135mmレンズ 作例

これぞ男の花道言うことなし ~老人写真事情・年賀状編~

これぞ男の花道言うことなし ~老人写真事情・年賀状編~

 夫婦で写真趣味やっていると、届く年賀状の半数は写真友達からとなりまして、それを眺めるのも正月の楽しみです。    前回申し上げた「サロン的写真趣味」の人々の動向の続き。  全部が全部、年賀状由来の情報ではないし、私の主観です。オタクは主観と妄想でできているのだよ。くけけけけけけけ。   ・サロン的写真趣味人は、ネットよりリアル、という傾向 ・全般にプリントが苦手種目であるが、それなりに頑張っている ・コロナ対策でプリントの持ち寄りをやめてデータで投影する方式にすると、作例が見違えるようなケースが多かった、だがそこから転じてのリモート会合は、誰も望まなかった ・プリントの不調を指摘されると「プリント店がヘボだから」という言い訳も見られるが、お店の廉価プリントより数万円のプリンターと光沢紙の組み合わせのほうがクオリティは高いと思われる ・しかし老人は例えばキヤノンのPROシリーズプリンターを使っても、珍妙な結果を吐き出す「秘密の逆技法」を持っている ・無理なシャープネス、無理な増感が残念となる場合もある ・高齢者に限らず、年賀状卒業、というパターンも見られるが、サロン系写真趣味人にとって写真年賀状は重要な年中行事であり続けている ・その年の作例を多数並べるより、自信作を押し出したもののほうが、たとえその一枚に共感できなかったとしても、潔さを感じて頭が下がる ・年賀状での印刷クオリティに限界を感じているのか、年賀状は継続しているが写真年賀状はやめた人も見られる ・その年の干支にちなんだものを丁寧に探して撮影し、おっと思わせるものもある (かといっていのしし年に本物のいのししを撮影しにいくのはやめましょう) ・展示の案内が年賀状の主文であるのは「やめんかヂヂィ」 (もちろん訪問はして真心こめてきちんと悪評を記して帰る。オカヤマケンジンの一年は罵詈雑言に終始するものである。) ・老人はみな律儀であり、1月1日に配達されるよう投函している人が大半である、日本郵政は彼らに感謝すべきであろう ・この世で一番写真がうまいのは「理系の高齢者女性」ではないかと思う瞬間がある、もちろんすべてがそうということではなく、よい面が凝縮された一枚が、ということでありましょう ・終活的観点からの写真整理も始めている様子だが、最近は写真供養もあちこちで行われている。 ・個人的には、被写体に写真を提供した後は、自分が撮った写真は別に残す必要は感じていない。 ・定住していれば、定点写真は誰かに引き継ぎたい。たとえば故郷の山からの眺めは、5年、10年単位で残しておくと、おもしろい。華々しく立ち上がった工場とその社宅が、やがて古びて廃墟となっていくのは悲しくもあるがそれが人の世である。 ・とはいえ、国土地理院の事業、また学校や自治体に依頼された民間航空測量事業者等が空撮を頻繁にしており、そちらで目的は果たされている。写真としては、いわゆる斜め写真のほうが山からの俯瞰景色に近いので共感できる。 ・野鳥の棲息記録として必要なものは野鳥の会支部に報告するが、しばしば野鳥の会には会員遺族から整理されていない膨大な写真が寄せられ、日付や場所が分からないため資料価値を見出せないという話も聞くため、そのあたりは家族とも共有しておく必要がある。 ・老人に限らず当方に届いた年賀状は長期保存している。最近は枚数が減ってきたため、それほど場所をとらない。 ・写真撮影は知力も体力もほどよく使うので、無茶をしなければ健康寿命の増進に有益と思われる。 ・少なくとも、知り合いの「サロン系写真趣味人」たる老人たちは、同じ年齢層の非写真人に比べて行動の制約が少ない。 ・中には「もうカメラを持って出歩くことが困難になった」との連絡もある、が、それでも散歩型の写真撮影に支障はない様子である ・軽量を求めて機種転換する人は見られない、ぢーさんがでかいレンズとでかいカメラをぶら下げて歩き回っている。 ・むかしD3というカメラがあったが、これは「ぢーさん」と読むのが正しく、また世間的な礼儀作法にもかなっている。 ・90代だが定期的に丘陵地帯の一定範囲を踏破して撮影する人もいる。 ・ただしさすがに同世代の農業人には到底かなわない。その農業人の中にも写真趣味人はいるが、彼らはまだ現役なのでサロンには出てこない。 ・サロン系写真老人が、農村を撮影に訪れて、現役農業人たる老人に、撮影上の注文をつけて怒鳴り散らされるシーンも目撃している。  いろいろありますが、それも人生、それでこそ人生、でありましょう。信じる者は救われる。  ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんかちゃんかちゃんかちゃん!

