メーカー名 | NIKON CORPORATION |
機種名 | D800 |
ソフトウェア | Capture One 8 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 35mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/200sec. |
絞り値 | F2.0 |
露出補正値 | +0.0 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 100 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 1367x2048 (983KB) |
撮影日時 | 2015-03-06 02:27:57 +0900 |
写真の本質
それはリアル世界、つまり現実の被写体ですが、それを画像として記録する過程におけるプロセス
にあるのだということでしょう。そして得られる画像とは今風に言えばバーチャル世界なんですね。
写真を形成する第一義とはフレーミングでしょう。つまり現実世界を切り取るということ。
ファインダーを見れば分かるように被写体は四角く切り取られています。黒枠の中に構図としてある
わけです。そして何よりも写真は2次元であって現実の3次元とは異なります。
それで写真とは現実世界を四角く切り取り、そして3次元を平面の2次元に変換することだと言えます。
その大きな役割を果たすのがカメラのファインダーです。それほどにファインダーというのは重要な
ものなんだと思うんですね。
ノーファインダーカメラ、もしくはノーファインダー撮影というのがありますね。私はよくノーファインダー
撮影をするんですが、これは写真なのかそうでないのか分からないところがあります。ノーファインダー
撮影をした画像を後で見ても自分が撮った写真だとは思えないところがあるんです。画像は得られて
いるんだけどそれは自分の写真だとは言えないところがあります。
写真とはリアルな現実世界と、バーチャルな写真画像との間の中に存在するんじゃないかって考えて
ます。橋渡しですか。それは非常に微妙な世界観ですね。現実と虚構の間のボーダーラインにあると
言い換えることもできます。
例えば、世界と自分。これは当然に違うものです。世界は大きく本質性に富んでいますが、自分や私
というのは小さくて人為的に作られたものです。特に自然世界を相手にすると人間の私というものの
存在が卑小なものであることがよく理解できるでしょう。
この圧倒的な落差のある世界と自分とを繋ぐ役割を果たせそうなものが写真だといえませんか。
私は写真というものを通じてこの世界を、見たいし学びたいと常々考えています。
写真と言えば多くの人たちは絵であり芸術であり画像であってモノだと考えているでしょう。傑作が
できれば嬉しいという感じで。しかしそれだと写真は、自分の生き方とか向上心とかとは無関係のもの
になってしまいます。
絵ピクチャーとか芸術アートだと、それは早い話が道楽です。写真が道楽になってしまっては勿体無い
なかって感じますね。高級なカメラやレンズ、PCを揃えて、撮影では旅費と時間を掛けて写真をしても
それが道楽なんかでは投資した資金は回収できません。単なる消尽となるだけです。
もちろんこのことは多くのアマチュア写真人がよく知っていることです。しかし明確に意識しているとは
限りません。ただ何となく写真には芸風以上の価値があるだろうと感じているだけです。
写真や撮影の行程に於いては、
1.まず現実世界の前に立つこと(歩きであり旅であること)
2.カメラでもってそれを切り取るという、ファインダー視をすること(撮影そのもの)
3.そして得られた写真画像を帰宅して確認することです。(現像です)
この3つですかね。このどれが欠けても写真とはならないような気がします。
私がよくしているのはミラーレスカメラ・AFレンズでノーファインダー撮影に近いやりかたをすることです。
ファインダー視は背面のモニターでアタリ程度でしか見てません。撮影はスピーディで、歩きの距離は
伸びて、その間でしているのは目前の光景や被写体ばかりを見て、写真のことは何も考えていないと
いうスタイルです。カメラを持たないような手ぶらな物見遊山とさほど変わりませんね。
こういう撮影では撮った画像を後で見るということはほとんどしません。しかし写真に惑わされずに
