たこ坊主
Exif情報
メーカー名 FUJIFILM
機種名 X-Pro1
ソフトウェア Photoshop Elements 9.0 Windows
レンズ XF60mmF2.4 R Macro
焦点距離 60mm
露出制御モード 絞り優先
シャッタースピード 1/10sec.
絞り値 F2.4
露出補正値 +0.0
測光モード 分割測光
ISO感度 400
ホワイトバランス
フラッシュ なし
サイズ 4896x3264 (841KB)
撮影日時 2015-12-06 12:26:19 +0900

1   笑休   2015/12/6 19:29

Fujiの肌色がすきです・・じじいのハゲ頭もそれなりに写ります。

2   kusanagi   2015/12/6 23:38

最近、気になっているのが「ボケ」を多用した写真ですね。
笑休さんの写真もボケが多いのですが、ボケを多用する写真を撮る人には共通する
何かがあるのではないかと思い、ずっと考えていました。
BOKEは、もう海外でもこの言葉のままで通用するようになり、最初に日本人が発見した
ボケ描写の美学は、もう世界的な写真感覚になっています。
私はこのボケと、最近イオスで考えていた「ブレ」というのは、けっこう共通する感覚
じゃないかなって考えているのです。
むかし、ブレボケ写真というのが流行って、喧々諤々の話題を醸しだしたのですが、
もちろん日本が発祥の新しい写真感覚でした。

ピントを外してもボケる。
ブレが出ていてもボケる。
面白いことに人間の裸眼の感覚では、ブレもボケも脳内の視覚野で修正されてしまい、
本来は人間の眼では出なかったものなのです。
それがカメラというものによって初めて、そういうものがあるということが発見てきたわけ
ですね。
もっとも人間、眼が悪くなると、近視や老眼、乱視や白内障でもって、生身の裸眼でも
そういう感覚を知ることはできますね。今は高齢化社会がメジャーになってます。

それでボケを楽しむ人間、もしくはブレが気にならない人というのは、そういう「老成の哲学」
を持っている人じゃないかなって、最近は考えるようになってます。
日本は世界でも最先端の老人大国になっているわけですが、そういう時代のコンテンポラリーな
写真こそ、実はボケとブレの写真じゃないかなって言う風に考えるのです。

写真はクリアに、そしてシャープにピントの合う範囲の広い写真。それこそが写真で
あるというのは、言わば青年期や成人期の写真思想であるわけで、それが写真の全て
ではないということに、最近は思えてきたわけです。

それから、やたらシャープネス大きくを掛ける人間もいます。これは眼が悪くなるとそう
なってくるようですが、これもまた広い意味で老成の写真であると考えています。
もっと視点を広げてみますと、老成の写真と、生まれたばかり幼児の見え方はよく似て
いるのじゃないかと考えています。
幼児はモノをハッキリと見ることが出来ません。遠視の子どももいますし、まだ脳内で画像を
うまく処理する発達力が乏しいからです。

それで、こういう老成や子どもの眼で見たような写真を撮るという、それこそがボケの写真
の背後にある本質ではないのかということに至ったわけです。実は、こういう写真の
やり方をまだ誰も正当に評価した写真評論は見当たらないということです。
たぶん、私が最初にこの場で始めたのだと思ってます。(^^;

実は長い間、ボケ写真の意味が私は分からなかったのですね。
私はボケ写真を殆ど撮りません。そもそも広角レンズが主体ですし、レンズは絞って撮影
するタイプです。被写界深度の深いコンデジも好きというわけで、ボケ写真には無縁の
人間であったわけですが、所謂ボケ写真を特別に好む人の写真を見て、考えるところが
あったわけです。これは一体なんなんだと。

ボケの美学、ボケの写真思想。そういうものがれっきとしてあるのじゃないかということ。
ボケの美学までは何となく誰でも分かるでしょうけど、ではなぜボケの写真を好むのか、
その思想背景まで言及した評価をまだみておりません。
しかし私はそれを、老成の写真思想だとしたわけですよ。
どうです?ちょっとは面白いでしょう。(^^;
勘違いされては困るのですが、ボケの写真を撮る人が実際に老人であるというのとは
違います。その写真の思想を取り込んでいるという意味です。

