メーカー名 | NIKON CORPORATION |
機種名 | D800 |
ソフトウェア | Ver.1.10 |
レンズ | 35mm F1.4 |
焦点距離 | 35mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/320sec. |
絞り値 | F9.0 |
露出補正値 | -0.3 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 100 |
ホワイトバランス | オート |
フラッシュ | なし |
サイズ | 3680x2456 (5.67MB) |
撮影日時 | 2015-11-23 23:21:49 +0900 |
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この掲示板もコロナ禍をかい潜ってから随分と変わったというところがあります。総体的に皆さん大人
になったような気がして、落ち着いてきたというか思慮深くなったような気がしてます。そういう意味では
コロナの流行下で写真をあまり撮れなかったというのがプラスに働いていると思ってます。中には驚く
ほどに(良い意味で)変わられた方もおられますね。
コロナ禍であまり写真を撮れなかったというたけでなく、その2・3年間分だけ歳をとった、というところも
あるんでしょう。なるほど、高齢化社会を地で行く掲示板ではありますね。(^^ゞ
写真行為は自我を発揮する極めて個人主義的なものです。そういう意味で西洋文化の系統に属する
でしょう。自分が写真なるものをしたいからするのであって、あまり他人目というものを気にしない文化
のように思います。つまり他者に迎合することの少ない芸で趣味ですか。まあ空気なんか読んでいては
確かに写真はできませんしね。
そして世の中の時流にそって、さらに自身の運勢に沿っても、自分の写真も変えていくというのが写真
というものであると思ってます。
それでも写真は永遠に極められないものなんですね。極点などというものはどこにもありません。ただ
淡々と自分の写真をやっていくというだけしかできません。
この掲示板は一般的な写真投稿サイトとは違って、あくまでも自分でカメラをもって写真を撮影するという
写真愛好者たちの掲示板です。それで自分の作品を見せるというよりも他の投後者の写真を見て、
ご自身が啓発されるという面が大きいのではと思ってます。
ああこの人はこういうカメラを使ってこういう写真を撮るのか、という具合で自分が発するサインよりも
受け取るシグナルのほうが高いのでしょう。そういうのはこの掲示板が始まった当時から、そういうよう
な伝統があるようで、今となっては極めて稀な写真のサイトになっているみたいです。
こういう掲示板がもう何年も十何年も続くというのは奇跡のような思いがします。
私が積極的に掲示板に投稿しだしたのは東日本大震災の年の2011年からですから、それからも既に
10年以上経っています。私が本格的にデジタル写真を始めたのは2000年ころからですが、その時の
自分の予想では、まあ10年はこの写真趣味でいけるだろうが、それ以降は続かないだろうと考えてい
ました。
それがいまだに写真をやっていて通算20年余もデジタル写真の趣味を持つことができています。それは
ひとえに、この掲示板のなせるお陰ではないかと感じ入っています。
この掲示板を運営し維持してくれている管理人さんには感謝の念しかありません。そしてこの掲示板に
写真投稿をされコメントも書かれている多くの方々にも御礼を申し上げたいと思います。
橘玲著 バカと無知 -人間、この不都合な生きもの 新潮選書
橘玲・安藤寿孝共著 運は遺伝する -行動遺伝学が教える成功法則 NHK出版新書
というような本を今読んでいるのですが、こういう本で述べているような現実があるというのがこの世の
中の通例でして、とくにネットでのやり取りなどは非常によく正確に書かれていて関心をしています。
私としてはそういうことは有り得て当たり前だという感覚でしたので、当初から自分のコメントでの発信は
一方通交にしています。いちいちの追コメントに応えることなどはしていません。そんなことをしていては
自分の写真論などは出来ないだろうと最初から感じていましたので。
私が純粋にデジタル写真をやっていたのは最初の10年間であって、この掲示板に投稿しだしてからは
写真ではなく写真論をやっていたのだろうと思ってます。写真行為論とでもいいますか。
そしてその場を提供してくれたのはこの掲示板であって、これがなければありえなかったろうとでも言える
ものでした。
例えば私の今の黒白写真は写真表現としての黒白写真では全くなくて、写真行為としての黒白写真
です。前者は画像でありモノですが、後者は人の行為そのものを言います。
撮影をオートマチックではなくてマニュアルで撮影をする。とか、オールドレンズを態々使いにくいデジイチ
で撮影をするというのも、それも写真行為ですね。
写真論は最終的に写真をする人の総体的な行為論に収束するのではないかと考えています。
ですから写真する人、そのものが作品と言えば言えるのでしょうか。(^^ゞ