爽やか美人百景 ~若者写真事情~

爽やか美人百景 ~若者写真事情~

 とある忘年会で、20代の男女に、どのような写真を撮っているか、またどのように保存しているか尋ねてみました。 ・会話に参加した20代は男子1名、女子3名 ・保有している撮影機材は全員スマートフォンのみで、デジカメ、フィルムカメラ(使い捨て含む)、チェキの使用者はいなかった ・撮影は配偶者や彼氏彼女との記念写真、旅先の風景、趣味の作品の撮影など ・保存はスマートフォン内部で済ませているが、ごくまれにプリントすることもある ・プリントはコンビニ等を利用 ・・・・これらの傾向はスマホ撮影者のプリント動向調査とおおむね似通っている様子。https://mmdlabo.jp/investigation/detail_1939.html ・チェキ写真は全員が認識しており、うち女子2名が「かわいいので好き」との感想 ・チェキ機材がなくともコンビニでスマホ撮影の写真をチェキ風にプリントするサービスがあるとのこと ・スマホ撮影写真と、大口径レンズ+デジタル一眼レフで撮影した写真とを見せたところ、後者について、1名の20代女子から「写真がキレイ」との感想あり。具体的にどうキレイと感じるのか尋ねたところ、「写真館で撮影した写真のようだから」との感想あり。 ・この20代女子は、「キレイな写真」として「写真館で撮影する写真」をイメージしているが、彼女はいわゆるインスタ女子であり、写真趣味で言うところの「ボケフォト」や「ポートレート写真」には親和性を感じるとのこと(ただしそうした用語を使って いるわけではない) ・また、彼女は、節目節目で写真館(スタジオ撮影とは限らない)で撮影してもらってきた経歴があること、またかなりの美貌の持ち主で、写真を撮られることに抵抗がなく、また自らの美意識の表現としてセルフポートレート撮影にも関心が高い様子 ・少しだけ、彼女のインスタを見せてもらったが、なかなかに魅力的だった ・フォトブックを注文した経験は全員なし。女子3名のうち2名は新婚だが、ウエディングフォトのサービスとしてもフォトブックを利用しなかった様子。 ・20代男子も趣味は多様で、料理から「オリジナルの皮靴作り」まで、その記録のためスマホ撮影する機会は多いとのこと ・この20代男女4名のうち、趣味レベルで写真に関心があるのはインスタ女子の1名と思われるが、残りの3名もスマホ撮影機会は多い。 ・インスタ女子以外の女子1名が、地域フォトコンの部門賞に入賞した経験があるとのこと。それは撮影者としてでなく被写体として、だが、地域振興のフォトコンはそのへんが寛大であり「未発表で応募者本人が撮影した写真であること」という制約はないが、それ以前に、ある意味、20代女子が「写真は撮影者ではなく被写体人物のモノ」という考えを持っていることとも思えた ・・・・「チェキ写真がかわいい」というのは、やはり20代女子である私の娘も、自分ちのリビングに家族写真をチェキ風にプリントしてたくさんディスプレイしているので、理解できます。余白にメモやメッセージが書き込めるのもよさげです。なお、私の娘もチェキ機材は保有しておらず、スマホ撮影を「チェキ風にプリント」しているもので、専用アプリでプリント注文し、最寄りの店舗で受け取るとのこと。 ・・・・フォトブックは、コロナにより市場拡大が失速した傾向が見られ、例えばキヤノンは今年、いったん撤退しています。キヤノンは2024年中を目処に新サービス開始との意向ではありますが、「努めてまいります」との表現であり、再開を保証するものではありません。同社の主力商品「フォトジュエルS」は私も利用していますが、写真印刷のクォリティに文句はないものの、飾り文字やレイアウト、背景などが20世紀的で、このあたりが競争力の低下につながったのかもしれません。 https://cweb.canon.jp/photojewel-s/ ・・・・私は残念ながら今年は「キレイな女子」写真をあまり撮れませんでしたが、春先までの名所・写真映えスポットで観察しているかぎり、インスタ的撮影は一段落し、TiKTok系の撮影を見かけることが多く感じました。しかし、女性の「キレイに撮りたい、撮ってほしい」という願望が衰えるはずもなく、「被写体であり撮影者でもありたい」「ワタシが撮るキレイなワタシ」というセルフポートレートジャンルは確固たるもののようです。 ・・・・デジタルネイティブ世代もぼちぼち結婚して子供を持つ年齢となってきており、彼ら彼女らは家族の写真共有サービス「みてね」をおおいに活用しています。このサービスはMixi社のメガヒット商品であるが、自らの子育て期の記憶が薄れつつある親世代(つまり私あたり)と子供の写真を共有することで子育て情報、助言(あるいは小言、説教かもな)も共有できています。新規子育て世代は、月齢なりの発達発育に不安を持ちがちだが、「みてね」で共有されている現在の子供写真は、その子たちが大人になって子育てする側になるとき、貴重な記録資料となるかもしれません。我が家の場合、子供の撮影は、20世紀末に生まれた娘は幼稚園まではフィルム・デジタル混成で、21世紀になって生まれた息子は、デジタルのみで写真を残してますが、とても月齢ごとの記録をカバーできるほどの写真は残っていません。