逆光以外で紅葉を撮る ~サーカスのように~
Exif情報
メーカー名 Canon
機種名 EOS 70D
ソフトウェア Digital Photo Professional
レンズ 135mm F1.8 DG HSM | Art 017
焦点距離 135mm
露出制御モード マニュアル
シャッタースピード 1/512sec.
絞り値 F2.0
露出補正値 +0.0
測光モード 分割測光
ISO感度 400
ホワイトバランス オート
フラッシュ なし
サイズ 3000x2000 (3,268KB)
撮影日時 2019-12-08 23:51:36 +0900

1   S9000   2019/12/9 22:06

 こちらも蜘蛛の巣ひっかかり紅葉。斜めにひっかかっている様子と、後ろの灯明玉ボケをライトにみたてて、サーカスの空中ブランコのように、とイメージ。(よーわからんな)
 
 「逆光以外で紅葉を撮る」は、思い立って撮影したシリーズではなく、単に午後2時以降に行くと「三瀧寺はすべて日陰の中である」ということ。しかしながら、きれいに陽が射しこむ午前中とは全く違う世界が広がっていて、それはそれで楽しいものです。

2   S9000   2019/12/12 21:24

 さて、「七色の耳飾りの少女」の続きです。
 宗教は、「死に対する恐怖を軽減する」ことが究極の目的だと思います。死は生物にとって避けがたいことで、生物一般は本能により死を回避しますが、人間はその本能をいろいろと文化体系に変換構築していく生物だと思うので。
 これは、いわゆる臨死体験におけるイメージから想像した仮説で、それらは死の苦痛、恐怖を柔らげるために人間に備わっている機能の一部であり、宗教のおおもとはその体験を集成して教義や世界観を整理したものだ・・・というものです。これは別に私のオリジナル仮説ではありませんが。

 一方、臨死体験の研究結果から、宗教や文化が臨死体験に作用していると思われる部分もあるそうです。例えば日本人の臨死体験に「三途の川」が多く現れるなど。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%AD%BB%E4%BD%93%E9%A8%93
 先般、「人間の内部にある種スピリチュアルなものがあって、それに沿った宗教が長く存続する」と言いましたが、臨死体験をした人は、死生観が変化する傾向が見られると聞いてます。臨死体験者が語る死生観を集大成したものが原始的な宗教なのかな、と乱暴に想像してます。

 宗教は臨死体験にも影響することは先程述べましたが、宗教知識のない子供の臨死体験では、宗教的要素(神の来迎、死者の出迎えなど)が薄いという研究結果もあるそうです。
 神道における死生観ですが、教義やそもそも経典のようなものがないものですが、偉大な人物については、死後、神としてまつる要素があり、間接的に死後の世界を語っているように思います。また、神道をさかのぼっていくと、古い神話・伝承には、死後の世界に関するものはけっこうあって、西欧のものと共通するものがありますが、文化的伝播というより、人間が普遍的に持つ、死と死者に対する恐怖からくるイメージのように感じています。
 ほんとかどうか知りませんよ、私は専門家じゃないなので。

 で、写真と神道の関係は、神道がいろいろなものに神の痕跡を見いだす面があるので、例えば切り株を神の腰掛けに、路傍の岩を神の依り代に見立てたりするわけで、そういう要素はネイチャーフォトや路上フォト、またいろいろな写真分野に通じ、写真趣味における神道精神云々は、あながち的外れでもないと思いますね。だから、「神は細部に宿る」。

 神道における死生観で、キーワードとなるのが「黄泉の国」でしょうか。神道におけるあの世を示す言葉で、神社庁の解説参照。
https://www.jinjahoncho.or.jp/shinto/shinwa/story2

 ここでは、死を意識することで日常の生活を正しく送ろうという意識が芽生える、というくらいのふわりとした解説がされています。一方、仏教は輪廻転生の思想があるので、死生観は異なると思いますが、地獄が強調されている面では、現世での生き方を律することを求める考えでしょう。
 これらも、「なんとなくそう思えるなあ」という程度で、きちんと整理した考えではありません。
 現役の住職さんが、「葬式仏教ではいけない、日常でもお寺にきてもらえるようにしなければ」と嘆いているように、日本人は神仏混合ながら、お祝い事は神社で、葬式供養はお寺で、という使い分けがあるようで、そんなところから、神道に死生観がないように感じるのかもしれません。