現実を良く見ているということではなかなか捨てがたいものだと思ってます。こういう記録本位の写真
スタイルというのもあるんではないでしょうか。この場合、私が撮影中で記憶しているのはファインダー
視の記憶ではなくではなく現実光景です。
しかしそういうスタイルも写真だと思えるのは、既に私の習慣として光学一眼レフのファインダーで長く
やってきた経験というものが私の中に出来上がっているからでしょう。
それで偶にはデジイチでの撮影を定期的に挟んでするように思えます。ミラーレスやコンデジだけでは
写真を永続することは難しいようでして、中継ぎとしてファインダー視ができるデジイチを使うんではない
でしょうかね。
皆さんはどのような思われているのかは知りませんが、私には実用としてのミラーレスカメラ、精神的
主柱としてのデジイチがあるように思ってます。
ミラーレスカメラは光学式ファインダーがありません。あるのはEVFと背面スクリーンだけです。残念な
がらこれらを良く凝視することはできませんね。アタリ見程度しか使えずファインダーとしての機能はない
と私は考えています。
もっと技術が進んで本当に光学式と変わらないEVFファインダーやスクリーンが出来る可能性もありま
すが、残念ながらそれは撮像素子からの画像なのでリアルなファインダーとはなり得ません。
つまり、ファインダーとは現実世界のリアルな像でなければならないのであって、撮像センサーを通した
画像では本質的にファインダーとはなりえないんですね。
撮った写真画像をその場で見ることができる。これが現在のEVFやスクリーンのファインダーとなってい
るのですが、本質的にファインダーの定義からは食み出しています。つまりファインダーとは被写体の
あくまでリアルな像でなければならずで、結果としてのバーチャルな像では意味をなさないというわけ
です。
現実的にはOVFもEVFもほとんど一緒ですかね。しかし細部を見れば違います。その細部が肝心なの
であって、リアル世界はとにかく細部に宿るのです。大まかに同じというのは空論です。
多くの人はこの空論机上論で世の中を考えているところがあり、順調な時はそれでいいんですが危機
が訪れるとにっちもさっちも行かなくなるものです。
写真というのは非常に繊細で細部までよく考えていかないと見誤るものだと思っています。単なる画像
を得たいのであればEVFで上等ですが、写真の本質まで考えてやっていこうと思えばOVFは必須だろう
と考えています。
光学式一眼レフだけでなくカメラの黎明期には色んなファインダーのカメラがありました。ペンタプリズム
を持たない一眼式カメラ、2眼レフや、レンジファインダー式カメラ、ミラーもプリズムもないフォーカシング
スクリーンだけのカメラ、板金で枠を作っただけのスポーツファインダーとかも。
しかしそのどれもが当然ながらリアルなファインダーでしたね。電子式ではなかったので当然です。
このようにファインダーというのはカメラの創世記からあるものでして、あくまでリアルな世界を元にして
いたのです。
ところがカメラが電子式になってから事情が変わりました。カシオがコンデジで撮った画像をカメラで見
れるようにした。そしてライブビュー式のファインダーの登場となったわけです。ビデオカメラでは昔から
あったものですから初めてというわけではありません。
今のスマホを見ても分かるように基本的にこれはビデオ式のカメラですね。静止画も撮れるよっていう
くらいです。そうなんですよ。今のミラーレスカメラは動画撮影を主流とするビデオカメラなんです。
写真好きの人が動画カメラを買ったとしても動画は撮らないんではないですか。私も殆ど撮りません。
動画は実用的に富んでいます。初めてのものでも動画だと理解が早いです。テレビやネット動画はその
動画です。しかしモノ事を本質的に良く知ろうとすれば動画ではもの足りません。情報収集の面では
活字も必要です。そして自分が画像を撮ろうとすればやはり写真が撮れるカメラでなければ、となります。
それは物事への理解の深度が本質的に違うのたということではないでしょうかね。
ともあれ、現在は少しずつ写真精神を喪失しつつある時代だろうと思ってます。そうは言ってもいつの
時代も写真なるものを本質的に究めていくというのは難題でした。世の中のカメラが光学式ファインダー
を無くす時代に投入すれば本当に写真はなくなってしまうかもしれませんね。しかしOVFカメラがなく
なる時代はそう簡単には訪れないでしょう。