かつての黒白時代のブレボケ写真もそうだったというわけでしょう。当時、実際に
ブレボケアレ写真をやったのは若い頃の森山大道とかの写真家です。
いわばこれはシャープにクリアにピント重視の従来の写真思想、それを青年期・成人期
の写真思想と言って良いのですが、それへのアンチテーゼだったということです。
あの時代のブレボケアレの写真は、当時の時代の反体制的な雰囲気から出たわけですが、
今の時代はそういうことではないですね。

それから、レンズでもクラシックレンズ、オールドレンズを好むっていう人間がいますが、
もしかすればそれも同じ思想に基づいているのかと考えています。これもその美学の
大元になっているのは老成の写真思想なのではないでしょうかね。
ただなんとなく、そういうのはまだ中途半端だなというイメージは持ちます。

その点、笑休さんの今回のシリーズ。「こたつの光景」「夜明けの電子レンジ 」「朝の光」
「足」は、最新のカメラ・レンズを使った、ハードには拘らない、文字通り撮影テクニックだけ
で老成写真を具現化した、とんでもなく高度な写真かもしれないということです。
殆んど全画面がボケ。構図が傾いている(昔のブレボケアレ写真もそうだった)。なぜコードを
踏んだ足なのか、という演技も含めて。
ええ、次の投稿には、ブレとかアレとかの表現も是非やってもらいたいと期待しています。

究極的に、ボケの写真は、そういう写真になるのではないかと想像しているのですが、
それをいち早くやってしまったのが笑休さんの写真だなって考えています。
普通のボケ写真を好む人は、ボケの美学までは行っている人ですね。そういう人は多い
でしよう。
しかし美学レベルを越えて、ボケの思想にまで行っている人は、今のところ笑休さんしか
いません。

写真文化は時代を映す鏡です。
写真にも流行があって、多くの人間はそのなかで普通に写真を撮っているわけですが、
本当は時代の流れの中で、その時代に沿った写真をやっているに過ぎません。
例えば花鳥風月さんの写真の手法もその中のひとつですね。

デジタル写真の歴史は、高画素移行の時代そのものです。緻密にシャープにという具合
で際限もなく超高画素化へと向かっているのですが、はたしてそれはどこまで行くのか、
という疑問を、私などは提起しているわけです。無論、反対にそんなの戯言だという人
もいるわけですね。

しかし考えてみるとカメラマンの寿命というのは生物的にあるわけです。それは乗り越える
ことができません。眼が悪くなれば機械の手助けを得ればよいというのはあります。
でも最後には完全なロボットカメラのお世話になるんでしょうか。
眼が見えなくなり足が動かせなくなってもロボットで写真を撮れないことはないですね。
でもそれって本当にあなたの写真なの?と言われれば答えに窮します。

現代のブレボケ写真とは、そういう時代の先取りをしている写真だろうと思えてきます。
ブレボケ写真は、緻密に写せることを拒否した写真でしょう。高画素カメラなのにピント
の合う範囲は極めてわずか。なんともはや、です。
超々高画素時代のカメラは、もはや人間が撮れる、また見れる写真ではなくなっていると
書いたことがあります。
生身の人間がやれるのはせいぜい1億画素まで。それ以上はもう人間が撮ることも、
写真として認識する事もできなくなるということですね。(勿論、画像としては際限はあり
ません。限界に達するのは、人間が行う写真だということ)

実はそういう次時代の先が見えたからこそ、老成の写真思想というのは深い意味を持って
くるんではないでしょうか。ボケ写真とは、これ以上の写真の発展を拒否しているとも
言えるわけで、極めて時代的な問題提起でもあるんです。

3   仙台の裏街道   2015/12/7 01:43

こんばんは。
仙台の殿様の領地に攻め入っております。(^^ゞ
あら?このカメラのシャッターボタンは左側にあるぞ・・・?
なんて、鏡に映っているのですから逆転しているんですよね。^^
そういえば左利き用のカメラなんて見た事がありませんね~。
みんなで楽しくボケましょう~~~。^^

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