もちろん、「みてね」が物理的にも商業的にも、これから先20年、現在のフォト共有サービスを継続できるかどうかは未知数でありますが。 ・・・・それにしても、写真関係の統計を検索すると、しばしば「デジタルほどクリアーには撮影できないフィルム写真がなぜか人気復活」という趣旨の記述によく出くわします。2005年頃の記憶では「フィルムほどクリアーには撮影できないデジタルだが、利便性から人気沸騰」というような表現が目立っていたと思います。2000年代は、写真館で七五三撮影をお願いしても、デジカメは構図確認のための補助手段であり、供給される写真にネガフィルムが添えられていたものです。老舗の子供写真館スタジオアリスは、2006年まではフィルムであったとの情報もあります。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14186112664    上記は個人の顧客による推測ですが、スタジオアリスがフィルムからデジタルに移行するにあたっては壮大な中央制御システムを構築したようで、子供写真と顧客情報が高度な個人情報であることに鑑みて、セキュリティも確保できる独自システムを2005年度から順次導入した、との報道も残っており、上記の個人顧客の情報と時系列はほぼ一致します。 https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0509/09/news061.html   なお、スタジオアリスは出自がフジフィルムグループ企業との合弁であり、その後、フジフィルムとの事業提携も行って現在に至っているため、撮影機材にFinePix S3ProあるいはS5Proが使用されていたとの情報があります。    デジタルの普及とそれに伴うアナログの衰退、そして反動のようにアナログが復活してくる傾向は、音楽メディアでも同様ですが、デジタル消費が時短と省スペースをもたらすことで生じた時間と空間をアナログ消費にあてる、つまり時代に応じた余暇消費の最適化というもので、最近言われる「モノ消費→コト消費→トキ消費」も新規のものではなく、人類はずっとそれを繰り返してきたものだと思います。たとえば最初期の写真は、相当な時間がかるし描写にも限界はあっただろうけれども、絵画よりは格段に早く、精密で忠実な表現(再現)を可能にしたと思われます。かつて絵画は、今日の記念写真の機能を果たしていたと思うのですが、写真にその立場を争奪されることで抽象画や超常画、戯画などの別方向に進み、かえって表現として多角化したように思えます。  写真のフィルムに対して、音楽のレコードはスクラッチなどのDJ用途で新しい表現に活用されていますが、一方で「使用していると音質が劣化する」というレコード特有の要素も「時間を楽しむメディア」と、むしろポジティブにとらえられる可能性があります。フィルム写真は現像焼き付けに時間はかかるし時間とともに品質は劣化していくものですが、それもまた「時間を楽しむ」ことでもあるのです。 ・・・・忘年会で4名と話をしただけで「若者の写真事情」を断定することはできませんが、大がかりな意識調査結果ではどうでしょうか。 https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000346.000044800.html  20代以下の「カメラ単体の保有率」は50%を切っていますが、スマホもかなり高性能なカメラだと考えると、現在の20代はほぼ100%カメラを保有していると言えるでしょう。この調査において一人の10代男性がカメラを保有している理由を「彼女 を綺麗に撮りたいから」としているのが印象的です。  そもそもカメラはその歴史の大部分、「世帯普及率」が普及の指標であったわけですが、1980年代に飽和状態に達したカメラの世帯普及率の数値に2020年代のスマホは達しているわけで、スマホをカメラに含めるなら、2020年代のカメラ世帯普及率は100%に近 づいていると考えられます。 https://tokaigakuin-u.repo.nii.ac.jp/records/2495  上記「写真コミュニケーションの社会史」は論文ではありますが、写真趣味の人間にとっては楽しい読み物です。 「若い女性にとって写真撮影や写真そのもののハンドリングは日常的な行動パターンの一つとなり、写真は人との関係の中で消費するもの」 「高齢男性にとっての写真は道具立てにも注意を払うことが必要な特別な行為であり、写真は消費するものではなく精魂込めて作り上げ鑑賞するもの」といった解析は、多分にステレオタイプ的ではあるものの、若い女性にとって写真はより日常のものとなり、高齢者が各種オタク化していくことを予測した点では、概ね当を得たものと言えそうです。  カメラ単体での世帯普及率は低下しても、写真撮影機材としての世帯普及率は飽和に達し、個人の撮影枚数も、1980年代とは比較にならない数字となっていると思われます。  ちょっと乱暴な言い方をすれば、1980年代の標準的なアマチュアカメラマンよりも、2020年代のスマホ女子のほうが、総合的な写真技能は優れている可能性もありえます。感じ方も考え方も人それぞれですが、写真をコミュニケーションのツールとして自由自在に活用する若い人たちは、まぶしく、うらやましくも思えるものです。

