メーカー名 | NIKON CORPORATION |
機種名 | D5200 |
ソフトウェア | Capture One 8 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 35mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/60sec. |
絞り値 | F4.0 |
露出補正値 | -0.3 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 100 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 1330x2000 (2.12MB) |
撮影日時 | 2021-12-31 22:14:30 +0900 |
カメラには、非常に優れたカメラを使う喜びと、もうひとつ、さほどのカメラではないんだけど自分で工夫を
してそれなりに使えるようになったカメラを使う楽しみと、二つあるのかもしれません。
文句なく優れたカメラというものはあるもので、そういうカメラは高級機材となります。
私は高級機材ばかりを使うことには昔から違和感を感じています。何十万円とするカメラと同じく高級な
レンズを使えば、そりゃあ誰でも満足がいくでしょう。しかしそういう満足感というのは一時のものでして、
与えられた満足感とでも言いますかね。
それよりも性能の落ちるカメラや廉価機を自分で工夫をして、上手く使えるようになった満足感や達成感
のほうがより貴重な体験のように思います。
こういうのは使うカメラが一台では、多分感じることも体験することもできないよう思います。もちろん機材
には何の関心もないから今あるカメラひとつで十分だ、というのも分からないことはないです。しかしその
カメラは偶々偶然の好運で手に入れただけのことなので、もし運が悪ければ写真が出来ていなかった
可能性もあるわけです。
写真にもカメラにも失敗の経験が必要です。写真だけでなく全ての事柄において失敗体験は無くてはなら
ないものだと考えています。
機材にあまり関心がない人は、被写体というものに大きな関心を寄せるでしょう。写真をやらなければ
関心もなかったような事柄に、カメラを持って撮影に行くがゆえに関心が芽生えてきたというようなことが
多々あります。
この自分が世間や世界への物事や現象に関心を持つと言うことは当たり前と言えばそうなのですが、
そこにやはり道具と言うか武器というようなものがあれば真実に到る確度のようなものが高くなります。
写真を撮るということは実際にモノや獲物を持って帰ることではなくて情報をゲットすることですかね。
もしカメラがなければ、何処そこへ行って何々を見ても殆ど記憶には残らないだろうと思います。記録と
記憶ということでは、写真や映像はやはり強力です。
写真行為の原点はこの記憶の補強と記録にあるといえます。
もっと掘り下げていくと、自分がどこそこにいってあらゆるものを見て、そしてその見方のノウハウという
ものを写真をすることで磨き上げていくことかもしれません。たとえば半日なりを費やして撮影をすると
します。そうした場合に良い写真が撮れる時があることに気がつきます。良い被写体が巡って来るのは
行幸なのですけど、写真をすることでそういう時や一瞬を逃さないような訓練ができるような気がするん
ですね。
そういうわけですから写真から遠ざかっても、そんな訓練というか反射神経というものがあれば写真を
せずとも、ものごとをきちんと見ていくことができるような気がしているんです。まあ難しいかも知れませ
んが。
これは物事の本質を捉える術のようなものかも知れませんし、もっと言えば本能が高められてくるという
ことかもしれません。それはモノを見る力です。
そしてモノの本質を見る能力において、写真として邪魔になるのが美学なんですね。写真をキレイにして
見栄えをよくしようとする心です。写真は芸術だと考えている人はモノを見る力が妨げられます。
もちろん美学は自己申告なのでして、他人が見て美しいなあって思っていても当人は写真を芸術だとは
思っていないかもしれません。
そしてもうひとつあると思ってます。キレイに撮れる機材です。高級カメラや高級レンズは、ものを見る力
としては妨げになるだろうと考えています。
機材の性能というのは、そもそも相対的なものです。数万円のカメラと数十万円のカメラの違いは絶対
的なものてはなく比較してそうだといえるだけのものです。そして高級機を手にされた方は相対的に自分
の撮る写真がキレイで美しいじゃないかと思い込んでしまうんですね。
そしてこの思い込みが写真をして真実の眼で見ることに大きな妨げとなるのです。つまり見かけに騙され
てしまうということ。
写真は下手で良いとか、カメラは廉価機で十分だとか、画像処理できれいに見せようとするのはいけない
ねえっていうのは、すべては撮影者の慢心を防ぐためのものなんです。
最近は自分も高齢者の仲間ということで、次第に高齢期における写真術というものを考えるようになって
います。若い時期の写真と高齢者となってからの写真とはやはり違う部分が多いと思いますね。
最近、自分の体重を数キロほど落としたのですが、やっぱりちょっと山に登っても違いが出てきました。
年末恒例の金比羅山詣りも、本社から上の奥社の間は撮影もせずノンストップで登りました。そういうの
はここ数年なかったことなので、6キロほど体重を落とした現在が正常値という気がしてきました。
これに気がついたのはコロナ禍で身体の免疫を考えての結果だったので、私にとっはコロナは利益となり
ました。
こんな具合で高齢期における健康術とか写真に関する事柄もこれから積極的に考えていこうとおもって
ます。