無題
Exif情報
メーカー名 OLYMPUS IMAGING CORP.
機種名 E-620
ソフトウェア Capture One 8 Windows
レンズ
焦点距離 11mm
露出制御モード ノーマルプログラム
シャッタースピード 1/30sec.
絞り値 F2.8
露出補正値 -0.3
測光モード 分割測光
ISO感度 800
ホワイトバランス
フラッシュ なし
サイズ 2560x1920 (3.21MB)
撮影日時 2009-01-02 02:03:39 +0900

1   kusanagi   2021/11/30 20:35

残留思念という言葉があります。ある人が自分の思い、思念、ついては欲望というものを物に込める
というくらいの意味です。その典型が古代の王の墳墓です。殆どの墓は盗掘にあってしまい王の
思念は残ることがありません。もちろんそれで良いわけです。
そして写真にも自分の思念を込めることが可能ですが、特別な思考をする自欲過多の人が写真に
念を込めることをするようです。断っておきますがそれは芸術ではありませんし、写真の本性でも
ありません。芸術の仮面を被っているようでいて、その実は単なる自己拡張を写真に押し付けている
だけなのです。それを見抜かないと人は簡単に残留思念の弊害(呪い)を受けてしまいます。

私はよく神社を撮ります。神社の発祥や起源は様々ですが、最近面白い神社を見ました。
元は古墳です。かなり大きな円墳なのですが、その半分が神社の建物によって削られているのです。
これはどういうことかというと、残留思念という古墳の残滓を、神社という装置によって浄化するという
役割を担わせているのではないかということです。
神社は浄化のシステムを持った一種の装置でしょうか。香川は溜池が多いのですが、大きな池には
必ず神社が付随します。溜池は大きなインフラなんですが当然に自然を破壊してしまいます。その
償いとして人々は神社を建立するのではないかと感じたわけです。そして神社の杜には無くなった
土地に生えていた樹木を添えるのです。これは罪滅ぼしの意識なのかもしれません。

神社には偉大な人物を起源とする神社も多々在ります。日光東照宮などは典型ですし天神や八幡
もそうです。出雲大社も伊勢神宮もそうかもしれません。これは人物を称えているようでいて、
本当はそうではなく罪や穢れの意識から祭り上げているように思えてきます。どんなに偉い人物で
あっても所詮は人間であって、多くの人々の願いや欲望というものの総意で国を建てたとはいえ、
それによって自然というものは破壊され姿を変えていかざるを得なくなります。そう考えれば大きな
神社も、溜池に付随する小さな神社と役割は変らないということになりますね。

神社の造りは極めてシンプルです。鳥居があって真っ直ぐに進んだところに拝殿と本殿がある
だけです。このストレートな配置とその間の空間が神社の命という気がしています。
とって着けたような説明かもしれませんが、これはカメラに良く似ていますね。まずレンズ先端が
あって、その中をストレートに光が進み、そしてフィルムやセンサーに到達しますから。(笑)
鳥居と本殿のあいだの空間はデジタルになってからますます狭くなっていますけど、まっすぐに
光が走るということは変りません。

私は罰当たりかもしれませんが神社に詣でて撮影をしていて、手を合わせるなどいうことをしたこと
がありません。平気でずかずかと入っていき無遠慮に撮影しまくります。鳥居があり石柱や狛犬獅子
があり石灯篭があり・・・そういうのはカメラのレンズの中を通り過ぎていくという感覚であって、
私自身が光であるとすれば何の遠慮もいらないということになりますから。
おそらく全ての神社の大本は太陽神かもしれません。太陽の光と水があれば作物や植物や動物
たちは育ち生きていけるのであって、これよりも根源的なものは他にありません。
こういう神社装置というものがあって、それによって穢れを取り去り人としての罪の意識を払拭する
のではないでしょうかね。おもしろいものを発明したよねっていう気がしています。
私は一個の光の粒子にすぎないのであって、レンズやカメラの中を散策するようにして神社とこの
世界というものを見ている。そういう気がしています。

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