旧蚕糸試験場新庄支場
Exif情報
メーカー名 SIGMA
機種名 SD1 Merrill
ソフトウェア Capture NX 2.3.5 W
レンズ 35mm F1.4
焦点距離 35mm
露出制御モード 絞り優先
シャッタースピード 1/640sec.
絞り値 F8.0
露出補正値 -1.0
測光モード スポット測光
ISO感度 100
ホワイトバランス "\xFF\x00kE\b"
フラッシュ なし
サイズ 1845x1230 (1,625KB)
撮影日時 2011-01-27 05:26:45 +0900

1   zzr   2014/4/29 23:44

出張の帰り道、のぼりが立ってたので寄ってみました。
今は産直で山菜とかを売っていました。

山の物が一番早い庄内で5月終わりに出るはずのシドケナが並んでてびっくりしました。
ハウスもの?

2   kusanagi   2014/5/1 00:40

群馬の富岡製糸工場が世界遺産に登録されましたね。
明治の頃、それ以降も敗戦まではそうだったんですが、
日本国の稼ぎどころは生糸の輸出でした。
生糸は純国産の輸出品でして、それ以外の輸出品って
いうのは原料を輸入して、それを加工して再び輸出する
っていう、加工貿易の形態だったんですね。
これは利が薄いので働けどはたらけど暮らしは楽にならず
っていう感じでした。

ところが、生糸は原料を輸入する必要がなく輸入代金が
いらない。それで輸出代金がそのまま丸ごと外貨の稼ぎ
になったんです。これはおいしいですね。
生糸は何にするかというと、主に米国女性のストッキング
です。当時はほとんど対米貿易で稼いでいたんです。

その生糸の稼ぎで、日本は戦艦なんかを作れたんです。
さらに石油もくず鉄もアメリカから輸入していました。その
アメリカにイジメられて対米戦争を始めたのですから、
これは負けるのは当たり前かな。(^^;

3   kusanagi   2014/5/1 00:51

シドケナ
http://www.sanbutsuya.jp/detailed.php?no=sidokena-300
山菜なんですねー。
こちらでは見たことがありません。(^^; さっぱりした味かな。

食い物といえば、先日、ポルトガル料理を昼飯に食いました。
なんと、勤務先の近くにあったんですが、今まで気が付かなくて
教えてもらって初めて知った次第。
ネットで調べると、となり町にベトナム&タイ料理の店もある。
こんど暇な時に行ってみようか。(^^;

4   笑休   2014/5/1 07:16

おはようございます。
私の祖父は、兵学校の教官をしておりまして
太平洋戦争が始まった時、家族には・・日本が負けると言ったそうです。
日本の中にも、戦況の不利なことを、冷静に判断してる人間もいたでしょう
しかし、そのような、考えは、口にできるものではなかったでしょう。
祖父は、大本営あてに、こんな馬鹿げた戦争はすぐやめるように・・・
という内容の、手紙を書いて、祖母に投かんを頼みましたが・・手紙を読んだ祖母は、こんなの、だしたら、たいへんなことになる。。。。と手紙を焼き捨てたそうです。祖父は、終戦まで教官だったので・・その後は、おとなしく
していたのでしょう。
日本は、戦況が有利なうちに、停戦調停を結ぶ、そういう目算があったのでしょうが・・うまくゆきませんでしたね。
安部総理が、戦後レジウムの脱却を目指してますが、
憲法改正ではなく、国連常任理事国の改正が、いの一番だと思います。

5   笑休   2014/5/1 07:21

祖父が、言った言葉は、戦争に負ける・・・
では、なく・・・出雲大社の神殿でアメリカ兵がダンスを踊る・
だそうです、祖父らしい言葉だとおもいます。

6   zzr   2014/5/1 12:59

kusanagiさん、笑休さん、こんにちは
戦争は悲惨ですよね。
今も隣の大国と変な感じになってますが環境問題や自然災害の対処で協力し合う方がお互いの利益になるのではと思います。
とりあえずPM2.5はなんとかして欲しいな。。
あとソウルの放射能の話題とか最近ではBSE牛の流通など韓国の食品にも危険を感じます。
(日本に検査無しで輸入されてるのはおかしいですよね)
つまらない事で争わないで建設的な話し合いが大事だと思います。

シドケナはかなりクセが強くて嫌いな人も多い山菜です。
葉っぱが有毒なトリカブトに似てるので何年かおきに中毒事故が起きます。
慣れてる人は間違えようがないんですけど。
二年前に九州に送ったら大好評でした^_^

7   一耕人   2014/5/6 13:08

かみさんの祖父が東宮御所の警備のなんたらという役職だったそうです。
戦前、満州に渡りそこら近辺の警察署長のようなものをしておったそうです。
しかし、戦後は戦犯とて追われ、戦前に面倒を見てあげた方々のお宅に匿われながら引き上げ船で帰って来たのだそうです。
と、以前にも書いたかもしれませんが、結婚25年程経ってこれまで口にしたことのなかったことを義母が口にし始めました。一家の歴史と今回も叔父の家を訪ねいろいろ聞き取ってきたところであります。

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