1 kusanagi 2020/10/1 21:27 このレンズがタムロン35ミリf1.8手ブレ補正付きです。撮影カメラはAPS-Hサイズですのでフルサイズよりフレーミングされています。(APS-Cカメラよりは大きい)そして風景を撮るカメラでもないので色は浅くて単純です。なのでレンズでカバーする必要があります。なお、このレンズは古いカメラでもAFは合い、手ブレ補正も正常でした。
このレンズがタムロン35ミリf1.8手ブレ補正付きです。撮影カメラはAPS-Hサイズですのでフルサイズよりフレーミングされています。(APS-Cカメラよりは大きい)そして風景を撮るカメラでもないので色は浅くて単純です。なのでレンズでカバーする必要があります。なお、このレンズは古いカメラでもAFは合い、手ブレ補正も正常でした。
2 元気かね 2020/10/2 11:40 GGクン。
GGクン。
3 レンズの評価などは 2020/10/1 23:07 レンズ板でやったらどうなの?ご承知のようにここは主に風景をアップする板。常識あるXP愛好家なら、三角寺や被写体の説明機材を選んだ理由、撮った動機などなど。捨てハンもたくさん出没するが、的を得ているのも見逃さないことだ。
レンズ板でやったらどうなの?ご承知のようにここは主に風景をアップする板。常識あるXP愛好家なら、三角寺や被写体の説明機材を選んだ理由、撮った動機などなど。捨てハンもたくさん出没するが、的を得ているのも見逃さないことだ。
4 鎌倉M 2020/10/2 18:02 このカメラは、35mmが換算42mm位になるのですかね。この坊さんの像は、所々色が変わっていますが、人が撫でたためですかね。三角寺は第65番で、伊予最後の霊場ということですが、愛媛県には66番以降の霊場は無いということですか?
このカメラは、35mmが換算42mm位になるのですかね。この坊さんの像は、所々色が変わっていますが、人が撫でたためですかね。三角寺は第65番で、伊予最後の霊場ということですが、愛媛県には66番以降の霊場は無いということですか?
5 ご意見 2020/10/2 18:42 もうじきGGクンも卒寿だからなぁご臨終ショットもないのかも (^^ゞ
もうじきGGクンも卒寿だからなぁご臨終ショットもないのかも (^^ゞ
6 kusanagi 2020/10/2 21:03 人なで地蔵と言うわけでもないのでしょうが、このように高僧を模った銅像が寺社にはけっこうあって、皆さん撫でていきます。(^^四国霊場マップhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~mkoori/homepege/newpage100.htmlこんな感じで各県に番号が割り当てられていて、66番以降は香川県のエリアになります。非常に合理的で、巡礼がし易いようになっていますね。この四国霊場が出来たのは江戸時代、近代になってからと言われています。純粋な信仰の巡礼というより諸国漫遊の観光巡礼の要素が強いですかね。1番札所が徳島から始まるのも関西から船で来ると一番近いのが徳島だからです。とはいえ、江戸時代には全て歩きのお参りですので相当な覚悟が必要です。遍路途中で行き倒れた巡礼者も多数に上ったはずです。観光のようだけど実は命がけの巡礼であったはずです。当時の遍路道は今もところどころ残っていて歩くことができます。山道が多くて細い山路を1人鈴を鳴らしながら歩いて行く。日が暮れるとそれは心細かったでしょう。いつ行き倒れて死んでも構わないということで遍路装束は死出の白装束でした。中には村人に懇願されて堤防の人柱となった遍路人もいます。場合によっては死の一歩手前まで行くのが四国霊場であって、ある意味、巡礼者にとっては四国は死の国の入り口であったのかもしれませんね。
人なで地蔵と言うわけでもないのでしょうが、このように高僧を模った銅像が寺社にはけっこうあって、皆さん撫でていきます。(^^四国霊場マップhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~mkoori/homepege/newpage100.htmlこんな感じで各県に番号が割り当てられていて、66番以降は香川県のエリアになります。非常に合理的で、巡礼がし易いようになっていますね。この四国霊場が出来たのは江戸時代、近代になってからと言われています。純粋な信仰の巡礼というより諸国漫遊の観光巡礼の要素が強いですかね。1番札所が徳島から始まるのも関西から船で来ると一番近いのが徳島だからです。とはいえ、江戸時代には全て歩きのお参りですので相当な覚悟が必要です。遍路途中で行き倒れた巡礼者も多数に上ったはずです。観光のようだけど実は命がけの巡礼であったはずです。当時の遍路道は今もところどころ残っていて歩くことができます。山道が多くて細い山路を1人鈴を鳴らしながら歩いて行く。日が暮れるとそれは心細かったでしょう。いつ行き倒れて死んでも構わないということで遍路装束は死出の白装束でした。中には村人に懇願されて堤防の人柱となった遍路人もいます。場合によっては死の一歩手前まで行くのが四国霊場であって、ある意味、巡礼者にとっては四国は死の国の入り口であったのかもしれませんね。
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