無題
Exif情報
メーカー名 SONY
機種名 α7R II
ソフトウェア Capture One 9 Windows
レンズ
焦点距離 50mm
露出制御モード ノーマルプログラム
シャッタースピード 1/125sec.
絞り値 F5.6
露出補正値 -0.3
測光モード 分割測光
ISO感度 100
ホワイトバランス
フラッシュ なし
サイズ 6000x4002 (3,668KB)
撮影日時 2015-01-16 00:57:46 +0900

1   kusanagi   2020/4/29 22:18

読者さん、もうこの掲示板は既に有能な若い人材を失っていますね。始まりは去年の初めからで
しょうか。以来、実力のある投稿者はどんどんと退出しております。もしかするとこの掲示板の賞味
期限は切れつつあるのかもしれませんが、というよりも本当は、デジタル写真の世界自体が活性を
失っていつつあるのだと私は考えています。

その大きな原因のひとつとして考えられるのは、粗雑な私の考えなのですが超高画素カメラの出現
ではないかという気がしているのです。この超高画素カメラとはフルサイズ3000~4000万画素オー
バーのカメラのことを一般的に指すのだろうと思うのですが、こういうカメラは従来はシグマだけだった
のが、現在ではソニー、ニコン、キヤノン等々、大幅に増加をみせています。
この超高画素カメラというのは、実際に使ってみるとユーザーに大きな精神的労力的な負担を強いる
ものなのです。要するにフレンドリーなカメラではないのですね。それだけでなく、そういうカメラの出現
自体が、アマチュア写真界全体に重苦しい雰囲気を漂わせているところがあるのではと感じています。
これはすなわち、写真の画像問題なのあって、つまりピクチャーでありグラフィックという写真の根幹と
いうことになります。写真がイコール画像論であり、写真はそれだけだ、と捉えているうちは解決せず
出口を塞がれたままになるのかなと思います。

私の場合、機材としてのカメラなどは好きなのですが、写真自体や、画像処理に関してはあまり関心を
おかないないところがあります。といいますか、大容量データのデジタル写真の大変さというものは
既にフィルムスキャナ時代からさんざん苦労をしているのでよく知っているからです。そのフィルム時代
の大変さが分っていたので、データ量として軽快なデジタル写真がでた時、これぞ現代の写真かも
知れないと万々歳をしたわけですが、それが再び超高画素カメラの出現で元の木阿弥になりつつある
ということなんですね。いえそれどころかフィルム時代よりも始末が悪いことに超高画素デジタルカメラ
は膨大なショットを稼ぐことができますね。フィルム時代なんかせいぜい数十ショットでしたから。

私が本当に超高画素カメラへの危機感を感じたのは数年前に、シグマdpクワトロを買った契機にほぼ
シグマをメインにして1・2年頑張った時の苦い記憶に基づいています。当時dpクワトロと二連装したDP
ミリルを撮影に使用していました。シグマながら多量のショットを稼ぐことができました。
撮影そのものはなんら問題はないわけですが、その後のモニターでのビューや現像に多大なストレス
を感じていたということなんです。それ以来、シグマのカメラはほとんど使っていません。

そんなわけで超高画素カメラがこんなふうに一般的になってしまうと、それを上手く処理できるユー
ザーはほとんど居なくなるということではありませんか。使えているのは、ごく一部の仕事としてのプロ
とか、時間に余裕のある高齢のアマチュアユーザーだけですね。それで若いユーザーはデジタル写真
そのものから遠ざかって行ってしまいます。
しかし時計の針を元に戻すことができないように、カメラの超高画素化は止めることが出来なくなって
います。画素数が増えるだけでなく最近は画質も向上しているので、ますます大容量データの写真に
なってますね。

私が考えるカメラとは、画素数て言えば1000~2000万画素のカメラです。そこら辺りが使いよいカメラ
ということになり、2000万画素を超えるとちょっと厳しくなり、3000万画素だと耐えられるギリギリであっ
て、それ以上の超高画素カメラだと、もう自分的には、お手上げというところでしょうか。
今回ソニーの4000万画素のカメラを手にしましたが、これはあくまでそういう事実を再確認する為に
導入したわけであって、このカメラをこれからメインに使っていこうというものてはありません。
ちなみにこのソニー、ピークの画質を発揮しようとすれば大体20数MBになり、それはシグマクワトロH
と同じ位のデータ量になるんですね。すでにその容量ではこの掲示板にはアップできません。それ
以下の容量では正しく画質を伝えることのてきないものになってしまいます。
こういう超高画素カメラを気軽に撮影したり投稿することができなくなったデジタル写真なんですが、
そうなれば当然に写真の掲示板も下火になるというわけです。これら再び写真掲示板が盛んになることは、現在の掲示板の仕組みでは、もはやないだろうと私は考えています。

