メーカー名 | Canon |
機種名 | EOS-1Ds Mark III |
ソフトウェア | Capture One 7 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 20mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/49sec. |
絞り値 | F2.3 |
露出補正値 | -0.3 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 400 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 2048x1365 (2,298KB) |
撮影日時 | 2020-08-24 01:59:12 +0900 |
この写真は、ブレにピントがずれてる、フレアがいっぱい、このカメラにはISO感度が高すぎ、レンズ
開放近いので収差が出まくり、という写真です。20年前のシグマ20ミリF1.8を使ってます。
しかしこの雰囲気こそ、私がこの場で暑さでけだるい中、感じた光景であるわけでどうしても投稿
せずにはいられなかった写真です。
最近の優れたカメラで高級なレンズを使ったところで、それがどうしたのか?という気持ちが増々
高まっています。カメラもレンズも古くていいかげんで良いのではないか。むしろそういう機材だから
こそ、自分の写真を撮る意欲というものが出で来るのではないかって考えてます。
逆説的ですけど、優れた機材は写真家を駄目にしてしまうのではないかと感じてます。
写真を撮ろうという意欲がなくなってくるのではないですか。それはどうしてでしょうか。答えは簡単
だと思います。優れた機材は写真家の感性を潰してしまうからでしょう。
写真には、いや写真に限らず物事には本音と建前があります。内面と外面と言ってもいいし、自分
に正直な心と、世の中を渡っていくための方便と言い換えてもいいです。
しかしその本音と建前が混同してめちゃくちゃになってしまうと写真は崩壊します。それどころか
下手をすると自分のこころそのものが無感覚になってしまうのではないですかね。
大体の人間の生き方考え方というのは間違いなく、受けてきた学校教育と今も受けているマスコミの
マインドコントロールで成り立っているでしょう。
ではその大本は?というと、もっと難しくなりますけどね。(^^ゞ
そういう社会力学や情報圧に押し潰されることのない自分の生まれ持った感性というもの。それを
表していくのが今の写真の役割という気がしています。
写真は自分の心を失わずに育てていくもの。もし写真を撮れなくなったら、それは建前が先行して
自分の本音を見失ったのかもしれませんね。もっとも建前だけで写真をやっていくことも出来ますが、
それは歪になります。結果としては写真を止めることよりもっと拗れて悪くなってしまう。
最新の優れた機材からは少し身を引く、というのは技術的視点ですがかなり有効です。人間は意思
や意欲だけでは出来かねるところがあり、そういう場合は物理的な技術的視点から変えていくという
のがかなり有効です。
今回の4点は、上の2点が古いシグマの単焦点レンズであり、下の2点が最新のタムロンの単焦点
レンズです。