 非常に個人的な感想ですが、映画でも小説でも漫画でも、怪奇フィクションの物語は、キリスト教や仏教の地獄よりも、神道(というか日本の神話)の「黄泉の国」をモチーフしたほうが、より恐ろしく感じられるように思います。
 坂東眞砂子さん(故人)「死国」「狗神(いぬがみ)」(この映画版に私は年甲斐もなく悲鳴をあげたシーンがある)、諸星大二郎「妖怪ハンター」「暗黒神話」などが思い当たります。特に諸星氏の「妖怪ハンター」では、黄泉比良坂をモチーフにした怪奇談(「死人がえり」)がありますが、これはとても恐ろしいものでした。

 一方、梶尾真治氏の「黄泉がえり」は、タイトルに黄泉とあるものの、最終的な種明かしはSF仕立てであり、物語は美しい仕上がりですが恐怖は感じないファンタジー系の物語です。
 いずれも読み応えはあるので、興味があれば鑑賞ください。

3   kusanagi   2019/12/14 00:32

人間は高度に脳を巨大化させ、そこに本来はないはずの意識、というものを作り上げました。
脳と意識は別物だと考えるのがよくて、たとえば芸術や主義や宗教というものは意識の産物です。
実はきちんとした事実認識というものを脳は行っているのですが、そこに意識というものが絡むと、
正しい事実認識をすることができなくなって脳そのものが病理現象になってしまうケースがあるの
です。
意識というのは、まず自己正当を行うということです。自分は正しく間違っていない。そうしないと
自分に自信が持てなくなり他生物や他者との競争に打ち勝てなくなるからです。競争に敗れれば
自己保存ができませんし子孫も残せません。人生の成功の秘訣はこの自信を得ること、また与える
ことです。小さな子供を褒めて育てる。これが成功の基であり場合によっては実力以上の結果を得る
ことができます。
しかしこれらは原初的な社会では有効なのですが、社会や時代が高度化してくるとなかなかそうは
いかなくなります。よく引きこもりが話題に登ることがありますが、彼らに問題なのは強すぎる自尊心
である場合が多いのです。自分に実力以上の自信が出来上がってしまった場合、俺はこんなもの
ではないと、自分を責めるのではなく世間や社会の方を攻撃するようになります。
間違っているのは自分ではなく社会や事実の方であるという考え方になるのですね。敗北を認めず
自責の念がなければ自分を反省して刻苦勉励しさらに向上することもなくなります。

この原初的な自己正当化というものは宗教で言えば神道のような幼年宗教ということになりますか。
イスラム原理主義といのもそういうものでしょうし、オーム真理教のような新興宗教もそうですね。
若すぎて敗北を知らない宗教であり意識群であるわけです。
個人も自信は大切なのですがある程度は早期に敗北と挫折というものを味わっておかなければなり
ませんね。子供時代に一度も負けを知らず大人になって初めて大きな敗北をしてしまうと場合によっ
ては立ち直れなくなるのです。それで引きこもりとか若年自殺というのが出てくるのでしょうか。
個人史を見てりますと、創業者などの大成功をする人は物質的にも豊かな愛情深い家庭に生まれて、
そして少し大きくなった少年期に家庭の破産とかの大変な苦労をされた方が多いですね。プラスを
先に得て、それからマイナスをあとから体験するという具合です。それでかつ個人に実力(持って生ま
れたもの)があると大きく成功することができるようです。
子供の成長は早いので、時期を逸すると伸びるのも伸びなくなりますから。またこれらが集団的世代
的に起きる場合があります。それは戦争の敗北で少年期に大きな挫折を社会レベルで体験したという
場合です。若い兵士や特攻隊の生き残りとか焼け跡・引き上げ子女なんかですね。

