メーカー名 | SONY |
機種名 | α7R |
ソフトウェア | Capture One 8 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 40mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/100sec. |
絞り値 | F9.0 |
露出補正値 | -0.3 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 100 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 2048x1367 (2.75MB) |
撮影日時 | 2013-02-05 01:32:22 +0900 |
田坂広志という人の「死は存在しない」という新書本を読みました。
この田坂さんという方の著作はあまり読んだ記憶がないのですが、新聞書籍広告で知っての
ことです。掲載された写真を見れば風貌がカッコイイじゃないかという程度。(笑) また田坂氏は
年齢的にも私と近似していますし福島原発事故での事故調査審議会か何かでも見かけたような。
そのなかでこういうことが書かれていていました。
・・・この「深層自己」は我々が生きている間も、すなわち「現実自己」が生きている間も、・・・・
この2つの自己はお互いにコミュニケーションを取り続け、時に対話も行い続けている。
・・・・現実自己はその意識の中に自我意識(エゴ)を強く持っているため、「自分とはその自我意識
である」と思い込む傾向がある。そのため、しばしばそのエゴが生みだす感情や衝動に流されて、
感じ、考え、動いてしまう。そしてそのエゴが強く働くときには現実自己の無意識は、その活動が
抑えられてしまうため、深層自己の無意識と繋がることが難しくなってしまう。・・・・
そしてこの深層自己というのが物理科学的に存在しうるというのが田坂説の肝です。平たく言えば
宗教と科学の融合というわけですね。これは素粒子レベルの量子力学の世界での話なんですか。
そもそもこういう話は宗教哲学では常識でして特にインド哲学なんかでは詳しく説かれています。
宗教や哲学を研究した人には常識だとしても、それに現代科学の光を当てて考察るというところに
田坂氏の面白みがあります。
私の考えとして、死は存在するか、しないかは、その人次第だと考えています。その人の意識の
レベルによると思ってます。たとえば私がやっている占星術ではここでいう深層自己でしか考察でき
ないものですから、ここでいうところり共通無意識での考察は当たり前のことになります。占星術上
では死というものは存在しません。そもそも最初から占星術には年齢も性別もないものですからね。
しかし現実の自己としてはやはり、物理的に死というものは事実として存在しますね。それは消滅
です。死が自分であれ、はたまた肉親であれ、死というものは永遠の別れを意味します。
生まれがあれば当然に死はあるものですし、出会いがあれば別れがあります。それが道理の必然
なのでして当たり前のことです。最初は何もなかったものが与えられたわけであり、それを喪失した
からといっても文句を言う筋合いはありせん。
人は無一文で生まれて無一文で死ぬのが当たり前。そうであればこそ今日一日を有意義に過ごし
たいものです。明日のことはしりません。(^^ゞ
我々が写真を撮る、その行為自体は深層自己に繋がっているので永遠に存在するかもしれませんが、
撮った写真というものはやがては消滅します。当然に、ここに上げた写真も文もすべて消滅の未来
がまっていますから。ですからそういうものは儚いものであるという自覚が必要です。
写真をするという根本の行為自体は永遠のものであって、かつては狩猟採集時代からあるものです。
でも写真画像というのは今の時代の一時のものであって、そこには永遠性はありません。この2つを
区分して理解することが大切です。
写真の良し悪しというのはカメラという物質レベルとなんら変わりません。写真の芸術的な文化という
ものは一時的に現実自己にのみあるもので、深層自己という真実の世界にあるものではないんですね。
しかしながら深層自己に迫るような写真もある程度は可能なのかもしれません。個人も時代も超えた
ような写真ですね。