殆どの皆さんはカメラの画素数やデータ量で、自分の写真が立ちゆかなくなるということを想像した
ことはないでしょう。そんなの嘘っぱちだという人が殆どだろうと思います。自分は最高級で最前線の
機材を使う能力かあると信じて疑わないのではありませんか。
しかし私が言うのは、つまり人間が処理できる情報量やデータ量には限界があるということなんです。
超高画素カメラだけを使ってこの掲示板を去られた方々の写真を見ていると、画像処理用のPC機材を
使われていただろうとことは想像がつきました。画像処理用PCは自作するか改造するか、PCショップ
で作って貰うレベルのものになるわけですが、普通に売られているPCとは違います。そういうPCで
超高画素カメラの画像を見るのが最高なのですが、同時にユーザーのストレスというものも最大になる
ということなんですね。このことはよく覚えておく必要があります。

こういう私の考えでは、現在の最新の主力カメラというのはあくまでも超高画素高画質のカメラてある
わけですから、そういうカメラはプロ以外は使えないということになり、もし使えばユーザーの生活やお
仕事に支障がでるということにします。そうであれば若くて写真に意欲のあるユーザーは写真そのもの
から遠ざかってしまいますよね。
とにかくこういう厳しい現実がデジタル写真の世界でいま起きていることなのではないでしょうか。
超高画素カメラを使っているというか所持している人はこの掲示板にもまだいます。しかし本気で使っ
たような形跡は見当たりません。超高画素カメラをこれだけで行くと決めて挑戦された方は何名かおら
れましたが既に掲示板からは姿を消しておられます。
(超高画素カメラでもトリミング前提で撮影される場合、野鳥撮影とか昆虫撮影などは今回の話からは
除外します)

画像としての写真が頭打ちになるならば、写真はおしまいだと考える方が多いと思いますが、私の
場合は画像よりも写真に思考力というものを求めておりましたから、さほどのダメージは受けておりま
せん。写真はとにかく撮影が大切であり、撮影時の発見であり熟考であり思考を練るものだと以前から
考えておりましたから。
こういう場合は気楽なカメラで1000~2000万画素のカメラで十分であり、フルサイズでなくともAPSや
コンデジ・スマホですらOKなんです。もし超高画素カメラで撮影したところで、そのようなお気楽カメラ
で撮ったものと同様な扱いしかしません。撮影後のビューや現像など最小限度ですから。

この撮影による思考力の漸進というのは以前から感じていて、これは写真の副産物というものかも
知れませんが、撮影時には物事をよく見て観察して撮影しますね。それが習い性になって、仕事での
場合でもそのような思考力が発揮できるのではないかと考えているのです。とにかく現場主義というか
目前に今あるそのものをよく見てよく考えるっていうことです。これに尽きますね。
こういうのは仕事だけでなく社会問題においてもそういう力が働き、写真をする前には社会的関心が
なかった私ですが、写真をしだしてからにわかに関心が増してきました。やはり具体的にカメラという
道具を手にして現場で見るという習慣がつくといろんな方面への影響力というものがあるようです。

しかしこれは私の場合なのであって、もともと社会問題に関心がない人に、カメラを持ったからといって
そうなるというのではありません。おそらく多くの人は写真とは画像であり、その画像に深く耽溺する
ことが目的であってそれ以上のものはないのでしょう。
多分、私が写真と思考力、社会問題に結びつけて考えているのは、写真が黒白だけであった時代を
知っているからかもしれません。写真がカラー化して、文字通り絵というかピクチャーになってからは、
写真はイコール画像になってしまいましたから。
例えば今も写真は黒白しか撮れないとなると、写真をやりますか? たぶん9割の方は写真をやらなく
なるでしょう。しかし私は若い時に10年間それでやりましたから。これは今でも試すことができますね。
JPEGモノクロモードで撮影すればよいのですから。(^^ゞそれをせめて1年間はぶっとうでし続ければ、
写真での思考力は生まれるのではないかと思います。

写真を画像としてでなく思考として捉えると、写真掲示板に写真を投稿する必用性は大きく減じます。
自分の写真を他人に見せる必要もなくなり、画像処理の時間も節約でき、撮影のみに注力することが
できるからです。
いろいろとここ数日考えていたのですが、写真の撮影自体は続けていますし、その自分なりのテーマ
というか被写体も膨らみ続けています。時節柄県外撮影はしていないのですが、狭い香川県でも実は
膨大な被写体があることが発見できています。これは香川の独特な地形と歴史がもたらす特異性の
ようにも感じております。しかしそれと、写真から得られる自分の思考力とは異なります。撮影をしな
がら半分は、これからの時代をどう生きていくのかどのように自己実現を図っていくべきかを考えてい
るのですから。

写真は偶々偶然に居合わせたお寺の行事でした。ウイルス騒ぎがあり宣伝できないということで参加
者は僅かであり、ちょうど居合わせた私もありがたく参加することができました。(^^ゞ 灌頂儀式とでも
いうのでしょうか。キリスト教では洗礼に当たると思うのですが、地蔵尊に笹の枝で頭に水をかける
というものでした。こういう地蔵の周囲を水で囲んだものは他の寺にもあり(真言宗)、古くから仏事と
して行われているもののようです。
私の写真テーマは溜池と水関係ですが、こういうところにも水が使われていて意外な気がしました。

戻る