爽やか美人百景・タイムリープ

爽やか美人百景・タイムリープ

 若いボランティアさん。承諾いただくのに会話したところでは、おそらく高校生だったと思います。4年前なので、今は大学生か社会人。    この前の「美人百景・時間を超える」で並べた超光速通信技術は、実現すれば未来や過去への通信が可能になる、とも言われています。現在の科学ではそのような技術も、因果律との矛盾解消もできないのであくまでファンタジーです。  ファンタジーの世界で、時間の跳躍をもう少し現実的に描いたものが「タイムリープ」と呼ばれる、人間ではなく人間の意識が過去や未来に飛ぶ、という流法。「時をかける少女」で、主人公が夢と現実の区別がつかなくなるシーンがそれです。 (「時をかける少女」はタイムトラベルとタイムリープ両方を扱っている)  もちろんそんなことを可能にする技術は存在しませんが、明晰夢や臨死体験ではそれに近い体験ができるとも言われています。  明晰夢=夢の中でこれは夢だとわかってみている夢、は体験したことがありませんが、それに近い経験はありまして、過去の経験がクリアーに再現されたり、近い将来起こるであろう仕事上の大きな出来事などが妙にリアルに投影されるなどしています。    過去はともかく、未来のほうは正夢になるまでには至らず、想定している最悪あるいは最善のケースが夢に出てきた、つまり恐れや期待が映像化されたのだという理解をしています。  「時をかける少女」に類した、主人公がタイムリープを行う内容の少年少女小説は他にもあり、なぜかそれらは少女が行うことが多いです。そのほうがファンタジーとして都合がよいからだと思いますが、タイムリープはタイムトラベルに比べて、「証拠を残さないために何も持っていけない(着衣もダメという設定すらある)」とか「過去や未来の自分に遭遇すると矛盾が生じて存在が危うくなる」という設定上の問題をクリアーできる、便利な手法でもあります。  技術上の予言ではなく、ファンタジーとしての予言では、世の中で的中したと言われるものはすべて「そのように解釈された」のであって、的中したと断定できる予言はまだ登場していませんが、予言というより未来視の能力を説明するのに、このタイムリープが使われるケースがあります。  タイムリープ方式で未来を観測するファンタジーの文法は、リープする本人が生きている間の時間を越えては未来にも過去にも行けないという制限を設けること、また、自分あるいは近しい人の将来的な不幸を知ってしまって打ちのめされる、といったものがあります。そうした未来を変えるために登場人物が奮闘するのもまたお約束で、「未来は変えることができる」という希望的な演出をするわけですが、変えてしまったら自分が体験した未来はどうだったのか、本当に未来は変わったのか、という葛藤を残すこともよくあります。  「体験した未来が消失してしまう」ことは、パラレルワールド概念で説明されることも多いですが、こちらは「大人の都合」として処理されることが多いです。変わってしまった未来に対して、変わらなかった未来から救援を求められるストーリーが映画「フィラデルフィアエクスペリメント2」ですが、1に比べて暗い内容になってしまい、あまり評価は高くありません。  いずれにせよ、そろそろ時間跳躍系の物語パターンは出尽くした気配もあります。