写真の初体験でもそういうことが起きます。カラーフィルム時代では写真をする人は店のお客であった
わけでして、それでどうしても周囲は良いことばかりしか言ってくれません。写真を始めたのが高校や
大学の写真部とか写真専門学校とかそういう場合は、諸先輩からきちんと指導してくれて甘やかされ
ることはないのですが。
写真の場合は最初の数年が大切です。その数年で一生の写真ライフというものが決まってきます。
それからやはり写真を始める時期は十代末から二十代始めがよいのです。感性が豊かですから。
S9000さんは幸いにも写真教室に通い、様々なアドバイスや批評を受けて写真をやってきたということ
で普通の方とは少し違うかも知れませんね。

最初に脳と意識というものを書きましたが、これがひどく乖離する場合、非常に病的な事態に発展する
場合があります。これは心理学でいうところの認知的不協和理論なんですが、脳は常に正常に判断
するのですが、それを意識が抑圧するようなケースです。自己正当化の過剰な意識が、現実を素直に
認められずに意識が脳そのものと現実を攻撃してしまうんですね。これを韓国用語では火病といいま
す。とにかく脳に大変なストレスがかかりますので実際に脳や身体を傷つけてしまうようです。

写真を趣味としている方々にとって、写真とは芸術であり表現であると考えている人は多いでしょう。
それを信じて疑わないし規定の事実であると思っているかもしれません。
しかし写真の歴史に於いては写真とは記録であるというのが大部分なんですね。記録で記念で報道
であるというような。写真が芸術であるというのは無論大昔からありましたがあくまでも傍流でした。
せいぜい表現的なことをしていたのは広告商業写真の分野ですか。
それを大々的に写真は芸術であるとして宣伝しだしたのは、フィルム時代のフィルム企業、カラー写真
製造会社やカメラ会社であるわけです。多くの人により多くの写真を商業的に消費者として使ってもら
うために始めたことなんです。とくに日本ではそれが大々的に行われました。
おそらくS9000さんの写真教室の講師の方もその影響を受けた世代だろうと思います。

広告写真なんかの最前線では若い実力がモノをいう世界なのですが、普通の人達が趣味で写真を
芸術という場合は、これは時代的にこなれた芸術論を使います。それが大体は日本画なんですね。
花鳥風月の風景世界観です。そしてそれが写真撮影としてやっていく儀式のようなものとして、多分
神道世界に通じる世界観を持つようになるんじゃないかなって感じてます。
ですから写真芸術として写真趣味をやっておられる方の大部分は、様式として日本画、気分として
精神的な静謐神道というようなことになるのじゃないでしょうか。
これらは極めて日本的なんですが、S9000さんの場合には広告業界の流れが大分はいりこんでいる
ようです。これは多分雑誌やテレビなどの媒体の影響が大きいのかもと考えます。それから漫画も
ですか。いや一番大きな影響力があるのは被写体である若い女性の持つ感性でしょうか。(^^ゞ

写真にいろんな価値観を見出すというか、正確には付加するというのが正しいのかも知れませんが、
私のようなオーソドックスでコンサーバティブな人間からすれば、そもそも写真に付加体をつけること
自体が、もしかすれば危険なのではなかろうか。という気がして危ぶんでいるのです。
写真とはあくまでも眼の記録で視神経の延長というところがあり、それは極めて中立中性であるべき
ものなのですが、それに種々の意識の産物である付加物を着けて濁らすのは大丈夫かな?という
気がするんですね。
そもそも眼とはレンズでカメラなんですが、画像を作り上げるのはあくまでも脳内です。その画像脳は
正確な記録を作り上げるのが仕事であるわけですが、そこに意識が入り込んで自己正当化的な画像
に変えるというのは、これは場合によっては脳と意識の衝突が起きる可能性があるんじゃないでしょう
か。

