メーカー名 | SIGMA |
機種名 | dp2 Quattro |
ソフトウェア | SIGMA Photo Pro 6.2.0 |
レンズ | 30mm F2.8 |
焦点距離 | 30mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/160sec. |
絞り値 | F5.0 |
露出補正値 | +0.0 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 100 |
ホワイトバランス | オート |
フラッシュ | なし |
サイズ | 2712x1808 (2,503KB) |
撮影日時 | 2014-12-31 05:31:12 +0900 |
笑休さん、プロ作家の写真紀行とくらべてもらうのは、素人の私にはあまりにもの
落差に溺れそうになるんですが(^^;、とにかく、通り一遍の投稿掲示板の中にも、
異種なるものが一人ぐらいいてもいいんじゃなんかっていうくらいの思いはあります。
短歌氏が、彼があの板で粘るのには、彼なりの深い戦略があってのことだと思います。
(戦略と言えば大げさですけど、まあ遊び心です)
それとは話は別にして、短歌氏の写真短句には私も考えるところがあって、そのひとつは
先出の宮嶋康彦氏の本にも解答らしきものが述べられていました。
というか、私がそれを読んで、きっと多くいるはずの短歌氏と同類の写真愛好家の気持ち
を察することができたということですかね。
もちろんそれは私とも無関係じゃありません。
我々は、私も笑休さんも同じですが、カメラや写真に対して夢を抱いています。
若い時からカメラを持った人間は皆そうでしょう。カメラを持てば自分が強く大きくなれる
ような(実はあまり根拠はない)自信が生まれます。(^^;
それがモノのの力というものなのですが、日本刀などは典型ですね。
しかし歳をとられてから写真を始める方も多くいるわけです。
たとえば仕事を退職してから写真を撮られるようになる人とか。子育てが終わってから
写真を始められた女性とか。
そういう人にとってはカメラは単なる道具です。万能感のある夢を抱かせるものではなくて、
写真を撮る為の実用的な道具。いや彼ら彼女らにとって写真すらも道具かもしれません。
じゃあ、何が目的なのかというと、写真をやっているという行為自体ですかね。
カメラは健康器具であるとは、前出の宮嶋康彦氏の言葉ですが、私もそういうことを
言ったような言わなかったような気がしていますが(健康維持の為の写真をとか)、
本心ではやはりカメラや機材は、物自体が物心(ぶっしん、物神と言えば大げさ)を持つもの
としての、アニミズム的な万能感を抱いていると思います。
例えば三脚にしても、これは私には精神的な日本刀であって、実用的なだけの農具じゃ
ないわけです。鋤や鍬のように泥まみれのノーメンテナンスで、道具として割りきって
使いなさいと言われても、逆に違和感があります。
農具としてでしか使えないのならば三脚を自分の機材に入れないのが無難です。
結果として、カメラや機材を道具として扱う人には不思議に共通項があって、それは
彼らの写真が定型化様式化されているということです。
定型句化と言ってもいいです。
それを写真の不自由さと言う識者もいます。型にはまったような写真しか撮らないと
いうことですね。
つまり多くの人がやっているであろう約束事を守れば極楽往生ができるというやつです。
宗教心のかけらもなかった人間が、歳をとって横並びで四国遍路を回るというのと
同じです。
そうして定型句のような様式美の風景写真を撮って、自然に帰れると思っていること
ですね。自然に帰れるということは自分が極楽往生をするということでしょう。
私の考えも交えて添えていますが、そのような事を宮嶋氏は書かれていたように思います。
カメラや機材に物心を抱きながらも、依然として定型句のような写真を撮り続けている
人もいるわけですが、そのような人は今度は、写真の歴史や思想自体を軽んじて
写真の中身をちっとも考証していないということになります。
ですから何時まで経ってもサンプル写真しか撮れないということになります。目的のない
漂う写真です。こういう罠に陥っている人もいます。
つまり、ハードウェアとソフトウェアの両方を、まんべんなく攻めていかないと、本当の
写真行為にはなかなか達せないということになるのです。
写真をするという行為を意味のあるものにするには、機材というハードも、写真の歴史
や思想や哲学というソフトも、両方とも深く知っておかなければ、本当の写真行為には
達せないということですか。
これは難しい話ですね。10代という若い時から写真に親しんでいないと無理な話かも
しれません。
しかしながら、デジタル時代の今や多くの写真愛好家が生まれ、彼らはカメラ機材や
写真論には無頓着ながらも、直截に、ダイレクトに写真という行為自体に自分を追い求めて
いるという現実に深く考えさせられました。
それは極めて現実的な問題で、我々夢想家の想像を超えている事態が、現に発生して
いるということなんです。
一種の宗教的と言ってもよい救いというものを、自然写真という写真行為に求めているの
じゃないでしょうか。もしかすれば、短句氏のその一人かもしれません。
残念ながら私にはそれに応える言葉を持ちません。
難しいお話、私には無理ですが。。
kusanagiさんが一生懸命これを撮ってる様子を想像して、思わずニヤけてしまいました。