爽やか美人百景 ~美しさは強さである~

爽やか美人百景 ~美しさは強さである~

 藤公園を楽しむ美人さん。  マツダのロータリーレーシングカーがルマン24時間レースで少しずつ前進していた1980年代中盤、地元フランスの愛好家たちが「走行中のエンジン音がノイズでなくサウンドとなった」と評価したそうです。しかし、「サウンドになったのはたいしたものだが、まだまだ上がある。ミュージックを目指さなければ。」とも。  地元の熱心な愛好家が言う「ミュージックをかなでるレーシングカー」というのは、1970年代にルマン3連勝をかざった、マトラMS670のそれを指すとのこと。3リットルV型12気筒という繊細なエンジンを積んだクルマで、2023年現在、愛好家が整備復調させた個体を走らせる動画、また70年代の実写動画などがネットで豊富に鑑賞できまして、なるほどミュージックと言われるだけあって、美しいエキゾーストノートです。  美しさは強さである、ということで、エキゾーストノートを評価されるようになったマツダロータリーは、757,767,787,787Bと進化していくうちにルマン上位入賞を重ね、ついには1991年、総合優勝を達成します。  走行中のエキゾーストノートを聞いて、車両の好不調を判断することは、メカニックマンの技量を示す要素でもあるようですが、F1レースを描いた村上もとか氏の漫画「赤いペガサス」で、(一時的に)視力を喪失したメカニックマンが、走行音を聞くだけで判断して、的確な指示を出す様子が描かれてます。  そういうことは私には無理ですが、「徹夜あけ」「長時間運転の直後」などで、疲労がたまっているとき、仕事や家庭で使う各種機器の動作音から、その不調に気づくことがあります。疲労でにぶくなる感覚と、疲労によりむしろ鋭敏になる感覚・・・つまり機器の何かの不調が原因である不協和音のような要素が、普段より強い不快感をもたらすのだろう、と理解しています。  そのあたりを描いたのが、1977年のアニメ「アローエンブレム グランプリの鷹」。サファリラリーの終盤、濃霧でほとんどのドライバーが走行を断念する中、「道が見える気がする」と主人公は走行を続けます。劇中のナレーションで「極度の疲労がドライバーとしての感覚を鋭敏に研ぎ澄ましていた」と解説されていました。  視覚で判断しているのではなく、走行音の反響などで周囲の状況を判断する、コウモリのような感覚が付加されたのかもしれません。  この「グランプリの鷹」では、フィクションながら日本車(グループ5規格の市販車ベースのマシン)が1977年のルマンで総合優勝をかざるシーンが描かれています。  現実のマツダ車は、その2年後にルマンに挑戦するも、予選落ちに終わり、総合優勝を遂げるのはその12年後、とドラマチックではあるのですが、組織のゴタゴタも多かったようで、その点でもドラマであった様子。