美意識とか芸術とか表現というのは絵画としてはオーケーですね。しかし写真でそれをやるのはどう
かな?っていう気がしてます。絵画の場合は手を使います。そしてゼロから描き始めます。しかし写真
は脳内の画像と密接な繋がりのある既存画像を、それを改変するわけですね。これは何もPCの画像
処理のことを言っているわけではなく、撮影の時点から意識的な改変が行われていることを危ぶむ
わけですね。
しかしまあ、この写真画像もカメラがしょぼい時代であればそうは問題とはなりませんでした。
ところが写真画像が高度化して最近のような超高画素高画質の時代、それもフィルム大判カメラ並の
画像がぽんぽと撮れる時代です。
ですからこれからのデジタル時代、あまりにも高度化してしまったわけでして、そういう時代に於いても
従来のような考えを続けてやっていたのでは、それこそ脳と意識の乖離現象、認知的不協和が起きて
しまうんじゃないかと思うのです。分かりやすく言えば、写真をすることで脳内のニューロンをぐちゃぐ
ちゃにしてしまうことになりはしないか。ということです。

写真がデシタル化してからその膨大な消費量というのは最早天文学的です。そして年々写真は高性
能になっているんですね。私のことを言えば大分前からカメラは画素数の低いカメラと古いレンズを
使っていました。それで最近になって新しい機材をちょっと導入したんですけど、そのあまりにもの性能
に驚いているというか、こんなんじゃいけないんじゃないかな?って思い始めているわけです。
私が古い機材に傾向しだしたのは宗教で言えば仏教的な諦観ですかね。カメラや写真は、そこそこで
良いんじゃない?っていう。神道的な見栄を張るなんてのはもうとっくにないですし、こつこつと自分の
足跡の記録記念の写真で十分でしょ。という悟りとまでは行かなないものの分を知るということでした。
だいたいもう写真を撮りたいという欲望は希薄です。写真は撮ってもいいし撮らなくてもいいしで。

そういう私の眼からみると、写真を撮り続けるという、続けたいという、そういう抑えがたい衝動は既に
理解し難いものになってしまっています。写真の深沼から両足とも抜け出たのかな。という爽やかな?
感じですかね。(^^ゞ もはやカメラは私にとっては運動の為の散歩犬ならぬ散歩カメラ以上のものでは
ないのですが、もしかすればこれが本当の正常な写真感覚ではないですか?
現役で写真撮影にどっぷりとハマっているS9000さんは、私から見れば眩しすぎるというか光り輝いて
いるわけなんですが、もしもこれからちょっと飽きたかなと思うことがあれば、私の書いたものを少しは
思い出してくれれば幸いかなと思ってます。

こんなのがありました。玉ボケ専用レンズ?(^^ゞ
Kistar the other side第19回 Kistarで玉ボケ鑑賞
http://kinoshita-optical.com/kistar/1308

玉ボケを見るには光学ファインダーではなくて、ライブビューのほうが良くはないですか。
私もキヤノンは色々と持っているのですが皆古いものばかりで、ライブビューがよくできるカメラは70D
と7Dしかありません。ライブビュー撮影が安全ですので可能な限りそうしているのですがやはりAFは
光学ファインダーに比べれば遅いですね。しかし記録写真しか撮らない私には十分な性能です。
最近タムロンのレンズを入れたのですが70DのライブビューAFが少し速く感じました。やはり新しい
レンズならば合うのかと。

追伸
宗教の死生観というのは私にはあまり良く理解できないのです。人には宗教を必要とするタイプと
あまり必要とはしないタイプの人がいて、たぶん私は必要としない人間のように感じています。
私の考える宗教は宗教哲学的な観点からのようです。そういうのは昔から関心があって色々と読書
を積んできたと思います。
被写体としての宗教は施設の神社を散策するのは好きです。古墳というのも被写体としてありますね。
怪奇ホラー映画では神道世界がモチーフになるんですか。なるほど参考になります。
たぶんね、タイムマシンがあったとして、日本の歴史をトラベルできるとして、私が理解し共感できる
のは仏教伝来以降の時代だろうと思ってます。それ以前の時代はまさに古代の時代ですので、そう
簡単には分かるというものではなさそうですね。
最近はとみに古墳を巡っています。香川の歴史は古いのでけっこう各地に立派な古墳があります。
時代はめぐり回帰するというのがあります。巨大なサイクルは2000年毎に起き、現在は新しい時代の
新古代の時代が始まろうとしているそうです。
そういう意味では再び神道というものが脚光を浴びてきてもおかしくはないですね。もしかして神道
世界を写真世界に取り入れてそれを新感覚で表現できるとすれば、それは写真のニューウェーブに
なるかもしれませんよ。
ところで私のクサナギというネーム。これは草薙の剣から来ています。この剣は銅剣ではなく鋼の剣
です。ですから日本武尊が野火に遭った時、草が切れたのです。(銅剣では無理です)
デジタル時代のカメラということでこのネームにしたんですね。スナップの草彅剛とはなんの関係も
ありません。(^^ゞ 私もけっこう日本神話が好きなんです。

