メーカー名 | SIGMA |
機種名 | dp0 Quattro |
ソフトウェア | Capture One 6 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 14mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/125sec. |
絞り値 | F8.0 |
露出補正値 | -1.0 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 100 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 2048x1365 (2,833KB) |
撮影日時 | 2017-10-09 14:53:34 +0900 |
まあ、そうですね。割りと穏便に、というか婉曲に書いたつもりなんですけど、かえって分かり難く
かったかもしれません。
最初にズバリ言うと、私の場合は、写真っていうのは道具なんでして、写真そのものに何か特別な
価値があるっていうことは考えていないのです。
そうそう、そういうのは写真道というのですかね。書道とかそういう感じで。でも私は写真を芸術と
して認めていないんです。たぶん普通の一般の方もそうですね。写真は記録と記念だけなんです。
でもこれは私の考え方なんでしてね。いや、そうじゃない、写真は立派な芸術で素人とは違うんだ
っていう人もいるでしょう。それはそれでいいんじゃないですか。書道だってたかが字に何百万と
つぎ込んでいる人もいるわけですから。でも普通の人は絶対そんなことはしないですよね。
ということで、私は一般の人の感覚に準じているんです。
しかし一般の人のあくまで個人的な感覚、つまり観光記念的な写真もしたくないと考えるわけです。
だから普通よりも鋭い写真人の眼で見たいとは思うけれど、だからといって写真道というマニアには
なりたくないんです。
写真マニアには、まず機材にお金をつぎ込む人。それから撮影の過程に精魂と精緻をつぎ込む人。
こういう人はなにも問題がないです。ただ自分の財布が痛むだけですし、自分の時間と労力をつぎ
込むだけでですから。それはそれでいいんじゃないですか。
しかし問題はそれ以降に始まるんです。自分は苦労して立派な価値の高い写真を撮っている。自分
は写真や画像処理には詳しい。だから俺を尊敬しろ。俺の言うことを聞くんだっていう、そういう傲慢さ
が出てくるのが、これが問題なんです。
たかが写真に、私としては、何でそんなにむきになって自分を大きく強く見せたりする必用がある
のか、もう不思議で不思議でしようがないのですが、現実としてはそういうのがあるんですよ。
それは結局は、マニア道というそのものに、そういう拭い去ることのできない属性(本質的な性質)が
あるんからじゃないかなって感じるんですね。
人間はね。おそらく比較的心の細い人の場合、自分が持っているモノとか術(じゅつ)とかに負けて
しまうというところがあるんじゃないですかね。どうもそんな感じがするんです。
銃をいっぱい持っていれば、ギャンブルに負けた腹いせにぶっ放してみたくなるというような。
高性能な車に乗っていれば無謀な運転をするというような。
モノを持って楽しむ、術を駆使して面白さを知るというのは何ら問題がないはずですが、それだけ
ではすまなくなる人がいるわけです。私がやっぱり写真マニアというのを否定したいなあというのは
そういう抜きがたいところがあるからなんですね。
写真という道具に人が負けてしまうんです。芸術だからといっても所詮は道具です。一番大事な
のは人間じゃないですか。それを忘れてしまってモノや術や道具の奴隷になってしまう。
こういうのは一般的に誰もが感じていることだと思いますよ。別段、高度な問題意識でもなんでも
ないです。ごく普通の人の正常な感覚です。
でもマニアになってしまうとそれが、心が曇ってしまって分からなくなるかも知れないですね。
私は、ある人の豹変には正直、びっくりしているんですよ。どうしてあんなに変わってしまったのか。
もし、その方が写真をやっていなかったら、あんなことにはならなかったろうと思いますよ。
写真が本当に人を幸福にするのかどうか、そういう保証はなにひとつないんでしょうね。
これは一番高い高見峰、500メートル。残念ながら本来は広っぱの頂上はヤブに覆われていて
分け入るが出来ませんでした。小学校の運動場くらいの広さがあると思います。
イノシシに怯えながら登ったにしては報酬が少なすぎ。(笑)
せっかく頂上に着いても展望が良くないと達成感がありませんね。
先日の西吾妻山もそうでした。
途中からの眺めは楽しめましたけど。
https://www.yamakei-online.com/cl_record/detail.php?id=23660
これを見ると大高見峰山頂と高見峰神社の、散髪してさっぱりした写真がありました。(^^ゞ
猫山は小学生の時、遠足で登りました。えらく急傾斜な山だった記憶がありましたし、
高見峰は子供の頃、親父に連れられて山頂の神社の祭り日に登ったことがありました。
ふたつとも遠い記憶なのであやふやなんですが、私自身のルーツというかアイデンティティ
を確認する為に、今回は登ったんですね。
たかだか500メートルの里山ですが、今回登って、この山も讃岐独特のメサ・ビュートの
成り立ちの山であることが確認できました。
香川にはこういう300から600メートルの里山が豊富にあるんです。それは平野に浮かぶ
島々のようなもので、尖った山もあり頂上が平らなのもありですが、大体は高さが均一です
ので、香川の地形は、海抜の低い平野部と、高い山頂部と、その二重構造になっている
というのが実感できるのです。平野を支配しているのは人間ですが、山の支配者はイノシシ
なんですがね。(笑)
地質的に言えば、平野は沖積平野と花崗岩土です。山の頂上部は安山岩という火成岩です。
安山岩は固くて風化に強いので、それで山頂部に残ったわけです。
こういう成り立ちの山は関西や中国という西日本にはけっこうあるわけですが、香川では
それが顕著ですね。
こちらで純粋なネイチャー写真なるものを撮るのは無理ですが、たとえ平野は人工物に溢れ、
山は植生が貧困であっても、ここもまた大自然のなせる技でのネイチャーであるという、
そういう考え方もありかなと思っています。
数年前から、九州や中国、北陸や東北に出掛けてみて、やはり思うのは我が郷土の自然
を大切にしたいという気持ちですかね。やっぱりそういうのは外に出かけてみないと湧いて
こない気持ちかと思います。
よく海外に出れば日本がよりよく分かる理解できると言いますが、そういうのと同じでしょう。
根拠もなく日本がいい、郷土がいいっていうのでは、それは大海を知らずのコンプレックス
みたいなもので、底が浅くなります。
海外や県外に出ても、やはり深い眼で見ないと、向こうの良さも、翻っての此方の良さも
本当には分かりませんから。
そういうわけで県外であろうと地元であろうと、観光者の眼ではなくやはり写真家の眼で見て
いきたいなあと願っています。それから写真を愛好する方には写真マニアという方がけっこう
いて、そういうのもちっょとまずいかなって感じています。
私としては観光者でもなくマニアでもない、そういう写真者本来の眼でこれからもやっていけ
ればなあって考えてますね。
kusanagi さんのコメントでそこは共感できるけど、別の部分は分からないという事がたまにあります。
私の場合、そこは違うんだけどそういう風に感じる事もあるのかなーで終わるのですが、それでは済ませられない方もおられるようです。
私が大雑把過ぎるのかもしれないですが問題意識が高過ぎるっていうのもどうかなーと。