合、シフトレバーなんですが、従来のフロアタイプのストレート式レバーから、最近
はダッシュボードにレバーが生えていたり、またフロアタイプでもストレート式ではなくてゲージ式の
タイプが流行りです。
ゲージ式というのはギザギサの形でレバー動くやつですね。これはファッションなんですけど、とにかく
素早い動作ができません。瞬間的にDからNにすることができない為に積極的なシフト操作を嫌がる
ようになります。それでシフト操作と言えば、DレンジとPレンジしか知らないドライバーが殆どなん
ですね。当然ながら車が停車していない時、走行時にはPレンジには入りませんよ。

最近はこんな風潮になってまして、ニュートラルという動力系を切るというストッピングパワーが失われ
てしまっているような状態になっています。
本来は2つあったストッピングパワーが、フットブレーキというたった1つのもになっているんです。
これがどれほどに怖いことなのか、技術系の視点としては極めてまずいことになっているのかを、多く
のドライバーは意識しておりません。
そして車はファッションとか燃費とか、そういう視点だけで撰択しているんですね。しかしどんなに
スタイルとかブランドが気に入っいても、また高燃費だからと言っても、もし事故を起こして人様も自分
も怪我をしたり死んでしまったりするんでは、カッコや燃費なんて何の意味があるんだということになる
わけですよ。

車はまず安全な操作のし易い車を選択して購入すべきなんです。これを間違うと、れいの弁護士の
ような痛恨の極みという結果になります。
車の撰択。
可能ならばMT車です。
そしてAT車の場合は、ペタル配置をよく検討すること。シフトレバーはフロアタイプのストレート式が
ベストです。というかそれ以外は危険だということ。そしてパーキングブレーキはフロアタイプのサイド
ブレーキタイプ。これは信号待ち時にニュートラルにしておくには、このパーキングブレーキが一番
使い良いからです。

余談を言えば、室内のダッシュボードは低めで、センターコンソールも小さめ。Aピラーは垂直に近い方
が視界が保たれるし、天井までグラスが回りこまなくて疲れ方も少ないです。

車は絶対にファッションでは買わないこと。燃費ねんぴなんて言わないこと。車の購入を間違えれば
痛恨の痛みとなると覚悟をすることです。
それから今使用している車でも、意識改革や訓練次第で安全になるということ。バイザー(雨よけ)は
外すこと。室内のサンバイザー(日除け)は良いけれど。運転する時はペタルの踏みやすい間違いに
くい靴にすること。車だけの専用シューズを買いましょう。(通常のドライブでは底の柔らかいシューズ。
高速で長距離を走破するときは底の硬いシューズとか)

参考
「新型レクサスLSの自動ブレーキはなぜ作動しなかった? 最新自動ブレーキの構造を知る 」
これで検索を掛けて見ると・・・
自動車ジャーナリストの国沢光宏氏のコメントが出てきます。
非常に興味深いですね。車の安全に価格やブランドは関係ないというのがよく分かります。

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