4   S9000   2019/12/14 22:22

こんばんは。今回は本人認証が楽ですね(^_-)-☆その理由は後程。
 宗教と哲学は、どちらも人生の原理を対象とするので、分けて考える必要はないです。他者に広めたければ宗教になるし、自分で整理できて満足できればそれが哲学。乱暴に言えばそんなかんじ。
 意識と脳の関係性は、また臨死体験話になりますが、完全に脳が停止している状態で対外離脱型の臨死体験により、その間に起こったことを正確に記憶していた事例が報告され、意識は脳内になく、脳は意識を感知する、目や耳と同じような器官にすぎないのだという仮説が生じています。その事例というのが、脳医学者自身が患者として体験したものなのだそうで。
 これは私の解釈ですが、睡眠その他で身体としての脳だけを休めても、意識のほうは一向休まらない、という種類の疲労があると思います。おそらく金縛りとか、幽体離脱感というのはそういうときに起きるもので、心霊的なものではないのでしょう。(起きれば怖いが)
 憑依型俳優というのがあって、人格を入れ替えて演技をするような俳優は、人格や意識の障害を起こしやすいのだそうです。最近、薬物で逮捕されて話題になったSさんはそちらの方面かと。
 写真、映像でそのような傾向が生じるかどうかは知りませんが、一度、ゴルゴ13で少しそれに近いような人格障害が描かれたと記憶しています。ファインダー、モニターを通さないと外界を感知できない、男性としても機能しない、という人物の話でした。

5   S9000   2019/12/14 22:58

 ところで、写真は芸術か記録か、ということについては私は写真は写真だと思っています。後世に残す価値があると判断されるものが芸術なのだろう、と。
 撮影しているときに、「これは芸術だ!」「芸術写真を撮るぞ!」と念じている人はいるのでしょうか。たぶん、本当の芸術の写真は撮るものじゃなくて、「降りてくる」もののように思います。
 想像どころか空想ですよ、そういう写真は撮ったことないので。
 しかし、被写体の女性が、「これが私とは信じられない、どうしてこんないい映りになるのだろう」と喜んでくださるときは、撮影者のほうではなく、被写体のほうに「降りてくる」ものがあったのだと思います。撮影者である私はその何かに吸い寄せられただけで。
 ゲージツという言葉は粗製乱用されるため、えてして何か新しいものがこれゲージツだ、ということで無茶ぶりな作品を見せつけられることがあります。本当に新しい芸術もありますが、その人の脳内だけのゲージツは、淘汰されて消えていくのでしょう。
 
 さて、今回、kusanagiさんの本人認証がたいへん楽だったのは、ご本人に特有の傾向、「敗北感を味わっておられるときは雄弁になる」が見られるからです。
 馬鹿にするな、なめるな、なんて思わないでくださいよ。また、第三者の方々もそれで義憤にかられたりしないようにお願いします。
 もちろんこの「敗北感」は、私や特定のだれかに向けられたもの、ではなく、何か、絶対に乗り越えられないような障壁、人生における絶対的な限界というものを探すのが楽しいということじゃないでしょうか。
 リアル世界でそのようなタイプに出会ったことも複数回あり、お世話(介護といってもいい)したことがあります。写真趣味に限らず、趣味で一番楽しいのは、人間観察と人間交流のように思います。それを前面に押し出すとよくないことが起こりますが。
 オフ会がうらやましいなと思うのは、ネット上でのつきあいの方で、リアルに遭遇して、想像したとおりの方だと確認できたり、いや違っていたとびっくりしたりできることです。写真以外の趣味で、そういう経験をして楽しめたので、写真でも体験したいものですね。ふふふふ。

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